礼拝

3月27日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  来なさい。そうすれば分かる 大澤正芳牧師

聖書個所  ヨハネによる福音書第1章35節~42節

讃  美  歌    265(54年版)

今日、共に聴きます聖書の御言葉は、主イエスが最初の弟子を招かれた、その記録です。

 

アンデレとその兄弟シモン・ペトロ、それから、今日の箇所と一続きの43節以下では、フィリポにナタナエル、12弟子に名を連ねることにもなるこれらの最初の弟子たちの召命記事です。

 

この最初の弟子達の召命は、主イエスが公の活動が始められた早い段階で為されたと語る点で、全ての福音書で一致しています。しかし、その描き方に関しては、私たちの読み始めたヨハネによる福音書は、随分独特です。

 

ヨハネの福音書の書き方は、その全般に渡って、史実そのものを忠実に描き出すことに関心があるよりも、現在の自分たちと主イエスの出会いを、そこに表そうとしているものだと聖書学者達は指摘します。

 

確かに、今日の聖書箇所を読んでいると、他の三つの福音書の召命記事よりも、私たち自身が、キリスト者になって行った道のりとよく重なり、多くの人が共感できるものがあると思います。

 

洗礼者ヨハネの証言を通して、アンデレともう一人の匿名の弟子が、主イエスに従う者となりました。主の弟子となったアンデレの証言を通して、今度はその兄弟シモンが、主に従う者とされました。42節以下でも、フィリポの証言を通して、ナタナエルへと信仰が伝達されました。

 

ヨハネによる福音書では、このように、人から人へと信仰が伝達され、主の弟子が生まれるのです。

 

西暦90年代に生きる教会の人々、つまり、主イエスをその肉の目で見たことのない世代が大半である人々が、自分と主イエスとの出会い方を振り返り、この福音書を書いているのです。

 

だから、私達にもよくわかるのです。私たちもまた、その人達と同じように、直接、この肉の目で主イエスを見、この肉の耳で主イエスの御声を聴いたわけではありません。

 

主イエスを指し示す人間の言葉、先にキリスト者になっていた誰かの証言を通じ、主イエスにお会いすることができたのです。

 

そのような私達の信仰は、主イエスに直接お会いした最初の弟子たちの信仰に比べて、少しも足りないものではありません。

 

なぜならば、ずっと先に読むことになりますが、ヨハネによる福音書のクライマックスの一つと言って良い20:29において、仲間たちの証言にも関わらず、ご復活の主に出会うまで、信じることの出来なかったトマスという人に対して、「見ないのに、信じる人は幸いである。」と、主ご自身が語られたと記録されているからです。

 

けれども、また、印象的なことですが、今日お読みした箇所、お気づきになった方もいらっしゃると思いますが、「見る」という言葉が、多用されています。

 

日本語で確認できるだけでも五つ見つけることができます。しかし、原文では、もっとたくさん「見る」と訳すことのできる言葉が隠れています。

 

それは、人間が主イエスを見ること、また、主の方が人間を見ること、その両方が含まれています。

 

見ないで信じる信仰の幸いを語るヨハネによる福音書ですが、同時に「見る」ということも、たいへん重んじるのです。

 

しかし、この場合の「見る」というのは、ただ肉眼で見ることとは、別のことを指していると思われます。

 

おそらく、この場合の「見る」とは、41節のアンデレの証言のギリシア語原文に隠されている「見る」という言葉が言い表そうとしている、主イエスの見方のことです。

 

それは、新共同訳聖書が「出会った」と意訳している言葉です。ここは、「見る」と訳すこともできる、その方が自然である言葉が使われています。

 

だから、アンデレが、兄弟シモンに向かって、興奮したように主イエスを紹介する41節の言葉を、ある聖書翻訳はこのように訳しています。

 

「俺たちはメシアを見つけたぞ」

 

ギリシア語で、ヘウレーカメンという言葉が使われています。日本人にもそれなりに知られているギリシア語ではないかと思います。

 

