礼拝

12月10日(日)待降節第2主日

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書19章28節~30節

説教題 必要なことはもう成就している

讃美歌21 241,245,235,25

 

金沢元町教会の立てた説教者として、私がこの場所から説教をするのは、まだ両手には余りますが、両足まで含めれば、もう数え切るほどになりました。

まだまだ語り尽くせないという思いがある一方で、結局、毎週毎週聖書に向き合いながら、この主イエスの御姿、この主の恵みを是非この教会で語りたい、語らねばならないと今、示されることも、またこれまでこの教会で実際に語ってきたことも、それほどたくさんのことであるわけでもないとも自覚しています。

私が毎週の説教でご紹介し、皆さんに出会って頂きたいと願った生けるイエス・キリストの御姿、そのお方が、今も、生きて私たちと出会ってくださり、私たちに向かって語りかけていてくださる御言葉とは、たとえば、今日の聖書箇所において、十字架の上の主イエスがお語りになった御言葉「成し遂げられた」という一言に、またこの一言を語り続けていてくださる主イエスの御姿のことであると、結局は言うことができると思っているのです。

もちろん、別の言葉を主イエスにあらわされた神の福音の真髄と、取り上げることもできます。

主イエスのお語りになった別の御言葉、聖書の記す別の御言葉を持っても、これこそが、聖書の証しする主イエスの御姿、これこそが生ける主イエスが私たちに向かって語りかける良き報せを告げる声だと、同じように、言える言葉は、他にもたくさんあります。

しかしまた、「成し遂げられた」、この御言葉も、主イエス・キリストの良き知らせそのもの、生ける主イエスが、今、まさに私たちに語りかけてくださるゆえに、私たちが、その言葉に支えられて、そのお方に支えられて生きて行くことができる、命の言葉そのもの、私たちの命そのものであるとも私は信じています。

この教会で、この土地に生きながら、私が皆さんと共に聞き続け、皆さんと共に語り続けてきたことは、この十字架上の主イエスの御言葉であったと言って、何ら差し支えありません。

「成し遂げられた」。

そうです。必要なことはすべて成し遂げられているのです。

今年度、既に、3人の新しいキリスト者が私たちの教会で生まれました。二週後のクリスマスにも、また、その少し後にも、洗礼の備えをしていらっしゃる方々がいます。

イエス・キリストに結び合わされた者として、神を父と呼ぶ神の子として生まれ変わり、新しい歩みをスタートさせます。

洗礼を受けた者は、その洗礼の時に、牧師から、あるいは、周りのキリスト者から次のような言葉をよく聞くことがあると思います。

「これはゴールではなく、これがスタートです。」と。

洗礼と共に、新しい歩みがスタートするのです。神に愛される神の子としてのよちよち歩きが始まるのです。

そこから始まる長い信仰生活、教会生活の途上には、きっと色々な喜びと共に、また色々な困難が待ち受けていることでしょう。

時には、自分は信仰者としての歩みをこのまま続けていくことができるか?

あるいは、年月を重ねたキリスト者でありながら、自分の信仰には全くの進歩発展がなくて、洗礼を受ける前の在り方からほとんど何も変わっていないような歩みであると、情けなくなるようなことがあるかもしれません。

時には、少しは、キリスト者らしい風格が自分に備わって来たのではないかと思えることもあるかもしれませんが、その思いもまた、隠されていた自分の罪、自分の弱さに出会い直すような御言葉経験によって、何だか、ぐるっと回って、気付いたら最初のところから、ほとんど進んではいない自分だったと、がっかりすることもあるかもしれません。

でも、大丈夫です。そんなことは、ちっとも問題ではありません。

がっかりしたって良いですが、がっかりし過ぎることはありません。

すべてのことが、もう既に、成し遂げられているからです。私たちに必要なことはもう全部成し遂げられています。

私たちが信仰の歩みを重ねるずっと前、私たちが信仰の歩みを始めようとするずっと前、私たちが洗礼を受けるずっと前、私たちが教会の門をくぐるずっと前、そもそも私達が生まれるずっと前、この金沢の地に、アメリカの宣教師たちがやって来て福音を伝え始めるずっと前、2000年前、今日私たちが読んでいるイエス・キリストの十字架の出来事がリアルタイムに起こったその時代、その場所、その所で、「すべてのことが今や成し遂げられた」と、主イエス・キリストは、知っていてくださいます。

主イエス・キリストは、そう知っていてくださる。

神の独り子が、子なる神が、すべてのことが今や成し遂げられたと知っているというのは、ただごとではありません。

神が神ご自身において知ったということです。神が神ご自身において、イエス・キリストの十字架の出来事において、聖書の言葉がすべて実現したと知ってくださったということは、神は神のお望みになる御心を完成させたということです。

ある聖書の翻訳では、28節の「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」という言葉に、注を付けて、「思い残すことは何もない」(山浦玄嗣『ガリラヤのイエシャー』)と、この言葉の持つ意図を補っています。

主イエスは、そしてまた、主イエスにおいてその御心を実現される父なる神は、今、ここで、主イエスの十字架において、全てを成し遂げ、思い残すことは何もない。神はもう不足を感じておられないのです。

