礼拝

8月14日主日礼拝

週報

説  教  題  ヤーウェ・イルエ 神が備えて下さる 

       新野佳代長老(代読 八田郁代長老)

聖書個所  創世記22章1節~14節 ヨハネの手紙Ⅰ 4章10節

讃  美  歌    8,82,541番(54年版)

 

今日は神様によって選ばれたヘブル人、アブラハムの生涯を辿りながら私が思い巡らせたことをお話したいと思います。アブラハムの元の名は、アブラムと言います。ユーフラテス川のほとりのバビロニアのウルで産まれました。ウルの人々は月を神様として拝んでいました。遊牧民であった一族は父、テラの代で西へ西へと移動し、ハランまで来て定住しました。

 

 アブラムが75歳の時、天地万物をお創りになった唯一の神様が現れて、「アブラムよ、あなたは生まれ故郷、父の家を離れて私の示す地に行きなさい。私はあなたを祝福し、あなたの名を高める。あなたを祝福の基として据える。諸国民はあなたによって祝福に入る。」と言われました。アブラムに現れた神様は、アブラムが何もしない前に彼を選び、祝福を約束なさいました。それはアブラム一人の祝福ではありません。アブラムを通して諸国民が祝福に入るという祝福でした。

 

 アブラムは妻サライと甥ロトと召使と共に、家畜や財産を持ってカナン地方(パレスチナ)へと旅立ちました。75歳の旅立ちです。創世記の人の年齢には、誇張があるにせよ、アブラムが高齢だったのは間違いありません。年を取って慣れ親しんだものと決別し、どことも知れぬ新天地を目指すのは大変厳しいものです。アブラムの大きな決断があったに違いありません。彼は行き先が分からなくても、神様の言葉に従って歩み、多神教の世界の中に、行く先々で祭壇を築き、礼拝しながら進みました。私たちも毎週教会で礼拝をし、神様の言葉を聞き、先行きのわからない人生の旅を続けるのですから、アブラハムは信仰のモデル、信仰の父なのです。

 

 しかしここで気をつけなければならないのは、私たちが「人間アブラハム」のみを、立派だ、素晴らしいと評価してしまうことです。なぜなら、アブラハムの召し、呼び出しにおいて、大きな決断をしているのは実は神様だからです。

 

 神様は創造の時、人間を神様に似せて神様の型に造られました。人間は神様と親しく交わることのできる特別なものとして神様に造られたのです。そして神様は、人間を神様のお創りになった全ての命の管理者に任命なされました。しかし、初めの人、アダムが禁断の木の実を食べて以来、罪が人間の中に入り込み、人間は神様から離れてしまったのです。神様を避けるようになった人間は、悪に染まっていき、神様を悲しませるようなことばかりするようになりました。神様は大洪水を起こし、人間を滅ぼすとお決めになりましたが、人間を諦めきれない神様は、人間の再生のためにノアの一家を残しました。この世の全てが滅んだ時、神様は人間の愛ゆえに深く後悔し、「もう二度と洪水によって人を滅ぼすことはしない」と誓われます。悪い人間を一掃したからではありません。神様は、「人間は幼い時から心に思うことは悪いから」とおっしゃいました。心の悪い人間にとことん寄り添うと決心してくださったのです。洪水の後、ノアの一家から増えていった人間は、悪事を重ねました。しかし神様は、この人間たちを創造の始めの神様との良き関係に引き戻そうと救済計画をお立てになり、神様の民、イスラエルを起こそうとなさったのです。アブラムは神様の民、イスラエルの初めの人として神様に選ばれました。神様の並々ならぬ愛の決断ゆえに、アブラムは選ばれたのです。そのことが、アブラムの信仰の決断に勝って大きなことなのです。

 

 ところで私たちは、アブラムについてこうも考えるとおもいます。神様が選んだというからには、アブラムにはやはり人間的にも信仰的にも何かしらの秀でた資質があったのではないかと。ところが聖書はアブラムの失態と不信仰をあからさまにしているのです。

 

 アブラムは神様から受けた子孫繁栄の約束を信じることができませんでした。自分には子どもがいなかったからです。妻サライは不妊の女であり、月のものもなくなっています。そこで二人は、若い女奴隷のハガルによって子どもをもうけます。しかし、その子は約束の子ではありませんでした。

 

 また、アブラムは新天地カナンで、土地の支配者と、ある時は戦い、ある時は知恵を使って渡り歩きますが、ゲラルの王、アビメレクに妻サライを妹と偽ります。妻の美しさ故に自分の命が狙われると考えたからです。アブラムは自分を守るために、妻を危険な目に遭わせるような人でした。神様の介入で、妻サライは夫の元に戻りますが、アブラムは同じ失敗を二度もしています。

 

 さて、アブラムが99歳の時、また神様が現れて、「私はあなたと契約を結ぶ」と言われました。契約の内容は3つです。ひとつは、「あなたの子孫を増やす」です。この時アブラムは、アブラハム、諸国民の父という名前を神様から与えられました。サライは、サラ、諸国民の母という名を与えられました。もうひとつは、「カナンの土地をあなたとあなたの子孫に与える」です。もうひとつは、「私はあなたとあなたの子孫の神となる」です。

 

