礼拝

1月30日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  畏れと赦し 大澤正芳牧師

聖書個所  詩編130編3節~4節

讃  美  歌    142(54年版)

新型コロナウィルスの第6波が急速に広がっています。この金沢でも、連日、今ままでにない感染者数となり続けています。

 

正直、うんざりする思いです。けれども、教会は人の集まりでありますから、対応策を丁寧に考えて行かざるを得ません。

 

しかし、確かに、具体的な対応をいちいち考えて行かなければならないことは、心身ともに消耗させられることではありますが、教会というのは、確かに体をもってこの世に存在する群れなのだということを実感する不思議な手応えも覚えます。

 

私たちは体を持っている。個人としても、群れとしても、体を持つ者として、この世界の中に置かれている。

 

最近、私は、東洋思想に少し興味を抱いています。東洋思想そのものに興味があるというよりも、日本という土地で、キリスト者として生きることを強く意識し、この土地で培われてきた精神性との対話を重んじながら、キリスト者として生きた方々の在り方に興味を持っています。

 

たとえば、今の泉が丘高校を卒業し、今の金沢大学で、学んだ逢坂元吉郎という牧師に興味を持っています。聖餐を重んじ、また、修道的キリスト教というものを実践しました。体というものを重んじたのです。この方は、日本のキリスト教史上、異色の存在ですが、私たち改革長老教会とかけ離れた存在ではありません。

 

そもそもこの方は、植村正久の指導の元、信仰を与えられたのであり、生涯、今の連合長老会に繋がる信仰の血筋に生きました。

 

私たち改革長老教会は、その歴史において信仰は具体化するものだと信じ、実践してまいりました。

 

『長老教会の信仰』という本に、次のような記述があります。「わたしたちは精神の育成のためにさまざまな教育機関を設立します。わたしたちは身体に健康と癒しをもたらすために数々の医療施設を設立します。わたしたちは神を礼拝するために教会を設立します。」

 

心と、体と、霊、私たちの信仰はこのすべての面を通して、神の恵みが具体化し、私たちの心と、体と霊の全てをもって、神を喜び、福音を伝えていくものだと信じているのです。

 

心身一如という言葉があります。私たち東洋人のものの捉え方、ものの見方を、表す言葉です。心と体が高い所で一致している状態を表す言葉です。逢坂牧師も重んじた姿勢です。

 

私は学者ではありませんで、町の牧師なので、この言葉から大雑把に受け取り、今、私たちの信仰を考える上で、大切だと思うことを申します。

 

信仰というのは、神の恵みというのは、表面的にわかるとか、表面的に受け止めるとか、それではまだ道半ばなのだと思います。

 

神の恵みが分かるというのは、「肚の底からわかる」と言える時に、はじめて分かったと言えるのだと思います。

 

心身一如、心震え、体が打ち震えるほどに、神の恵みに揺り動かされる時、はじめて私たちは、分かったと言えるものだろうと思います。

 

本物の教理の言葉、本物の神学の言葉、本物の信仰の言葉、本物の証の言葉というのは、このような神の揺り動かしを受けて人の肚の底から出てくるものだと思います。

 

聖書を読んで、人間が頭だけで考えたところで、出てくるようなものではないと思います。

 

そもそも聖書の言葉が、人間の語り、書いた言葉でありながら、それを読む者、聴く者、それを新しく語り直す者に、神の言葉として聴かれ、神の言葉として語られるのは、聖書の言葉が神の揺り動かしに出会った者達の言葉であるからです。

 

後に聖書として読まれることになる、預言の言葉を紡いだ一人の人間の証言として、エレミヤ書20:9のエレミヤの言葉は、注目すべき大切な証言です。

 

彼は言います。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」

 

心だけではありません。「わが骨の中に閉じこもり」燃える神の火です。そこから語らなければそれは本物の言葉にはなりません。

 

今日は使徒信条の「罪の赦し」を信じる信仰箇条を念頭に置きながら、説教しています。

 

そのために詩編130:3-4を読みました。詩編は不思議な書物です。預言の言葉や、主イエスご自身の言葉とは違い、私たちと同じ信仰者の祈りの言葉です。信仰告白の言葉です。賛美の言葉です。

 

しかし、その人間の賛美告白、祈りの言葉が、神を証しする言葉、生ける神を指し示す言葉、神の言葉として信じられ、受け入れられ、読まれてきたのです。

 

不思議なことです。畏れ多いことです。けれども、先ほどのエレミヤの言葉を聴いた後には、よくわかるのではないでしょうか?

