礼拝

12月11日主日礼拝

週 報 

説教題   真理はあなたたちを自由にする

聖書箇所 ヨハネによる福音書8章31節~38節 

讃美歌  7,245,25

もう、40年以上前に亡くなりましたが、カリブ海の音楽であるレゲエを生み出し、世界中で有名にしたボブ・マーリーという人がいます。

 

1979年、私が生まれた年に来日公演もしているので、1970年代に青春を過ごされた方は、覚えていらっしゃるかもしれません。

 

私の世代にとっては、既に最初から懐メロに数えられるミュージシャンですが、結構好きで、聴いてきました。

 

私が何でこの人を知ったかというと、意外に思われるかもしれませんが、学生時代に、ドイツの組織神学者のユルゲン・モルトマンという人の本を読むことによってでした。

 

モルトマンという神学者が、自分の組織神学の主著の中で、ボブ・マーリーの「三羽の小鳥」という曲の歌詞の一部を紹介していたのです。

 

訳詞では、こういう言葉です。

 

「ちっとも心配することないよ。だって、どんな小さなことも、きっとうまく行くから。だから、ちっとも心配することないよ。」

 

どういう文脈で、この一人の神学者が、ボブ・マーリーを紹介し、この歌詞を引用したのか、詳しいことはすっかり忘れてしまったのですが、それ以来、私の心にはっきり刻まれた理解、信念があります。

 

それは、キリスト教会のメッセージ、イエス・キリストの福音は、煎じ詰めれば、こういう言葉になるんだということです。

 

「ちっとも心配することないよ。だって、どんな小さなことも、きっとうまく行くから。だから、ちっとも心配することないよ。」

 

その神学書に書いてあったのか、あるいは、自分の日々のデボーションの中で見つけた言葉であったか忘れましたが、同じ時期に、もう一つの聖書の言葉に出会い、私の最愛の聖句の一つとなった言葉があります。

 

それは、先週より、教会祈祷会で読み始めたパウロの手紙、ローマの信徒への手紙の8:38以下の御言葉です。

 

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 

どんなものも、主イエスによって示された、主イエスによって結ばれた神の愛から私たちを引き離すことはできません。

 

つまりそれは、「主イエス・キリストがいてくださるから、ちっとも心配することないよ。だって、どんな小さなことも、きっとうまく行くから。」ということだと、私の心にはこの二つの言葉はセットで刻まれました。

 

そして、それ以来、これが、イエス・キリストの福音、良き知らせだと、受け止めています。

 

大丈夫、心配ない。うまく行く。

 

このような言葉を私たちは、キリスト・イエスを通して、神さまから語り聞かせて頂くのです。

 

また、なぜ、神さまが私たちを教会として集めたかと言えば、主は教会を通して、世に向かって、この言葉を語り聞かせることをお望みになるからです。

 

これは人を生かす言葉です。人を癒す言葉です。

 

今年の9月に私が最初に卒業したのと同じ神学校出身の関智征(セキトモユキ)先生が、私たちの教会の礼拝に出席してくださいました。

 

なぜ、この方が、私たちの教会の礼拝に出席してくださったかと言えば、私たちの教会の出身の、駿河敬次郎さんという100歳を超えて現役のお医者さんである方のドキュメンタリー映画を作るためです。

 

その駿河医師の足跡を訪ねて、金沢まで取材に来られたのです。

 

高齢のクリスチャン医師と言えば、数年前にお亡くなりになった日野原重明さんが有名ですが、関先生は、私たちの教会の出身の駿河医師をぜひ紹介したい。多くの人に知ってもらいたいと、一所懸命に、ドキュメンタリーの制作に励んでおられます。

 

なぜ、駿河さんを紹介したいのか?

 

自分はこの方に命を救われたんだ。周囲の人が匙を投げるほどの精神の病を負ってしまった時、この人の言葉によって救われたんだ。死なずに済んだんだ。

 

当時、99歳であった駿河さんからのこの一言によって、命を救われた。

 

「大丈夫ですよ。よくなりますから」

 

地の塩のように、目立たないけれど、しかし、多くの人を生かして来たクリスチャン医師がいる。

 

この人のことを紹介すること、それが自分の生きる目標だと関先生は仰います。

 

「大丈夫ですよ。よくなりますから」

 

この言葉、病の中にあった関牧師の主治医として語った言葉ではありません。駿河医師は小児外科が専門です。

ブログを読みますと、以前から交わりのあった、先輩として、良き相談相手として、後輩の病を見舞うために駿河さんが語った言葉であったように窺えます。

 

度々電話されて、「必ず良くなりますから」「心配しないでも大丈夫ですよ」「回復します」と、語られたようです。

 

主治医としての言葉ではありません。しかし、関牧師はその言葉を、天からの声のようだったと、回想されています。

 

それは、実際、天からの声であったと言って良いと私は思います。

 

私たち教会に託されているイエス・キリストを通して世に語られた天の父の言葉の変奏曲です。

 

一人一人のキリスト者が自分が生きるその現場で、自分の口、自分の存在を用いて、語るように、その歌を歌い聴かせるようにと私たちに託され、遣わされているその良き知らせ、福音です。

 

とても、ポジティブな明るい言葉を私たちは、託されているということになります。しかし、よく考えてみると、これは腰が引けるようなこと、とても恐ろしいことのようにも思えます。

 

なぜ、こんな祝福を私たちが告げることが許されるのか?それは安請け合いではないか?平安のない所に、平安、平安と、神さまの祝福を安売りする偽預言者になってしまいはしないか?

