礼拝

3月28日(日)礼拝

週報

説  教  題  「真実を生きる」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ7章11節から16節まで
讃  美  歌    85(54年版)

今日は、棕櫚の主日、主イエスが、ロバに乗ってエルサレムに入場されたことを記念する日曜日です。これまで受難節を過ごしてきた私たちは、いよいよ今日から受難週を過ごすことになります。受難週は十字架に極まるキリストの御苦しみを記念する週であり、私たちもまた主の苦しみ、悲しみを特別に想起する時であります。この灰の水曜日からイースターに至るまでの40日間の季節、教会は、このキリストの悲しみを追体験するために、様々な悲しみの技法を生み出してきました。その1つは断食です。断食をして、ひもじい思いをしながら、キリストの御苦しみを味わおうとするのです。

 けれどもこの受難節に、私たちのためのキリストの御苦しみに思いを馳せようという過ごし方は、教会の歴史においてしばしば行き過ぎと言うような状況に陥りました。教会の歴史のかなり早い段階から、受難節を過ごすキリスト者たちの姿が、まるでキリストがまだご復活していないかのような有様だと、苦言を呈されるような行き過ぎが起こりました。

 私たち改革長老教会の伝統に立つ教会は、実にこの受難節の悲しみの行き過ぎに、反対するようなところで生まれ出た教会であるとも言えます。このことは以前にもお話ししたことがあるかもしれません。スイスのチューリヒの町で、受難節に食べることを禁じられていた肉を焼いて食べるということによってスイスの宗教改革が始まりました。覚悟を決めた数名の男たちが1本のソーセージを切り分けて食べただけの事でしたが、これは当時としては大変な法律違反でした。その町の司祭であったツヴィングリがこの行為に対して全く正当で合法であると説教の中で宣言することによって、ローマ・カトリック教会に反旗を翻し、スイスの宗教改革が始まりました。ルターの教会とは少し異なる私たち改革教会の誕生秘話であります。教会の歴史を書いた書物にも、このことは「ソーセージ事件」と名付けられて、記録されています。キリストがお甦りになれたのに、まるでその方がまだ墓の中に横たわっているようには、どんな状況にあろうとも、もはや悲しむことができない私たちであります。

 しかしそれは、私たちの信仰においては、どこにも悲しみの居場所がないということではありません。むしろ私たち改革派教会は、常日頃から、悲しむことを重んじてきたとも言えます。しかも、その悲しみは、イエスさまのご受難はおいたわしいというような悲しみではないのです。その主の苦しみは、この私たちの罪のための苦しみだということを、はっきりと自覚し、悲しむ悲しみです。このことは典型的に、礼拝式順の中に表れることです。カルヴァンと言う人は、礼拝のはじめのほうに十戒を唱えることを求めましたが、その一つ一つの戒めが読まれるごとに、キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン、主よ、憐れみたまえ、キリストよ、憐れみたまえと祈るようにと指示いたしました。神の招きの言葉によって始められる礼拝において、招かれた者たちが、いの一番にすべきこと、それはカルヴァンが、こう祈れと実際に教えている別の礼拝式文の言葉遣いによれば、「わたしたちは、不義と腐敗との中に胎まれて生まれ、悪のわざに傾き、すべて善きわざをなすに耐え得ない罪人らでございます。またわたしたちは、おのが悪によって、あなたの聖き御いましめを、はてしなく・絶え間なく破っております。…それゆえに、いとも寛大であり、憐みにとみたもう神よ、御父よ、わたしたちの主、あなたの御子イエス・キリストの御名によって、わたしたちにあわれみを垂れてください。」(カルヴァン『礼拝式文1542年』より)という罪の告白と、キリストにある主の憐みを乞い求めることでした。