古代ギリシアの数学者アルキメデスが、王様から金の純度を調べる方法を考え出すようにと命じられた時、どうしても、考え付かず、気持ちを切り替えようと大好きな銭湯にザブンと入った時、浴槽から流れ出る、お湯を見て、体積と浮力の関係に気付いて、「ヘウレーカ!!」と叫んで、裸のまま外に飛び出し、家に帰っていったという逸話と併せて知られるその言葉です。

 

エウレカとも、ユリイカとも、発音される言葉です。「見つけた!!発見した!!」という意味の言葉です。

 

肉の目で見ていても、見えなかったものが、洗礼者ヨハネの証言に促され、主イエスについて行ったとき、突然、見えたのです。その時、アンデレは、「見つけた!!発見した!!」と踊り上がったのです。

 

何を発見したのか?主イエスが、この私のメシア、また、私の兄弟、私の隣人の救い主であられることです。

 

だから、それは、「出会い」と訳しても良いのです。

 

このような主の発見、主との人格的出会いは、決して劇的な経験である必要はありません。何年、何十年という自分の歩みを振り返り、しみじみと「私は救い主に出会った」と言えるならば、それは、ダマスコ上のパウロの劇的なご復活のキリストとの出会いと同様に、それと勝るとも劣らない生けるイエス・キリストの本当の発見、このお方との本物の出会いなのです。

 

それは、現にある事実として、私たちが、その中に置かれている信仰者としての現実です。

 

だから、私たちは、主イエスとのこのような不思議な出会いがどうしたら、私たちにも与えられるか?などという問いの立て方はしないようにしたいと思います。

 

しかし、これから起こることではなくて、もう既に起こったこととして、それはどのように起こったか?と問うことは有益なことであり、それは、そのまま私たちの証の言葉、アンデレ同様に、私たちに与えられた私にしか語れない伝道の言葉となるでしょう。

 

ヨハネによる福音書のこの冒頭部において、一人の人が主の弟子とされて行くのは、人から人へ、その人間の言葉を通してというキリスト教会の経験が、暗示されているだろうとお話ししてきました。

 

けれども、少し、先取りになりますが、実は、来週扱う43節以下のフィリポが弟子とされる過程においては、この人から人へということが破れていて、他の福音書と同じように、主イエスが直接、フィリポを招かれるということが書いてあります。

 

ここで人から人への流れが断ち切られてしまうことから、フィリポの召命の部分は、後代の付け足しだと、考える学者が多くあるようです。

 

しかし、日本のある聖書学者は、実は、このことこそが、ヨハネの教会が経験し、また、私たち自身が経験している主イエスとの出会いの姿そのものではないかと言います。

 

人から人へ、鎖のように繋がれて行く、人間の言葉による福音の伝達が、ある時、突然に、主イエスの直接の呼び声として響いて来るのです。

 

このような体験は、色々な側面から、言えるのではないかと思います。

 

第一には、長い教会の歴史において、度々そういうことが起きたので、教会は生き続けて来たと言えます。

 

たとえば、パウロ、たとえば、アウグスティヌス、たとえば、ルターとカルヴァンなどの改革者。

 

人から人へと伝達されて行く福音ですが、その途中で、明らかに、その伝達された言葉が、はっきりと神の生ける言葉、神の言葉として響き出し、私たちの目を覚ますということが起きるのです。

 

それは、それまで伝えられて来た福音が人間によって捻じ曲げられてしまったものであるから、神が、このような特別な預言者のような人たちによって、捻じ曲がってしまった教会の歴史に直接介入し、正されるというよりも、むしろ、人間によって繋がれて来た福音の言葉の背後には、どんなに見えづらくなっても、いつも生ける神がいらっしゃったということを思い起こさせる神の恵みではないかと思います。

 

それによって、改めて、人間の思いや知恵ばかりが先立ってしまう貧しい人間の集まりである教会の目を、生ける神の臨在に開き、教会の息を吹き返させ、教会の姿勢を整えようとされる神の憐みではないかと思います。

 

