礼拝

5月14日(日)主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書13章1節~11節

説教題 僕のような王

讃美歌 140,531,24

今日司式者に読んで頂いた聖書箇所は、3年前にみずき牧師が、『アレテイア』という説教者のための雑誌に請われて、その特別増刊号に、御言葉の解説と黙想を書いた箇所です。

今日の説教のために、3年ぶりに手に取り読んで、ほとんどその言葉を紹介することが、今日の私の役目かなと思いました。

書き言葉ではなく、語りの言葉として、私の言葉で語り直しますが、今日は、この金沢元町教会の二人の牧師の合作の主イエスをご紹介する証言の言葉として、そこから聞こえてくる主の声に耳を傾けて頂ければと思います。

 

私たちは日曜毎にこの礼拝堂に集まり、神さまにお会いできることを期待し、この場所に座っています。洗礼を受けた者も、まだの者も、神にお会いしたい。神の言葉を聴きたいと願って、ここに集っています。

神はどのような者と出会ってくたさるでしょうか。どのような者に触れてくださるでしょうか。

キリストが人間と出会ってくださるのは、よそ行きの私ではありません。

今日の聖書の御言葉によれば、キリストは、世を歩き回って汚れた足に象徴される私の汚れを掴んで洗われるためにこそ、働いてくださるお方なのです。私たちからすると、できるだけ触れてほしくないようなところでこそ、キリストは私たちと関わろうとされるのです。

それが何よりも、今日与えられた聖書の言葉が指し示そうとするイエスさまの姿です。

それは、洗足物語と呼ばれる印象的な今日の聖書箇所にのみ語られるような例外的な主のお姿ではありません。主は地上に送られたその時から、王宮ではなく家畜小屋の飼葉桶にお生まれくださったお方です。そして、全福音書を通して異邦人の元、罪人の元へと足を運ばれたお方です。

 

この洗足の出来事は、私たち人間が決して大切な客を招き入れることはしない家畜小屋を御自分の居場所としてくださった御子の最初からの歩みの真っ直ぐ延長線上にあるものです。

そして、それは、真っ直ぐに十字架まで続くのです。

汚れた私たちとこそ出会ってくださるための主イエスの目指す道は、十字架に極まるものです。

しかしまた、ヨハネによる福音書では、この洗足の出来事によって、私たちの汚れを掴んでくださる御子のお姿に、十字架前に一度ここで立ち止まり、じっくり思い巡らすようにと招きます。

五節に「弟子たちの足を洗い」とあります。主イエスは十字架への最後の歩みを始められる前に、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗ってくださいました。

はっきりと書かれてはいませんが、ここでユダさえ除外されていないと読むのが、正しいようです。

ご自分の者たちを愛し抜かれたとの1節の御言葉通り、ここでは裏切ろうとしているユダの足をも洗われたと考えるのが、自然なようです。

主はユダの足をも洗われました。ユダには悪魔が入ったのだから洗うに値しないと、ここで切り捨てられなかったのです。

ある聖書学者の言葉によれば、この場にユダもいて、その足が主によって洗われたことによって、ユダもまた「十字架の救いに組み込まれている」とさえ述べられています。

誤解を恐れず言えば、福音書記者ヨハネは、ユダの裏切りを特別視していません。

この福音書は同じ第13章の中で、ユダの裏切りと並行するようにして、ペトロの裏切りの予告が主イエスの口から語られます。

主を裏切るということにおいて、ペトロもユダと同じです。その両者の足を主イエスは洗われるのです。

しかし、もちろん、この二人だけではありません。主イエスが十字架におかかりになられる時、その他の弟子たちも、特別にその裏切りの姿を記されてはいなかったとしても、洗足の後に裏切った者たちであることが明らかになります。

それだから、「イエスは、この世から父の元へ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」という主の貫かれた愛は、裏切り者たちに注がれた愛と言わなければなりません。