島崎光正というキリスト者の詩人がいます。もうだいぶ前にお亡くなりになった方です。

このアドベント、クリスマスの時期になると、いつもいつも、思い出すその人の詩があります。

何度か、ご紹介したことがありますが、「聖誕」、聖なる誕生というタイトルのクリスマスの詩です。

短いですから、改めて全文ご紹介いたします。こういう詩です。

言(ことば)は

耐えられずに

形となり

地球への旅を急いでいた

 

約束の時は

ふるえ

 

ベツレヘムの夜更けに

嬰児(みどりご)となった言は

ふと

花のように瞳(め)を開いていた

馬小屋の片隅で。

 

「言」、ヨハネによる福音書が、冒頭において、主イエス・キリストを呼ぶその名称です。

天地の造られる前から神と共にあった言、神である言、その言なる神が、耐えられずに、こらえきれずに、その心と身を震わせながら、時間の中にやって来られた。

この世界の中にやって来られたのです。その言は肉となって、この私たちの間に宿られたのです。

この狂おしいほどの神の愛、神の情熱、神の動揺、耐えきれず、形となった神の言、神の思い、イエス・キリストが、その十字架の上で、父と心ひとつにしながら、すべてを成し遂げられ、もう、思い残すことは何もない。「成し遂げられた。完成した。」と、仰ったのです。

十字架に釘付けになり、何もできない無力な存在に見えるこのお方が、実は、この十字架においてこそ、動き続け、働き続け、ふるえ続け、「渇く」と、からからに渇き切るまでに、その命を、この私たちのために燃やし尽くしてくださったのであります。

そうして、私たち人間とご自身の間にあった中垣、私たち人間と主なる神さまの間にあった壁を、耐えきれずに突き破り、打ち壊してくださいました。

和解し、仲直りし、結び合い、一つとなり、神が人間の神となり、人間が神の人間となる、神なしの人間ではなく、人間なしの神ではもう絶対になくなるために、神自ら、神の方から、耐えきれずに来てくださって、からからに渇くまでに、その命を注ぎ尽くしてくださって、燃やし尽くしてくださいました。

私たちのどんな努力も決して、神と人の間に口を開けた裂け目を埋めることはできません。私たちにはできません。

だから、主イエスに出会った者達は、途方に暮れてあちらでもこちらでも嘆きました。

「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

「年をとった者が、どうしてもう一度生まれ直すなどということができるでしょうか?」

「それならば、一体誰が神の国に入れるというのでしょうか?」

けれども、人にはできないことを、神にはお出来になりました。

言なる神は肉となって私たちの間に宿られ、私たちのきょうだいとなって、その命の限りのお働きにより、私たちを完全に神の子にしてしまわれました。

その十字架の上で「渇く」と、言わなければならなかったほどに、御子は、その力の全部全部を注ぎ切って、御父と、御子は、私たち貧しい罪人のきょうだいとなり、また真の父となってくださいました。

神の命の注ぎ出しよりも、力あるものがあるはずがありません。

罪も、悪魔も、不信仰も、死の力も、神の成し遂げてくださった絆、神が結んでくださった私たちとご自身の一体の結びを、解くことは絶対にできるはずがありません。

この絆には限界がありません。この一体の結びが解かれることは絶対にありません。

私たちの罪も、私たちの不信仰も、私たちの無知も、愚かさも、恥知らずも、この結び目をもう二度と解くことはできません。

なぜならば、聖書自身が、この絆の結ばれた直後に、直ぐに、現実のものとなった、私たち人間のひどい不信仰を語っているからです。

私たちのために、私たちを神の家族に結ぶためにからからに渇き切るまで注ぎ出してくださり、「渇く」と呻かれて、このお方に、私たち人間は酸いぶどう酒を差し出したのです。

「酸いぶどう酒」、これは、発酵が進み、酢になってしまったぶどう酒です。いわゆるワイン通の語るところのブショネッてしまった酸っぱいまずいぶどう酒です。

これを薄めたものは、庶民の飲み物だったとも言われていますが、ここでは、そういうものではありません。主イエスの渇きを癒して差し上げようというものではありません。

28節の後半にある通り、ここにあるのは、聖書の実現であり、つまり、神の御心の実現であります。

ここで実現した聖書の言葉、神の御心とは、何でしょう?

