礼拝

2021年1月3日(日)礼拝

週報

説  教  題  「主が生きることを望んでくださる」 
聖書個所  詩篇130編
讃  美  歌    174(54年版)

主の年、2021年、明けましておめでとうございます。

 年改まりと言えども、私たちの生活は直ぐに新しくなるわけではありません。昨年に引き続き、不自由な日常生活、礼拝生活を余儀なくされています。今日も、讃美歌を減らし、聖餐を見合わせなければならなくなりました。

 けれども、こんな時、私がいつも思い出すのは、ハイデルベルク信仰問答と呼ばれる500年の間、プロテスタント教会で広く用いられてきた信仰問答の、問127の問答の答えの言葉です。「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください」という言葉です。

 この金沢でも、しばらく働かれた宣教師であったトマス・ヘイスティング先生が、神学校の授業を始める祈りの度に、こう祈っていました。「主よ、私たちの生涯にもう一日を加えてくださってありがとうございます。」ハイデルベルク信仰問答が告白するように、ありのままの私たちが、自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできない者であるならば、そのような私たちが今日崩れそうでいて、崩れずに、朝を迎え、今日生きているということは、恵みによるということです。

 惰性で続いている命などではありません。私たちを生かしたい、私たちに生きていてほしいと願われる神がいらっしゃるから、私たちは生きている、この世界は保たれる、そのような神の良い意志とまなざしの中にある我々の命と世界だと、キリスト者は信じています。つまり、私たちが信じているのは、必要とされていない者はいないということです。私たち自身がもう、生きる意味が分からない、自分の存在意義はもう終わっていると、思い込んでしまっているとしても、それは誤った思い込みにすぎないということです。

 ほんの一時、自分自身の力で立っていることはできない、その私たちが今ここにあり、この瞬間、存在しているというのは、「今日、あなたに生きていてほしいんだ。私があなたを生かす。」という神の願いと、力の行使があり、それが私たちをここにあらしめているから以外ではありません。

 旧約エゼキエル書1832にこういう言葉があります。「『わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」聖書の神様、主なる神様、この天地を造り、私たちを造られた天の父なる神様は、私たちが生きることを望んでいてくださるのです。私たちが生きることは、主なる神様の御心であります。

 このようなキリスト者の信仰は、楽観的過ぎるでしょうか?しかし、私たちが主なる神の「私はあなたが生きることを望む」という言葉が聞き、そしてまた、その神の御声を私たちがこの自分事としてはっきりと掴むことができるようになる場所とは、今日与えられました詩編の言葉が語るところによれば、「深い淵の底」であります。私たちが主なる神様の「生きよ」と私たちに向かって呼びかける言葉に出会うのは、祝福に満ちた何の脅かしもない幸福な状況の中ではなく、また、家内安全、商売繁盛、学業成就、無病息災を祈り願うだけの可能性があるところではなく、そのような望みが潰えた「深い淵の底」であります。

 この「深い淵の底」という言葉は、原語では、「深い、深いところ」と、私たちがここが底だと思う、よりもさらに先の底を表している言葉であり、だから、「底なしの深み」と訳す者もいるような言葉が使われています。それは、当時の世界像にあっては、陰府、すなわち、地獄を意味する言葉であると言います。神様から一番遠い、神様の光が射さない、神様との交わりが断たれた場所、それが「深い淵の底」です。

 この言葉一つだけでも、聖書の信仰というものが、幸福な人の幸福を裏付けてくれたり、不確定な未来に安心安全な保障を与えてくれるようなものではなくて、まさに、「神も仏もあるものか」と、私たち人間が吐き捨てるように、言わざるを得ないような場所、神について、信仰について、考える余裕もないところを自分の場所としているものであることがわかります。

 このような深い淵の底、地獄の経験というものは、何も少数の人が、不運にもたまたま経験するような特別なものではないとある人は言います。それぞれ自分自身の人生を歩みながら、「要するに人生とはこんなものである!」と、自分に言い聞かせている者たちは皆、この「深い淵の底」にいるのだと言います。たとえ、その人が今、外面的には、陽気に、元気に明るく振舞っていたとしても、私たちの誰もがもう後戻りできない、やり直すことはできない、取り戻すことはできない、もう変えることはできないものとして確定してしまった苦しみと悲しみを心の内にひっそりと抱え込む者として、私たちは自分の内に深い淵の底を持っているのです。