しかも、1節の「世にいる弟子たちを愛して」という言葉は、口語訳では「世にいる自分のものたち」と訳されています。この方が原語に近い翻訳です。

つまり、そこにいた弟子たちだけではありません。

主が名前を呼んで今日ここに集めてくださった私たちもまた、ここで愛し抜かれた者の内に含まれると読むようにと、福音書は求めているのです。

主イエスは、ご自分のものを全て愛し抜かれます。そこには、この福音書の言葉が向けられている、この物語が差し出されている、この場にいる一人一人も含まれています。

主イエスの愛は、私たち一人一人の足を屈んで洗う愛です。この私たちの足が主イエスによって洗われるのです。

当時、足を洗う仕事は、奴隷の仕事でした。しかも異邦人の奴隷しかしない仕事であったと言われています。あまりにも卑しい仕事であったので、ユダヤ人の奴隷には強いられない仕事、それが洗足であることをたくさんの解説書が教えてくれます。

しかし、異邦人の奴隷だけでなく、例外的に家の女性がする場合もあったようです。

仕事から帰って来た夫を労う行為として、足を洗ったということでしょう。あるいは、ラザロの姉妹マリアが主イエスの足を涙で拭ったように、大切なお客様をもてなす最上のおもてなしとして、一家の主婦が、客人の足を洗うということがあったのかもしれません。

つまり、洗足は、奴隷にも強制できない低い仕事ではありますが、自由な愛の業として行われる時は、最高の愛の業として、為される行為だということです。

主イエスの十字架の苦しみ、受難の歩みを思う時、私たちは大変申し訳ない気持ちになります。

血の滴りのような汗を流して、主は十字架の歩みを天の父の御心として受け止められて行きます。

聖書を読んでいると、嫌で嫌で仕方のない十字架を私たちは主に担がせてしまったのかと、申し訳ない思いでいっぱいになります。

けれども、主イエスはできることなら避けたかった苦しみを、嫌々、背負って十字架に着かれたというだけでは、主の心の全てを理解したことにはなりません。

主イエスが血の滴りのような汗を流してでもその道をそれでも選び取られたのは、それが天の父から課せられた救い主の役目であるからではなく、天の父と御子が心を一つにされる、私たち人間に対する狂おしいほどの愛のゆえです。

主イエスは、嫌々、強制されて、私たちの足を洗われるのではありません。このお方は洗足を強制されるような奴隷ではありません。

弟子たちの足を洗い終えた主ご自身が13節で、こう仰います。

「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだ」。

主イエスは主のままで、私たちの主人として、弟子たちの足を洗ってくださったのです。ここに、主イエスの強制されない自由な愛があります。

8節のペトロへ答える主イエスの言葉「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とは、洗足という愛の行為によって、主と人間との関わりが生まれるということをはっきりと示している言葉です。

洗足は洗おうとする者の、洗われる者に対する愛の極みを表現する人格的行為です。

この愛の究極的姿である洗足は、ある聖書学者によれば、十字架の出来事の先取りの解説だと言います。

私たちにとって、主イエス・キリストの十字架の出来事は一体何であるのか?

それは、主イエスが、その愛のゆえに奴隷のように身を屈めて、私たちの汚れた足を洗ってきれいにしてくださったこと、そのような深い愛の関係を私たちと結んでくださった出来事であること、そして、このような洗足の出来事は十字架の出来事の意味を解き明かすものであると言うのです。

しかし、今日の個所において、たいへん印象的なことは、主の私たちに対する愛の極みである十字架を指し示し、十字架を解き明かすこの洗足の出来事の意味を、全く理解していない弟子たちの姿です。

7節で主イエス御自身が仰るように、「わたしのしていることは、今あなたにはわかるまい」と、弟子たちは主の愛がわからないのです。

8節のペトロ自身の発言「わたしの足など、決して洗わないでください。」や、「主よ、足だけでなく、手も頭も。」といった言葉もまた、弟子達が、ここで自分の身に起きていることを少しも理解できていないでいることを示している言葉です。