 

それは生ける神に揺り動かされた言葉なのです。心の内に、骨の内に燃え上がってきた言葉なのです。

 

今日お読みした130:3-4の言葉も神の迫りと、その迫りを受けた人間の言葉が、混然一体となって立ち上がって迫ってくるような言葉ではないかと思います。

 

「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐え得ましょう。/しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」

 

旧新約を貫いて、私たちキリスト教会の「罪の赦し」の信仰を形作る大切な言葉の一つです。罪の赦しの教理を理解する上で、旧約からの貴重な言葉であると思います。

 

けれども、この言葉は、教理という言葉が度々そう誤解されて受け取られるような、冷たい言葉ではありません。聖書の文字のつぎはぎによって、形作られ、発せられている机上の空論ではありません。

 

今日はお読みしませんでした130:1には、「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」と、語り出しています。

 

深い深い淵の底にいるのです。この底は複数形で書かれていますから、論理的には矛盾していますが、いくつもの底を通り抜けてきた上での底です。私たちならば、底なし沼の深みからと表現したいような所にあるのです。

 

しかし、あまり大げさに表現する必要もないでしょう。私たちが私たちの肚の底で、味わっているその現実の中と理解すればよいと思います。

 

私たちが聖書の言葉をつぎはぎして作っている聖書的世界観ではなく、私たちが、この頭で、この自分の意志でそう信じることにしている世界の見方のことではなく、この体が、肚の底からのこととして実感してしまっている現実の受け止めのことです。

 

聖書が問題としているのは、あるいは聖書の言葉を紡ぐことになった人々が神に触れられたのは、このような次元においてでしかありません。神はそのような私たちの深い淵の底に来られるのです。

 

自分もまた、そこに触れられた経験のある者、また、今、生ける神が、この言葉をもって、まさにその者に触れんと、深い淵の底に触れて頂いた者にはこの言葉が分かります。

 

「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。」

 

キリスト教的世界観のようなものはすべてすっ飛んでしまって、生ける神の御前に立たされるならば、その神の御顔に目が開かれるならば、私たちが神の御前に立ちえない罪人であることは、説明の必要のないことです。それは知的に受け入れられることではなくて、実感されることなのです。

 

けれども、もしも、神の御前における自分の罪を、言葉を尽くして説明されなくても、嫌というほど実感しているという者が、4節の言葉をも実感しているということがなければ、それはまだ、本当の意味で深い淵の底で、生ける神に触れて頂いたのではありません。まだその先があります。

 

なぜならば、この3節の言葉が本当にわかる、本当に自分事として告白できるということは、4節の実感に支えられていることだからです。

 

「しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」

 

皆さまは神さまが怖いでしょうか?どうして怖いでしょうか?どうして恐ろしいでしょうか?

 

自分の罪、自分の駄目さかげんを完膚なきまでに指摘されるから怖くて、恐ろしいのでしょうか?

 

けれども、3節で罪の実感を告白する、この信仰者は、罪を指摘する神さまは怖いなんて言ってません。罪への裁きが恐ろしいから、神さまへひれ伏すなんて言ってないのです。

 

罪の赦しをお与えくださる神様だから、恐ろしいと言っているのです。

 

このような言葉は、ちょっと私たちの常識的な理解を越えるものです。怖がることと、畏れかしこむことは違うと言って、理解したつもりになることはできません。

 

旧約学者のヴェスターマンという人は、4節の「赦しはあなたのもとにあり」という前半と、「人はあなたを畏れ敬うのです」という後半は、原語では、この「畏れる」という言葉が否定的な意味を持っているので、その繋がりは、簡単には理解できないとはっきりと語っています。

 

けれども、論理や、頭だけではわからないことですが、「肚の底」という所から言いますと、よくわかるのではないでしょうか。

 

少なくとも、洗礼を受けたキリスト者たちには、よくわかるのではないでしょうか。

 

信仰の言葉、神学の言葉、教理の言葉、そして何よりもその源泉である聖書の言葉というものは、実は観念的な言葉ではありません。

 

この世界に身を向けて、体を持った御子イエス・キリストを送り、この世界の中に、十字架をお立てになった神の行為を語る言葉です。

 

ただこの世界の中に、御子の十字架をお立てになるだけでなく、この世界の中で行われたその十字架の行為によって、この私たちを文字通り、分捕られた神であられます。

 

