12月3日(日)待降節第1主日

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書19章16節b~27節

説教題 新しい家族を生む十字架

讃美歌 241,242,395,25

今日はこの礼拝の中で、洗礼入会式を予定しております。

クリスマスに先立つアドベントが始まった今日ですが、クリスマスを待たずして、私達教会は一人の方に洗礼を授けることになりました。

具体的にはお仕事の都合で、クリスマス礼拝当日には、来れないかもしれないという心配がありましたし、また、その後は、やはりお仕事の都合でしばらく礼拝にっ出席できなくなりそうなので、それでは、聖餐を祝う12月の第1週に洗礼入会式を行いましょうという算段となりました。

今年は久しぶりに食事を伴うクリスマス祝会を行います。クリスマス愛餐会の席ではいつも、それまでの一年の間に洗礼を受けられた方を改めてご紹介し、教会員に歓迎のスピーチをして頂きますから、そのようにご紹介できないのは少し寂しいことだと思っていましたが、受付に置いてあります祝会への参加希望表を見ましたら、手書きのお名前がありましたので、ご本人には確認していませんが、出られるようになったということでしょう。

それならば、クリスマスの洗礼入会式の方が、ご本人にとっても覚えやすくて良かったかな、記念になりやすかったかなと思わないわけでもありません。

しかし、そのような実際的な私たちの都合を越えて、やはり、神さまが今日この日を定めてくださったのだと、私は、今日の聖書の御言葉を聴きながら思いました。

「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」

新しい家族を造り出す、十字架上で語られた主イエスの御言葉です。

長くこの教会で教会生活を送られてきた方は、よくご存じのことだと思いますが、今日、洗礼を受けられる方は、教会員の娘さんです。お父さんが、古くからの元町教会員でした。

それだけでなく、母方のおじいさん、おばあさんが、そもそもこの教会に連なるキリスト者でした。

お父様とお母様の出会いも、この教会の四代前の牧師の引き合わせによると伺っています。

一年前に、そのお父様の葬儀を、私たちの教会の責任において行いました。

そのことがきっかけとなり、ご家族が度々、私たちの教会の礼拝に顔を出してくださるようになりましたが、中でも、今日洗礼を受けられるお嬢さんが、たんたんと礼拝に来られるようになりました。

お仕事の関係で、年に数か月、日曜日朝の礼拝に連なることが難しくなっていた間も、実は、金沢教会の夕礼拝に、また、白銀教会の早天祈祷会に、出席できるときはお母さまと共に出席しながら、教会生活を続けて来られました。

先月の第2週に行われました定例長老会での洗礼試問会の際に、私が既に受洗準備会の時に、お伺いしていたことではありましたが、改めて、ご自分の信仰を証ししてくださり、洗礼入会の志願の言葉を、長老会はお聴きいたしました。

ここでこの教会で、私の父は、自分の本当の父に会いに来ていたんだ。自分の本当の父に祈っていたんだ。

その天の父なる神様が、私のお父さんの父であるだけではなくて、一年前に父を見送ったこの私のお父さん、私の天の父でいてくださることに気付いたという趣旨のことをお話してくださいました。

愛する肉の父のまなざし、肉の父の声の後ろに、実は既に、この天の父の御声が響いていた、天の父の愛が、沁み通って届いていた、そのような気付きを、お父様の葬儀以来、この一年間、聖書を説く言葉を聴き続けることによって、気付かされ、受け止めることが許されたのです。

改めて、お帰りなさい、待っていましたと、申し上げたいと思います。神の家族の中にお帰りなさい。

ここまでずっと読み続けてきたヨハネによる福音書ですが、この福音書が他の三つの福音書と比べて独特なものであることは、何度も繰り返し、私たちも気付かされてきたことです。

この福音書はその冒頭から、独特なものでありました。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

たとえば、主イエスの誕生の次第を語るクリスマス物語を含んだマタイによる福音書、ルカによる福音書の書き出しに比べると、たいへん独特な雰囲気を持つ福音書です。

私たち人間には見ることのできない天の秘密を語るように、天地創造の初めより、父のもとにあった子なる神の姿を語るところから始めるのです。

そこには、マリア、ヨセフ、羊飼いたち、東方の博士たち、ヘロデ達、私たちが、よく知るクリスマス物語の登場人物は、一人もあらわれることなく、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、主イエス・キリストのこの地上、この歴史における歩みを語りだします。

それゆえ、教会は古来より、ヨハネによる福音書を「鷲」のモチーフで表してまいりました。

古代、空高く飛ぶ力強い鷲は、太陽を直接凝視することのできる唯一の動物だと考えられてきました。

その鷲のように、ヨハネによる福音書記者は、私たち人間が決して直視できない天におられる御子の姿を見て、私たちに報告してくれているそういう福音書だと、たとえられてきました。

