礼拝

2月28日(日)礼拝

週報

説  教  題  「素直さと心の広さ」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ6章11節から13節まで
讃  美  歌    249(54年版)

以前、若草教会で牧師をされていたこともある加藤常昭先生が、よく仰ることに、「私たちの信仰は宗教ではない」という言葉があります。私たちの信仰は宗教ではない。だから、ある時期から、加藤先生は意識的に、説教の中でも「キリスト教」という言い方を止めたと言います。なぜ、そういうことを言うのか?私の理解している範囲で言えば、何かにすがりたい、永遠に価値ありと言えるものを掴みたい、何によっても満たされない心にぽっかりと空いた穴を、神を信じる信仰によって埋めたい、そういう人間の自然な心の動きに基づく、何とか神に結びつこうとする人間の活動のことを宗教と言うからです。

 しかし、旧新約聖書は、そのような人間の宗教心に基づく活動というのは、決して神に至ることはできないと語ります。主イエスは、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(ヨハネ6:44)と仰り、主イエスを信じる信仰が、人間業ではないことをはっきりとお示しになりました。人間の宗教心、敬虔な心というのは、どんなに最上のものであっても真の神様に結びつくことはできません。かえって宗教的な人ほど、なぜだか、神さまの御心から一番遠いところに突き進んでしまう。それがイエス・キリストの十字架の出来事において、完全に明らかになってしまった宗教の姿でした。

 私が、前任地の教会において、主任牧師から何度も聞かされ、目が開かれたことがあります。それは、私たちキリスト者が良く理解しなければならないのは、主イエスを十字架に追いやったファイサイ派、律法学者という人々は、その時代の最良の信仰者であったということです。しかし、その時代の最良で、一番ましな人間の宗教心が、神の御子を十字架につけたのです。宗教は、確かにキリストの十字架において断罪されているのです。私たち人間による宗教は、言い換えるならば人間の業は、神さまと結びつくことはできないのです。それを果たすのは、ひたすら、失われた人間、死んでしまったような人間のために天から下って、私たちを探し出してくださった御子の憐みによります。救いは始めから終わりまで神業であります。それが私たち教会の信じる福音です。

 私たちの信仰が、キリスト教と呼ばれるような宗教ではないという意外な言葉が、なぜ言われなければならないかと言えば、このような事情によります。真の神様を知り、その真の神様に救われるために、私たち人間の側で何かできることがあるかどうか?何かできることがあるというのが宗教であり、それは成り立たないというのが、我々の信仰です。主イエス・キリストの福音によって明らかにされたことは、それは律法主義というものだということです。

 しかし、私たち福音に生かされることを認め、喜びとするキリスト教会であっても、律法主義、宗教というものがどれだけ心惹きつけ私たちを虜にするものであるかは、認めざるを得ません。500年前に起きた、ルターの改革というのは、キリストの教会に再びまとわりついてしまった宗教を削ぎ落とすための改革でありました。ルターは、私たちが救われるのは、ただ「恵みのみ」だと言わなければなりませんでした。けれども、これによって、私たちは、宗教の誘惑から自由になったわけではありません。プロテスタント教会の旗印であります、「信仰のみによる救い」、信仰義認という言葉がありますが、実は、このことは、「恵みのみ」という言葉との関連で、理解しないと、誤解してしまう危険がある言葉です。つまり、「信仰のみ」という時に、よく誤解されるのは、人間が救われるためには、人間の捧げる善い行いに代わって、人間の捧げる信仰にハードルが下がったと理解されることがあります。負いきれない重荷を負わせていた当時のローマ教会に対抗して、キリストへの信仰を持てばよいという心の問題に救いの条件が大幅に引き下げられたという理解です。

 しかし、ルターがもたらしたのは、そのような条件の変更というささやかな変化ではありません。圧倒的恵みプラス、少々の宗教心などというものではありません。「恵みのみ」です。すなわち、時折、私たちが、行いに代わる人間の側の条件のように考えてしまう「信仰」もまた、改革者によれば、神さまが与えてくださる恵みなのです。信仰もまた、プレゼントとして神さまが与えてくださる贈り物です。

 宗教改革と日本語では言われますけれども、実は、ルターをはじめとする改革者たちは、宗教なんて改革しているつもりはありません。善い行いから、キリストへの信仰心という結局どちらも人間の業に過ぎないものに、救いの条件を改革したのではありません。むしろ、教会にまとわりついてしまった人間の自力の言い換えである宗教そのものを廃棄したのです。だから、現地ドイツでは、この改革は、「宗教改革」なんて呼ばれていません。ただ大文字で表記し「改革」と呼ばれます。あえて訳せば、宗教改革ではなく、教会改革です。 