しかし、それは全キリスト教会レベルの大きな歴史の流れの中に起こるだけではなく、ヨハネによる福音書の共同体という一教会のレベルにおいても起こることだし、また、それは、一人一人の信仰者の歩みにおいても、起こることではないかと思います。

 

共にいます生けるキリストが見えなくなってしまっていた過去のあの時、この時、また今のこの時、この場面に、実は、生けるキリストが共にいらっしゃったのだと、私たちの目が開かれ、キリストの臨在が改めて発見されるのです。

 

今回の説教準備をしていて、実は、私にも、とても不思議なことが起こりました。神様の導きを感じました。

 

数週前からヨハネによる福音書の連続講解説教を始めています。

 

聖書黙想を深めるために、聖書以外にも、いくつもの解説書や、説教集を読みます。

 

他の人はどうやって読んでいるのか?歴史の教会は、どんな風に読んできたのか?その人たちとの楽しい対話の時間です。

 

今週もパソコンには向かえず、ベッドに寝転がって、本を読み、スマホでポチポチと入力し、説教準備をしました。

 

横になりながら、今までも読んできた、一つの本を手にして開きましたら、その本の中から、B5版4ページの薄い教会報のような小冊子が落ちてきました。

 

その冒頭には金沢元町教会の第16代牧師であった向山自助先生の短い説教が載っていました。

 

元町教会の古い資料が、いつのまにか私の自前の本の間に紛れ込んだかと思いましたが、向山先生の肩書きが安行教会牧師となっておりました。この教会の次に転任された教会です。

 

向山先生が、安行教会に転任した後に、金沢に送ってくださった教会報かと思い、表と裏に目を通しましたが、どうもそれは教会報ではありません。

 

東京神学大学の同窓会組織の40年以上前の古い会報でした。なんでそんなものが、私の本の間から出てきたのか?

 

それは、みずき牧師の祖父の遺品として受け継いだ本だったのです。

 

あまり、多くの人にお話してきたことではありませんが、みずき牧師の母方の祖父は、伝道者であった人です。

 

東京神学大学の前身である日本神学校出身で、私がたまに名前を出す竹森満佐一牧師の同級生でした。神学校を卒業して、北海道にいた小野村林蔵という植村正久の教え子である牧師の牧会する教会に招聘されました。

 

この小野村牧師は、戦時中、神社への強制参拝への反対をはっきり唱え、反戦容疑で投獄された長老改革派の牧師として有名な方です。戦争の気配が色濃くなっていた時代、その厳しい信仰告白的戦いの最中、みずき牧師の祖父は、伝道師として北海道で仕え始めたのです。

 

そして、間もなく、札幌北一条教会の伝道師を兼務しながら、無牧師になってしまった、お隣の教会に主任として転任しました。しかし、それも一年経たずに、徴兵され、辞任しなければなりませんでした。

 

実は、終戦後、戦地から戻った後、牧師に戻ることはありませんでした。

 

祖母とはそもそも伝道師には戻らないという約束で結婚しましたから、その理由について、生涯、家族に話すことはありませんでした。

 

けれども、義理の祖父は牧師に戻ることはありませんでしたが、それから何十年も経って、日本神学校の同窓会組織を作ることに奔走し、その世話役をしばらく、務めたようです。このレバノン会と呼ばれる同窓会組織は、やがて、休止していた東京神学大学の同窓会組織の基礎となったと聴いています。

 

それで改めて、祖父も編集委員の一人を務めた『日本神学校史』を調べてみましたら、向山先生の二年先輩でした。

 

それだけでなく、向山先生と二人で、神学校史編纂のための、原稿蒐集整理を担当したようです。二人とも、同窓会の設立メンバーだったのです。

 

私達が結婚した当時はまだ、存命であったみずき牧師の祖母から、向山牧師との関係については聞いたことがありませんでした。祖母は、私たちが金沢に行く前に亡くなりましたので、たとえ知っていたとしても、話題に上がらなかったのは、当然です。

 

義理の祖父と向山牧師の繋がりは、今回、寝転がって本を開いた時に、落ちてきた小さな同窓会報を目にしたことから、たまたまわかったことです。

 

