礼拝

7月24日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  どうしたら信じられるか 大澤正芳牧師

聖書個所  ヨハネによる福音書第5章41節~47節

讃  美  歌    277(54年版)

「どうしたら信じられるか」という説教題を付けました。

 

一人の人が主イエス・キリストに対する信仰を言い表すようになるためにはどうした良いか?

 

私のような牧師が問い続けていることでもあるし、教会員皆が問い続けていることであるし、そればかりか、道を求めて教会の門を叩いた求道者自身が問い続けている問いでもあるでしょう。

 

信じたい、信じられたらどんな良いか、牧師として私はしばしばそのように吐露する求道中の方の告白の言葉に出会ってきました。

 

信じたい、信じようと一所懸命に自分にも言い聞かせようとする自分がいる一方で、それは本当だろうか?と冷静に手綱を引き締める自分がいます。

 

そんな時、私のような牧師がよく言うことは、信仰とは決断ですよ。思い切ってその中に飛び込むことからしか始まりませんよということであるかもしれません。

 

それは確かにそういうところがあります。

 

家の周りをぐるぐるしていたって、一体全体中で何が行われているか?中で何が待っているかは、分かり切ってしまうことはありません。

 

その家から出てきた人を捕まえて、丁寧に話を聞いても、聴くと経験するでは全然違います。

 

その意味では、いつまでも観察者の立場に留まらず、決断し、飛ぶ込まなければなりません。

 

主イエスに全信頼を捧げること、主なる神さまを礼拝すること、賛美すること、洗礼準備会を始めること、教会員としての生活を始めてみなければ、決してわからないことがあります。

 

しかし、考えてみれば、こういう気持ち、まだ洗礼を受けていない求道者だけのものではないとも思います。

 

私たち人間の心の内には、信じたい気持ちと、信じられない気持ちが、いつでも綱引きをしていて、二つの思いがいつも、勝ったり負けたりしているものだと思います。

 

だから、その意味では、いつもいつも、私たちは、信仰か、不信仰か、選択の前に立たされているとも言えます。「どうしたら信じられるか?」は、まだ洗礼を受けていない方のみならず、洗礼を受けたキリスト者にも切実な問いであると言えます。

 

それでは、これは本当だろうか?という疑いに逆らって、飛び込ませるもの、背中を押してくれるもの、そこにどうしたら信じられるか?という私たちが求める答えがあるでしょうか?

 

一体それは何なのか?

 

ところがこのような説教題が付けられた説教の解き明かそうとする今日の聖書箇所、どこにもその答えが書いてあるようには思えません。

 

むしろ、今日の個所で主イエスが仰るのは、「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」ということ、また、「互いに相手からの誉れを受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」ということです。

 

牧師も信徒も、求道者も共に悩みます。「どうしたら、一人の人の内に、神への愛が生まれるだろうか。」「どうしたら信じることができるだろうか。」

 

しかし、主イエスは仰います。「あなたたちの内には神への愛がない。あなたたちは父を求めてはいない。だから、信じることなどできない。」

 

入ろうかどうしようか逡巡していたはずの信仰の扉は消え失せます。そもそもそれは、信仰の扉ではなかったと。私たちは、信じたい気持ちと、信じられない気持ちの間で揺れ動いていると思っていたのに、この方は、そもそもそうではないと仰います。

 

あなたたちが私を受け入れることはない。あなたたちは、自分が誉れを受けることばかりに気を取られている。天の父との関りも、自分が褒められること、言い換えれば、自尊心が満たされることを求めているだけにすぎないのだと。

 

先週と同じことを申し上げますが、このように語りかけられているのは、神など忘れてしまった現代人に対してではありません。

 

信仰よりも、生活に追われている貧しい者、罪人と呼ばれている人々に対してでもありません。

 

自分の生活の中心を神に置いている人々、ファリサイ派、律法学者ら、神を第一にしながら、生きている人々に対しての言葉であります。

 

十分の一の献金を捧げ、神の言葉に生きることを真剣に試み、隣人への施しにも生きている人々に向かって、「あなたたちの内には神への愛がない」、「あなたたちが本当に関心があるのは、神からの誉れではなく、人からの誉れだ」と、バッサリとやったのです。

 

どうして、主イエスが殺されることになったか、理由のないことではありませんでした。

 

正直に言って、いくらなんでも、言い過ぎのように感じる激辛の言葉を語られたのです。

 

わたし自身が面食らってしまったこの言葉を、黙想を深めるために、妻に話していましたら、「なになに?」とイエスさまのことが大好きな子ども達が尋ねてくるので、こう話しました。

 

「お父さんも、びっくりしてるんだけど、今度説教する箇所で、イエスさまは、私たちの内には神様への愛がないと仰るんだよ。」

 

小学生組の娘二人は目を丸くして言いました。

「イエスさま、ひどい。」

 

私は申しました。「ひどいと思うよね。だから、イエスさまは、皆から憎まれて、殺されてしまったんだね。もうちょっと、違う言い方があったかもね。」

 

けれども、そう言いながら、もう一方で、41節の主のお言葉がリフレインしていました。

 

「わたしは、人からの誉れは受けない。」

 

どうしてこのお方はこんな言い方をされたのか?もう少し、違った表現はなかったのか?同じことを私たちが納得して受け入れやすい形で表現する道はなかったのだろうか?