多くの人がここで思い起こすのは、詩編69:22の御言葉です。

「人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。」

この聖書の言葉がここで実現しているんだ。私たち教会はそのように読んでまいりました。

自分たちを神の家族にするために、渇いてくださった方に、そうして、人間にはできないことを、すべて成し遂げてくださったお方に、私たち人間はその直後に、酢を飲ませようとするのです。

それが人間です。それが私たちです。本当に申し訳ないことです。

しかし、このお方は、その差し出された酢を、お受けになりました。

よれよれのヒソプの枝の先に突き刺した海綿に、酢を含ませ、だから、本当は、よれよれのヒソプの枝のように、自分自身に跳ね返って来てしまうような悪意に満ちたその酸いぶどう酒を、主は折らず、主は意志し、御自分のものとして受け入れ、まるで吸い取り紙のように、人間の悪意を飲干され、私たちの受けるべき呪いの一切を、未来永劫引き受けてくださったのです。

ここです。ここが、私たち人間の置かれている場所、私たち人間が生きることを許されているその時間です。

金沢元町教会の礼拝にお集まりの、神に招かれた皆さん、皆さんお一人お一人は、このような神の御前で、神と共に生きているのです。皆さんは、ここに置かれています。

洗礼を受けた者も、洗礼を受けていない者も、何十年と信仰生活を歩んできた者も、今歩み出したばかりの者も、皆同じです。成し遂げられています。

このような神の御前に、このような神と共に、今、既に歩んでいるのです。

だから、大丈夫なんです。自分に、自分の不信仰に、自分の進歩のなさに、がっかりし過ぎる必要はないのです。

成し遂げられています。私たちのどんな失敗も、どんな罪も、どんな恩知らずも、私たちをキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことは絶対にできないのです。

だから起伏の激しい信仰生活、起伏の激しい人生の日々、安心して悩んでください。安心して悲しんでください。安心して絶望してください。成し遂げられています。

神の愛は、あなたの悩みよりも、あなたの悲しみよりも、あなたの絶望よりも、深い。もっとずっと深い。絶対にその外に出ては行かれない。

何度もこの場所から、ご紹介してきましたルドルフ・ボーレンという神学者がいます。

たくさんたくさん心に残る言葉を語っていますが、中でも、わたしがボーレンの教え、ボーレンの信仰の言葉の中で、一番と言って良いほど、心に留まっている言葉があります。

私は今日、皆さんの心にも、この言葉が刻まれてしまうように、願っています。

ボーレン先生は言います。

神の御前にある私たちの人生、「それは、〔交通を遮断した〕子どものための遊び専用道路のようなものである。」

神の子とされた私たちの人生は、子ども専用歩行者天国の中にあるようなものだと言うのです。

この子どもたちの命を決定的に危険に晒す車も、オートバイも、自転車も、悪魔も入って来れないのです。

その中で未成熟な子ども同士、ケンカしたり、足がもつれて転んで膝をすりむいたり、思い通りにいかなくてかんしゃくを起こしたり、そういうことは起こるでしょう。それどころか、御子を殺すような人間の悪意にも、出会うでしょう。

けれども、守られているのです。兄さんであるキリストと共にその場所にあり、父なる神のまなざしのもとにあります。だから、そこは大切な命は髪の毛一筋ほども失われない保護された遊び場です。

そこにも真剣なスポーツがあり、真剣なおままごとがあり、そのようなものとして、私たち教会もまた、そこでキリストに似た者となる訓練があり、修練があり、真剣な努力を重ねます。

その努力は、必要なことは父が全てをやってくださるのだから、意味のないことだと軽蔑されたり、決して笑い者になるべきものではなく、勧められ、励まされることです。

しかし、それらは、いついかなる時でも、遊び、聖なる遊びであり、それを超えることはないとボーレンは言います。

私たちの信仰生活、キリストの似姿を目指す霊性を求める修練とは、神がご用意された聖なる遊びである。

それにしても、必要なことを全部、御自分で成し遂げてくださる神は、なぜ、そのような遊びをわざわざ私たちにご用意されるのか?

ボーレンは、「遊びは、人生不可欠なものだからである」と言います。

ここにキリスト者の生活のあるべき姿があります。いいえ、すべての人間の生活のあるべき姿があります。

いいえ、「あるべき姿」などではなく、現にあるがままの姿です。

すべて、重荷を負うて苦労している者は、主イエスの元に来れば良いのです。

そこで、その重かった私の荷物は、主のもとに降ろされたその場所で、私の名前から、主イエスの名前へと名義変更が行われます。いいえ、本当は、もう、とっくのとうに名義が書き換えられていたことを発見するのです。

全ては、既に成し遂げられているのです。それはどうしても絶対に運ばなければならないものではありません。成し遂げられているのです。

人生の重荷、人生そのものが重荷として感じられる時も、それは生きなければならないものとして、私たちにのしかかっているものではなく、生きて良い、生きることが許されているという、許しとして、許可として、与えられているものです。

青年の悩みも、壮年の労苦も、老年のつらさも、それは生きねばならないものではなく、生きることが許されているものなのです。

だから、どんなに真剣であっても、どんなに深刻な時も、どこか息が抜ける。どこかユーモアが入り込む余地があり、実際に、肩の力を抜くことができる瞬間が必ずやってくるし、それを不謹慎だなんて思わず、喜んで受け取ることが許されているのです。

今、全てを成し遂げて、引き取られたキリストの息、キリストの霊が、改めて、この礼拝に、この御言葉をあなたに対する神の声として、語りかけておられます。

「成し遂げられた。」

我が子よ、あなた方は、安心して、この私の用意したプレイグラウンドで、この遊び場で、生きて良いのだ。あなたは生きることが許されているんだ。

 

 

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