礼拝

1月28日(日)主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書20章30節31節

説教題 聖書の目標

讃美歌 367,348,157,25

私たち金沢元町教会の最も大切にしている信仰告白の一つである日本基督教団信仰告白の中に次のような言葉があります。
「聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」
教団信仰告白の第一段落後半が語る聖書信仰の告白です。
聖書は、神さまについて、また私たちの救いについて、完全な知識を与える神様の言葉であり、信仰と生活との誤りなき基準、英訳ではスタンダードであると語られるそのことを、私たち金沢元町教会は信じています。
実を言えば、私は、「信仰と生活との誤りなき規範である」と、信仰と生活を切り分けて表現しなくても良いのではないかとは思っています。
その点から言えば、この金沢元町教会が生まれた当時の旧日本基督教会という集団のいわゆる一八九〇年の信仰告白と呼ばれる信仰告白の言葉の中にある「新旧両約の聖書のうちに語りたもう聖霊は、宗教上のことにつき誤りなき最上の審判者なり」と語るその告白でも十分であると思っています。
なぜならば、信仰と生活とは、もともと別々のものではないからです。
もちろん、日本基督教団信仰告白は、一八九〇年の信仰告白の言葉では誤解されかねないことを、その心を汲んで誤解なきように、わざわざ「信仰と生活との誤りなき規範なり」と敢えて、表現したのだと思います。
いづれにせよ、私達教会は、聖書が、私たちの存在丸ごと、命丸ごとに関わる神の言葉であると告白しております。
このような告白の言葉の背景に、たとえば、今日、共に聞いておりますヨハネによる福音書第20章30節、31節の聖書の言葉が、響いていると言って良いと思います。
特に31節の言葉、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によって命を受けるためである。」
この書物をここまで書き進めてきた福音書記者ヨハネは言います。
自分がこれを書き綴ってきたのは、あなたがたがイエスを神の子であると信じるため、この神の子イエスがあなたがたのメシア、救い主であると信じることができるようになるため、そして、あなたがたが、このお方のお名前によって命を得るため。
キリスト・イエスを信じることによって、命を受けられるのだと語ります。
しかし、ここで福音書記者が語る「信じる」という言葉は、私たちが普段考えているような意味での「信じる」とは少し違ったニュアンスで使われていることに注意する必要があります。
「信じる」とは、ただ、神の存在を信じるとか、イエスという歴史上の一人物が「神の子であった」と認めるということではありません。
「信じる」というのは、証拠がないところで、ある事柄を暫定的に事実と認めるというような、限界ある人間の劣った知識のようなものではありません。
聖書学者が、明らかにしてくれるのは「信じる」というのは、もっと血の通ったことなのです。
聖書が語る「信じる」という行為は、信頼するということ、顔と顔とを合わせた者同士が、お互いに信頼関係を結んでいく、信頼関係を築いていくということです。
福音書記者ヨハネがその書を読む者を招くのは、イエス・キリストと読者との間に、そういう信頼関係が結ばれて行くという意味での、「信じる」ということが、起こることです。
ヤコブの手紙2:19に次のように記されています。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」
もしも、信じることが、「神の存在を信じる」というような、単に情報を得ることならば、悪霊も同じ神を信じていることになると、聖書は指摘します。
つまり、「信じる」というのは、知識の問題ではありません。
イエス・キリストを、また父なる神を、信頼する。そのお方との信頼関係に生きるということを意味します。
だからこそ、それは、日本キリスト教団信仰告白が語るように、私たちの生活丸ごと、また、福音書記者が語るように、私たちの命丸ごとに、関わることなのです。
このようなキリストとの間の信頼関係は、私の生き方を変えてしまうものであり、私の命に影響を及ぼしてしまうものです。