 

「わたしは、人からの誉れは受けない。」

 

主イエス・キリストというお方が、私たち人間からの評判を一切、気にしておられないからです。

 

私は主イエスのお言葉に戸惑いながら、そしてまた、もう少し別の語り方があるのではないかと夢想しながら、そこで、はたと気付かされます。

 

この方の言葉に戸惑い、もう少し別の語り方があったのではと考え始めているその時すでに、44節の「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたち」とは、他の誰でもなく、この自分自身のことであると、言わざるを得ないのではないか?

 

そういう発想がそもそも、神ではなく、人の方を向いているしるしではないか?

 

大澤正芳よ、お前の内には、父への愛がないことを私は知っている。お前は、決して、私を受け入れない。もしも、私が、自分の名によってくれば、あなたは受け入れただろう。

 

ヨハネによる福音書をコツコツ説き続けています。毎回の準備にあたり、参考にするいくつかの解説書や説教集があります。

 

その中で、一番、心惹きつけられているのは、伊吹雄というカトリックの聖書学者のものです。

 

専門の解説書です。あまり、教会員が手に取るような機会があるものではないかもしれません。

 

けれども、下手な説教集を読むよりも、生きた主イエスの声が響いてくる思いのする注解書です。

 

43節、44節の主イエスの言葉を、伊吹はこのように解説します。

 

自分の名によって来る人とは、名声を持っている人のこと、評判の高い有名な人とということだ。

 

評判の良い有名な人の元へは人間は喜んで駆けつける。何で駆けつけるか?要するに、その名声にあやかりたいのだ。自分にもその名声を分けてもらいたいのだ。

 

なぜなら、この世において自分の名声ほど、私たちにとって魅惑に満ちた甘いものはないのだ。

 

そして44節。誰も名声をくれないなら、有名な人の名声にあやかれないならば、それなら互いに褒め合えば良いではないか?名声を与えてもらい、代わりにその人を褒めてあげれば良い。お互いに褒め合って世にあればいい。

 

けれども、主イエス・キリストを通して、出会う神の名声だけは求めようとしない。神は、お返しに、褒めてくれないから。

 

それがどうして信仰と言えるだろうか?神を信じるとは、自分の名声への欲望を捨ててしまうことではないか?

 

こんな風に、解説します。

 

よーくわかります。なるほど、主イエスが仰っているのはそういうことだったかと、本当によくわかる言い換えです。

 

けれども、よくわかりますと、とてもとても、耳に痛い言葉です。

 

何で、私たちは、主なる神さまを拝むのでしょうか?自分を肯定してくださるからではないでしょうか?

 

私を神の子と呼んでくださるからではないでしょうか?皆があなたを捨てても、私は捨てない、ずっとあなたの味方だと仰ってくださるからではないでしょうか?

 

けれども、今日の個所のように、イエスさまが、私達に向かって、「あなたの内には神への愛がない」などと仰るならば、直ぐに私たちは、神さまがいらなくなってしまうのではないでしょうか?

 

こんな厳しいことを言ってくるイエスさまならばいらない。褒めてくれない神様ならばいらない。

 

それが生ける神の言葉であるかどうかを吟味しようともせず、初めから聴く耳を閉ざすのではないでしょうか?

 

代わって、これこそが権威ある神の言葉だと私たちが仲間内で定めた基準、ルールに従って、聖書の言葉を弄り回す。

 

そして、自分たちルールに従って、私も神の言葉をクリアできた、あなたもクリアできたと、お互いに褒め合っていれば、それで満足なのではないでしょうか?

 

私は自分のこととして、自分がそういう人間だと思います。

 

有名なクリスチャン実業家、有名な説教学者に、それぞれ別々の機会に、私の説教について、お褒めの言葉を頂く機会がありました。

 

これは、天にも昇るような気持ちになります。俺もだいぶ牧師として、説教者として、成長してきたなと得意になります。

 

牧師として合格した気持ちになります。

 

けれども、そうやって仲間内で、お互いでお互いを褒め合って、気持ちよくなっている人たちの真っ只中に主イエスが来られ、空気を読まずに、仰るのです。

 

あなたたちの内には神への愛がない。神よりの誉れを本当は求めてなどおらず、お互いに褒め合って、満足しているだけだ。

 