なるほどそうなのかと思います。

確かにヨハネによる福音書が証しする主イエス・キリストの御姿には、独特のミステリアスさがあると思います。

たとえば、ヨハネによる福音書4:32には、伝道の旅を続けられる主イエスのために、村里に行って、食べものを求めた弟子たちに向かって、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」などという謎めいたお言葉をお語りになります。

ヨハネによる福音書の主イエスは、他の福音書にも増して、天におられる父なる神と直結して、天に太く繋がり続けながら、そこから力を得て、地上を歩まれているお方の姿が見えるように思います。

今日聴いている直前と言っても良い18:36でも、主イエスはお語りになりました。

「わたしの国は、この世には属していない。」

けれどもまた、忘れてはならないことは、天にこそ足場をお持ちになるお方が、不思議にも肉となって私たちの間に宿られたのです。

天に属しているお方が、この地上に、この歴史に、わざわざこの世に来られ、しかも、この時、十字架に至る苦しみの道を歩み通してくださったのです。

「この男は自称であって、われわれの王ではない、この男は自称しているだけであってわれわれの主人ではない。」

この地に生きるユダヤ人からも、異邦人からも、拒否され、捨てられ、この地に、お前の立つ場所はないと神に呪われた者と見なされた強盗と共に十字架に上げられ、呪いの木にかけられ、まことに、この世に属してはおられない方であることが露わにされました。

しかし、これらの出来事を全てお引き受けになることは、それこそ、ミステリーであり、言葉そのものの意味における秘儀でありますが、世の成らぬ先に神が思い定めておられた御父と御子の一つ心であられたとも、力を込めて、この福音書は語ってきました。

そうです。この世からご自分に与えられるものが、このような仕打ちでしかないことを、このお方は、誰よりもよくご存じであったにも関わらず、肉となって、私たちの間に宿ることを、御父と御子の一致した御心としてくださったのです。

それは、このお方の受肉から十字架に至るすべての出来事を通して、私たちを神の家族としてしまうためです。このふさわしくない者を、神の家族としてしまうためです。

次週読むことになります次のページの19:28は、こう書き出します。

「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、、、」

完全に成し遂げられたと主が知ってくださったこと、その集大成が、まさに私たちの聴いている今日の聖書箇所が証しする出来事だと言って良いと思います。

十字架につけられた主イエスが、その十字架の上から、成し遂げてくださったことがここにあります。

26節以下です。

イエスは、母とその側にいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

十字架につけられたお方は、その十字架の上から、その十字架の御言葉により一つの家族をお造りになりました。

「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」

この十字架の言葉が一つの家族を造り出します。

主イエス・キリストに愛される弟子、その愛で愛し抜かれた弟子、つまり、愛し抜かれた者の当事者である弟子の一人であるこの人、この人を愛し抜くために、肉となって地上に宿られ、歩み、十字架におかかりになっている主イエス様です。

ここで、その弟子が、主イエスの系図に結ばれるのです。主イエスの血統に入れられるのです。主イエスの血潮流れるその十字架の下で、主イエスの御言葉によって主イエスの家族とされたのです。

この主イエスの言葉を説く多くの人たちがここで思い起こすのは、ヨハネによる福音書16:20以下の主の御言葉です。

少し長いですが、お読みいたします。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたはわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によってなにも願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

主に愛される弟子は、ここでただ母マリアと家族となっただけではありませんでした。

この主の御苦しみによって、主イエス・キリストの父なる神様をこの私の天の父、この私の天のお父さんと呼ぶ者とされたのです。

「アッバ父よ」、「私の天のお父ちゃん、天のパパ」と天の神様を呼ぶ神の家族とされたのです。

主イエスの名を頂き、私たちの祈りが、あたかも御子の祈りとして聴かれる、御父と御子の間にある深い愛の一体の内に、主に愛される弟子と、そしてまた母マリアが、迎え入れられました。

ここに教会があります。主の十字架により、神を父とし、主イエスを兄とする私たち教会の姿があります。

今日、一人の姉妹が、この神の家族に迎え入れられようとしています。

この人もまた、十字架の元に招かれ、そこでこの十字架の主によって、神の家族とされた御自分の肉の父であったことを知り、またそれだけでなく、この自分が、この十字架の主イエスによって、主を兄と呼び、神を父と呼ぶことの許される神の家族とされることを知ったのです。そして、その主の苦しみの十字架を喜んでいるのです。

神の家族である教会に加えられ、この教会で、この教会に連なる兄弟姉妹と共に、愛に生き始めます。

「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」

今までは何の繋がりもなかった者同士が、主のゆえに、家族とされ、互いへの愛に生きるように招かれました。

ヨハネによる福音書の注解書のようなものとして書かれたとも言われるヨハネの手紙Ⅰの4:7以下に次のような勧めがあります。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」

