礼拝

7月31日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  五つのパンと二匹の魚 大澤正芳牧師

聖書個所  ヨハネによる福音書第6章1節~15節

讃  美  歌    324(54年版)

イエスさまの福音を語り伝える福音書が、なぜ、四つあるのか?

   

語れども語れども語り尽くすことのできない主イエスの恵み、主イエスのご愛があったからです。

 

福音書記者たちが、このお方をご紹介するためには、自分も初めから終わりまで書かなければならないとという使命感に駆られたからです。

 

特に語っても語っても語り尽くせない主イエスの恵みの豊かさを意識していたのは、私たちが読み続けているヨハネによる福音書の著者であり、その教会であったと思います。

  

ヨハネによる福音書が記録するイエスさまの御言葉、出来事は、独自のものがほとんどです。

 

まだ知られていない主イエスのお姿を、紹介することこそ、神さまから与えられた自分の使命だと信じていたのです。

 

どれほど、ヨハネがその語り尽くせぬ豊かさに圧倒されていたか。彼は、福音書の最後21:15に名残惜しそうに次のように記しています。

 

「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。そのひとつひとつを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」

 

自分はここで書き終えるけれども、イエス・キリストこのお方は、もっともっと豊かなお方なんだ。このお方について、もっともっと伝えたいことがあるんだ。名残惜しそうに筆を置くのです。

 

このような前提を知ると、他の三つの福音書と何でヨハネが全然違うのか理解できますし、それだけに今日司式者に読んで頂いた個所が、本当に、珍しい個所であることが分かると思います。

 

五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人以上の人を養ったという物語です。

 

この物語、実は、四つの福音書が共通して語っている数少ない主イエスの出来事の内の一つなのです。

 

主イエスの豊かな恵みを証しするために、まだ誰も語っていない側面を自分は証ししようと志したヨハネ、また、それを書き終えて、本当はまだまだ語れることがあると言ったヨハネが、他の人の証しと重なるとしても、これだけはスルー出来ないと思った出来事の一つが今日の物語なのです。

 

五つのパンと二匹の魚というほんのわずかな食料によって、群衆が養われたという奇跡を報告する物語です。

 

この驚きの出来事が起きた時、大勢の群衆が主イエスの後を追って来た、従って来たと、どの福音書も語ります。

 

ヨハネでは主イエスのなさったしるしを見て、その人たちは、主の後を追って来たと記されます。

  

山に登られたイエスの周りには、十二弟子がおり、そこを目指して、ふもとから群衆が登って来たのです。

 

その群衆の姿を見ながら、主は十二弟子の一人のフィリポにお尋ねになりました。

 

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」

 

6節によれば、これは、フィリポを試みる問いであったと言います。主イエス御自身は、これから自分が何をしようか知っておられました。

 

フィリポはこの問いに答え損ねました。

 

「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」

 

一デナリは、労働者の日給と言われます。最低でも一人の労働者の二百日分の働きで生まれるお金がなければ、ここにいる人が食べることはできない。しかし、それでも、足りるかどうか?つまり、ここにいる人たちのための食事を整えることは不可能なことですとフィリポは答えたのです。

 

男五千人であったと言います。これは男しかいなかったというわけではなく、成人男性だけで五千人ということです。すると、おそらく女性と子供を合わせると、その場には、優に一万人を超える人々がいただろうと考えられています。

 

一万人を養うために最低でも二百デナリオン、それでも二、三百円のお弁当、一人一個程度。

 

しかし、そのようなお金は、ありませんでした。フィリポの答えはとても常識的な答えでした。

 

十二弟子の一人、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、被せて主に申し上げました。

 

「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

 

確かに何の役にも立ちません。何の役にも立たないことをわざわざ数えて報告に来たのは、主イエスの問いが、不可能であることを改めて、強調するためであったのでしょう。

 

五つの大麦のパンと二匹の魚を持っていた少年でした。

 

この少年、少年奴隷を指す言葉が使われていると指摘する者があります。その少年奴隷が持っていたパンは大麦のパンでありました。

 

何気ない記述のようですが、大麦というのは基本的には家畜の餌であったと言われています。その家畜の餌になる大麦で作られた少年奴隷の携えていたパンです。

 

弟子たちがかろうじて用意できたものが、どんなに貧しいものであったかということなのです。

 

こんなに小さく、こんなに貧しいものが、一万人の人々の食事を用意するという問いの前で、一体何になるのか?