その人たちは答えたに違いありません。我々は自分勝手に褒め合って良い気になっているわけではない。神のくださった基準、モーセの律法に従って、自分自身の歩みを点検している。

 

その客観的な基準に従って、この点、あの点、神の言葉に従えたと、お互いに、確認し合い、励まし合っているだけだ。だから、お互い、認め合い、励まし合ってはいるけれども、究極的にはお互いからの誉れではなく、神からの誉れを求めているのだ。

 

けれども、45節です。主イエスは仰います。あなたがたが、神からの誉れを得ていると言えるための客観的な基準となっているモーセの律法、このモーセの言葉があなたがたを裁く。

 

なぜならば、モーセは、わたし、神の子イエスについて語っているからだ。

 

ヨハネによる福音書の証しするところに従えば、主なる神さまは、このイエスというお方に全権をお与えになっておられるのです。

 

今日の個所の直前の22節に、「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。」とありました。

 

主イエスは仰るのです。モーセに示された神の言葉に従って、自分を律している。自分の生き方の物差しとしている。良いだろう。

 

けれども、その基準に従って、自分は合格と言っているのは、自分勝手な思い込みに過ぎない。

 

あなたがたには、本当の合格ラインが見えていない。

 

だから、父の裁きの一切を任された人の子である私イエスが、モーセの書いたことを基準に、真実を告げよう。

 

あなたたちの内には神への愛がない。

 

この主イエスの御言葉を信じることができるでしょうか?自分に語りかける生ける神の言葉として、受け止めることができるでしょうか?

 

どうしたら信じることができるでしょうか?

 

毎週毎週、何とか、聖書の言葉を届けたい。聴く人に納得してもらいたいと思っている私などは思います。

 

これは、いくらなんでも伝え方が悪い。イエスさまが憎まれ、恨まれてしまうのは当然だ。自分だったら、こんな語り方はしない。だから、この言葉を説く自分の言葉も、当然、イエスさまの言葉をオブラートに包み、聴く人が飲み込みやすいように整えたい。

 

説教者にとって、そういう誘惑は大きいと正直に言わなければなりません。

 

しかし、もう一度申し上げますが、そう感じ始めているわたし自身が既に、神への愛を持たず、人からの誉れを求めているその人そのものだろうと、はたと気付かされます。

 

主イエスは5:19や30で仰いました。

 

「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父のなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」、「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」とある通りです。

 

天の父と主イエスは一つである。この御言葉を信じる者は、主イエスの御言葉に面食らう時、実は、神に面食らっているのです。

 

もう少し、別の言い方があるのではないか?神の御心を語るにも、もっと、やり方があるのではないか?

 

いいえ、主イエスの御言葉、主イエスの存在は、余分な付け足しも、余分な割引もない、100パーセントそのままの生ける神の言葉です。

 

「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」、「あなたたちは、互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない。」、「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。」

 

現代のキリスト者たちは、いつの頃からか、罪人と呼ばれることを嫌い、「君は愛されるために生まれた」という、自分を肯定してくれる言葉を、聴きたがるようになりました。

 

全然教会的立場の違う進歩派も、保守派、福音派も、リベラル派も、改革派も聖霊派も同じように聴きたがる。

 

しかし、それによってキリスト者の本当の霊性が、破壊されてしまったという危機感もまた、広がっています。

 

主イエスが仰ったことは、やはり本当なのです。

 

私は、私自身を除外せず、真っ先に私の耳に痛烈に響く言葉として主イエスのお言葉を聴きます。

 

「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」

 

私は、この御言葉の前に、ひれ伏す他ありません。

 

信じる気持ち、疑う気持ち、神を愛する気持ち、その他の偶像を愛する気持ち、二つの気持ちの綱引きなんてありません。

 

私は、魅惑に満ちた甘い名声の樹液に群がるカブトムシの一匹であり、誰も名声をくれないなら、お互いに褒め合い承認欲求を満たしてもらいたい自己愛病にかかった病人の一人です。

 

私達にはよくわかると思う。洗礼を受けていない人たちも良くわかると思います。だって、フェイスブックとか、インスタとか、ツイッターとか、ティックトックとか、人からフォローされたり、リツイートされたり、いいね貰うためには、まず、自分が人をフォローして、人にいいねを連発して、リツイートして、それで、お返しに、自分にも貰えるようになるからです。

 

フォロー、いいね、リツイートには、純粋にこれが好きだという気持ちだけでなく、褒められたいから、褒めるという気持ちが働いているし、こんな人をフォローしたり、リツイートする私は、センスがいいでしょう?というあやかりたい気持ちでいっぱいだという気持ち、よくわかると思います。

 

洗礼を受けたキリスト者を除外せず、自分のこととして、私はこれらのことを申しています。

 

こんな言葉、聴く人の元気をなくすか、ひどい反発を引き起こすか、どちらかしかないと思います。

 