考えてみれば、それは当たり前のことです。
一人の人間との出会いでさえ、私たちの生き方は変わります。私たちの人生が、動いてしまうことがあります。
誰を信じるか、誰と信頼関係を結ぶかによって、良くも悪くも、私たちの生き方、私たちの人生は、大きく動いて行きます。
神の言葉である聖書が、私たち信じる者にとって、いいえ、信じる者だけでなく、誰にとっても、「信仰と生活との誤りなき規範である」と、私たち教会が信じるのは、このような意味においてです。
人は聖書を証言する教会の言葉を通して、イエス・キリストに出会い、その熱を受けて、その方に感染して、動かされて行く。
教会が説くように託された聖書の言葉が、私たち人間存在丸ごとの誤りなき規範であるのは、そこに書かれている一つ一つの言葉を法律のようにして、私たちの生活に当て嵌めていくことに拠るのではありません。
福音書記者ヨハネがここまで自分が書き進めてきたのは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によって命を受けるためである」とその目的を語るのです。
あなたがたの命となってくださるそのお方と出会ってほしい、信頼関係を結んでほしい、そのお方との、出会いこそが、あなたがたの命なのだ、そのためにここまで語って来たのだと言っているのです。
この福音書記者自身が、既に、17:3において、主イエス御自身の口から聴いていたのです。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。
つまり、その独り子を賜るほどに、私たちこの世に生きる者を愛してくださる御父の愛、そして、実際に、形を取って私たちの間に来てくださった、私たちのきょうだいとなってくださった、神の愛、十字架と陰府に至るまで、私たち人間の悲惨と悲しみに付き合い、飲干し、引き受けてくださる神の愛である御子イエス・キリストを知ることです。
もちろん、ここでも「知る」ということは、深く人格的な交わりとして、このように私たちと一つとなってくださるイエス・キリストとのお付き合いを始めるということです。
これこそが、「永遠の命」と表現しなければ足りない、私たちにおいて始まった新しい命です。
単に、時間が永遠に延長される命ではありません。それは場合によっては呪いとしか言えません。
しかし、キリストによって神と結ばれる命は、永遠の命の名にふさわしい命です。
それは詩編84:11が、「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」と告白するその告白を私たちの心と口に与えるものです。
この人と出会ったから、私の人生は変わった。私の生き方が変わった。私の命が意味を持つようになった。自分が生まれてきた意味が分かるようになった。
そういう出会いが主イエスと私たちの間に起こるのです。
そうでなければ、主イエスを信じる信仰によって与えられる命は、命の名に価しないと私は思います。
このような経験は、別に劇的である必要はありません。興奮しながら話せなければならないようなことでもありません。
ふと立ち止まって考えると、しみじみとそう思う。振り返って考えると、しみじみとそう感じるということで良いのです。
聖書という書物が、もしも、そのような生けるイエス・キリストとの出会いに至らせる書物ではないならば、それを読み切れる人はいないのではないかと私は思います。
つまり、その書物を信仰と生活との誤りなき規範として、大切にできる人などは本当の意味では、存在しないのではないかと思うのです。
私たち人間は、「分かっちゃいるけど、やめられない」というような者だと思うのです。
こちらに行けば命、こちらに行けば、命を損なう方だと思っても、命を選べないというのが私たち人間ではないかと思うのです。
だから、幼い時から今に至るまで、親から、学校の先生から、あるいはお医者さんから、こっちを選びなさい。こちらがあなたの命を充実させる方だと言われても、そういうものを選びきれないというのが人間ではないかと思います。
だから、選べたつもりになっている時は、だいたいファリサイ派の罠に陥っているだけというのが、本当ではないかと思うのです。
