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3月5日 主日礼拝

週 報 

聖 書 ヨハネによる福音書11章 17節~27節

説教題 わたしは復活であり、命である

讃美歌 17,77,28

 

今日私たちの目の前に置かれた聖書の言葉の冒頭、17節を、ある聖書学者は次のように訳します。

「さてイエスが来てみると、彼がもう四日も墓の中にいることが分かった。」

私たちの持っている新共同訳聖書と、ほとんど変わらないように見えますが、その人は、こだわってこれを訳したようです。

どこが違うのか?

前半部分です。

「さて、イエスが行って御覧になると」という部分を、「さてイエスが来てみると」と訳しています。

重い病を得て死んだ、愛する友、ベタニア村のラザロの元に、「行く」のではなく、主イエスが「来る」と。

この福音書を書いた者が、主イエスの動きについて、語ろうとする時、そのお方は、「行く」方ではなく、「来る」方だと、書かずにはおれなかった。だから、そのニュアンスを大切にして訳したというのです。

 

その学者は、まるで説教でのあるかのように、この学問的な解説書で、16節をこう解きます。

「ここで描かれているように、イエスはわれわれが苦難に陥った時にわれわれのもとへ来るのである。イエスはそもそも来る者なのである。行ってしまう者ではない。イエスは行く時は来るために行くのである。」

福音書記者は、死んだラザロのもとに向かう主イエスを、ラザロのもとへ来るイエスとして、いいえ、ラザロと同じ世界の中にいる自分自身のもとに来るお方として、見ているというのです。

 

今日お読みした箇所の最後にも、たしかに今度は、マルタの口に移して、同じことが告白されています。

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

世に来る神の子、世に来るメシア、救い主です。

そして、この方が目指す世とは私たちのことです。

 

いつでも、世にあり、また世であるのは、この地の者である私たちのことです。

だから、この方はいつでも、私たちに向かって、私たちのもとにやって来るお方として、私たちに身を向けておられるのです。

 

本当に不思議なことですが、このお方は、来られます。不思議なことに、このお方の訪れ、このお方との出会いは、未来のものではなく、今、ここで起こることです。

偉人でも、成功者でも、学者でもない、普通の私たちの、普通の日々の中にやって来られます。

マリア、マルタ、ラザロという、主イエスに出会って頂かなければ、決して歴史に名を残すような人達ではないこの人たちが、確かに出会ったように、この方は確かにやって来られ、私たちに出会われます。

 

そして、ここで、この出会いにおいて、私たちは、甦ります。甦り、もう、死ぬことがありません。

来られた方が、こう仰います。

 

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

 

この方が来るお方であるということ、行ってしまうことなく、来る方であること、行ったとしても、来るためのみに、行く方であるということ、それは、私たちを復活させ、何度でも、命に呼び出し続けるために来るというのです。

主イエス・キリストの父なる神様というのは、本当に不思議な方です。

私たちの思いを越えて、不意打ちのように、出会ってくださいます。私たちに命を与える声を聞かせてくださいます。

 

先週、私は全く思いがけないことに、全く思いがけない仕方で、主イエスの声を聴かされました。

声を聴いたと言っても、別に、神秘体験をしたわけではありません。

今日のために説くことになっていた、このヨハネによる福音書11:17-27の言葉が、読めた、分かった、しみじみと味わえたということです。

単なる文字の羅列や、情報としてではなく、お腹にストンと落ちたということです。

冷たい文字が、キリストの生きた声、良き知らせとなって響いたということです。

 

それは、使徒信条の告白する「からだのよみがえり」の告白を巡るある方との会話においてです。

 

その方は、だいたい、次のような経験を話されました。これは、誰にでも身に覚えがあることだろうと思います。

体の調子が悪い。ある部分に痛みを感じる。そこでお医者さんに行ってみる。一通り検査する。

しかし、検査の結果を見ても、異常が見つからない。

すると、お医者さんは、何の異常もありません。あなたは健康ですと言って、帰そうとする。

事実、この私が痛みを感じているのに、臓器にも、神経にも、骨にも異常がありません、健康な体ですと言って、おしまい。

 

けれども、それは、おかしい。納得できない。だって実際痛いんですから。

「からだ」というものは、そういうものではないか?そういうのが、「からだ」ではないか?

 

だから、聖書の語る「からだのよみがえり」ということも、「臓器に異常がない」というのと同じレベルでの話ではないのではないか?

私たちの「からだ」というのは、臓器の寄せ集め、臓器の総和で言い尽くせるものではないのでは?

