週 報
聖 書 ヨハネ11章1節~16節
説教題 死は眠りか?
讃美歌 13,463,27
神殿の町エルサレムから3キロほど行った所に、ベタニアという村があります。そこにマリアとマルタと、ラザロという兄弟がいたと言います。主イエスと出会わなければ、主イエスに愛されなければ、歴史に名を残すような人たちではありませんでした。高貴な出のものでもなければ、金儲けがうまいわけでもない、また優れた知性の持ち主というわけでもない普通の人たちでした。
けれども、たしかに歴史上、存在した人たちでした。
もう名前も忘れられてしまった、無数の同じような平凡な人たちと同様に、しかし、平凡で、名前が残るような人たちではないにもかかわらず、確かに、歴史上、ただ一人、後にも先にも、表れない、たった一人の存在でした。ベタニアという土地の、紀元1世紀という時代に、働き、食べ、笑い、泣き、生み、老い、生きていた三人の人です。私たちと同じように、一回切りの人生を、繰り返されない自分として生きた人です。
主イエスと出会わなければ、主イエスに愛されなければ、決して私たちが、時空を超えて、知ることのなかった人たちの一人ですが、主イエスのゆえに、私たちは知ることになりました。
この普通の人たちの、その苦しみを、その悩みを、同時代に生きる仲間の一人のように、思うことができます。
歴史に名を残す、皇帝や、大王とその事業と同じくらい、主イエスのゆえに、主イエスのお陰で、そのありきたりかもしれないけれど、繰り返されることのない一回きりの涙も喜びもが、時空を超えた私たちに、覚え続けられている人たちです。
そんなこと、この三人の兄弟は、決して想像もつかなかったことだと思います。けれども、この人たちにとって、そんなことは、きっと、どうだって良いことでしょう。彼らにとって、嬉しくて、喜ばしいことは、長く覚えられることではなく、生きることです。それも永遠に生きることです。もはや、彼らが死ぬことはないということです。
いいえ、これでは、本当は、まだ少しも言うべきことを言い切れていません。
本当に喜ばしいこと、嬉しいことは、主イエスの命に生かされること、イエス・キリストと共に生きることです。
ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である。その兄弟ラザロが病気であった。重い病気でした。死に至る病でした。
主イエスが、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と仰ったにもかかわらず、事実、死にました。はっきりと死にました。墓に葬られました。
マリアとマルタよりの知らせを受けてから、なお、腰を上げることなく、同じ場所に二日滞在した後、主は、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と出かけられました。
まだラザロの死の知らせを受け取っていたわけではない主の弟子たちは、この言葉に「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう。」と、希望を見出しましたが、主イエスは、はっきりと、「ラザロは死んだのだ。」と、言い直されました。
愛するラザロの病気の知らせから、二日間、主イエスが動かず、その場に留まったのは、実に、ラザロが、きっちりと死ぬことを待つためだったことが、主イエスの言葉の端々から示唆されています。
15節には、弟子たちに向かって、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」とあります。
ラザロが病気で苦しんでいるのに、そのラザロがきっちり死ぬのを待つなんて、イエスさま、ちょっとひどいではないかと感じる者もあります。しかし、それは、これから起こる出来事が、ラザロのためでありながら、ラザロのためだけではない。「あなたがた」と主イエスに呼びかけられる全ての人のための出来事であるからでしょう。
つまり、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」という主イエスの言葉は、ラザロの病を指して、ラザロその人の身に起きる特別な一回きりのラザロの身に起こる出来事でありながら、でも、特別な一回きりのその出来事が、他の誰とも替えのないこのわたしによって「あなたがた」にとっても、自分事になるのだということでしょう。
ラザロにとって、また私たちにとって、つまり、我々人間にとって、死は死であります。
眠りでも何でもありません。私たちがいくら死の痛み、その愛する者の喪失を和らげるために、眠りにつくと表現したところで、死は死であり、眠りではありません。
「ラザロは死んだのだ。」「墓に葬られたのだ。」
これが、マルタとマリア、そして、弟子たち、そして、わたしたちにとってのありのままの事実です。
次週読むことになる39節に、いくら眠りと表現したところで、覆い隠せない死の厳しさを直視するような言葉が、マルタの口から語られています。
「主よ、もう四日もたっていますから、もうにおいます。」と。
弟は死んだのです。墓に葬られたのです。その体は崩れ始めているのです。
わたしたちにとって死は死であり、眠りではありません。
主イエスもそのことをよくご存じです。ラザロは眠っているのではなく、死んだのです。
けれども、そうであるにもかかわらず、その事実を目の当たりにしながら、主イエス・キリストは仰いました。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
なぜ、この病気が死で終わるものではないのか?
