礼拝

2月19日 主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書10章22節~42節

説 教 私たちは奪われない

讃美歌 13,18,27

いつもより少し長く読みました。けれども、今日この日のために、私が受け取ったものは、ほとんど、たった一言に集約されます。

「私たちは奪われない」ということです。お気づきのように、今日の説教題、そのままの言葉です。

「私たちは奪われない」。

27節以下の主イエスの御言葉です。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」

わたしの羊は私の声を必ず聞き分ける。離れていても、わたしがその名を呼ぶ時、必ず、その声を聞き分けて、帰ってくる。私が彼らの飼い主であり、彼らの命であるから。彼らはわたしの大切な羊であり、わたしが命懸けで、命を与えるから、彼らは生きる。絶対に滅びない。絶対に奪われない。絶対に失われない。わたし一人の言葉ではなく、二人の証人の名において、わたしと、天の父の名において、子と父の神の名において、決して奪われないことを宣言する。

ここで主イエスが仰っているのは、要するにそういうことだと思います。

主イエスを取り囲んでいる人々、この人々は、一読すれば分かるように、和やかに取り囲んでいるのではありません。一人の人を大勢で取り囲んで、威圧しているのです。

イエスという方がお語りになっていることを純粋に理解したいと思っているわけではありません。24節で、「もういつまでも気をもませないで、あなたがメシア、救い主であるかどうか、はっきりと、言ってほしい」と尋ねてはいますが、頷くならば、イエスよ、あなたにお従いいたしましょうということではないのです。

言質を取りたいのです。

あなたは自分のことをメシアと言うか、どうか?この問いを肯定するにしろ、否定するにしろ、その意図は、やり込めたい、やっつけたいということだけでした。

否定するならば、「だったら、おとなしくしておけ!!今日みたいな、怖い思いを、これ以上したくないだろう?」ということであり、肯定するならば、この神と自分を等しくする不遜な人間を石で打ち殺すことも辞さないということであったのです。

このような脅し、命を脅かす力に、ぐるりと取り囲まれながら問い詰められた問いに対して、主イエスがお答えになったのは、まるで角度の違うようなことでした。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」

わたしの羊は絶対に奪われないんだ!!

なぜ、こんな時に、こんなことを仰ったのか?

ご自分の羊のためです。目の前で取り囲んでいる人達を飛び越えて、やがて、この時の出来事を伝え聞くことになるご自分の羊たちのためです。

主イエスが、ご自分の羊の名を呼びながら、仰るのです。

ご覧。どんなに脅されても、わたしはあなたを捨てないんだ。死によって脅かされても、絶対にあなたたちを放棄しないんだ。

ご覧。これがあなたの主であるわたしと、私の父であるあなたたちの神の揺るぎのない意志だ。

イエス・キリストというお方は、私たちの弱さをよくご存じであります。

口ではいくら守る、守る、従う、従うと言っていても、大勢の人に威圧的に取り囲まれただけで、身も心もすくんでしまう私たち人間の弱さをよくご存じです。

やがて、主が十字架に着かれる時、「あなたのために命を捨てます。」と言ったペトロをはじめとする弟子が、その時は、心からそう言っていたとしても、本当に自分の命が脅かされるならば、自分の命と言えるようなものが脅かされるならば、逃げ出してしまうその弱さをよくご存じでした。

けれども、このお方は、ご自分の羊をお見捨てにならないのです。この方は、自分の羊のために命を捨てる者であることを、ここでもその身をもって示されるのです。

「お前がメシアであるかはっきり示せ。」

拳を握りながら、その中に、石を握り込みながら、脅す者の包囲網を飛び越えて、主は、ご自分の羊たちの名前を呼んで、語りかけておられます。

「あなたを決して奪わせない。」

あるいは、その者たちとご自分の羊たちの間から、一歩も退かず、羊たちをその背に庇いながら、荒ぶる力の前に立ちはだかって、力強く宣言されます。

「わたしの羊は決して奪えない。」

この出来事が起きたのは、この言葉が語られたのは、神殿奉献記念祭が行われた冬の日であったと22節にあります。神殿奉献記念祭とは、前の口語訳聖書では宮清めの祭りと訳されていました。神さまに神殿をお捧げした出来事を記念する祭りですが、それがまた、宮清めの祭りとして記憶されていました。

この神殿奉献祭が、宮清めの祭りとも記憶されるのは、理由のあることです。

既に、一度、奉献された神殿が、もう一度、捧げ直される、清められる出来事が歴史的にあったのです。

主イエスがこの言葉をお語りになった百数十年前のことでしたが、シリアの総督、アンティオコス・エピファネス4世という人によって、主の神殿が一度汚されたのです。

律法の書は破られ、燃やされ、代わりに、神殿にはゼウス像が安置されたのです。エピファネスとは、「神の顕現」という意味を持つ名前です。自分で自分を神の化身と自称する人が、主の神殿をほしいままにし、また、ほしいままに、主の民を殺して回りました。

神の民イスラエルの歴史において、最も厳しい時代の一つとして記憶されている時代です。

やがて、ユダ・マカベウスという人が、武装蜂起し、この残酷な支配者を打ち倒し、神殿を清め、神に捧げ直したのが、この神殿奉献祭、宮清めの祭りの起源の一つだと言われています。

実は、先週水曜夜の祈祷会で読み終えた、ダニエル書は、その時代を反映している書物だと言われています。まだ、宮を清めることができなかった、苦しみの真っただ中で、与えられた神の言葉、それがダニエル書でありました。その最後の章、第12章の終わりに、次のような言葉があり、それは深く慰められる言葉だと、祈祷会の参加者の一人が紹介してくれました。