 残念ながら今のところ、我々の礼拝式順は十戒を欠いたままです。しかしその代わりに罪の告白と憐みを求める長老による祈りがあります。私たち改革派教会は、罪の告白と神の憐みを必要としない礼拝を知りません。私たちの教会堂には、懺悔室がないからと言って、洗礼を受けた時の罪の赦しと、新しい生まれ変わりによって、もう罪の告白と、赦しを受ける必要がなくなったという風に考えるとするならば、それは、宗教改革を誤解しています。ローマ・カトリック教会が、神父と、少なくとも年に一度は1対1で行わなければならないとしている懺悔を、私たちプロテスタント教会は、教会の群れとして、毎週毎週この礼拝で行っているのです。カルヴァンはそのことを明確に意識して礼拝式順を作りました。その意味では私たちは受難節、受難週に悲しむどころではありません。1年52週、52回、365日、悔い改めから悔い改めへと歩んでいると言っても過言ではありません。それこそ行き過ぎではないか、キリストのご復活を無にすることではないかと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。キリストの御復活を知っているから安心して悲しむことができるのです。安心して自分に絶望することができるのです。安心して罪を認めることができるのです。キリストがご復活されたからです。ご復活のキリストが憐れんでくださるからです。死せる者をキリストが生かしてくださるからです。
 ある説教者は言います。我々の悔い改めは爆発するような力を持つんだ。悔い改めに続いて、平静な言葉では、到底言い尽くせないような感動が与えられるんだ。なぜならば、どんなに苦しんでも、どんなに悲しんでも、どんなに罪が深くても、その苦しみ、悲しみ、罪が、私たちを滅ぼすことは決してあり得ないことを心の底から教えられるからです。そのような力に至らない悔い改めは、まだ人間の心の工夫に過ぎない。真の悔い改めは心の工夫ではなく、神が人間をご自分のほうに向けてくださることであると。悔い改めもまた、神のみ力によるものだということです。だから、もしも私たち教会の悔い改めの祈りが通り一辺倒なものとなってしまい、そこから爆発的な生きる力が生じずに、ただ元気ばかりを失わせるというものであるとするならば、それはいつまでも悔い改めばかり祈ってるからではなく、逆に、私たちの悔い改めが不徹底な人間的反省にとどまっているからです。私たちが本当の悲しみを学び損ねているからです。

 しかし、このような言葉は、私たちの常識にはそぐわないことであるかもしれません。というのは、私たちはふつう、信仰生活というのは喜びの生活だと考えてい るからです。もちろん、その場合、喜びと言っても、爆発するような若々しい喜びのことを考えているのではないと思います。私たちが理想的な信仰生活として思い描くのは、平安な心に生きる喜びとでも言うようなものであると思います。生活の中に起こってくるさまざまな大波、小波によっては、一喜一憂しない平安、それらのものによって、心の浮き沈みを支配されない平安、心の深いところで、いつも神さまの祝福を受けているから、心を騒がせる必要がないという平安の喜びに生きることだと考えているでしょう。これは間違いではありません。このような平安の喜びについては、パウロもまた、よく知っていただろうと思います。

 けれども、もしも、この平安が、その自分の心の安全な深いところにどかっと座り込んで、立ち上がらず、日々起こる出来事、人間関係の面倒くさいことどもから距離を取って、心の隠遁生活に生きるということであれば、それはどうも間違ったことになると思います。その際、深い安らぎの土台に座り込むか、天の高みに飛び上がって、地上の事柄には左右されないと思っているか、どんな表現になっても、どちらも同じことです。達観してもはや何物にも煩わされない。日々起こる出来事に一喜一憂しない。これは、魅力的な心の状態ではありますが、我々の信仰ではないのです。

 少なくとも、パウロという人は、そういう人ではありませんでした。今日の個所を読みながら、私たちはパウロという人の心が本当に豊かに動いていることを知ります。第Ⅱコリント書というのは、パウロの心の動いているさまがよく見える手紙だと思いますが、とりわけ今日の個所では、心を語る言葉が多いことにお気づきになると思います。全く安らぎがない、苦しんでいる、内には恐れがある、気落ちしている、慰められた、喜んだ。ポジティブな感情も、ネガティブな感情も盛りだくさんに語られています。コリント教会との関係をめぐって、激しくアップダウンするパウロの心が語られています。あまりにも心が語られ過ぎているとも言えます。パウロのことを、日々起こる出来事に一喜一憂してしまう自分のような情けない信仰者とは違うと思っていたとするならば、我々よりも情けない、その情けなさを隠そうともしないパウロの姿に驚かれると思います。

 これは当時の教会外の多くの人々が求めた一つの理想的な人間の姿とは違います。ストイックという言葉の語源である、ギリシアのストア派の人間の理想的な生き方とは全然違う人間の姿です。パウロは世の人が憧れるような、私たちキリスト者もなお、憧れているような、どんなことにも心騒がされない平安に生きているわけではありません。6節にこれらの特にネガティブな感情に捕らわれるパウロの姿をまとめるようにして「気落ちしている」という言葉が語られています。これは、前の口語訳聖書では、「うちしおれている」とまで訳されています。コリント教会との関係において、心打たれ、皺皺にしおれてしまっているのです。これが我々キリスト教会の代表的伝道者、代表的キリスト者の姿です。英雄豪傑とは程遠い、ただの弱虫の姿です。