 たとえ、神を信じ、神に祈ることを知る者であっても、その深い淵の底からは神に祈るということは思いもよらないし、そこでは、どんなに敬虔な人であっても実質は無神論者であるということは、ありうることだと思います。なぜならば、そこは、陰府であり、陰府とは、神から最も遠いところ、神の光が射さないところ、神がその目をお止めにならないところ、神なきところを言うからです。

 けれども、そこで奇妙なことが起こりうるのです。詩編130編はその奇妙なことが起きた人間の記録であります。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」神がいないところで神を呼ぶ人間の声です。これはおそらく、この人の祈りの第一声ではなかったと思われます。何かしら、耐え難い経験が起きて、私たちがそうするように、神に向かって祈り始めた言葉ではありません。おそらくそのような祈りはもう十分捧げたのです。そして、とうとう、その祈りが尽きるところ、もはや、ここに神はいない、たとえ、別のところに神はおられたとしても、ここだけは、神はおられない、その御顔の光はここまでは届かない。ここは神に見捨てられた地点であるという深い淵の底、陰府を経験するところについに至ったのです。本来旧約聖書の定義において、陰府とは、そこに至れば、もう誰も神を呼ぶことはできない場所、神を呼ぶ声が途絶える場所だからです。たとえば、同じ詩編の66には、「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません」とあります。陰府では、祈りの言葉は絶えるのです。神を呼ぶ声はもう上がらないのです。

 ところが、この詩編第130編では、深い淵の底から上がるはずのない神を呼ぶ声が上がるのです。信心深さとか、魂の強さとか、そういうものが意味をなさないブラックホールである陰府からは上がりようのない主なる神を呼ぶ声が上がっているのです。この詩編の祈り手の行為は、奇妙なことであり、無意味なことをしているとある人は言いますが、私は、それどころか奇跡が起きていると言いたいと思います。

 深い淵の底から、神を呼ぶ声が上がるというのは、この人が現実認識が甘かったからではありません。この人は、3節の言葉からも、神の前に耐ええない、立ちえない自分であることをよく知っています。つまり、ここで自分が経験している深い淵の底は、逃れるすべなく、自分がどうしようもなく引き受けなければならない、神なしに過ごさなければならない地獄であることをよく認識しているのです。ところが、その神なきところ、神が出会えるはずのないところで神を呼ぶ声が上がりました。

 なぜでしょうか?なぜ神なき場所で、上がるはずのない声が上がったのでしょうか?それは、この神が、4節、赦しの神だからです。主なる神は赦しの神であられるからです。今日の詩編は、新約以前、イエス・キリストの出来事以前に語られる言葉でありながら、神が罪の赦しの神、私たちに赦しを与えてくださる神であることが、いったいどういうことであるかを、鮮やかに教えてくれるものであると思います。「しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」信仰、神を呼ぶ声というのは、赦しから始まるということです。そして、聖書の神が赦しの神であるというのは、この神は、いないところにいる神だということなのです。神がいらっしゃることを望むべくもなく、神を信じない者どころか、ありきたりの無神論者によってではなく、神を信じる者をしても、神を信じたいと心から願っている者をしても、「ここには神はいない」と、「ここは神が見捨てられた神なき地点」と言わざるを得ないところで、人間と共におられる神だということです。

 私が時折名前を出すルドルフ・ボーレンという神学者の『天水桶の深みにて』という、翻訳された書物があります。学者として駆け出しであったころ、大学でその独特な神学が、やり玉に挙げられ、四面楚歌の状況で、親しい知人も、友人もいない中で、妻が心を病んでいきました。状況が落ち着いても、何年たっても、その時病んだ妻が完全に回復することはなく、自死に至ってしまいました。そこから、この実践神学の教師であった魂の専門家であるこの先生が、15年の時を費やして、自分の魂を癒す手段を得て、さらにそこから15年を経て、重い心の病を抱える者の家族のために、また当事者の助けになるようにと書いたのが、『天水桶の深みにて』という書物です。キリスト者、説教者、牧者、実践神学者、そして詩人としての全てが凝縮したような文章で、決して読みやすい書物ではありません。けれども、この題名だけでも、色々と考えさせられます。

