礼拝

11月15日礼拝

1115週報

説  教  題  「私たちは香を放つ」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙二2章12節から17節
讃  美  歌    391(54年版)

本日は年に一度の召天者記念礼拝です。コロナ禍の折、開催すべきかどうか判断に迷いましたが、感染対策をしながら、ここで毎週礼拝をお捧げしている以上、この場所は、どなたにも開かれている場所です。当然、この教会に生きた先達たちのご家族も、神は機会を捕らえてお招きになりたいと願っていると信じ、いつもと変わらずお誘いのハガキをお送りいたしました。残念ながら、礼拝後に茶話会を開き、既に召されたこの教会の仲間たちの思い出を語り合うことができないのは残念なことです。けれども今日の聖書個所を読みながら、今、司式者が読んだ言葉を聞きながら、既に、ここにお集まりの皆さんも、その人達の纏っていた匂い、香りについて思い出し始めていることと思います。

 使徒パウロは語ります。キリスト者というのはいい匂いを放っている。パウロの語るいい匂い、それは、ローマ帝国において、凱旋パレードの際に焚かれた良い匂いのする草の香りのことだと言う人がいます。戦争から帰ってきた汗まみれの兵士たちの匂いを消してくれるような、あるいは、町中を満たし、屋外にいる者だけじゃない、屋内にいる者にも、窓の隙間、扉の隙間から入ってきて漂い、ああ、今、わが町に凱旋パレードが通っているのだなと、気付かせるようなものであったのでしょう。

 明るい薫りです。喜びの香りです。戦争は終わった。勝利に終わった。平和がやってくる。凱旋パレードは、敵国や、中立国の中ではなく、自国に帰って来たときに行う者でしょうから、その香りを嗅ぐ者は、誰でも、胸を撫で下ろし、戦争の緊張が解けてほっと一息つくことを得させるような香りであったでしょう。使徒パウロはキリスト者たちはそのような香りを放つと言います。

 今日配られました逝去者の名簿を見ながら、私が顔と顔とを合わせて知っている方はほんの三人に過ぎないということに気付かされます。けれども、そのたった三人のことを思い出すだけでも、何と豊かな香りがするだろうかと私は思います。だから、私以上に、ここにいらっしゃるご家族、教会員にとって、ただ名前が載っているのみの名簿ですが、その一つ一つの香りのあるお名前が、それがこのような花束となって、目の前にある時、どんなにかぐわしい薫りを皆さんに嗅がせているだろうかと、それを想像するだけでうらやましくなるような思いがします。

 しかも、これが金沢元町教会の会員であったすべての逝去者の名簿ではありません。これは、野田山の元町教会聖徒の墓ができて以来のものでしかありません。本当は、もっともっとこの教会の先に召された方々を思い出すことができるのです。この会堂に閉じ込めておくことなどできない香りなのです。この会堂を離れて、その方がかつて生きた職場、地域、家庭、家族、友人、知人、親族、今はそれとは気づかなくとも、キリスト者としてその方々が生きた残り香が、今もなお、至る所で香り続けているのだと思います。たとえば、そのご家族の内にあって、直接、その信仰を受け継ぐようなことが今のところは、なかったとしても、その方々がキリスト者としてはなった残り香が、その家庭の内に、何代も何代もあり続けて、そこに今生きる人を、明るく平和にするために、働き続けるということはあるのではないかと思います。

 しかし、もしも、洗礼を受けたキリスト者だけがこのような香りを放つというのであれば、それは、少し、傲慢な言い方に聞こえてしまうかもしれません。人間は誰しも人それぞれその人自身から染み出る匂いというのを持っているのであり、生きている時も、死んだ後も、その人がその生涯において放ち、放った匂いというものは、その人と共に生き、生活していた人に、感化を与え続けるものだと思います。そして、キリストを信じる信仰に生きた人のみならず、仏教徒だろうが、無神論者だろうが、その人の放つ香りが、周りの人の心を明るくし、その人の死後でさえ、良い感化を与え続けるということはあると思います。

 私は晩年に信仰を与えられて死んだ父のみならず、キリスト信仰を持たなかった自分の祖父や、祖母のことを思い出しても、心が温かくなりますし、今も私の周りには、その人たちの残り香があって、大きな事に関しても、小さな事に関しても、その残り香を嗅ぐ中で、自然と、選び取っている言葉や行為があるなと思わされます。しかも、キリスト者として死ぬことが赦された父の放つ香りの方が、それが私にとってかけがえのないことではありますが、それにも関わらず、その信仰を持たずに死んだ祖父母の放つ香りよりも、良いと言い切ることはできないなと思います。もっとあからさまに単純に言い換えれば、信仰を持った父の方が信仰を持たなかった祖父母よりも、良い人間、あるいは好ましい人間であったということは、特段に思わないということです。すなわち、彼は、いい香りと共に、苦々しい香りも放っていると言わなければならない。一人の人が完全に好ましい人物だと両手放しで褒めたたえることができるような人はありません。