その神による分捕りがこの身に起きているのです。体も、心も、霊も、罪と死より神のものへと分捕られたのです。

 

神の子と呼ばれるほどに、この体の甦りを欠くべからざる信仰箇条として信じなければならないほどに、この自分丸ごとが神に分捕られているのです。

 

この神による我々人間の分捕りが、私たち人間の気付き、目覚め、信仰として受け取られる時、それはたとえば、「赦された」という言葉に結晶化するのです。しかも、「恐れをもたらす赦し」という、異様な言葉として結晶化するのです。

 

しかし、それはこの世ならざる天上の世界を語る言葉ではありません。現に、この地上で、神の揺り動かしに出会った、私たちの実体験そのものを語る地上の言葉です。

 

「恐れをもたらす赦し」などという言葉は、論理的には矛盾しているかもしれません。頭で考えだすと、行き詰ってしまうかもしれません。けれども、肚の底からわかるのです。

 

赦しの神の御前にこそ、私たちは打ち震えるのです。生ける赦しの神に本当に出会う時、神への真実の恐れが生まれるのです。

 

そしてただ、そこからだけ、私たちの丸ごと、このお方のものであり、神の子とされているから、3節「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。」という告白と思いがこんこんと湧き上がってくるのです。

 

実に、このような罪の告白は、開き直りでも、絶望でもなくて、私たちの伸びやかで明るい神賛美であり、神礼拝の具体的な実践、賛美道とでも言うべきものです。

 

わかりにくいでしょうか?

 

最近、韓国で生まれた異端的と呼ばれるキリスト教会の宣教が盛んに行われ、しばしばこの教会にも電話がかかってきます。

 

私はあまり、人を異端と裁きたくはありません。私の立場からすれば、その行き方は、採れないというだけです。だから、その団体の名前も伏せておきます。けれども、わざわざ電話をかけてきて、ご自分の信仰を宣伝しようというならば、私も私の信じるところをお伝えすることを喜びといたします。お互いが信じる喜びの物々交換です。

 

その教派が、今、どうして異端として、私たち日本基督教団を含めて、多くの教会から異端視されてしまっているのか?

 

「イエス・キリストの名による洗礼を受けて神の子とされたキリスト者には、もう罪がない、罪は十字架で完全に解決された。だから、罪人だと言って、悔い改めの祈りをするキリスト者は、真のクリスチャンではない」と言って回っているからです。

 

私も、自分でも少しおかしいと思っていますが、電話がかかってくる度に、時間が許せば、何時間でも語り合います。それで、もう、何度も、何時間も語り合ってきました。別にその伝道熱心な方を異端から救ってやろうなんてことは考えていません。ただ自分とは違う理解をしている人であっても、いや違う理解をしている人だからこそ、その人と聖書を語り合うことが楽しい側面もありますから、趣味みたいにしているだけです。

 

その主張を一つ一つ何時間も聞いて行くと、なるほどと思います。なるほど、そんなにずれたことを言っているわけではない。

 

洗礼を受けたのに、自分のことを罪人だと語り続けることは、何かイエスさまの十字架の御業を不完全で、不十分なものとしてしまっているのではないか?と、そういう問題意識がもとになって生まれた教派のようです。

 

なるほど、それはよくわかる。自分は罪人だ、罪人だと強情に言い続けることによって、イエスさまの十字架を無にすることになるのではないか?その通りです。

 

私は、申し上げました。「よくわかります。まるで罪にがんじがらめになっているように、罪の上に座り込むようにして、自分は罪人だ、罪人だと言うのはおかしい。確かに、私たちはイエスさまの十字架によって、完全に神の子とされている。」そう、申し上げました。

 

「ただね・・・」と付け加えて、その場で思いついた、少し長い、こういうたとえ話をしてみました。

 

旧約聖書でも、新約聖書でも、神と人間の関係は、誠実な夫と、不品行な妻の関係にたとえられるけれども、ここでもそれを元に考えてみたいと思う。

 

たとえば、夫を裏切って放蕩の限りを尽くして、それでも赦されて、元の鞘に収まることができて「最愛の人」と呼んでもらえた妻がいたとする。

 

赦されて改めて妻として迎え入れられた当初だって、自分はなんて、馬鹿なことをしたのだろうと、その人は思ったろうし、裏切った自分に対する夫の愛がどんなに深いものかと、感動したに違いない。

 

けれども、どうだろうか?彼女の自分は愚か者だと恥じる思い、また、それを大きく上回る夫の愛に深く深く心震える感動は、この和解の時が絶頂であり、あとは、夫が語り続けてくれるように、最愛の人だと言ってくれるその言葉に、胡坐をかくだけだろうか?