 けれども、これでよいのです。なぜならば、私たちの神は、「気落ちした者を力づけてくださる神」、「うちしおれている者を慰める神」であられるからです。ある神学者は言います。「わたしたちが慰めをなくした世代となってしまったのは、わたしたちの間で、自らを低くすることが、あまりに少なくなったからではないでしょうか。賤しく、低い者たちはずっと、神によって慰められてきたのでした」と。だから、打ちひしがれた者になろうと勧めます。では、どうしたら打ちひしがれた者になれるか?その人は言います。「打ちひしがれるとは、難しいことではありません。打ちひしがれるとは、(ここで使徒パウロが教えているように)告白するということです。…ただ神によってだけ慰めをいただいていることを暴露して、隠さないということです。パウロが自らの弱さを完全に暴露し、告白しているのは、大きな感動です。…彼は、いわば、全く人間くさい、この世の子になっています。」(トゥルナイゼン著作集第3巻「神のみこころに添った悲しみ」より)。

 自分の揺れ動く弱い心をコリント教会の人々にさらけ出してはばからないパウロの姿を説くこの言葉が、どうして私たちが受難節だけでなく、主の日の礼拝ごとに、徹底的な罪の告白をするのか、なぜ、教会がそのような道を歩んできたのかという理由を明らかにしてくれていると思います。私たちの神は、強い者の神ではなく、うちしおれている者の神であられるからです。この神のゆえに、私たちは弱いときにこそ、強いからです。だから、パウロは、自分の弱さが暴かれることを恥ずかしいこととは思わないのです。

 本音と建前という日本語がありますが、パウロはいわば本音に生きております。そんなことで信仰者として恥ずかしくないのか?ちっとも証にならないじゃないか?と、私たちならば、隠そうとする心を少しも隠そうとしません。14節の中ほどに、「わたしたちはあなたがたにすべて真実を語った」とありますが、彼は、どんなにコリント教会との関係がこじれてしまったとしても、自分の信じるところをありのままに語り続けたのです。頑なになったコリント教会に対して、自分も固くなって対応するのではなくて、柔らかく、傷付きやすくあり続けることができました。

 これは何もパウロだけに可能なことではありません。預言者エゼキエルは、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。」と語った神の新しい契約に生きる新しい人間のことを、「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」と、神の約束を語りました。死んだ石の心ではなく、血の通った肉の心です。キリストに結ばれた者は、心が石のように頑丈になるのではなく、むしろ、柔らかなものになります。

 けれども、ここでよく弁えておくべきことがあると思います。パウロが、コリント教会に向かって、「わたしたちはあなたがたにすべて真実を語った」と言う時、それは何でも正直に本音を話したということを言いたいのではないと思います。結果的には、そうであったとしても、それ自体が目的であったり、正直であることが、人間関係が改善するコツとなったということでは全然ないでしょう。つまり、私たちは今日の個所から、キリスト者は正直でありましょうという教訓を引き出せばいいというのではありません。

 パウロがここでいう真実は、真理とも訳せる言葉であり、パウロが福音を包み隠さずありのままに語ったということでしょう。そのコリント教会に語られた真実であり、真理である福音とは、「気落ちしている者を力づけてくださる神」の福音です。そして、この福音は、今日の所ではっきり語られているわけではありませんが、言うまでもなく受難の主、十字架におかかりになるという弱さの極みにおいて、神の力が、決定的に発揮されたことを証しする福音であります。わたしたち罪人と一つとなってくださる神です。私たち弱く、脆い人間と一つとなってくださった主イエスです。これがパウロが、語り続けた真実の言葉、真理の言葉の内容です。正直になれば良いというのではありません。教会ではなんでも本音で話さなければだめだというのではありません。私たちの真実、私たちの正直さが、私たちを生かすのではなくて、キリストにおける神の真実、十字架に極まるキリストの私たち罪人に対する誠実だけが、私たちを生かしてくれるのです。その誠実、その愛が私たちの心に届くとき、自ずと、私たちの石の心は、砕かれて、柔らかな肉の心となります。裃を脱いで、ありのままの自分を、神と隣人のために差し出すことができるようになります。

 そのような自分は、相も変わらず人と衝突するかもしれません。誤解を与え、誤解を受けることがあるかもしれません。いや、誤解ではなくて、事実、人を傷つけてしまう者でしかない者かもしれません。もしも、神が介入してくださらなければ、もしも、神が助けてくださらなければ、神とも人とも一緒には生きられないのです。しかし、もう一度申し上げます。私たちの神は、うちしおれている者を、力づけてくださる神であられます。必ず助けを与え、生きる喜びを与えてくださいます。

 その実例が、コリント教会とパウロの和解です。今日の個所で、私たちは、ぎりぎりのところまで進んでしまったコリント教会とパウロたちの不和が、解決に至ったことを聴いているわけですが、その和解が具体的にどのような道筋を通って成し遂げられたか、この箇所から、ある程度、読み取ることも可能かと思います。何通も何通も、わかってもらうために、和解するために、コリント教会へと真実な福音を、正直な心で書き送ったパウロですが、もしかしたら、その手紙だけで、和解できたのではないのかもしれません。パウロが直前に送った手紙は、いよいよ鋭い手紙で、それだけでは、関係の悪化をいよいよ招くことになったかもしれません。