 ある人にはそうであったとしても、特にその人の近くに生きた人間、その人の家族として生きた人間、祖父母よりも、むしろ、その人を父母として持った人間にとっては、つまり、より近い人間にとっては、どうにもならないほどに苦々しい臭気を放ち、明るさと平和よりも、暗さと争いを選び取ってしまうときの、私を突き動かす影の力となってしまっていることがあり得ると思います。そう思わない人は、よっぽど恵まれているか、まだ自分を深く掘り下げていないだけなのかもしれません。そして、このようなことは、今日配られました名簿に載せられた79人の方々、また、載せられていない方も含めたこの教会の先達全員についても、言わなければならないことかもしれません。

 もちろん、私たちは優雅な批判者の立場に立っているだけではありません。まだ最終的な評価は定まっていないにしろ、今生きている私たちに対しても、洗礼を受けていようがいまいが、それぞれが隣人から受けなければならない評価であると思います。その意味では、私達も、この名簿に名前を連ねた信仰に生きた人たちも、別段、世界中の人間と変わるところなく、それぞれの生まれ持ってのパーソナリティーと、育った環境、受けた教育、人との出会いによって、いい香りと、悪い匂いが入り混じりながら、その独自の体臭を放つ存在であると思います。ある人には、命と平和をもたらす香りとして、しかしまた別の人には、死と不和を思い起こさせる香りとして。

 もちろん、私たちは生きている時も、死んだ後も、私たちのことを人が思い起こすときに、元気になってもらえるような人間、前向きな気持ちになってもらえるような人間となりたい。そんな香りを放つ者になりたいと誰しも願っていると思います。自分の知人たち、子どもたちが、この自分のことを思い出すと、勇気が湧いてくる、そんな香りを放ちたいと思います。けれどもこれが難しい。とても難しいことだと感じます。どんなに良い部分だけを見せて、他は押し隠そうとしても、結局は良さも悪さも、あるがままに自分を差し出す他のない、まさに、香りと言われるような無意識で放ってしまうような私たちの人格の溢れ出る部分に関しては、コントロールのしようがないというのが正直な所ではないかと思います。

 しかし、このようなあるがままの私たちをパウロは、「キリストを知るという知識の香りを漂わせて」いる存在だと言います。しかも、原文では、単刀直入に、「キリストの香り」を漂わせていると言います。私たちがいるところ、そこでは、好ましい人間が放つ香りどころではない。信者であろうが未信者であろうが、人間の好ましさという点に関しては、特段の違いはないにもかかわらず、キリスト者からは、神の独り子イエス・キリストの香りが漂ってくるとまで言うのです。

 それこそ、パウロは私たちがこれまで丁寧に思い巡らせてきたことを無視して、コリント教会に取り戻してほしいと彼が願っていたはずの自らの弱さ、無力さ、寄る辺なさを見失って、時にキリスト教会の陥ってきた罠である、評判の悪い傲慢に立って、ものを言っているのでしょうか?

 私はそんなことは絶対にないと思います。そして、ここで、注意深く読んで気付かなければならないことは、実は、香りを放つ主体は、人間ではなく、神であるということです。

 14節をもう一度お読みいたします。「神に感謝します。神は、わたしたちを勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香り(先ほど紹介した直訳ではキリストの香り)を漂わせてくださいます。」

 キリストの香りを漂わせるという述語に対応する主語は、「神は」であります。神が、キリストの香りを漂わせてくださる。その際に、私たちキリスト者を通じて、私たち抜きにではなく、私たちを用いて、それをしてくださると言っているのです。

 すると、どういうことになるのか?このままでは、まだ、色々な可能性がありますが、少し先回りして言うならば、キリストの香りというのは、私たちの正しさや、豊かさから匂ってくるものではなくて、私たちの罪や貧しさから匂ってくるものではないかと思います。私たちに匂い移りしてしまうほどの良い薫りを放つキリスト、かぐわしい香りを放つお方が、どこで私たちと出会ってくださり、どこで私たちと時を過ごしてくださったかと言えば、私たちの罪の中、私たちの貧しさの中以外ではないと思います。あるいは、悲しんでいる者は幸いであるとも言ってくださったこの方は、悲しみとしか言いようのない私の出来事を巡っても、そこを訪れ、御自分の場所とし、そこでご自分の香りを放たれると思います。

 そしてそれが神がよしとされること、たまたま偶然、場合によってはということではなく、神は私たちの貧しさ、悲しさ、私たちが滅びの香りを自分にも隣人にも放っている神の敵である罪人でしかない私の暗闇のところに、御子イエス・キリストを送られることを、唯一の御業、御自分の目当てとしてくださったのです。