 天水桶の深み、陰府に通じる水の底です。そこに落ちたならば、誰にも見つけてもらえない。声も届かない。孤独な場所です。けれども、天水桶です。天から降り注ぐ雨を受け止めるものです。そのような暗い水たまりの深みにも、天は開けているのです。明るいイメージです。

 けれども、翻訳者によると、原題は、地下にある深い穴倉である水溜のことを意味しているそうです。確かにそこは天から降り注ぐ雨水をためるところには間違いがない。けれども、天からわかりやすく直接的に恵みが与えられるのではない。むしろ、閉ざされた穴倉の底からじわりじわりと地下水となって恵みが染み出てくるようなイメージだということだということです。

 今日はまだ私たちは、クリスマスの期間を過ごしていますが、この書の最後に、ボーレン先生が、クリスマスの季節に語った説教が付録として、付いています。そこで、「本日、私は、降誕祭を迎えようとしながら、こころが重くてつらい思いをしていおられる方たちのために語ろうと思います・・・つまり、私自身のために語ろうとしているのです」と語り始め、そこで、クリスマスの出来事にこそ、目を向けて行きます。

 「重いこころの病、それは、世界に向かう勇気をもはや持たないことです。神に向かう勇気をもはや持たないことです。重いこころの病に病む者は歌いたくありません。歌うことができません。口は絆創膏を貼られたままです。・・・だがしかし、神ご自身が、ご自身に属するキリスト者の群れの口を封じられたとは、私は信じません。・・・賛美の言葉、感謝の言葉、喜びを語る言葉が、私どもにとって、異国の言葉になってしまいました。しかし、それは、私どもが神から遠ざかり、無縁の者になったということであり、神が私どもから遠ざかっておられるということではありません。神は、降誕祭をもう一度引っ込めることはようなことはなさいません。それは不可能です。降誕祭がなかった昔に戻ることはできません。インマヌエル、〈私どもと共にある神〉を否定することはできないのです。」

 

少し長く引用しました。ボーレンは、私たちはたとえ信仰者であっても、まるで神ご自身が私たちの賛美の息の根を止めてしまわれたかのような地獄のただなかにいるような思いになることがあることを認めます。この説教を語る自分自身がそうなのです。けれども、ボーレンは、それは、我々が、学び損なっているだけだと言います。神が遠いなどとは信じないと言います。イエス・キリストの誕生において、インマヌエル、私どもと共にある神は、もう後戻りしたり、引っ込めたりすることは、神にもできないと言います。

 今日、私どもが聴いた詩編第130編を左近淑という旧約学者も、クリスマスの信仰の秘儀が込められた詩編として読み解いています。新共同訳の翻訳には残念ながら現れませんが、この詩には、4節と、7節に、合計3度、「共に」という言葉が隠れていると言います。この詩編の作者、祈り手は、神に向かって祈りながら、神を語りながら、神よ、「あなたと共にあるのはゆるし」、「彼と共に愛があり」、「彼と共に豊かな贖いがある」と語っていると紹介しています。

 主なる神様が、赦しの神であり、愛の神であり、贖いの神であられるということは、インマヌエル、私どもと共におられる神だということだ。聖書の神は、神なきところにおられる神だ。

 そして、このことは、やはり、なお、暗い天水桶の底にあって、天の光の差し込むわずかな隙間を必死にもがきながら、私たちが探し求めて見出すものではなくて、暗い地下の水貯めの底に打ち沈みながら、しかし、壁から染み出てくるような静かな仕方で、傍らにある神の恵みに出会うのだと思います。

 いつでも私たちの傍らにある神の恵みとは、私たちのために貧しい飼い葉桶に生まれ、十字架で肉を裂き、血を流してくださった御子、「わが神、わが神、なぜ、私をお見捨てになったのですか」と嘆いてくださった神の独り子のことです。この私たちの地獄の中に来てくださったキリストがすでに共にいますから、私たちの口から決して取り去られることのない、神を呼ぶ声が必ず与えられるのです。

 今日ここでも「生きよ」と、キリストにおいて私たちの深い淵の底で呼びかけてくださる神に向かって、私たちも「わが神よ」と、そのお名前を呼ぶことが許されているのです。

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