 子孫繁栄と土地獲得の約束は、これまでも神様が度々語ってきた約束です。アブラハムがなかなか信じないので、とうとう神様があなたと契約を結ぶとおっしゃったのです。しかもこの契約は神様だけが、アブラハムに約束し、神様だけがその責任を負うという、神様の一方的な契約でした。この契約は、創世記15章と17章と2回書かれています。15章はアブラハムが夢の中で見た契約です。真っ二つに切り裂かれ、向かい合わせにされた動物の間を煙を吐く炉と松明が通り過ぎるという夢です。炉と松明は神様でした。神様はアブラハムに対して、私が契約を守らなかったら、私はこの動物のように身を割かれても良いということを夢で示されたのです。

 

驚くべき神様の契約です。超越者が人間に〇〇を守れ、守らなければお前の命はないと脅かして人間に迫る話は、いくらも聞いたことがあるけれど、聖書の神様はまるで反対なのです。神様が人間に約束をし、守れなかったら私が罰を受けると神様がおっしゃるのです。神様が不信仰なアブラハムに、私の約束を信じなさい、信じなさい、信じなさいと、全力でなりふり構わず迫っていく感じがします。それなのにアブラハムは神様の約束を笑いました。この時彼は神様にひれ伏していました。神様にひれ伏す格好をしながら神様をあざ笑ったのです。サラも神様を笑いました。神様の愛の迫りがわからないのです。全能の神様を信じない、不信仰と不遜。

 

 聖書はイスラエルの先祖、アブラハムを決して美化しません。彼の不信仰と失態を隠さず書き連ねています。それは神様がこんな貧しいものを人類救済の神様の計画のために用いられるということでした。

 

神様は約束を実現します。アブラハム100歳、サラが90歳の時、男子が産まれます。子どもの名はイサク。「笑う」という名前でした。アブラハムとサラは今度は心の底から嬉しくて笑いました。

 

 話はこれでめでたしめでたしではありません。イサクが元気に育ち、少年になった頃、また神様が現れて今度は、「モリヤの山であなたの愛するイサクを焼き尽くす捧げものとして私に捧げなさい」と言われました。このご命令は絶対でした。私たちの人生にも、納得しようがしまいが、その中で生きるしかないという地点があるようなものです。アブラハムは次の日、イサクを連れてモリヤに出かけます。3日かけてモリヤに着き、神様の示した山の麓まで来ますと、アブラハムはイサクに薪を担がせ、自分はナイフと火を持って二人で山を登りました。途中でイサクが尋ねます。「お父さん、火と薪はあるけれど、焼き尽くす捧げ物の雄羊はどこですか?」アブラハムはそれはお前だとは口が裂けても言えません。「神様がご用意なさる。」と言いました。それから二人は黙って歩きました。山頂に来ると、アブラハムは祭壇を作り、薪を並べ、その上にイサクを載せました。アブラハムがイサクにナイフを振り降ろそうとしたその時、天から声がしました。「待て、そこまでだ。あなたが独り子さえ惜しまずに私に捧げる者だとわかった。」気が付くと、藪の茂みに、角を取られた一頭の雄羊がいました。アブラハムはそれを捕まえ、イサクのかわりに捧げ物にしました。

 

 「イサクを捧げよ」というのは神様の厳しい信仰のテストでした。恐らくアブラハムは、奇跡の子、イサクが大事で大事で、まるで神様のようにしていたのだと思います。ひょっとすると神様以上の存在にしていたのかもしれません。神様と神様に頂いたものを取り違えてはならなかったのです。神様はアブラハムの信仰の軌道修正を図ったのだと思います。イサクが10歳とすれば、アブラハムは110歳。信仰の父、アブラハムはこんな年になって、神様によって信仰の修正を受けなければならなかったのです。

 

 神様はアブラハムが身を割かれそうになるほど厳しく迫りましたが、その一方で、イサクの身代わりの雄羊をご用意しておられました。アブラハムはやっと神様の大きな愛に気が付いて、「ヤーウェ・イルエ 神は備えて下さる」と言いました。神様が私たちに必要なものを準備してくださるという告白です。アブラハムはこの時ようやく神様の前にひれ伏すものとさせていただいたのだと思います。

 

 私は北陸学院の高校生だった時、この物語を知り、ヤーウェ・イルエ(私たちの頃はアドナイ・エレでしたが、)の言葉を希望の言葉として記憶しました。自分の状況が好転するくらいの意味で理解していたと思いますが、今、60を過ぎて、改めてこの聖書箇所の奥深さが示され、心が揺すぶられています。

 

アブラハムは独り子さえ惜しまず捧げたというけれど、ほんとうに独り子を捧げてくださった方は神様ではないか!

 

独り子とは神様の独り子イエス・キリストのことではないか!

 

イサクの身代わりの雄羊とは罪ある私たちが受けねばならなかった罰を私たちに代わって受けて十字架で死んだイエス様のことではないか!

 

ああそうか、と思いました。イサク奉献物語には、イエス様の十字架における神様の愛、神様の救いの物語が、透かし彫りのように入っているのです。ということは、神様は救いのご計画の初めから、イエス様を私たちのために準備なさっていたということです。

 

 ヤーウェ・イルエ 神様が備えて下さったものとは、イエス様のことなのだとここに暗示されているのです。

最後に、ヨハネの手紙1、4章10節をお読みします。聖書をお開き下さい。(445頁)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

私たちはこの神様の、とてつもなく大きな愛によって、生きることを許されている者なのです

 

 

 

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