この言葉をそもそも厳密に考えるならば、死なないと仰っているのではありません。
死で終わらない、死でピリオドを打たれない、死がその人間の最後の言葉にならない、死が最終的な我々の現実とならないと、言っているのです。
なぜならば、「わたし、イエスが、彼を起こしに行くからだ。」と。
わたしがわたしの愛しているラザロを起こしに行く。わたしがわたしの羊であるラザロを起こしに行く。わたしが「おはよう」と声をかけて、彼を起こす。だから、この病気は死で終わるものではない。
主イエスが、「この病気は死で終わるものではない」と仰る時、医者のように症状をつぶさに観察して、この病気は死で終わる種類の病気ではないと診断することでは全然ありません。
この病が死で終わらないというのは、ラザロの側に、人間の側に、何らかの死には至らない兆しがあるというのではありません。
すべては、「わたし」、起こしに行く「わたし」である主イエス、ラザロの死の前で、「しかし、わたしは彼を起こしに行く」と仰る主イエスの内にあります。
この「わたし」、唯一無二の「わたし」、イエス・キリスト!!
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
死の奴隷であるラザロの前に立ち、死の奴隷である者たちの前に立つのは、このような方である「わたし」、イエス・キリストです。
ある説教者はこんな趣旨のことを言います。
「この病気は死では終わらない」
これは断言だ。これは宣言だ。
病も苦難も、そこは人間の終わりのどん詰まりではなく、神の栄光の現われる場所、神の御業の始まる場所、わたしたちにとって闇としか見えないその只中で、神の御業の始まりを断言する言葉だ。
これは、わたしたちと死の間に割って入って身を挺して、わたしたちを滅びから守ろうとする力あるお方の断言だ。
ラザロを愛するというお方は、言葉だけじゃない、感情だけじゃない、わたしたちと死の間に、実際に割って入るお方なんだ。
わたしたちは今日の聖書箇所から何らかの教訓を得るのではありません。
やがて、私たちの誰もに訪れる死に対するキリスト教的心構えを得るのではありません。
そんなことではありません。
今日ここに、立っているんです。私たちと死の間に、このイエス・キリストが実際に立っているんです。
立ちはだかっておられるのです。今ここで、私たちと死の間に、このイエス・キリストが、立ちはだかっておられるのです。
私たちにとって、死は死であり、決して眠りではありませんが、このイエス・キリストは、そのことに我慢がならないのです。
ラザロと死の間に割って入って来られ、ラザロを起こし、その現実を無理やり捻じ曲げ、死を眠りに変えてしまうのだということが、私たちが今日、今ここで、読んでいる、聴いている、ヨハネによる福音書の奇妙な奇妙な報告、いいえ、この立ちはだかる方が、「あなたがたのためだ!!」と、この私に向かって、私の名を呼んで、これが、あなたの新しい現実だと、私たちと死の間に割って入って、宣言されているのです。
何と不思議な知らせだろうと思いますが、主イエス・キリストというお方は、ここで、至って真面目にそう仰っているように見えますし、何よりも、その動機が嬉しいのです。
何が主イエスを突き動かしているのか、このヨハネによる福音書がそう紹介する神の独り子であり、天地万物の造り主なる言であるイエスというお方は、どうして、ラザロの死に我慢ならないのだろうかと言えば、ラザロが愛するラザロだからです。
ラザロと死の間に、私たちと死の間に、なぜ、このお方が割って入って立ちはだかるかと言えば、ものすごく単純なことです。
わざわざラザロの身に起きる出来事を「あなたがたのために良かった」と、全ての弟子たちの前に、私たちのために、この出来事をお示しになる理由は、単純なことです。
このお方は、愛する者が死んで失われるのが、嫌なのです。
どれほど嫌か?どんなに嫌か?それを回避するためには、この方が何をしでかしてしまうか?
