礼拝

3月21日(日)礼拝

週報

説  教  題  「御心に適った悲しみ」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ7章5節から10節まで
讃  美  歌    249(54年版)

今日は予告よりも少し長い個所を司式者に読んでもらいました。既にお聞きになりながら、お気づきのことと思いますが、ちょっと区切るわけにはいかない一つの話を使徒パウロはしています。長いので、今日と来週、二回にわたってお話ししますが、この個所の話題を簡単にまとめるならば、コリント教会とパウロの間にあった対立がコリント教会の反省によって解消され、今は心が通じ合ったことの喜びをパウロが表明しているということです。

 この箇所を今日お読みになって、お聞きになって、少し意外な思いになられている方もきっといらっしゃると思います。というのは、私たちは今日の所に至るまで、使徒パウロとコリント教会の間に生じてしまった対立、同じ福音に生きているはずなのに、その福音の捉え方、聞き方の微妙なずれが、どんどん大きくなってしまって、収拾がつかなくなってしまって、どうやったら真の福音に立ち返ってもらえるのかと、パウロが一生懸命語りながらも、悩んでいる状況を見てきたからです。もちろん、先週の個所では、ひどく悩んではいるのだけれども、失望はしていないし、諦めてもいない。疑いを解消できない歯がゆさに、悩みつつも、コリント教会が必ず心を開いてくれることを信じる、教会への深い信頼に生きるパウロの姿が、明らかにされました。しかし、やがて、心を開いてくれるという深い信頼に生きつつも、今は、「わたしたちに心を開いてください」と語らなければならなかったのです。

 けれども、今日の5-16節では、両者の和解がすでに実現してしまっているように見えます。8節に、「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。」とあります。パウロの語るところの「あの手紙」によって、コリント教会は自分達の過ちに気づき、その罪を悲しみ、悔い改め、立ち直ったと言っているのです。コリント教会が、パウロの言葉にとうとう心を開いたというのです。

 なんだか直前までの個所とは、矛盾することを言っているのです。これは既に何度もお話ししていることですが、こここそが、コリントの信徒への第2の手紙というものが、パウロが別々の時にコリント教会に宛てて書いた何通かの手紙が、ごちゃごちゃに入り混じってしまっと考えられるきっかけとなった典型的な箇所の一つなのです。

 あまりややこしい話はしたくありませんが、ここまでの所で、おおむね二つの手紙が混じっていると考えられます。一つはまだコリント教会とパウロの関係がいまだ改善に至らず、その改善に向けてパウロが一生懸命書き送っている箇所です。これは2:14-7:4までの部分ですが、そこでは、パウロは自分が使徒であることを一生懸命弁明しているので、「使徒職弁明の手紙」と呼ばれます。もう一つは、関係が回復した後に、パウロがそのことをも振り返りながら、書き送った手紙です。

今日読んでいる個所は、後者の関係が回復した後に書き送られた手紙の断片であると考えられています。これは、一般的に「和解の手紙」と呼ばれ、1:1-2:13からと、飛んで今日の個所7:5-7:16までを含むものとされます。

 そして、少し先走るようですが、第10章は、また別の手紙で、7:4までの使徒職弁明の手紙とも違う、内容的には、もっともっと激しい、対立がぎりぎりのところまで行ってしまっている戦いの手紙、一般的に「涙の手紙」と呼ばれる部分です。

 ちょっと脱線いたしましたが、少しこのことを頭に入れておかないと、コリント教会への第2の手紙というのは、飛躍や矛盾がありすぎるように見えて、読めなくなってしまう。それは、実は、こういう事情によるということを思い出していただいて、ご自分でお読みになるときの参考にして頂ければと思います。そういう事情がありますから、少し大胆な試みとして、この手紙を再構成して、予想される年代順に並べ直すという試みをしている聖書翻訳もあります。岩波書店が出している聖書翻訳は、その方針でやっています。すると、今日の部分は、三番目に並べられます。

