週報
説 教 題 主イエスの愛は 髙田恵嗣牧師(北陸学院)
聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅰ第13章1節~13節
讃 美 歌 333(54年版)
金沢にきて5年目を迎えています。牧師になってから23年を迎えています。金沢に来る前は、三重県伊賀市にある上野教会に6年、その前が宮城県仙台市にある仙台川平教会に10年、さらにその前は東京にある碑文谷教会で伝道師として2年間おりました。
今日は、仙台川平教会の出来事を少しだけお話しできればと思っています。仙台川平教会には少し広めの敷地があり芝生もあるような庭がありました。ある日曜日の朝なのですが、教会員に花村春樹先生という大学の教授をなさっている先生がおられ、その先生はとてもオシャレな先生で雰囲気のある方だったのですが、その先生が芝生で何かを摘んでおられる。見れば四葉のクローバーだったのですが、先生は見つけては他の教会員にわたしておられました。私はその姿を見ながら「ステキだなぁ~」と思ってみていたのですが、最後に先生は私のところにも四葉のクローバーを持ってきてくださいました。そこで私は先生に「先生はほんとステキですねぇ~」と伝えました。すると、花村先生はニコッと笑って一言「喜びは作り出すのではなく、既にある所から見付けるものなんです」、そう言って会堂へと入っていかれました。私はその背中を見ながらカッコイイと思い、いつかこの話を使ってやろうと思い、そして今お話しているのですが…。
「喜びは作り出すのではなく、既にある所から見付けるもの」
どうでしょうか。私たちは喜びをどこに求めているでしょうか。外ばかり見ていると案外気付きにくいかもしれません。しかし、身近にあり、すでにそこにあるのかもしれません。
聖書では「愛」が多く語られますが、この「愛」も実は私たちの近くにある・・・。聖書はそう教えています。
さて、今日の聖書にも多くの「愛」が記されています。Ⅰコリント13章は愛の賛歌としてよく知られている箇所です。結婚式などでもよく読まれる箇所ですので、皆様の中にもこの箇所で結婚式を挙げられた方もいらっしゃるかもしれません。とても綺麗な詩です。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない・・・・・・」。
本当に綺麗な詩です。それだけに、この有名な箇所は多くの牧師によって語られてきました。現在はインターネットを通していろんな牧師のメッセージを読むことができますが、その中でも私が面白いなぁ~と思ったお話をご紹介します。その先生は突然、この箇所の「愛」と記されている部分を自分の名前に置き換えて読み始めていました。私の名前は髙田恵嗣(タカダケイジ)ですが、皆さんも自分の名前を入れて読んでみてください。
「高田恵嗣は忍耐強い。高田恵嗣は情け深い。ねたまない。高田恵嗣は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。高田恵嗣は決して滅びない」。ここまで読んでみるまでもなく、この愛の部分を自分に置き換えてみると、この私がどれほどこの愛にふさわしくないかを知らされていきます。
この箇所は大変綺麗な言葉が並んでいる箇所です。しかし、綺麗だからこそなおさら、この自分がその愛にまったく届いていない現実を突きつけられる。このような愛をわたしたちが真剣に自分の中に求めていこうとしたならば、たどり着けない限界を感じてしまうのではないでしょうか。
それでは、この「愛の賛歌」というのはたどり着けない目標のように掲げられているのでしょうか・・・。あるいはそう解釈し努力する人もあるかもしれません。
しかし、この箇所を少し学んでみると、この「愛の賛歌」は忍耐強くもなければ、情け深くもない私たちを、忍耐して情け深く見守ってくださる「神の愛の賛歌」だったのだと教えられます。
愛の部分を「神」と置き換えてみるとよく分かるのではないでしょうか。
「神は忍耐強い。神は情け深い。ねたまない。神は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。神は決して滅びない」。
聖書は神が愛であることを私たちに教えています。そして、その神の愛は何よりもイエス・キリストによって示されていった。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ福音書3:16)。
そう記されています。神の具体的な愛はイエス・キリストをこの世にお与えになるという仕方でなされた。教会はイエス・キリスト、その方の歩まれた道をこと細かく語ります。
イエス、その人を見てみる。福音書には数多くのエピソードが記されています。
様々な偏見を乗り越え、差別されていた人々に手を差し伸べ、実際に触れていった姿があり、また、様々な教えを述べ人々に生きる指針と勇気を与えられた姿もあった。また、ある時は、激しく論争され、ある時は奇蹟も行ったと聖書は記します。
福音書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書があります。この四福音書がそろいもそろって一番分量を割いて伝えていることがあります。それはイエス・キリストの十字架の出来事です。
福音書の中からこの十字架の出来事を眺めてみる。すると、この十字架の出来事にこの世の人々を思う神の姿が見えてくるはずです。この十字架の出来事、今まで何度も読み返してきた箇所です。何度読んでも痛々しいその情景が浮かんできます。この十字架へと主イエスが向かう記事を読んでいく。すると、不思議に思えてくるところがあります。それは、多くの反対者たちが「イエスを十字架へ」と叫んでいるにもかかわらず、一言も話されていない主イエスの姿があります。それどころか、裁判中の主イエスには反論らしい態度は一切見られない。