それは、もちろんペトロに限ったことではありません。素直に読めば、ペトロの反応は、全くわれわれ自身のものであると言えるでしょう。

しかし、慰め深いことに主は7節「後で、分かるようになる。」と、今、その場における私たち人間の無理解を、受け止めてくださるのです。理解できない分からないままの弟子たちの足を、彼らが理解できないままにも、洗ってくださり、固い愛の絆を結んでくださるのです。

無理解な者を無理解なままで、既に、御自分のものとして愛し、絆を結んでくださるのです。

実に、この洗足の出来事は十字架と並んで、洗礼をも思い起こさせるものであると、聖書学者たちは指摘します。それは、私たちにとってたいへん示唆的な言葉であると思われます。

14節の「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」とは、主イエスの洗礼命令として聞かれる言葉だと言うのです。

つまり、弟子たちはここで、よくわからぬままに主イエスから洗礼を受け、また、洗礼を授ける群れとしての委託を受けたのです。

「後で、わかる」と主イエスが仰った通り、わからないままに、主イエスのものとされるのです。

分からないままに、主の愛で愛し抜かれるのです。分からないままに、主に洗って頂くのです。

少し前にも、どこかで紹介しましたが、現代日本の代表的神学者の一人である近藤勝彦先生が、御自分の洗礼を振り返りこういう趣旨のことを仰いました。

今思えば、自分は何もわからないままに洗礼を受けた。今思えば、幼児洗礼とほとんど変わらないような洗礼だったと思う。けれども、洗礼というのは、そもそもそういうものではないか?なぜって、それから数十年、神学者として生きてきて思うことは、自分はまだ神さまの恵みを味わい尽くすことはできていないと思うから。

先日、ようやく発行できました教会の135年史の巻頭言で私は書きました。

神学するということは「後から考えること」であると。

この私に対して実現してくださった神さまの愛の出来事を遅ればせながら、後から後から、確認していくことであると。

もう既に、この私の身に、生ける神様が働かれたのです。生ける神様が通られた足あとがありありと刻まれているのです。それを遅ればせながら、生涯かけて、ゆっくり、じっくり味わうことが、神学者の歩み、信仰者の歩み、教会の歩みなんだと書きました。

「後で、わかる」。それで良い。分からないままのあなたを、そのままで、わたしは愛し抜く。それゆえ、もう、あなたはわたしのものだ。

これこそ、洗足のキリストの声です。

だから、11節の主の言葉「みなが清いわけではない」という言葉は、ユダに対する厳しい裁きの言葉でありますが、同時に憐みと一つに結び付いている主の悲しみの言葉であると受け止めることが許されているのです。

しかし、この悲しみ、無理解な人間に対する、その主の悲しみ、主の憐みが、まだ神の敵であった我々のために、十字架へと結実することになるのです。

繰り返しますが、その時、誰ひとりとして洗足の意味を理解できていなかったのです。

洗足に込められた主イエスの愛の大きさ深さ広さ完全さどれをとっても十分な理解などできなかったのです。だからこそ、主の道は、十字架に進むのです。

もちろん、この十字架の出来事もまた、誰も理解しなかったのです。

しかし、人間の無理解を超えて、主の愛が貫かれました。十字架が世界の只中に立ちました。

人間の罪は、主の全ての業を妨げることは出来なかったのです。

その主がなさる全てには、私たちがこの説教を聴くこの日、この礼拝の場に集められているということも含まれています。主の貫く愛が、今、ここに私たちを集めました。

私たちは、私たち自身がどこまで行ってもそうであるように、無理解なまま、しかし、わたしたちのもとに今届いた神の愛を受ける他ないと、この世に向かって語ります。

洗礼を妨げるものはなにもないと語ります。

神はやって来られ、神は私を洗ってくださった。十字架は、既に立ちました。わたしたちは主のものです。主に愛し抜かれている者です。後から遅ればせながら、その愛を味わわせて頂くのです。

誰が、この愛を拒否することができるでしょう。誰もできません。

 

 

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