 けれども、どの時点で入り混じってしまったかはわかりませんが、教会に伝えられてきた聖書は、このごちゃごちゃのままのものであります。確かに筋を負って読もうとするととても理解しがたくなる部分があります。とうてい、ある意図をもって再構成したとは思えない部分もあります。しかし、意図的なことではないにしろ、パウロと教会の間で誤解と論争が続く言葉を読み続ける中で、突然、和解した後の手紙を読むことができるというのは、なんだかほっとできることです。無視できない対立が続くけれども、やがて必ず一致に通じるという先週の箇所で見たパウロの信仰に基づく希望が、やがて事実となったのだということを、突然見ることになるのです。まるで、波乱万丈どうなってしまうかわからない小説の途中で苦しくなって、最後のハッピーエンドの部分をのぞき見したような安堵を与えるものであると思います。そんなことをすれば、小説ならば、つまらなくなってしまうところでしょう。けれども、この手紙をこの私たち自身に語り掛けていてくださる神の言葉であり、コリント教会の姿は、そのまま私たち自身の姿であるのだと、第三者ではなく、自分事として聖書を読むようにといつでも招かれている私たちにとっては、ありがたいことでもあると思います。コリントの信徒への手紙Ⅱが、ごちゃごちゃに入り混じったような手紙であることは思いがけない歴史の偶然であり、もしも、こんな言い方が許されるならば、これは、もしかしたら、神の御配慮であるとさえ言うことが許されるのではないかと思います。

 どんなに迷っていても、どんなに福音がわからなくなっても、どんな問題が教会に、また私の個人的な信仰生活の中に沸き上がったとしても、大丈夫。必ず、良い所に至る。何の害も受けずに済む。悲しんだこと、苦しんだことが、私たちにとって、本当に良いことだったんだと、喜び合えるようになる。コリント教会がそうであったように。

 第2の手紙におけるどうしようもないほどのパウロとコリント教会の対立の深まりは、ここまで読んできても、まだ頂点に達していません。まだ、厳しい厳しい第10章が残っています。けれども、希望なしにそれを読むんじゃありません。和解はなるのか、ならぬのかと心配しながら聴くのではありません。もう、今日の所で、現実のものとなった和解の事実を知りながらだけ、それを読みます。だから、コリント教会の問題を単なるコリント教会の問題ではなく、この私たち自身の福音に対する誤解を衝く、私達に向けられた生ける神の言葉であるとどっぷりとのめりこんで聞いたとしても、私たちが神に教えられ、心と信仰が揺さぶられ、悲しくなってしまったとしても、その悲しみは滅びに至るものなんかじゃないんです。

 滅びに至るこの世の悲しみと、取り消されることのない救いに至る福音の悲しみという二種類の悲しみがあるとしても、この第2の手紙を自分事として神さまが聞かせてくださって、私たちへの神の言葉として読み進める中で、当然湧き上がって来ることになる悲しみが、滅びに至るものか、取り消されることのない救いに至るものであるかなどと、心配する必要なんかありません。必ず悔い改めに至ります。必ず喜びに至ります。必ず救いに至ります。その取り消されることのない救いの現実の上で、今、悲しむべきことを悲しむ。悔い改めるべきことを悔い改めるよう神がお招きになっているのです。そういう招きが、このありのままのコリントの信徒への手紙Ⅱの形そのものからも響いてくるようです。

 福音というのは良き知らせという意味です。祝福の音です。聴けば嬉しくなる。聴けば、救われる。でも、これまでの所を聞きながら、よく知らなければなりません。福音を聞く者にもたらされる喜び、福音を通して神がわたしたちに与えてくださる唯一無二の喜びというのは、単純なものではありません。誰が聞いても誰もが、これは喜びだと直ぐに言えるようなものではありません。一時は、悲しみをもたらすものでもあるのです。躓きをもたらすものでもあるのです。

 ある説教学者は、私たち説教者に、あるいは私たち教会にこういう大切なことを思い出させる言葉を残してくれています。キリストへの信仰を言い表す人が少ない。教会が盛んでない時代を過ごさなければならない時というのがある。そんな時、自分たち教会の語る言葉が説教の言葉が、その時代の人には通じないような前時代的な言葉になってしまっていることを点検しなければならない。言葉がすり減ってしまって、単なる宗教臭い陳腐な言葉になってしまっているのではないかということを疑わなければならない。それでもう一度新しく、福音に聞き直し、生きた神の言葉を取り戻さなければならない。そのための反省と努力を教会は、説教者は惜しんではならない。