 

しかし、そこで、主イエスは、人々にその場に座るように命じ、その貧しいパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。

 

他の三つの福音書と違い、ヨハネによる福音書では、弟子たちの手を借りず、主イエス自らがその手ずから、群衆一人一人にパンを分け与えられたことが示唆されています。心動かされる記述です。

 

また、魚も同じようにして、主イエス自らが、一人一人に、同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。

 

四つの福音書とも、主イエスが感謝の祈りを唱え、祝福されたパンを分け与えられた時、皆が満腹したと記録します。

 

さらに、そこにヨハネは、「欲しいだけ分け与えられた」という表現を付け足します。これによって、それがどんなに豊かな食事であったかが強調しているのでしょう。

 

およそ一万人もの人々が、この主の手ずからの奇跡によって食べて満腹した後、初めて主は、弟子たちに命じられました。

 

「少しでも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい。」

 

弟子たちが集めると、パンの屑は十二の籠にいっぱいになったとあります。

 

十二人の弟子たちに一籠ずつ、弟子たちは、その重みをずっしりと感じながら、この圧倒的な出来事に驚きに驚き、また自分たちの不信仰を恥じたと思います。

 

自分は常識しか見ていなかった。主イエスというお方を少しも勘定に入れていなかった。

 

なぜ、この出来事が、ヨハネによる福音書の記者にとって、忘れがたく大切なものであったか?他の人が既に証ししたものであったとしても、どうしても語らなければならないと思ったのか?

 

私は、かつて金沢長町教会の牧師であった平野克己先生の次の言葉を読んで、深く納得いたしました。平野牧師は言います。

 

「主イエスはひとびとと飲み食いすることが好きでした。『大食漢で大酒飲み』と悪口を言われるほどでした。洗礼者ヨハネとは対照的に、弟子たちに断食を命じませんでした。十字架の前夜も弟子たちと食卓を囲み、復活のあとも弟子たちと食事をしています。ある日の朝食は、主ご自身が火を起こし、焼き魚とパンを用意されています!/信仰。それは精神的なこと、抽象的なことではありません。主イエス・キリストを信じるとは、食事のにおい、生活のにおいが立ちこめているところで、この肉体をもって、具体的に主に従うことです。」

 

とても愉快な言葉だと思いました。主イエスの御姿が本当に身近に、ありありと感じさせる言葉です。

 

そしてまた、これは福音書記者ヨハネが大切にしていること、ヨハネがどうしても伝えたいことと一致しているなと思いました。

 

それは、神の言葉である御子が、この世界を創造されたという信仰、また、その神の言葉である御子が、肉となって、私たちの間に宿られたという冒頭の1:10と1:14で、はっきりとヨハネが証しした言葉と重なります。

 

イエス・キリストの信仰。それは精神的なこと、抽象的なことではありません。なぜならば、このお方は、天地万物、この宇宙の造り主であり、また、この世を裁くためではなく、世を救うために、肉となって、世に来られたお方だからです。

 

福音書記者ヨハネは、恵み豊かなイエス・キリストを自分の筆によってもご紹介する使命を与えられました。その際、まだ書かれていない、その豊かさをなるべく新しく証しすることを目指しました。

 

しかし、どうしても、主イエスが、私たちの体に関心を持っておられる方、私たちの日毎の糧に、関心を持っておられる、天地の造り主、この世の造り主、それどころか、この世を救うため自ら肉を取って来られた方であることを、語らないわけにはいかなかったのです。

 

男だけで五千人、女性と子どもを合わせれば、おそらく一万人以上、主イエス・キリストは、その人たちが食べて満腹するまで、一人一人にその手ずから、パンと魚を配って回るほどに、私たちの体の命に高い関心を持っておられるのです。このことは、どうしても語らないわけにはいかなかったのです。

 

けれども、話はこれで終わりませんでした。

 

14節以下です。

 

「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』」と言って、主イエスを自分たちの王にするために連れて行こうとしました。

 

しかし、15節、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」とあります。

 

ある人はここで使われる「連れて行こうとした」という人々の行動を表す動詞が、なかなか劇的な言葉であることを示唆します。

 

それは、「かどわかす、誘拐する」とも、訳せる言葉が使われているというのです。

 

少しの糧を無尽蔵に増やされたこの方こそ、世に来られる預言者、かつてのモーセのような、エリヤのような奇跡を行う預言者だと、思いました。

 

今の時代においては、我々の王にふさわしい方と、祭り上げようとしました。

 

祭り上げるどころか、無理やりかどわかし、自分たちの願いに仕えさせようとしました。

 

しかし、その時、主は、ひとり山に退かれました。

  

ある人は、ここに共観福音書が語る悪魔の誘惑と同じものを見出し、主イエスは、この世の権力の座に就く誘惑をこれによって退けたのだと解説します。

 

そういう面もあるかもしれません。けれども、それならば、私などが思うのは、ここは一度、権力の座に就いておいて、ゆっくりゆっくり、時間をかけて丁寧に教え、人々の自己中心的な考え方を変えて行くことをなさればよいとも思います。

 

しかし、主イエスは、誤解を受けたまま、ひとり退かれました。

 

なぜだろうかと思います。なぜだろうかと思いますけれども、主イエスがもたらそうとする救いに必要なのは、教育によって、人々の考えを変えて、正しい信仰を示すことではなかったからだと思います。

 

救い主は人間のための打ち出の小槌ではなくて、人間が仕えるべき主だと、じっくり教えれば済む話ではなかったからだと思います。

 

それでは、私たち人間が救われるためには何が必要なのか?