「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」

この言葉を丁寧に説いていく時間はありませんので、その心だけ申します。

ダニエル書は具体的な殉教、暴力的に中断されるこの体の死を弁えつつ、神の言葉をこのように取り次ぎます。

神に結ばれた者の命、永遠の命は、神によって死を越えて保たれるんだ。神は、心も体も含めたあなたの全存在を惜しむ、だから、あなたを滅ぼさず、必ず、立ち上がらせる日を取っておいている。だから、安心しなさい。終わりまで、安心して、あなたの道を歩みなさい。

死なないというのではありません。神殿が崩されたように、汚されたように、主の者も、死ななければなりません。ダニエル書は、多くの者が非業の死を遂げなければならないと語ります。けれども、滅びが、その一人一人の最後の言葉にはならないのです。神が救い主をお送りになり、定められた時に、あなたたちを立ち上がらせると宣言するのです。

ダニエル書において、私たちの命や運命を一時期、翻弄することになるこの世の力は、恐ろしい獣の姿で描かれています。死によって私たちを脅かす力はどうにもならない怪物として描かれています。けれども、このモンスターの支配を終わらせ、苦しむ者を救い出し、私たちに滅びぬ命を与える神の定められた終わりの時に来られるという救い主の姿は、「人の子」として描かれます。

恐ろしい獣たちに比べたら、弱く見える、「人の子」として描かれます。

しかし、この命の与え手が「人の子」の姿をしているのは、ダニエル書では、弱くて風采の上がらない目立たぬ姿をしているということを語るよりも、人間的であると語ることに、その意味があるようです。血の通った者の姿、倒れ行く小さな一人を見逃さず、駆け寄り助け起こす、本当の人間らしい人間の姿をしているということなのです。

この終わりの時に来られる「人の子」ですが、実に、主イエスが、御自分を表現するのに、好んで使われた名です。

たとえば、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)と、御自分を指して仰いました。

主イエス・キリストは、「人の子」、人間の顔をした、血の通った、救い主なのです。

つまり、このお方は、神の独り子であられながら、私たち肉と血を備えた弱い人間の、心と体の痛みとは縁遠いところから、私たちを救うのではありません。

私たちと同じ所に立たれることによってこそ、私たちを救わんとする人間の顔を持った人の子なのです。

新約聖書ヘブライ人への手紙2:14以下にも、この人の子である主イエスを形容する次のような言葉があります。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。」

私たち人間は、天使なんかじゃありません。神様だけに聴き従おう、神様だけを畏れ敬おうとしても、正直に言えば、恐ろしいもの、怖いもの、不安なことがたくさんたくさんあります。天使だったら恐れなくても良いものを、私たちは血と肉を備えた人間だから、たくさんのものに脅かされてしまいます。とても意気地ない。とても情けない。

けれども、神の独り子は、この情けない私たちと同じ、血と肉を備えられた。それは、天使ではなく、このような私たちを助けられるため。怖いものはたくさんあるかもしれません。不安なことは消えてはいないかもしれません。けれども、御子が、この私たちの兄弟となったのです。神の独り子が、死の恐れの奴隷であった者の兄弟となられたのです。

私たちと同じ血と肉を備えた主イエス・キリストが、その十字架とご復活を通して、死の刺を抜き、私たちを奴隷状態から解き放ってくださったのです。

私たちが死の奴隷でなければ何なのか?

神の宝です。この私たちと何も変わらない血と肉をあえて備え、私たちの兄弟となってくださったイエス・キリストのゆえに、天の父の愛し子であります。

死の力に代表され、象徴されるような、悪魔的な力、滅びの力が、私たちを脅しても、天使にはなれない、この弱い者が、弱いままで、もう、死の奴隷ではなくなるのです。

金沢元町教会第16代牧師、向山自助先生が、かつてこういう趣旨のことを仰いました。

私たちが主イエスによって神の子とされるというのは、かろうじて、神の子の末席を汚すというのではないんだ。

「愛児」という枕詞を付けられながら、「〇〇ちゃん」と呼ばれていることなんだ。

「我が愛児であるお前を奪わせない。」「我が愛児を、わたしと父から奪うことは決してできない」。

今日の聖書箇所をこのように言い換えたら言い過ぎでしょうか?言い過ぎではないと私は思います。

29節に次のような不思議な主イエスの御言葉が語られています。

「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」

ここで主イエスが仰る、天の父が主イエスにお与えになったという、すべてのものより偉大なものとは一体何のことでしょうか?

天使よりも悪魔よりも強い、唯一無二なる神の独り子のその権威、ご自分の羊を滅びから救い出すことのできるという、死よりも強い御子の力とのことでしょうか?どうも、そうではありません。天の父が主イエスにくださったもの、誰にも奪うことができないもの、それは、私たちのことです。

もう一度28節を読めば、そうであることがよくわかります。

「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

キリストは、ご自分の羊を、すべてのものよりも大きなもの、御自分にとって、また、天の父にとって、決して奪われてはならない、失わないために、主イエスと天の父が心を一つにして、全力で死守する宝と呼んでくださっているのです。

だから、私たちは奪われません。滅びません。この方と共に生きて行くのです。永遠の命を生きるのです。

父と子と、そしてその声を、このわたしに語りかける声として聞こえるようにしてくださる聖霊が、今、この時、この方の羊である私たちの名を呼んで、お一人お一人の名前を呼んで断言されているのです。

「あなたは決して奪われない。この比べることのできない宝を、わたしと父の手から奪うことができるものはない。」この言葉に押し出されてこの一週を歩む私たちです。

 

 

 

 

 

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