 けれども、ここからが大事です。そのようにして、福音が再び、神の生ける言葉として、人の心に真っ直ぐに届くようになるならば、人は喜んでキリストに従うようになるのではない。人は福音に躓くようになる。福音が真っ直ぐ届いたとき、人は躓き、悲しむんです。そういうものなんです。けれども、その躓き、その悲しみは、神の御心に適った悲しみであり、取り消されることのない救いに通じるのです。私たちを悔い改めさせ、立ち直させるのです。

 一度聞いて以来、ことあるごとにそのタイトルを思い出し、それだけで慰められている本のタイトルがあります。青山学院大学のチャプレンをしている塩谷直也先生の『迷っているけど着くはずだ』という本です。

 私たちの信仰を言い表す言葉だと思います。悩みも憂いも、迷いもないなんて信仰ではないのです。だって、良き知らせである福音そのものが、躓きをもたらし、悲しみをもたらすものでもあるからです。でも、必ず目的地に着くのです。

 パウロは少なくともそう理解しています。福音のもたらす躓き、悲しみは、一度は、私たちを喜びから大きく遠ざけるように見えても、自分だけじゃありません。隣人にまで溢れて及ぶ、慰めと喜びをもたらすものとなります。本当の元気を作り出すものなのです。なぜならば、私たちが躓いたとしても、悲しんだとしても、もう、神さまが、私たちを捉えていてくださるからです。あなたは私のものだと私たちを固く握って離されないからです。だから、信仰の道がどんなに狭く険しい道であるとしても、何度も何度ももう一度やり直すことになるようなものであっても、力尽きてもうおしまい。挫折して、広い滅びの道に落ちるなんてことはありません。躓かせる神さまが私たちを固く握ってもう離さないからです。その結末はついているのです。私たちの命は、キリスト共に、神の内に既に隠されています。ホリーポッターの著者、ローリングが、結末は早い段階で書き上げて、金庫の中にしまっておいたというように、もう最後のページはハッピーエンドとして書かれ、神の内に守られています。

 それが先週7:3を紐解きながら聞きました、聖霊なる神様がすでに私たちを神の神殿としてお住まいになってしまっているということであり、また、私たちは既に、キリストに結び合わされて、その死と復活に与っているということであります。

 たとえば、このことを、パウロのさらにイメージ豊かな表現で言い直すならば、フィリピの信徒への手紙第3章で語った言葉、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。」という信頼の言葉を思い出しても良いのです。

 私たち人間は2000年前に既にキリストに捕えられているのです。あの十字架において、私たち人間は買い取られているのです。キリスト者というのは、キリストの所有という意味です。キリストに所有された者が、今度は世に遣わされて、まだそのことを知らず、認めてもいない人間仲間に向かって、「あなたがたはキリストに買い取られ、神の所有とされている」と、自分が聴き、認めたことと、同じことを告げるのです。

 そして私たちは、このように私たちをがっちりと捕まえてくださり、逃がすことのない憐みの神の支配のもとに、安心して躓き、安心して悲しみ、うろうろよたよた、ごちゃごちゃ、ぐるぐる、歩んで行けばいいのです。悲しむべきを悲しみ、悔い改めるべきことを悔い改め、一歩一歩神の導きのもとに歩んで行きます。その遅々たる歩みが、少しも進んでいるようには見えなくても、捕えてくださる神が、私たちを迎えに来てくださるのです。そして、この時代においても、また来るべき終末においても、神は必ず私たちを、取り消されることのない喜びへと、良い場所へと私たちを導いてくださいます。だから、大丈夫です。そういう前味を、神がこの世においても、わたしたちに味わわせてくださる約束としての今日の御言葉であると思います。

 そこからもう一つ教えられることは、私たちはこの道を一人で行くのではないということです。ここで語られているのは、パウロ一人の完成ではなく、和解なのです。だから、ここにいる全ての者たちと、まだここにはいない隠されている神の者たち全てと、主イエス・キリストの父なる神の名において、互いを誇り、喜び合う命へと、後の世だけでなく、今ここにおいても、ここでこの教会で生かし始めていただくのです。

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