この経験、この話、何だかよくわかります。多くの人が身に覚えのあることだからです。

 

もう大丈夫だって言われても、辛いものは辛い。苦しいものは苦しい。検査の結果には数字で表れなくても、辛さとして、症状として、体に表れてしまうということは、本当によくあることだと思うのです。

心が重ければ、体も重いということもありますが、単なる心と体の関係だけではありません。

私たちの「からだ」に起こることって、私個人の心と体の閉ざされた関係の中で起こることじゃなくて、もっと広いものであるように思います。

 

人と人との関係において、自分と誰か、自分と何かとの関係を含めた大きな輪の中で、その「からだ」っていうのは、あるんじゃないかな、置かれているんじゃないかな、影響を受けているんじゃないかなと、私たちは、経験的に知っているような気がします。

たとえば、検査の数値には表れない私のからだの不調は、私がする体のケアとか、心のケアだけでなく、まずは、この数値には表れない辛さを受け止めてくれる、認めてくれる理解者を得ることによってしか、回復が始まらないんじゃないかと直感的に、思います。

 

そしてそれがたとえば、聖書が人間というのは、心と体と霊から成っている。主なる神が人間を塵から造られた時、その鼻に神の息、霊を吹き入れることによって、生きる者になったと語っていることなのではないか?

その霊とは、神との関係において、神の声において、吸っては吐く、繰り返される呼吸のような神との関係の中に、生かされることなのではないかと思わされるのです。

 

私はその話を聞きながら、こんなことが頭に浮かびながら、今日の聖書箇所が俄然、動き出し、迫って来るのを感じました。

 

24節で、ラザロの姉、マルタが言います。

「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」

やがて、来る終末において、この世界が巻き取られ、新天新地が広げられる、その終わりの日が来る時に、死んだ者が甦る。新しい天と新しい地において、枯れた骨となっていた体が甦る。

この終わりの日の希望を私は持っております。確信しています。この死んだ弟のためにも、そのような希望を抱いておりますとマルタは言います。

 

しかし、主イエスの「あなたの兄弟は復活する」との語りかけに対して、この将来における復活の希望を告白したマルタに、この方は仰います。

いいや、そうじゃないんだ。

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。

このことを信じるか?

このことを信じなさい。

信頼してほしいんだ。

墓に葬られて四日経った、死に切ってしまったラザロは、未来ではなく、今、ここでわたしが甦えらせるのだ。わたしが今、ここでわたしたちの友ラザロを起こすのだ。

 

私たちが読み進めていますこのヨハネによる福音書には、一つの際立った特徴があります。

それは、マルタの言葉に表されている通り、やがて、来たらんとする終わりの日、終末、主なる神さまの全天全地における隠された御支配が、ありありと見えるようになるというその将来の希望の日が、実は、既に、今、ここで始まっていると語る特徴です。

私たちは、既に、何度も、今、この時、終末が実現しているのだというイエス様の言葉を聴いて来ました。

たとえば、ヨハネによる福音書3:18「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じないからである。」とか、5:24「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」とある通りです。

 

前回、今回、次週、次々週と、4回に分けて、私たちが読み、聴いている、死んだラザロの復活の物語も、このような今、この時、主イエスとの出会いによって実現する、現実化される、究極のリアリティーというヨハネによる福音書の文脈で描き出されているものです。

 

主よ、将来における、死者の甦りを信じております。

 

いいや、そうじゃないんだ。

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?このことを信じなさい。わたしに信頼してほしいんだ。そのためにわたしは来た。あなたの元に来た。

 

ある人が聖書を読むのにはコツがある。水泳の鍛錬のようにコツがある。コツを知らずフォームがばらばらである時は、一所懸命にもがいても前に進めないが、コツを体得すると、一掻き毎に水に乗って体がぐいぐい進んでいく。同じように、聖書にも、それを読むコツがあるんだと、語っています。

 

今、この通りのことが、朝の祈祷会でも、夜の祈祷会でも、起きていると、実は私は感じています。

一人一人の黙想の内に、その分かち合いの内に、また、その仲間の黙想から触発された新たな黙想の内に、聖書の心の深みへと、福音の中心へと、ぐんぐん分け入っているようなそんな感覚が与えられています。

 

今、夜の祈祷会ではヨナ書を読みながら、先週は、ヨナが主なる神さまに逆らって逃げ出そうとした結果、海が荒れ、海に投げ込まれ、大魚に飲まれてしまった場面を読みました。

 

その場面を読みながら、魚の腹の中で祈るヨナの祈りをも、黙想しながら、そこで参加者たちの色々な言葉が交わされながら、積み重ねられながら、ある方は、そこにヨナの悔い改めと、またそのヨナの悔い改めの内に、ヨナの復活を見ました。