 パウロの言葉と一体となった福音の言葉ですから、場合によってはパウロの欠けとも言えるだろう、手紙でのパウロの強さが、福音の優しさを覆ってしまっているように受け取られてしまったって弁解のしようのないところであったかもしれません。ところがそのパウロの手紙と同時に、あるいはほんの少し遅れて、テトスが、コリント教会に送り込まれたのです。ある聖書学者は言います。5節にパウロはマケドニアに着いたと言っている。それが何を意味しているかと言えば、パウロは、自分の住んでいるアンティオキアから海を越えてコリント教会の近くまで来ていた。手紙を送って心配になって、ここまで来てしまったんだろうと。でも、近くまで来ているのに、自分では行かない。代わりにテトスを送る。なんでそんなことをするかと言えば、かつて自分が言って、上手くいかなかった。今度もまた、自分が行くことによって、もっとひどい関係になってしまうことを恐れた。そこで、テトスを送ったのだろうというのです。これは、そうなんだろうと思います。そして、なんと慰め深いことだろうかと思います。

 弱くて欠けのあるパウロが、神さまの力を受ければ一人で何でもできる。何でも解決できるというのではありません。パウロは神さまの憐みによってしか立てない。神さまの力をいただかなければ働けない。神は、そのパウロに必ず力を与えてくださいます。でも、罪を告白して、弱さをさらけ出して、そういう自分を用いて神さまに大きく用いて頂くだけじゃありません。助けが与えられるんです。仲間が与えられるんです。神さまと私の間だけで、弱い者が強くされるということが完結するんじゃないんです。テトスが遣わされ、既に、パウロが書き送ったことと同じことを、しかし、テトスの口を通じて聞くと、初めて目が開かれ、わかるということがあるのです。

 伝道も、牧会も、一人の人がするものではありません。説教さえ、牧師一人がするものではありません。もちろん、神さまの力をいただいてしますから、そもそも一人なんてことはないのですが、それだけじゃありません。それは、教会の言葉、教会共同体の言葉です。手紙におけるパウロの主語は、ほとんどの場合、「わたしたち」ですが、実際に、具体的に、神さまはテトスをお備えになるんです。私たちもそれぞれに弱点があります。欠けがあります。私たちはそのままの自分を神に、隣人に差し出す他はありません。神はそれをお許しになります。お喜びになります。欠けを持った者たちを、神さまがうまく組み合わせてくださり、神さまの言葉を聞けるようにしてくださる。生ける神さまの言葉を心に届けてくださる。この金沢元町教会が自分たちの説教者として立てている私という牧師の語る言葉を、皆さんが聖霊の器となって、御言葉が生ける神の言葉として届いていない心にも、お互いに生ける神の言葉を届け合うテトス同士としてくださる。そういう助け手、協力者が与えられます。病の中、落ち込みの中で、牧師だけではなく、仲間の口を通して、生ける神の言葉を聞けるようにしてくれる。

 そしてまた、この時の教会とは、ただ金沢元町教会、一つの教会のことを言っているのではないと思います。既に新約の時代に、各地に散らばった複数の教会が、一つキリストの体であったように、私たちが一つ教会であるのは、ただ金沢元町教会という塊においてではなくて、地区の教会、教区の教会、全国の教会、アジアの教会、世界の教会、過去と未来の教会、生ける者と死ねる者からなる地と天の教会の広がりにおいて、一つ教会であります。神は私たちにも、この群れの中だけでなく、この群れの外にも、私たちの信頼すべきテトスを備えてくださるのです。

 今日は、次週より白銀教会の牧師として赴任される石井牧師が私たちの教会の礼拝に出席してくださっています。石井牧師とそのご一家もまた、神は私たちにとっての、テトスとしてくださるだろうと思います。金沢教会が、内灘教会が、また他の教会が私たちのテトスとなってくれるかもしれない。また私たちが、どこかの教会にとっての、別の誰かにとってのテトスになるかもしれません。それぞれの欠けたところを補い合い、しかし、変わることのない一つの福音を聞くために神が備えてくださる具体的な助け、教会の交わりです。そのようにお互いを信頼してよいのです。

 なぜ、欠けのある罪人である人間をそのように信頼できるかと言えば、神が私たちに真実を尽くしてくださるからです。約2000年前の今日、エルサレムに入城され真っ直ぐに十字架と復活に進んでくださったキリストの出来事に結実した神の真実が、私たちを生かしてくださるからです。

 

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