 

私はそうじゃないと思う。その劇的な和解の出来事から、一年経って、その時のことを冷静になって振り返って見て、改めて、顔から火が出る思いになるのではないか?けれども、また、この一年も夫が注ぎ続けてくれた愛に支えられながら、居た堪れない思いになるのじゃなくて、その愛の深さをより深く理解し、一年前よりも深くジーンとなるんじゃないか?

 

一年経った今こそ、よくわかる。ああ、自分は、あの時、己の罪深さも、夫の愛の深さもちっとも知ってはいなかった。本当になんて、バカだったんだろうと、しみじみと思うのではないか?

 

でも、それで終わりだろうか?二年後も、三年後も、振り返ってみて、その度に、一年前の自分は、己の罪深さも、夫の愛の深さも何も知ってはいなかったと、やっぱり思うのではないか?

 

その夫の愛が深ければ深いほど、また、それから自分の方でもその人を、本当に愛するようになればなるほど、その人のことを知れば知るほど、「ああ、私はちっとも知らなかったわ。わたしってバカね。」と、今日初めて気づいたように告白するのではないか?それが一生涯続くのではないか?

 

もちろん、日ごとに、その愛を身に受ける内に、自分でも精いっぱいこの人を愛するようになる。自分に注がれる愛に呼び起されて、こんな愛が自分の内のどこにあったのかと驚くほどの愛に生きるようになるだろう。それを見た周りの人は、何と愛の深い妻だろうと言うかもしれない。けれども、その妻自身は、返しても返しても返しきれないと、思い続けるのではないだろうか?

 

そして、誰も誤解しようのないことだと思うけれども、その「わたしって、バカね。あなたにちっとも返せていないわ。」という告白の言葉は、開き直りでもないし、自虐的な言葉でもない。愛の告白です。いよいよ愛を受け止め、自分の内にも深まっていく愛が、溢れ出したものではないだろうか?

 

私は、加えて、もしかしたら、奥ゆかしい東洋人は、あえて、連れ合いの心を深く慮り、「私ってバカね/俺はちっとも返せていない」と口に出して言うことを控えるという実践があるかもしれないとは思う。それはそれで美しいかもしれない。けれども、そのあえて口にしない人の心の中には、素直にそれを口にする人と、同じ気持ちが溢れてはいないか?そして、その思いに気付かないような相手ではないのではないか?

 

そう、電話口で申し上げました。このことに関して、なお、議論になったりすることはありませんでした。だって、私たちにはよくわかるからです。

 

もちろん、このようなたとえには限界があります。代わりに、「しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」という論理的には簡単に理解できない、この少し奇妙な詩編の言葉こそ、私たちの神経験を、もっとふさわしい形で語ってくれている言葉であると思います。

 

それゆえ、以前にもご紹介したことがありますが、熊野義孝という神学者であり、牧師である方は、私たちの罪の告白は、懺悔ではなく、賛美だという趣旨のことを言いました。

 

実際にニコニコした顔でそれをしているか、苦虫をかみつぶしたような顔で、罪の告白をしているか?正直関係ありません。「だったら、もっと嬉しそうにしたら?」なんて外野からとやかく言われることではありません。余計なお世話です。神はよーく、私たちの心をお分かりになっていらっしゃる。また、同じように神に揺り動かされた仲間達も、よーくわかるものです。もう、本能的と言って良いほどにわかるのです。

 

頭だけでわかるのでありません。文字面だけでわかるのではありません。第一その文章が綻んでいるのです。けれども、綻んでいるように見えるその告白が、そのままで、神に触れられた肚の底からならば、よくわかるのです。

 

この後、聖餐を祝うことも、賛美を歌うこともできないことを、苦しく思いますが、「罪の赦しを信じる」という信仰の言葉に凝縮されて来た、心、体と、霊に染み渡ろうとする神のすさまじい愛を昨日よりも、今日、また少し深く味わうことが許された者として、この私たちの丸ごとを用い、神を喜び、神を畏れたい、私たちの丸ごとを賛美として献げたいと願います。

 

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