ところが、聖書はそんなつまらない書物ではありません。この書物を読み進めていく時、その書物を説く教会の証言を聴くとき、その文字を越えて、しかし、その文字が証言している生けるお方に出会ってしまう。そこで、キリストとの人間関係、信頼関係と言うべき生き方が始まってしまう。
そういうものなのです。だからこそ、信仰生活というものは、ここに座っている人たちが、生涯をかけてしまうものなのです。
この説教壇から何度も何度も引用していますが、もう一度、引用したい主イエスの御言葉があります。
ヨハネによる福音書5:39の主イエスの御言葉です。
主ご自身がこう仰います。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
あなたがたが聖書の中に探している永遠の命とは、わたしのことだ。
主イエス・キリストご自身がそう仰います。
その出会いが、「わかっちゃいるけど、やめられない」、この悲しみ、この苦しみ、この憂鬱、この不安、この愛のなさ、この罪の中から出た方が良いと分かっているのだけれども、どうしても、出て行けない。方向転換することができない。立ち上がることができない。悔い改めることができない崩れかかった人間、いいえ、死んでいる人間に命の熱が吹き入れられ、立ち直るのです。
あなたがそう仰るなら、あなたが共にいてくださるなら、あなたが喜んでいてくださるならと、座り込んでいる者が、立ち上がるのです。
先週、北陸学院では、被災した能登のための募金窓口を開設いたしました。
私たちの教会で始めた募金も、中部教区の窓口と共に、この北陸学院の窓口にも、出来る限りの協力をしたいと考えています。
我が家の娘たちも、北陸学院小学校から、募金の案内を貰ってきました。
その案内は、子どもたちの自主的な活動として、児童会も北陸学院の募金活動に協力しようと、生徒が主体となって行いたいという趣旨の内容でした。
そのような性格の案内でしたから、妻は、親の財布から出すのではなく、子どもたちが自分のお小遣いから捧げるように促していたようです。
私がリビングに行くと、次女が目に涙をためていました。
お小遣いから、千円を募金したのだけど、それが惜しいと言うのです。
小学二年生、まだお小遣いをあげるつもりはありませんでしたが、お姉ちゃんが貰っているのに、自分が貰っていないのはずるいと、あまりにも強く主張するものだから、じゃあ、学年分だけ、月に200円と、数か月前から、お試しで渡し始めていた僅かなお小遣いです。
それを欲しいものがあるからと、我慢して使わずに、千円まで貯めていたのです。
娘は、その千円を丸ごと募金してしまって、目を赤くしていたのです。
私は、妻が、自分の財布から捧げることが大事だからと、細かい小銭がなくて、お札しかもっていなかったから、じゃあ、千円丸ごとを募金しなさいと、話したのかと、先走って想像しました。
そこで、「千円札しかもっていないなら、パパが両替してあげようか?」と尋ねました。
すると、首を振って、それから、こんな不思議な話をしてくれました。
12月31日の明け方、ある夢を見たそうです。
その夢の中では、困っている老人がいたそうです。
すると、どこからともなく一人の人が現れたそうです。顔ははっきり見えなかったけれど、娘は、その人がイエスさまだと思ったそうです。
そのイエスさまが、娘に仰ったそうです。
「この困っている人のために、あなたのお小遣いを全部捧げなさい。」
そういう夢を見たんだ。その朝に、お姉ちゃんにも話したから、お姉ちゃんも知っていると。
そして、次の日に地震があって、だから、今思うと、その困っている老人は、地震の被害を受けた人のことだと思う。だから、お小遣いを全部、捧げなきゃならないと思う。
そういう趣旨のことを目を赤くしながら、話してくれました。
でも、夢では、お財布に入っていたのは、700円だったと言いました。
そこで、わたしは、「じゃあ、やっぱり、パパが両替してあげるから、700円だけ募金すれば?」
けれども、娘は首を振って、やっぱり千円を捧げることに決めました。
「せっかく千円貯まったのに。あと、千円貯めて、二千円にして、買いたいものがあったのに。」と、くよくよと泣きながら。
私は、これを神秘体験として、語りたいわけではありません。
聖書を読むこと、説教を聴くこととは別の形で、生けるイエス・キリストにお会いした話としてご紹介したいわけではありません。
幼い頃から、聖書の言葉を聴き、説教の言葉を聴き、とうとう夢に見るほどに、イエスさまの御姿が、心に刻まれたのだと思います。