元町教会の過去の牧師と、みずき牧師の祖父が、私たちの全く与り知らぬところで、膝を突き合わせて話し合いながら、牧師たちの交わりの場を作り出すことに尽力していたというのは、とても不思議な思いがいたします。神のご臨在に出会った思いです。

 

何よりも私にとっての大きな収穫は、その同窓会報によって、初めて向山自助牧師の説教に触れることができたことです。

 

たいへん、短い説教です。それだけに、向山牧師の信仰の真髄が現れ出たような説教だと思います。そもそも聖書箇所は、ルカによる福音書15:11-32です。有名な放蕩息子のたとえの箇所です。まさに、福音中の福音と言えるような箇所を説く、説教者向山自助牧師のとっておきの言葉です。

 

向山牧師は、ここには三つのたとえではなく四つのたとえがあると、意表を突くことを言います。

 

四つ目のたとえ、兄をなだめる父の姿を、四つ目のたとえとして、捉えているのです。向山牧師は、この箇所にこそ、「最高の啓示が隠されている」と言います。

 

向山牧師は語ります。父のなだめの言葉を受け入れず、反抗する兄に語りかけられた「子よ」という呼びかけの言葉は、単なる息子という意味ではなく、幼子を指す言葉である。だから、父は怒る兄息子に向かって、「愛児○○ちゃん」と話しかけている。「計り知れない愛情です」と。

 

それだけではありません。このたとえは、神と人間の関係の回復だけでなく、人間と人間の関係の回復をも語るたとえ話だと、次のように語ります。

 

 兄は不満一杯に「あなたの身代を食いつぶした、このあなたの子と言ってるのに対して、父は彼にあなたの弟と言っておられます。大きな愛が神と人を結びつけるだけでなく、兄弟の関係がカインとアベル以前に戻らせられることが示されるのではありませんか。そうした神のご経綸を示されて、感謝に満たされアァメンと唱えます。」と向山牧師は説きます。

 

「感謝に満たされアァメン」向山牧師の信仰が奔り出たような最後の言葉です。この老牧師は感激しているのです。

 

何に感激しているのか?何がこの人の胸をいっぱいにしているのでしょうか?

 

兄と弟が反目したままにも関わらず、ただ父のゆえに、父のとりなしのゆえに、二人の人は既に兄弟として父より取り扱われ、兄弟として回復されているということです。

 

兄と弟の和解が、兄弟関係を回復させるのではありません。父が反目し合う二人に向かって、「この我が愛児は、あなたの兄である。」、「この我が愛児はあなたの弟である。」と、語ることによって、兄弟関係は回復されているのです。二人の和解に先立ち、父の諦めない意志によって、執り成しの意思によって、反目する二人は、兄弟として結ばれてしまうのです。

 

神との和解も、人間同士の和解も、神との一致も、人間同士の一致も、人間の意思に先立って、神の絶対的恩寵によって、なっているのです。神の不屈の関わり合いの意志によって、和解の現実は、見える争いの現実を超えた、本当の現実に成り切っているのです。

 

この神の造り出す、神と人、人と人との和解の事実に、ただただ驚いて「アァメン」という言葉こそ、私たちにふさわしい言葉です。私達は、神が造り出されたこの和解の事実を受け取るだけです。

 

この向山牧師の説教が、間から落ちて来ました当のヨハネによる福音書の解説書、東京神学大学の学長であった、松永希久夫先生の注解は、今日の39節の「来なさい。そうすればわかる」という主イエスの言葉と、「そこで彼らはついて行って、どこでイエスが泊まっておられるかを見た」という所を読みながら、私たちの信仰生活とはいかなるものであるかと、次のように語ります。

 

「信仰を求める生活、信仰を保ち続ける生活とは、主イエスの歩む道に同行する生活である。間違ってはいけない。私たちの歩む道の同伴者がイエス(様)だというのではなく、主イエスの歩む道に私たちが同行するのである。」

 

背筋が正される言葉です。これこそ、日本のプロテスタント教会初期、植村正久以来、代々、人から人へと受け渡されてきた、福音主義信仰の言葉であると思います。

 