 だから、よく用心したいと思いますが、もしも、信仰義認を信じるプロテスタント教会においても、信仰義認とは、神様に捧げる信仰によって、私たちは人間の側の救いの条件を私たちが満たすのだと考え始めるならば、私たちは捨てたはずの宗教をもう一度始めたのです。プロテスタントと名乗っていても、改革前に逆戻りしたのです。このような宗教に逆戻りするか、それとも恵みのみに留まり続けるかということは、どっちもありではなくて、教会がキリストの教会として留まるか否かの瀬戸際と理解すべきだと私は思います。

 なぜ、冒頭から長々とこのような話をしたかと言えば、パウロがコリント教会と向き合って、対決しなければならなかったのも、この人間の宗教であったと思うからです。

 しかし、その際、コリント教会が現代の教会よりも、問題の多い生まれたばかりの幼い教会であると、火の粉のかからない位置で批判することはやはりできないと思います。私はむしろ、信仰の歩みがただ恵みによってのみ始められるのだということに関しては、コリントの信徒たちは、私たちなどよりもよほどしっかりとした理解を持っていたのではないかと思います。というのは、彼らは、信仰を、行いに代わるハードルの下がった、我々人間の側で満たすべき救いの条件とは考えもしなかったろうと思うからです。たとえば、パウロはコリント教会に宛てた第一の手紙の第1章において、パウロは大体次のようなことを言います。

 あなた方が今あるのは、神が召してくださったからだ。そして、その召しは、あなた方が自分を顧みればわかるように、人間的に見て、無学な者、無力な者、身分の卑しい者、見下げられている者に集中していた。それは神の選びが、人間のふさわしさに全然由来しないもの、100パーセント神さまの恵みによるものだからだ。そのことについては、あなたがたも異存がないだろう。

 こんな風に、パウロは語りました。コリントの信徒も、自分たちのこの信仰の始めについては、異論がなかったのです。ここには、信仰者になるのは、人間の条件によらず、人間の信仰によらず、ただ神さまの恵みの選びによるという改革者が聞き取った福音のメッセージがそのままあるように思います。

 ところが、コリント教会では、このように一方的な神の恵みで始まったことを、今度は、宗教で補っていこうということが起きたのです。コリントの信徒への二つの手紙を読みますと、それを裏付けるように、信仰の成長というのが、一つのキーワードになっていることに気づきます。パウロは、「成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリ3:6)とか、あなたがたには、まだ乳飲み子のようにしか語れない(Ⅰコリ3:1以下)とか、信仰の成長を認め、前提とするような言葉を語っていますが、しかし、よーく読んでいくと、パウロは単純に信仰には踏むべき成長の段階があるなどとは語っていません。

 二つの手紙を丁寧に読んでみますと、信仰の成長について、積極的に語っていたのは、むしろ、パウロの敵対者であったように見受けられます。パウロの敵対者の大事にしたキーワードは、大使徒、霊的賜物、王様である信仰者、自分ばかりをキリストのものと見做す排他性などであり、これらは信仰の次の段階を語っている言葉です。簡単に言ってみれば、パウロの敵対者は、パウロの教えを信仰の初歩の教えとして、それを卒業して、今度は、自分たちから学ぶように、そして信仰の次のステップ、信仰の成長に進むようにと、パウロを初心者向けの使徒扱いをしたのです。大使徒と自称する論敵は、信仰の成長という名の元に、真の信仰の知識に達するように、霊的な賜物を身に着けるように、それで、目覚めた信仰者の段階を目指すように、促したのです。

 しかし、信仰の成長の教えというのは、その言葉自体を否定する必要は全くありませんが、パウロが逆手にとって、利用した言葉であろうということを見過ごすわけにはいきません。そうでなければ、それは、往々にして、100パーセント神さまにより頼んでいるところから、1パーセントは自分の足で立てるように、いや、5パーセントは自分の足で立てるようになることと考え、信仰者として立ち続けるための、「恵み」と「宗教」の配分を考え始めさせることに簡単に繋がってしまうのです。

 それに対して、パウロは、逆説的に、信仰者の成長とは、「誇るものは主を誇れ」(Ⅱコリ10:15)という成長であること、「力は弱さの中でこそ十分発揮される」という成長であること、すなわち「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」という、無力と貧しさの自覚に至ること、しかし、十字架のキリストのゆえに、「わたしは弱いときにこそ強い」という信仰にいよいよ立つことを、成長として語りました(Ⅱコリ12:9以下)。そしてそれこそが、パウロが始めから終わりに至るまで語り続けた福音でした。私たちの教会の先祖であるカルヴァンという人もまた、私たちの聖化の過程、聖なる者へとなっていく道とは、「単に修練されるだけでなく、自分自身の弱さをいよいよ深く学ぶ」ことだと言いました。