 

この出来事が起きたのは、4節、ユダヤ人の祭りである過越し祭が近づいていた時であったと言います。

 

何気なく書かれた言葉ですが、福音書記者ヨハネは、ここに大きな大きな意味を持たせています。

 

かつてユダヤ人の先祖たちがエジプトで奴隷であった時に、モーセを指導者として、その奴隷状態から脱出することができました。

 

そのエジプト脱出の夜、人々は、神がモーセにお命じになった言葉に従って、自分の家の出入り口に、子羊の血を塗りました。

 

その血が塗ってあるユダヤ人の家の前を主の使いは通り過ぎ、その血の塗っていないエジプト人の家の長男はことごとく打たれました。

 

その子羊の血によって、主の災いが通り過ぎた、過ぎ越した、そして、奴隷から解放されることになった。そのことを記念する祭りです。

 

この過越しの祭りの日には、人々の命を守るために流された羊の犠牲にならって、毎年、いけにえの羊が殺されました。

 

ユダヤ人たちは、毎年この季節になると、羊のいけにえを捧げながら、再び訪れる神さまによる決定的な解放、主の日と呼ばれるあらゆる軛からの完全な解放を待ち望みました。

 

王として祭り上げることを拒否して、主イエスが退いて行かれた道、それは実に過越しの小羊のように、ご自身の体を裂き、血を流される十字架への道でした。ヨハネはそのことを意識して、この出来事が起きた時が、過越しの祭りが近づいた時であったとわざわざ言ったのです。

 

五つのパンと二匹の魚の奇跡によって、私たちの心と霊のみならず体をも含んだ、私たちの全存在の主であり、救い主であることを明確に宣言されたお方は、私たちを置いてさらに先に進まれます。

 

このお方の祝福によって無尽蔵に増えるパンと魚は、人間にとっての決定的な救いに私たちには見えますが、しかし、それもまた、やがて聴く6:26で主イエスが仰るように、救いそのものではなく、しるしでした。

 

先に引用した平野牧師の言葉は、次のように続きます。

 

「五つのパンと二匹の魚をもって大群衆を満腹させ、それでも十二籠分のあまりが出た。実に大きな奇跡です。けれども、これは小さな奇跡であったとも言えるかもしれません。三十分も経たないうちに、目の前にあった食べものはひとびとの胃に消え失せてしまったのですから。しかも、さらに半日もすれば、また同じ空腹感がやってくるのです。/それだけに、福音書記者たちは、わたしたちが手にするパンと魚に、まったく日常的なにおいに、しかも一瞬で消えてしまう食べものの向こうに、神のお姿があることを繰り返し語ったのでしょう。」

 

平野牧師がこのように語った、一瞬で消えてしまう食べ物の向こうにある神のお姿とは、世の罪を取り除く過越しの小羊である主イエスの姿、十字架の主イエスのお姿に他なりません。

 

私たちこの世が本当に救われるためには、この時、群衆を養ったパンを越えて、そのしるしが指し示す真のパンであり、私たちこの世を生かす真の糧であるキリストの十字架を必要としたのです。

 

だから、ここで主イエスが、群衆の強い期待を退け、群衆の元からただお一人退かれたことは、実は、人々の期待を裏切ったようでありながら、彼ら自身がいまだ気付かない深い深い本当の必要を満たすためでありました。

 

実に、主イエスが一人歩まれた十字架の元でこそ、無尽蔵の恵みの糧は、この世に向かって開かれたのでした。

 

しかし、残念ながら、このことに気づいた者は誰もいませんでした。

 

この物語は読み進めるごとに、私たちこの世の無理解の深まって行くことが明らかになるばかりです。

 

けれども、私たちこの世の無理解が、このお方の歩みを遅らせたり、止めることはできなかったのです。

 

主は真っ直ぐに、十字架へと突き進んで行かれます。

 

そしてその二千年前にこの世界の中に立った十字架から今も私たちこの世が望みもしない本当の救い、本当の慰め、本当の命が、今も滔々と流れ出ているのです。

 

渇いている者は値なしに、欲しいだけ満腹するまで、この方を味わうことが許されているのです。

 

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