 私たちは、「神は、私たちをいつも勝利の行進に連ならせ」と聞くと、もしかすると、私たちキリスト者は自分達を神の勝利の軍隊のメンバーとして、その兵士の一人として、その行進に連なっていると考えるかもしれませんが、そうではないと思います。多くの学者が指摘するのは、神が私たちを通じて、キリストの香りを放つその凱旋パレードにおける、私達キリスト者の位置は、敗残の捕虜の位置だと言います。我々キリスト者は、神の側に立って、キリストを将軍と仰いで悪魔と世と戦い、大手を振って凱旋する兵士の位置にはないと言うのです。そうではなく、神に攻め込まれ、キリストに敗れ、その行列の一番最後に、繋がれ引かれていく捕虜の中にいるのだと言います。

 これは、ここだけではない。パウロは神の救いに与った人間、教会に結ばれた者をしばしば神の奴隷、キリストに捕らえられた者と呼びます。また、同じコリント教会に宛てた手紙で、まさに、コリント教会員のエリート主義を叱責するパウロの言葉で、パウロは自分達、使徒のことをはっきりと、「死刑囚のように最後に引き出される者」、「世界中に、天使にも、人にも、見せ物となった」(Ⅰコリント4:9)存在だと言い切ります。人々が我々を見る時、何を見ることができるかと言うと、勝利した人間ではありません。人間の美しい可能性ではありません。神に負けた人間、キリストに打ち負かされた人間、人間の敗北を見るのです。この意味において、基本的には我々教会の存在、キリスト者の存在というのは、16節に不気味に語られる「死から死に至らせる香り」です。キリスト者というのは、人間の限界、人間の敗北を宣言する神の裁きのしるしそのものです。つまり、我々人間の行きつくところは神への敵対であり、隣人との争いであり、しかも、敗北です。神がその息つく先を見据えて告げる敗北ですから、徹底的な敗北です。

 しかし、このような自分の敗北、捕らわれ状態を語る使徒パウロの言葉は少しも暗くありません。明るい。その香りは神に捧げられる良い香りであり、同時に、その人間の敗北を告げる私たちにとっての死から死への滅びに至らせるはずのその香りが、命から命へと至らせる香りでもあると言います。

 不思議なことのようですが、今日名簿をお配りした、そこに名前を記された方々には、よくわかったことではないかと思います。つまり、この名簿に名前を連ねた方々が信じていたこととは、あるいは信じたいと願っていたこととは、私たち人間を打ち負かし、私たちに敗北を告げ、私たちを虜にされたお方が、私たちの救い主であるということです。

 人間にはできないことを神はおできになる。私たちは自分で自分を救う力はありませんが、私たちよりも強い神は私たちを救われるのです。そして、神が私たちを打ち負かすのは、私たちをキリストの虜とするのは、私たちを滅ぼしたいからではなく、救いたいためです。その為に、一度私たちに滅びを宣言し、それから御自分だけがお与えになることのできる救いをくださるのです。

 キリスト者とは、キリストの内に自分を徹底的に裁く死の香りを嗅いで、しかし、そのふさわしくない自分を生かすもっと強い命の香りを再びキリストから嗅がせて頂いた者のことです。自分の正しさ、麗しさから、キリストの香りを嗅げ、キリストの素晴らしさに気づけなどと、迫るような者ではありません。むしろ、我々の香りを嗅ぐ人に赦しを乞いながら、しかし、キリストを指し示すのです。

 あなたにとって死と争いの匂いを嗅がせてしまうかもしれない私を赦してほしい。それが、あなたにも匂い移りし、あなたを苦しめるかもしれない。だから一緒にキリストを見つめよう。この方は私たちを裁かれ、私たちを打ち負かし、虜とするが、それによって私たちを生かす。私と神の関係を、私とあなたの関係をそれから私と私自身の関係を癒してくださる。キリストを一緒に見つめよう。

 この世を裁くだけの福音、また、人間を肥大化させるだけの福音は、不誠実な福音です。混じり気のある福音です。キリストの本物の福音は、私たちを裁き、滅ぼし、しかしもっと大きく赦し、生かす福音です。私が神の赦しにふさわしくない5万の理由を持っているとしても、それ以上に、私たちを憐み、愛を貫く神の誠実が、私たちを生かします。

 そしてこの私たち教会が聴き、聞いたから語るこの福音を、ただ教会の中でのみ通じる真実ではなく、これを今耳にした全ての人にとっての真実、神もの御前での真実として語られ、聴いて良いのだと、代々の教会を通じて、神はお語り下さっているのです。

 つまり、キリスト者だけではない。私たちの鼻に残り、今も私たちを不自由にしてしまうことのある、あの人、この人の香り、この私の匂いを、キリストは全てお引き受けになっている。その罪と死の匂いを、飼い葉桶から十字架に至るまで、御自分の中に引き受けてくださっている。そして、御自分のお甦りの命で包み込んでくださっている。

 それゆえ、私達も、どんな人間の罪の匂いの中にも、今ではそこから漂ってくるキリストの香りを嗅ぐことができるようにされているのです。そのキリストの香りを世に先んじて嗅ぎ取り、証しする者として立てられた者、それがキリスト者であり、教会であります。

 

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