そういう意味では不思議な話でも何でもない。私たちの誰にだって、こういうことは、あることだろうと思います。
けれどもまた、主イエスと出会って生きるということは、どういうことなのか、この小さなエピソードの中にも、よく見えているのではないかと思わされるのです。
主イエスのことを知る時、そのお方と出会う時、自分では手放すことができないもの、自分では示すことのできない愛へと背中を押される。
イエスさまが仰るなら、イエスさまがお望みであるならばと、手放すことができる、捧げることができるようになる。
つまり、自分はあいも変わらず弱く、あいも変わらず貧しい罪人であるにもかかわらず、私のキリスト、私の主、私の救い主、私の兄弟、私の友であるイエスさまがお望みならばと、そのお方のゆえに、私たちは、本当の自由、本当の献身に生きることができるようになるのです。
そういう命の方向を変える、しっかりとした関係が主と私たちの間に成り立つのです。
31節の「イエスの名により命を受ける」という言葉ですが、この「イエスの名により」というのは、元の言葉では、「イエスの名の中で命を受ける」という意味の言葉が使われています。
そのお名前の中で、つまり、当時の人々の感覚では、「そのお方の存在の奥深くの中に入れられて」ということです。
ある説教者は、このことを現代の私たちにもわかりやすく、イエス・キリスト、このお方に、包まれて、このお方にラップされて、このお方にくるまれてというニュアンスで読みます。
私たちは、イエス・キリストこのお方に、包まれているのです。あんこがお餅にくるまれているように、私たちは、イエス・キリストこのお方に、しっかりとくるまれているのです。
ここに、主イエスと私たちの出会いの深さ、結びの強さがあります。そして、そこに私たちの命があります。
このことに気付くとき、この出会いに、何度も出新しく気付き直すときに、私は私のままで、何度でも同じような失敗を繰り返す情けない者であるにもかかわらず、自分が決して捨てられないこと、自分が決して滅ぼされないことを知るのです。
だから、このお方に出会った者は、安心して、方向転換して、立ち直ることができるのです。
主イエスよ、私の命となってくださるあなたがお望みになるならば、是非もなし。私は、ただ、あなたにお従いするだけです。
主イエスとの出会いは、他の人間との出会いと同じように、いいえ、それ以上に、そのように私たちの命を動かしてしまう力です。
この主との出会いは、必ず命をもたらすのだと、福音書記者ヨハネは、証言いたします。さあ、この主を信じなさい。この主への信頼に生きなさいと招かれています。
いいえ、実を言えば、私たちは、ここで招かれている者であると同時に、既に、そのような信頼に生き続けている者でもあります。
30節の語る「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物には書かれていない」というその主イエスの福音書には記録し切れない出来事とは、実に、主イエスとこの私たち自身の出会いの出来事のことでもあるのです。
そうです。私たちは既に主の命に包まれているゆえに、今ここで、信頼への一歩を踏み出すことができます。
主への信頼のゆえに、悔い改めない者ではなく、立ち直る者に、信じない者ではなく、信頼する者に、つまり、キリスト者の自由、献身の自由に生きることができるのです。
祈ります。
御父よ、私たちはあなたのものであり、私たちはあなたの内に、御子の内にあります。主イエスよ、今、あなたは私たちを抱き留め、決して放されることはありません。
私たちの心と体の丸ごとは、今現に、命であるあなたと共に御父の懐深くに匿われ、決して損なわれることがありません。
私たちを襲う不安、焦り、失望、そして、そこに作られる頑なな罪へのこだわり、自己義認へのこだわりから私たちを救い出し、あなたの力強い御手に信頼し、柔らかな心と、柔らかな思いで、あなたにお従いする本当の自由の内に生きることを得させてくださいますように。
力と憐みに富むイエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

 

 

 

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