 

「苦難の中で、わたしが叫ぶと

主は答えてくださった。

陰府の底から、助けを求めると

わたしの声を聴いてくださった。」(ヨナ2:3)

 

ヨナの祈りです。魚の腹の中、その大魚が潜る海の底は、私たちにとってだけでなく、旧約聖書の世界においては、陰府そのものです。死の世界、地獄の底です。

 

しかし、遠い外国に逃れれば、主なる神さまの支配下から逃げ出せると、タルシュシュ行きの船に乗り込んだヨナは、遠い外国よりも、はるかに遠い、大魚の腹の中、海の底において、つまり、陰府において祈る自分の声が、主なる神さまに届いていることを発見したのです。

そして、そのことを、私たちの教会の夜の祈祷会は、ヨナという人間の悔い改め、立ち帰り、甦りとして聴いたのです。

その通りであると思います。

魚の腹の中にいたままで、だから、陰府の底にいたままで、ヨナは甦ったのです。

 

いったい、このような物語が示唆している甦りとは何であるのか?

 

それは、言うまでもありません。神との関係の回復であります。追いかけて来られる神との出会いであり、その神から決して逃げることのできない、ポジティブに言うならば、神に探されている、神に声をかけられている、神の息のかかった、神の宝である自分の発見です。

 

「わたしは復活であり、命である。」主イエスがこの言葉に込められている意味は、神の子であるご自分の単なる力強さではありません。

その復活の力、命が、この声を聞かされている私たちに向かって来るということです。

シンプルに言えば、「わたしはあなたの復活であり、あなたの命だ」という主イエスとの関係に招き入れられているということです。

 

世の終わりの甦りの約束とは、ヨハネによる福音書では、私たちには縁遠い、その日が来るまでは、今、現在、私たちが生きているこの所においては、まだ気休めにしかならないような希望ではありません。

 

「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、死んでも生きる。」と、今、ここで、私たちの現実となる復活、命なのです。

そしてその甦りの命、永遠の命とは、単なる私の心と体の甦りに留まるものではなく、神との関係の回復のことです。

 

やがて、私たちも読むことになる17:3には、「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られている通りです。

そして、私たちにとって、永遠の命である父と子を私たちが知るとは、結局のところ、父と子に知られているということを私たちが知ることです。

 

これまでは聴き損なっていた神の言葉を、それを失っているゆえに苦難の中にいるわたしを目指して、やって来られる救い主によって、わたしに向かって今、吹きかけられる神の息、神の声を聴き、神との関係を取り戻し、本当の自分を取り戻すのです。

そこで聴く、神の声とは、「わたしはお前を知っている。お前はわたしのものである」という生ける神の声です。

お前はわたしの羊だ。お前の所有だ。わたしはこの羊ために、命を捨てる憐みに生きるという声です。

ここにもまた、主イエスによって現実のものとなった私たちの究極的リアリティーがあります。

 

今、ここで、そのようなお方として、既に、十字架にかかり、また父の御心によってお甦りになられた方として、主イエスが、私たちと出会ってくださっているのです。

もう、二度と立ち去ってしまわれない。行ってしまわれたと思う時も、より近づいて来られるだけなのです。何度でも、何度でも、もう一歩、もう一歩。

 

ただいま、祝う聖餐の食卓は、近づいて来られるキリストの恵みを、頂く食事です。

言葉だけではなく、この目で見、触れ、何度でも味わうことができる、キリストの近寄りです。

それは、この聖餐を受ける洗礼を受け、信仰告白をした者たちにとってだけでなく、この世界のすべての者にとっての、主の近さです。

 

もう手を伸ばせば触れ得る近さにあるのです。この方が握ってくださっている手を握り返す、信仰に、また、さらに力強く握り返される洗礼の恵みに、そして、そのことを、生涯の間、繰り返し続ける麗しい循環である聖餐に与ることを妨げるものは、もはや、何もありません。

まだそのことを信じることは難しくとも、その食卓に生かされる教会が、今、皆さんと共におり、キリストの出来事を指し示し続けます。

キリストのからだと呼ばれる教会が、皆さんの傍らに共にいます。

主は、わたしたちと共におられます。

主は、私たち世にある者と共におられます。

知ることができます。

出会うことができます。

味わうことが許されています。

決して揺るがない、誰にも、何にも潰せない本当の自分、甦った命、永遠の命、充実した命、神に愛され、重んじられている自分を、主と共に生きる命が、今、ここにあるのです。

 

 

 

 

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