 

そのようなことを恐れ、心配するのに、心配し過ぎるということはないと思います。

 

問われる前から答えを用意して待っている紋切り型のロボットのように、祝福を告げるわけにはいきません。

 

主イエス・キリストの祝福を託された私たち教会も、いつでもどこか、途方に暮れています。

 

痛みと苦しみを、すっかり解決してしまった人間としてではなく、現在進行形で抱えている当の人間として、自分がなすべきこと、語るべき言葉に詰まっているというところが当然、あります。

 

判断し、裁く側ではなく、自分もまた、判断され、裁かれる側であることを、祝福の言葉を託されている教会も、この世と共に、共有しているのではないか?そう思います。

 

しかし、むしろ、私たち教会もまた、普通の人間の普通の痛み、自分ではどうしようもない痛みを抱えながら、それでも、「ちっとも心配することないよ。だって、どんな小さなことも、きっとうまく行くから。だから、ちっとも心配することないよ。」と言えるところに、神さまがわざわざ私たち教会を召された意味があるかなと私はそう思います。

 

そしてなぜ、そのような同じように弱い私たちでありながら、問題、課題を抱え続ける世にある隣人に向かって、「ちっとも心配することない、きっとうまくいく」と言えるのかと言えば、主イエスが、この私たちの、そして全て造られたものの、本当の主人でいてくださると信じるからです。

 

何でちっとも心配することがないのか?何でどんな小さなことでもきっとうまくいくと言えるのか?

 

主イエス・キリストが私たちを自由にしてくださるからです。主イエス・キリストこのお方が、私たちを押しつぶそうとする全ての力から、私たちを解き放ってくださるからです。

 

今日お読みした聖書箇所は、一つづつの言葉を追って理解しようとするならば、非常に難しい個所です。

 

急いで読み進めてしまうと、色々と誤解をしてしまう個所だと思います。

 

今更ですが、複数回に分けて読んだ方が良かったかなと思わないでもありません。

 

けれども、皆さんに代わって一週間、聖書を読み続けるよう委託を受けて、立たされている者として、最終的に受け取った部分だけを、お分かちいたします。

 

今日の箇所によって、神は、私たちに次のようにお語りになりたいのだと、信じます。

 

私たちの信仰がいかに弱くとも、その私たちの信仰の弱さが31節で、主イエスを信じたというユダヤ人と変わらないような信じ方、すなわち、信じたと言われるにも関わらず、その歩みを突き詰めて行くと、結局、37節で「あなたたちはわたしを殺そうとしている」と、主イエスに突きつけられてしまうような信じ方しかできない私たちだとしても、私たちは本当に自由にされるのです。

 

信じているようで信じていない人間、その内に主の言葉を入れる余地がなく、罪の奴隷である人間、38節が語るように、神の子、主イエスとは全く違う存在、主イエスとは別の父から聴いている人間、次週読むことになる44節に、結局、悪魔を父として持ってしまっているその人間が、本当に自由になるのです。

 

自由になるとは、今日の箇所の別の表現によれば、主イエスの言葉の内に留まる人間、主イエスの弟子となる人間、いつまでもいつまでも神の家に留まる人間、神の子とされる人間ということです。

 

32節で主イエスは、真理を知ることによって人間はこのような自由な人間となると仰います。

 

真理があなたたちを自由にすると言います。なぜ、真理が私たちを自由にするのか?どのような自由を、どのように与えるのか?

 

ここでも、長く複雑な議論の紹介は避けたいと思います。

 

結論だけ申します。

 

その真理とは、本を読んで得ることができるような知識としての真理ではありません。

 

悪魔を父として持ってしまっている罪の奴隷を本当に自由にしてしまうその真理とは、36節で、主イエス御自身によってはっきりと言い換えられています。

 

「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

 

罪の奴隷を自由にする真理とは、子であります。すなわち、御子イエス・キリストのことです。

 

やがて、この福音書を読み進めて行く中で、御自身のことを、「わたしは道であり、真理であり、命である」と紹介される御子、生けるイエス・キリストご自身のことです。

 

だから、あなたたちが真理を知るとき、その真理はあなたたちを自由にするとは、御子イエス・キリストを知ること、知識として知るのではなく、この方と出会うこと、深く深くこの方と知り合うこと、この方が、この私たちの主人であられることを肚の底から知るようになるということです。

 

だから、32節の、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という主の御言葉は、文字通り、このまま受け取って良い言葉です。

 

つまり、主語は、真理、真理であるイエス・キリストなのです。

 