 それゆえ、パウロは今日の個所で、自分はあなたがたに心を広く開いたと言います。そして、どうか、あなたたちも、心を広く開いてほしいと言います。なぜ、こういうことを言うかと言えば、私たちは、キリストの福音について自分で心を狭くしてしまうことがあるからです。私たちの心は絶えず、キリストの福音を狭めるように、働いてしまうからです。コリント教会で起きたことはそれ以外ではなかったのです。神さまの恵みをどんどん狭めていってしまう。自己中心的な思いからそうするばかりではないと思います。心からの宗教心、敬虔な思いから、自分の弱さ以外誇るものはないというところから離れて、少しでも神さまの負担を減らそうと自分の足で立ち始めようとすることだってあると思います。しかし、それによって、実は、神さまの手を振りほどくファリサイ化を知らず知らず始めてしまう。恵みのみということが曖昧になって、福音が宗教に変質してしまう。福音の報せではなく、キリスト教になってしまう。

 けれども、これはコリント教会に限りません。どうしようもなく人間にまとわりつく折皺のようなものであります。伸ばしても伸ばしても、また、そちらに捻じ曲がっていってしまう。それが、私たち教会の2000年の歴史において起き続けてきたことです。福音を宗教化してしまう。敬虔な心で、熱心な信仰心で、キリスト教に作り替えてしまうのです。このことは、頭ごなしに批判しても、否定しても、どうにもならないものです。なぜならば、私たちが宗教熱心であるとき、私たちは自分が神に仕えていると心から信じ切っているからです。熱心であればあるほど、心はどんどん狭くなっていって、主イエスを十字架につけた人たちのように、キリスト者を捕えては牢に投げ込んだ、かつてのパウロのように、コリント教会の人々も、信仰の次のステップに進むことを神の御心に適うことであるとの確信を持っています。その意図は悪くはないのです。なぜならば、福音を生きるとはどういうことかという格闘がその背景にはあるからです。けれども、この世でのキリスト者の生き方、成長を、信仰の自信や、救いの確信と結び付けて理解しようとすると、途端におかしくなるのです。神の恵みに対して心が狭くなっていくのです。なぜだか、周りの人たちのことが生ぬるい信仰者、目覚めていない人達に見えてきてしまうのです。パウロのことさえも。

 そんな時にパウロができることはただ一つのことです。「子どもたちに語るように」、語りかけることです。裁いて打ち倒して、ぐうの音も言わせないようにするために、まっとうな福音を真っ直ぐに語るのではありません。親が自分の子を諭すように、間違った袋小路に落ち込まないように、優しく語りかけるのです。心を狭くするのではなく、心を広くするように、広い福音に生きるようにと噛んで含めるように語りかけるのです。

 神の子たちが、福音から宗教にこぼれ落ちて行ってしまうことは、神さまに申し訳ないということだけでなくて、仲間として、福音家族として、見ていることは忍びないことです。戻ってきてほしい。実を結ぶことによってキリスト者としての自分の義しさに安堵するような、広い神の恵みから、自分の領域をもぎ取っていくような、自己義認の世界に入り込んでいくことを、黙って見過ごすことはできないからです。それは、宗教を捨てたはずのプロテスタント教会にとっても、我々改革派教会にとっても、歴史的に無縁とは言えなかった、福音の宗教化です。

 恵みに対して、心を狭くしないように、心を広くするように。宗教によって自分だけ神の御前に立とうとしないように、「おれも少しは成長したな」なんて嘯かないように、福音によって、皆と共に、神の御前にただ憐みによって今、立たせて頂いていることを知るように。もっともっと神の恵みに対して心を広くしてほしい。悔い改めてほしい。目を覚ましてほしい、正気に戻ってほしい。そのためには正気を失っていると思われるほどに、関係を保ち続け、何通も何通も、手紙を送り続けるパウロなのです。親が子を諭すように。

 しかし、どのようにすれば心を広くできるのでしょうか?それは、直前の第5章に何度も語られましたキリストの出来事、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」という福音の出来事を、もう一度、今、この私たちを生かす恵みの言葉、神の言葉として語り聴かせる以外にはありません。罪の赦しを、卒業して次に進みうる言葉としてではなく、今が恵みの時、今こそ救いの日だと、今日赦しの言葉を頂くことによってです。

 そのための今日の礼拝です。今この時の神の言葉です。改革者たちがはっきりと理解したのは、週毎の礼拝の中心とは、罪の赦しが語られることであり、そこで、罪の赦しが今この時の出来事となるということです。

 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、主なる神さまは、このような全ての力を込めて、イエス・キリストの福音を、私たちに語りかけてくださいます。この神の力の籠った赦しの福音を聞く度に、私たちの心は広く開け放たれます。貧しく、乏しい私たちでありながら、私たちの心は、神に対しても、自分に対しても、隣人に対しても、大きく開かれた広やかな心になります。そのような者を神は、福音を盛り付け、届けるための器として用いてくださるのです。

 キリストの福音によって今一度心を広くされた私たちは、福音と救いの約束を、自分たちのため、また自分たちの共感者、同調者のためだけに、取り分けておくのではなくて、あの人にもこの人にも、撒いて歩くように神の祝福を告げたい、神の祝福を届ける神の協力者になりたいと願います。神よ、どうぞ、この弱さしか誇るもののない私たちを用いてください。しかし、私たちは弱いときにこそ、あなたによって強いのです。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。