教会とは、愛し合うために招かれた者の集いです。たとえ、肉の家族の間にあって、愛に傷付いてきたとしても、ここでもう一度やり直す、ここでもう一度、人と人とが愛し合うことを学ぶ愛の学校でもある神の家族です。

けれども、また、率直に言って、主イエスが造ってくださったこの神の家族の中でさえ、愛し合うことに挫折してしまう私たちであることを認めないわけにもいきません。

今まさに洗礼を受けようとされている方、また、まだ、洗礼を受けていない多くの方がおられる今ここで、このようなことを申し上げなければならないことは、たいへん厳しいことではありますが、私たち教会もまた、しばしば愛の挫折を味わう者たちであることを告白しなければなりません。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34b)との、主のお望みを裏切ってしまうのです。

教会の交わりの中で、赦しと和解を語るその交わりの中にあって、どうしてもあいつを赦せない、そうとしか言えない自分がいるその現実を知ってほしいと呻いた、ある牧師仲間の言葉を最近、間接的に聴きました。

しかし、これはその人だけの言葉ではありません。私自身の言葉でもあり、私達自身の言葉としか言いようがありません。

情けないことです。悲しいことです。けれども、こんな情けない、悲しい者が私たちなのです。

けれども、もう一度申し上げます。

主イエス・キリストは、「この男は自称であって、われわれの王ではない、この男は自称しているだけであってわれわれの主人ではない。」と御子をさえ呪う、愛に生きられない私たちの現実の、そのど真ん中に立ったのです。それは、神がお立てになった十字架です。

つまり、そんな私たちであることをこのお方は百も承知なのです。そういう神に招かれながらも、愛に生き得ない私たちの現実のど真ん中に、十字架が立ち、この人間を御自身の血統に入れてしまわれたのです。

ある説教者は、新しい家族を造り、御自分を模範とする互いへの愛に生きるようにとここで招かれた主イエスの言葉に先立つ、23節の何気ない記述、兵士たちが分け合った主イエスの衣服のその下着には縫い目がない一枚布であったという記述を思い巡らしながら、こういう趣旨のことを語ります。

主の下着には縫い目がなかった。このような下着は大祭司だけが着るものだった。だから、新しい家族を造る主の言葉は、大祭司としての主の言葉であったと言うことができる。すると、これは祈りの言葉である。もちろん語りかけられた者に対する命令の言葉である。しかし、同時に、祈りの籠った言葉である。今、御自身の血を、その目の前で流しながら、祈っておられる祈りである。

「父なる神よ、わたしのこの十字架の苦しみのゆえに、この家を守ってください。」

そして、この説教者は言います。

「私たちの愛はぼろぼろになり、傷だらけであり、綻びだらけである。しかし、イエスの祈りがまるで何の傷もない一枚布のように私たちの愛を聖めてくださるのである。それ以外に私たちの教会生活も日常の生活も成り立つところがあるのであろうか。」

今、私たちに家族になろうと呼び掛けてくださる主イエスです。今、この私たちに向かって、ここでこの教会で互いに愛し合いなさいと、招いていてくださる生ける主イエスです。

そして今、十字架の上で、私たちのために祈り、私たちをその流れる血潮によって、御自身となお愛に挫折し続ける私たちを縫い目のない一つの衣のように結び、聖め続けてくださる主イエスです。

2週後に改めてお話する予定ですが、ヨハネによる福音書は、十字架の主イエスのわき腹をローマ兵が槍で刺すと、そこから血と水が流れたと、不思議な証言を記します。

教会は十字架の主イエスの裂かれたお体から流れ出たこの水を洗礼の水、その流れ出た血を聖餐の食卓、聖礼典の秘儀と重ね合わせて理解してまいりました。

今、ここで注がれる洗礼の水、今ここで分かたれる聖餐の食事、それは、主の十字架から流れ出て、今、ここで私たちに触れるのです。私たち教会は、そのように信じております。

ただこれだけが、神の家族を造り出し、神の家族を守り続けます。

主が今ここにおられ、私たちの罪は覆われ、破れは繕われ続けます。

繰り返し繰り返し、生きておられる主が、ぼろぼろの私たちをぼろぼろの私たちの愛を覆い、繕ってくださいます。

そのための礼拝であり、そのための説教であり、そのための聖礼典です。

アドベント、それは、神の冒険という意味です。それは神の進軍という意味です。だから、これら全てのことが起こるのは、私たちがその方のもとに行くことを決断するかどうかにかかっているのではありません。

御子はやって来られ、ここにいる私たち一人一人を、今、この私たちを新しく造り、また覆い、また繕う命の流れ出す十字架の元に、いいえ、命そのものであられる御自身と共にある者、主の体なる教会として一つに結ばれた者としてくださっているのです。