私たちを自由にするのは、私たちが真理を知ることにかかっているのではなく、私たちが主イエスの言葉の内に留まり続けることにかかっているのでもなければ、私たちが私たちの内に主イエスの言葉のための余地を作ることにかかっているのでもありません。

 

私たちを自由にするのは、真理です。真理が働いて罪の奴隷を自由にするのです。道であり、真理であり、命であるとご自分をご紹介されるイエス・キリスト、御自らが、私たちを自由にするのです。

 

もう一度、言い直します。

 

主イエスが来られて、私たちを助け出してくださるから、ちっとも心配しなくていいんです。どんな小さなことも、きっとうまく行くんです。

 

だって、死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないんです。

 

今日のところで、主イエスは、私たち人間が罪の奴隷だと仰います。そればかりか、私たちの父は悪魔だと仰います。

 

主イエスは、いい加減なことを仰いません。主イエスが仰るならば、そうなのです。

 

このような私たち人間であることをよーく知っておられるお方は、私たちが、主の御言葉の内に留まることができない者達であること、罪の奴隷であることもまた、よーくご存じです。

 

罪の奴隷であるということは、私たちが主の言葉に余地を持たない、主の言葉にどうしても留まれない者だということと一つのことです。

 

悪魔を父として持罪の奴隷は、どうあがいても、正しい道を歩めない。自分で自分を救うことはできないのです。

 

だから、私たちが自由になるためには、たった一つの可能性があるだけです。

 

罪と悪魔よりも強い、真理そのものであるお方が、私たちを自由にしてくださる、このことだけです。

 

そして、主イエス・キリストの十字架の救いの出来事というのは、悪魔と罪の奴隷であった私たちを買い戻すものでもあったと教会は代々語ってまいりました。

 

特に今日、皆さんと是非、分かち合いたいと思ったのは、このことを巡る改革者ルターの理解です。

 

現代のルター学者が、私たちが主イエス・キリストによって救われたということ、主イエスによって罪の奴隷から解放されたということはどういうことなのか、ルターという人がどう表現したのか、たいへんわかりやすいたとえで次のように紹介しています。

 

その学者は、ルターはそれを馬車のたとえで語ったが、我々はそれを自動車のたとえに変えて聴き取ろうと語り始めます。

 

ルターに至るまで、ほとんどの人が、私たち人間はまるで自動車を運転するドライバーのように考えてきた。

 

人生という車のハンドルを握って運転するのは私たち人間であり、神の戒めというのは、それぞれの人生の運転手である私たちにとっての道路交通法のように考えられてきた。

 

交通規則である神の戒めを守って安全に目的地まで運転するのが、人間の一生なのだと。

 

その際に、頼りない私たちのために、自動車が無料で与えられ、故障も無料で修理され、ガソリンも同じように無料、これが神の恵みだと理解されてきた。

 

神の戒めが守れるように、色々な無償の助けが与えられるけれども、運転するのはあくまでも人間。

 

人間は、安全運転を心がけても、スピード違反や、一時停止の見落としなど、小さな違反を繰り返す。それも許されながら、少しづつ、運転技術が向上していく。

 

ところが、ルターは、おそらく教会の歴史始まって以来、このたとえをひっくり返し、人間は運転手ではなく、実は、自動車自身だと言ったというのです。

 

つまり、神さまの恵みというのは、人生という自動車の運転手である人間が、神さまから地図や、ガソリンや、自動車の整備などの無償提供を受けて、安全運転をして目的地を目指すことではない。

 

そうではなく、自動車である人間の運転手、そのハンドルを握る者が、悪魔から、キリストに変わったということが、神の恵みだと理解したのです。

 

悪魔が運転しているときは、どんなに安全運転であっても、行き着く先は破滅でしかなかった。

 

けれども、それに代わってキリストが運転するならば、どんなにガタガタ道を走ることになっても、必ず、祝福に至る。

 

救いというのは、キリストが運転席から悪魔を突き落とし、それ以来、キリスト御自身がハンドルを握ってくださることなのです。

 

このキリストが、私たちの人生のハンドルを握っていてくださるのだから、恐れることはない。大丈夫だと、改革者ルターは、語ったのです。

 

今日の36節の主の御言葉、「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」というのは、このことを言うのです。

 

実に、キリスト者とは、キリストのものという意味です。キリストに所有される者ということです。

 

それゆえ、私たちは、この主イエスの声に合わせて、このように自分自身に向かって、語ることができます。

 

「大丈夫、心配ない。うまく行く。」

 

キリストが、私たちの人生の主であり、責任者であられるから、どんなでこぼこ道を通っても、最後には必ず自由になる。祝福に至るのです。

 

そして、私たちが、イエス・キリストの父なる神こそが、天地万物の主であり、所有者であられることを告げることを教会の使命と信じるならば、それは同時に、キリストの出来事に支えられながら、「大丈夫、心配ない。うまく行く。」と、隣人に向かって語るよう、召されているということでもあるのです。

 

この世界は、歴史は、私たちは、天の父の伸ばされた両腕のようにクリスマスと再臨の主イエスの二つの到来に包まれて、今この時、あるのです。

 

祈ります。

 

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