もちろん、向山牧師も、同じことを言っているのです。私たちは、主イエスの踏まれた、その後から着いていき、主の留まるところに留まり、主のなさったことを発見し、証言させて頂くだけです。

 

「私は見た。主イエスについて行ったら、私は見たんだ。このお方がなさったことを見た。ただただ見た。天と地が繋がってしまったのを見た。」

 

神の子羊が、私たち人間の助けなしに、ただお一人、独力で、天と地を繋いでしまわれたのです。

 

そうお望みになった神のご意志の実現のために、ただ神お一人が犠牲を払われました。私たちのために、大きな犠牲を払われました。

 

すなわち、世の罪を取り除く、イエス・キリスト、このお方の十字架を、神がお支払いになられたのです。この私たちのために。

 

このことを思うと、私たちなしに行われる、神と人の和解、人と人との和解を造り出す神の独力の御業を、強引とか、無理やりとか、有難迷惑とか、私たちを除け者にしているとか、そんなことを言えるはずはないのです。

 

向山牧師のように、兄と弟の意志によらず、父と子、そして、兄と弟の関係を宣言する、父の意志を前に、打ち震えるようにして、「アァメン」と応える以外にはないのです。

 

「ついてきなさい。来て、見なさい。私のいるところに留まりなさい。」

 

自分が望むところに、自分が望む神を見ようとするのではなく、主イエスの言葉に従う時、主イエスにお従いし、主の元に留まるとき、この一切を見ることになるのです。

 

これが、金沢元町教会を代々生かしてきたキリスト信仰の本筋です。

 

今日の聖書箇所から、まだまだ語るべきことはあります。ここまでのところ、まだ表面をなでることができただけという思いがします。

 

しかし、最後にこれだけは、触れておきたいと思います。

 

それは、この主イエスというお方は、召し出された弟子の一人である、葦のように揺れやすく、折れやすいシモンをケファ、すなわち、岩としてお用いになることができるということです。この42節のケファという主イエスの付けられた新しい名をギリシア語にすると、ペトロと言います。

 

しかし、一番最後に書かれたという、この福音書に「ケファ」と、主イエスが発音なさったままの言葉が、ここに記録されていることに、深い思いに誘われます。

 

それは、主イエスの肉声は、もう一度、新しく何度でも、今ここに響き出すものであるということ、そのものであるように感じられます。

 

ただただ主のなさることを受け取るだけの私たちです。その大きな恵みに打たれることしかできない私たちです。しかも、人間のために為されたその大きな恵みを語ることだけという使命すら、満足に、人から人へと繋いで行けないような私たちです。

 

けれども、そんな私たち人間が、それでも主の弟子として召され、主の御声が響き、「岩」と呼んで頂けるのです。

 

マタイでは、この上に教会を建てると主が約束してくださったケファです。これは、そこからここまで繋がれてきた私たち教会の名を呼び続けてくださる主イエスの肉声です。

 

主は、人間に過ぎない私たちの貧しい言葉を堅固な岩としてくださる。すなわち、主イエスを指し示そうとする私たちの言葉を、救い主である主イエスの発見、主との出会いをもたらす確かな言葉として、必ず用いるとの主の御声です。これは、天地の創造者の声です。事実、この御声通り、人間の言葉が鎖のように繋がって、私たちを主の弟子とし、今、主を指し示すために、私たちを召しているのです。どれほどの光栄に与っている我々であることか、改めて居住まいを正し、ただただ生ける主を仰ぎたいのです。

 

 

祈り

主イエス・キリストの父なる神様、あなたの臨在に私たちの目を開き、ただただあなたを拝む者としてください。神は神であり、人は人であることを教え、あなたが造り出してくださったあなたとの和解、隣人との和解を、心から喜んで承認する者としてください。あなたと、そして隣人と、争わなければならないと思い込んでいる妄想から、人々を目覚めさせる福音の証人としての言葉を、ここから送り出されていくそれぞれの場で、この一週間、言葉と存在を捧げて、私たちが語ることができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

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