事実、このような言葉を聴いた最初の人々は、これを侮辱と捉え、このような言葉を語った方を殺したのです。

 

その時代のもっとも信仰深い人々、最も深く神を愛していると自他ともに認めていた人々が代表して、その方を殺したのです。

 

ところが、私たち人間の神への根深い憎しみと、手の施しようのない自己愛を暴露するこのお方は、45節です。

 

「あなたたちを訴えない」と仰います。

 

すべての人間の偽善の仮面をはぎ取って、自己愛病に罹っている私たちの姿を暴き出すお方が、「あなたたちを訴えない。」と申します。

 

たとえ、モーセの律法の本当の基準に従って、すべての者の有罪がはっきりしたとしても、「あなたたちを訴えない」。

 

天の父より裁きの一切を委ねられたお方が、「あなたたちを訴えない。」と仰る。

 

私たち人間は、見たくもない自分を見せられることに耐え切れず、私たちの罪、私たちの自分本位を隠すために、まさに、自分本位に、この方を十字架で殺す私たちを、それでも、訴えないのです。

 

「あなたたちを訴えない」。

 

裁かれるべき私たちが裁かれず、この方と神は一致して、私たちを訴えないのです。

 

無視して、放置し、私たちが神への憎しみと自己愛の先の滅びに突き進むに任せ、捨て置くということではありません。

 

ヨハネ福音書は、神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛されたのであり、神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(3:16,17)と語るのです。

 

どんなに厳しいことをお語りになっても、神は御子を世にお送りになったのです。

 

今日ずっと私たちがこだわってきました「誉れ」という言葉、ギリシア語ではドクサと言います。

 

普通は、「誉れ」ではなく、「栄光」と訳される言葉です。

 

ヨハネによる福音書において、たくさん出てくる言葉です。

 

しかし、この栄光という言葉、なんと言っても、忘れがたいのは、ヨハネによる福音書の17:1において、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」と、十字架の出来事に先立って祈られたことです。

 

神は御子の十字架において、御自分の栄光を余すところなくお示しになります。

 

私は、私たちの骨の髄にまで沁みついた自己愛の毒の解毒薬、この病の薬は、ここにしかないと信じます。

 

本当に、本当に私たちが自己愛病から立ち直るためには、徹底的に褒められることを必要としているのではないのです。

 

むしろ、徹底的に赦されることを必要としているのです。

 

私たちが価値のある素晴らしい神の子だと自分に言い聞かせることによってではなく、私たちがどんなに罪深く、神への愛をこれっぽっちも持っていない者にも関わらず、神に裁かれることがない。

 

神と一つであるキリストが、十字架を引き受け、私たち人間を訴えることがなかったという、神の赦しの愛の出来事が現実となり、私たちの心がそれに貫かれることが起こらなければならないのです。こんな私たちも関わらず、赦されている。赦されているから生きていることを知る。

 

私たちキリスト教会が使う赦しという言葉は、罪の赦免の「赦」という言葉に、送り仮名を付けて、赦しと表現します。

 

けれどもまた、このような罪の赦しに生かされている私たちの人生のことを、ある神学者は、許可の方の「許し」という言葉を用い、「私たちは生きることが許されている」、生きることが許可されていると表現します。

 

生きねばならないのではありません。生きて良い。あなたがどんな者であっても、あなたは生きて良いんだ。

 

あなたは生きていて良い。

 

褒められた者は、生きねばなりません。次も、褒められるように、生きねばなりません。

 

しかし、赦された者は、生きて良いのです。次も、失敗してしまっても、やはり生きていて良いのです。

 

似ているようで、全然違うことです。

 

どうしたら信じられるか?どうしたら、この福音を、この福音をお語りになるキリストを信じることができるのか?

 

私は、この問いについても、この言葉遣いがそのまま当てはまると思っています。

 

信じなければならないのではありません。信じて良いのです。

 

信じることが許されているのです。

 

信仰とは、軽やかなものです。

 

信仰者として生きることも軽やかなことです。

 

私たちは親猫に首をしっかりと咥えられて運ばれる子猫のようなものなのです。

 

どうしたら神を信じられるか?どうしたら神を愛せるか?しっかりと咥えられた上で、じたばたしているのです。

 

どうしたら信じられるか?どうしたら神を愛せるか?どうしたら神の子らしい生活を作れるか?

 

それらがどんなに私たちにとって真剣な問いであったとしても、それは、キリストにあって、しっかりと神に掴まれながら行う子どもの遊戯であります。

 

時が来れば父の家に帰り、飲んで食べて、楽しむ子どものようなものです。

 

イエス・キリスト、真っ直ぐな神の御心であるこの方のゆえに、信じることも、生きることも、このような贈り物として、私たちに与えられているのです。

 

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