10:11です。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
あなたが生きるために、あなたが生きるのならば、わたしが代わりに死ぬ。あなたの代わりに命を捨てる。だって、あなたのことが愛しくて愛しくて、仕方がないから。
この11章において、主イエスが仰っていること、そして、この11章全体が語るラザロの甦りの出来事は、このずしりと重い主イエスの愛の物語です。
しかし、気軽な愛、気軽な憐みではありません。神の独り子だから、天地万物の造り主なる言だから、私たち人間と死の関係をひょいと手軽に介入し、死を不死に書き換えたというのでは全然ありません。
主イエスがここで宣言され、成し遂げられることはそんな安っぽい恵みではありません。
全く疑い得ないことに、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受ける」という、その神の御子イエス・キリストが受ける栄光とは、十字架の死のことです。
私が学んだ限りの聖書学者、神学者、説教者仲間が口をそろえて言うことは、ラザロが生きることによって、神の独り子が受ける栄光とは、十字架の死のことです。
主イエスにとっての栄光が十字架を指すというのは、一例を挙げると、ヨハネ12:23に、受難を目前に、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と、仰った主の言葉を思い出せば十分でしょう。
安っぽい愛でもなければ、手軽な恵みでもありません。
主イエス・キリストはラザロを生かすため、また、あなたがたのためだと、このラザロの出来事を、この私たちの物語だとして、主イエスが、今日ここに差し出される時、あなたには、もう既に、私の命が込められている。あなたの命は、わたしの命によって、買い取られ、わたしのものとされているという、重い重い値が込められているのです。
そして、このことが妄言でも、誇大妄想でもなく、本当の本当に力ある神の子の、神ご自身の宣言であり、断言であり、それゆえ、私たちの新しい現実であるということは、このお方の十字架の栄光と一続きの出来事である天の父によるこのお方のご復活によって、実印の押された、正式な、王なる神の勅令、布告です。
主イエスによって、この方の命と引き換えに、私たちの死とこの方の命は交換され、私たちは、永遠に生きるのです。
それは、将来に取って置かれる約束ではありません。取って置かれているのは目覚めであり、主イエスと共に生き続ける命のことではありません。
それはもう、始まっている。十字架とご復活の主イエスとの出会いと共に、もう既に、神の現実としてではなく、私たち自身の現実としても始まっています。
死ねる者ではなく、生ける者の神であられるアブラハム、イサク、ヤコブの神は、ラザロとマリア、マルタの主、イエス・キリストであられます。
主イエスがある時、そう仰ったように、アブラハム、イサク、ヤコブは今も生きており、だから、同じように、ラザロ、マリア、マルタは、今、生きているのです。
ここで甦ったラザロも死んだのです。けれども、それは、最後ではないのです。
それゆえ、それは、比喩ではなくて、眠りなのです。死と表現するよりも、眠りと表現する方が、ずっと正しいものとなったのです。
私たちが失われることはありません。私たちが奪われることはありません。私たちは主のもの、私たちの命は主の所有、死の棘は抜かれ、死はデッドエンドではなく、開かれているもの、目覚めを待つ眠りそのものと成り切ったのです。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、ラザロ、マリア、マルタの神、そして、この私の神、私の主、私たちの消えることのない光、命である、イエス・キリストが、今も、後も、永遠に、この私と死の間に立ちはだかっておられるのです。
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