主イエスはなぜずっと黙っておられるのか、なぜ反論なさらないのか。なぜ無実の証明をしようとしないのか。大声に対して大声を張り上げ、なぜ命乞いをしないのか。大切な命が奪い去られそうな時に、なぜ沈黙しているのか。不思議に思えてくる・・・。
人はどのような時に沈黙するでしょうか。一つ言える事は心が騒がしい時に私たちは沈黙などしない、しないというよりはできないと言った方が良いかも知れません。心が騒がしい時、私たちも騒がしくなる。大声をだすのもこのような時かもしれません。では、沈黙とはどのような状態でしょうか。それは、事柄の良し悪しに関わりなく一点を見つめている時と表現できるかもしれません。一点を見つめ考えがあるとき私たちは沈黙する。
黙ること、沈黙は、何もしないといった消極的なものではありません。沈黙を通してむしろ深いものを語り伝える、そういう世界があることもわたしたちは知っております。沈黙という緊張感の中でしか伝わらないものがあるといっても良いと思います。
主イエスも沈黙しました…。沈黙の中で強い意志をもって一点を見つめていたのではないでしょうか。主イエスが考えていたこと・・・。
実は、それまでの聖書の中で主イエスは、自分は異邦人に渡されて苦しんで死ぬ、と預言していました(18:32)。つまり、死という現実を神の御心として受け止めていた。神の御心がなることを受け止めた姿、その姿が沈黙だった。神を信頼した姿がここにあったのではないでしょうか。
神の御心、十字架の意味とは何か。もちろんそれは人々の罪の赦しの為でした。それでは、その罪の赦しとは具体的にどのようなものなのか。そのことを問い続けた詩人に、八木重吉がいます。彼の人生は親友の死により大きな変化が与えられました。そしてその頃キリスト者として生きる決意をします。八木重吉は肺結核で30歳の若き年齢で亡くなりました。1927年昭和2年の出来事です。じっと死をみつめ死とたたかっていた人のその澄んだ眼差しが、事柄の本質を明らかにしてくれる。そんな詩を八木重吉は私たちに届けてくれます。彼の詩に「とかす力だ」という詩があります。これはきっと彼の詩の中でも一番短い詩ではないかと思います。しかし、それだけに妙に心に残りました。その詩はこう語ります。
「とかす力だ それがすべてだ」
八木重吉の詩集はテーマごとに記されています。この短い詩は、キリストの愛と赦しをテーマにしているところに記されていました。「とかす力だ それがすべてだ」と短い言葉でキリストの愛とは何か、赦しとは何か、そして十字架がもたらしたものとは何かを一息で言い切った。それがこの詩だったのではないでしょうか。「とかす力だ それがすべてだ」。
氷の欠片を口の中に入れると緩やかにとけていく。冷たいものはあたたかい物に触れると溶けていくものです。人の心も同じ。あたたかい心に触れると寂しかった心が、悲しかった心が、怖くって動けなくなってしまった心がゆっくりと溶け出していく。八木重吉の詩もこの主イエスの愛と赦し、そして十字架はこの凝り固まってしまった私たちの心を「とかす力」そのものだと言い、また「それがすべてだ」と言っている。
私たちの心が凝り固まってしまうのはなにも寂しい時、悲しい時、怖い時だけではありません。人を見下す時、人に怒る時、人を無視する時、人を許せない時にも凝り固まっていく。その塊はあまりにも冷たく、とかすことなどできない、そう思え、そう信じきって疑わなくなってしまう。ここに私たちのぬぐいきれない弱さがある。
しかし、主は十字架の出来事によって愛と赦しを与えられた。ゆるされ難い私がゆるされている。もう誰もゆるせないと思っていた私が神を見上げた時、その度ごとにゆるしが与えられている。冷たくなったものをとかすことなどできないと思っていた心に、まずあたたかさが与えられている。あたたかく、とかすものはここにあった。そう気付かされるのです。
「とかす力だ それがすべてだ」。
十字架の出来事は信仰の目をもって受け入れたい。
イエス・キリストは十字架をとおして私たちを愛し、そしてゆるされた。ゆるされ難い私たちがゆるされている。もう誰も許すことなどできないと思っていた私たちにまず神様からの赦しが与えられた。冷たくなった心を溶かすものがここにあると知らされた。「とかす力だ それがすべてだ」
主イエスの愛は、ここにつきる。この愛を与えられている私たちです。確かに私たちには不和があり、うまく行かない現実がある。そんなことはすべて神さまはご存知です。だからこそ、この私たちに罪の赦しをお与えくださったのです。「あなたの罪は赦された」その言葉を受け止めて歩め!そう私たちにみ言葉をお与えくださっているのです。
聖書はこの主イエスの沈黙の裏に人間を救おうとされる神様の大きなご計画を見たのです。主イエスは沈黙したまま十字架にかかり神の御心のまま私たちの罪をあがなうものとされた。肉体が痛みと共に滅んだ、しかし、神のご計画の中で使命を全うされた主イエスの姿があった。ここに主イエスの愛があり、また、ここにその御子をこの世にお遣わしになった神の愛を見ることができるのではないでしょうか。大切なのは、神が赦され、その赦しをもって歩むようにと導かれていることです。私たちに命を与え、また、その命が生かされていくことを望んでおられる神がいるのです。このみ言葉を聞き、この私たちの現実の歩みをすすめたい、そう思います。
コメント