礼拝

2月18日 主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書21章20節~25節

説教題 あなたは、わたしに従いなさい

讃美歌 161,294,504,26

2022年2月20日からちょうど二年間、主の日の礼拝で読み続けてきたヨハネによる福音書をとうとう今日、読み終えます。

数か月前は、元町教会を去るまでに、この福音書を読み終えることができるかと、ちょっと心配していました。しかし、今日読み終えて、あと数回、自由な聖書箇所から説くことのできる余裕も与えられ、ほっとしています。

これまで、この場所で、マタイによる福音書を読みました。第Ⅱコリント書を読みました。そして、ヨハネによる福音書を読みました。また、折々に自由な箇所から聖書を読み、説き続けてきました。その間、自分自身は与えられた神の言葉に打たれないで説教を語ることは、一度もありませんでした。そのことを私は、ほっとしていると言うか、神さまに感謝しています。

この金沢元町教会は、私にとって、初めて主任牧師としてお仕えした教会です。それまでは、月に一回、多くても二回程度の主の日の礼拝説教でした。だから、毎週毎週説教を語るというのはどういうことになるだろう?と、赴任前には、多少、心配していました。正直なことを言うと、その内、語り尽くして、それからは通り一遍の常識的な聖書のお話をする日が来るのではないか?自分でもつまらないと思いながら、お茶を濁すような説教をする日が来ることもあるのではないかと、少しだけ心配していました。けれども、少なくとも私自身は、つまらないと思いながら、説教をしたことは、ついに一度もありませんでした。

それは、もちろん、7年間に及ぶ金沢元町教会牧師として語らせて頂いた私の説教が、いつでもイエス・キリストの福音の真理を余すところなく語ったものであったということとイコールで結ばれることではありません。自分は自分のできる範囲で、力を込めて準備し、情熱を感じながら、語っては来ました。しかし、むしろ、イエスさまの輝きをぼやけさせてしまうような失敗も数多くあったのではないかと思います。そちらの方がずっと多いと仰る方が、もしかしたら、いるかもしれません。それは、不本意で、残念ですけど、それはそうなのだろうと思います。私は、イエス・キリストの福音の素晴らしさの僅かな断片しか、語りえなかったと思います。

説教はいつも完全なものではなく、断片であるというのは、説教の使命を与えられた教会の一つの宿命だと思います。だからこそ、同じ聖書箇所で、何度でも何度でも説教ができます。同じ聖書箇所から語られる説教が、語る牧師によって、全然違った説教になります。一つの説教は、必ず、次の説教によって、補足され、訂正されなければならないものだと思います。これを説教学の教科書は、説教の断片性と言います。

なぜ、説教には断片性が付き纏うのか?古代の神学者アウグスティヌスという人が、次のように言ったそうです。私たち人間が、主なる神さまの真理を解き明かすのは、大きな海の水を小さな貝殻を入れ物にして、汲み出そうとするのと同じようなことだと。御言葉の真理は汲めども尽きず、私たちは神さまの豊かな恵みの本当にわずかな部分をほんの少し掬い上げるに過ぎないゆえに、断片であることを免れ得ないのです。

中世最大の神学者、トマス・アクィナスも、20世紀最大の神学者カール・バルトも、途方もない分量の言葉を尽くして、聖書に証される福音の真理を解き明かそうとしました。しかし、その二人ともに、自分の仕事が、必ず訂正される途上のものに過ぎないことを知っていました。

でも、これもまた、古代の神学者の言葉として、以前にご紹介したことがあります。砂漠を旅して喉がからからに渇いている者は、やっと見つけたオアシスの水を自分が飲み尽くすことができないということで嘆くことは決してないのです。少なくとも、私は、私自身は、自分が説教準備のために聴いてきた御言葉に心打たれてきました。それを説く自分の説教の言葉に養われてきました。それが福音の真理の全体を普く語り尽くすことのないほんの僅かな断片の貧し過ぎる言葉であるかもしれません。しかし、小さな貝殻で掬った水は、私をこの教会の牧師として生かしてくれました。でも、やはり、もっと語れること、もっと語らなければならなかったことが、あったのではないかとも思いますし、そのことを申し訳なく思います。

先週の一週間の間、何人もの教会の仲間と様々な場面で語り合いました。その中でも、あれもこれも、まだ十分に語り尽くせなかった、伝えきれなかったと思う瞬間がありました。けれども、同時に、これは多分、一つの教会に10年仕えようが、20年仕えようが、同じ心持ちになるのではないかとも思いました。なぜならば、私たちが聴こうとしていることは、今日最後にお読みしている福音書記者ヨハネの言葉の通りのことだと思うからです。

 「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」

引っ越し準備をしながら、途方に暮れるのは、牧師室のその本の量です。私は決して蔵書が特別に多い牧師ではありません。でも、三月の引っ越しに向けて蔵書を段ボールに詰めつつ、単純計算すると、多分、2000冊を越えています。そして、その約97パーセントくらいが、教会関係の本です。聖書一冊、たしかに分厚い本です。しかし、この一冊の書物を巡って、2000冊です。しかも、私の持っている本の数など、たかが知れています。

 福音書記者ヨハネは、教会が誕生して、100年くらいの時代に生きた人です。その人がその時、既に「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」と言いました。それは、今、ますますリアリティを持った言葉に思います。そして、今日も、世界中で、主イエス・キリストの福音の証しが、諸教会において、新しい言葉で紡ぎ出され続けています。 何で、こんなにも語られ続けるかと言えば、そこに汲めども尽きせぬ命の水の源があるからです。自分の小さな貝殻で汲みながら、喜んでその命の水を飲んでいるのです。

この豊かな聖書から頂く命の水、それは、具体的に言えば、生けるイエス・キリストとの出会いのことです。聖書が汲めども尽きせぬ命の水の源であるのは、それがイエス・キリストとの出会いを与えるからです。その書の証言を読み、聴く私たちに生けるキリストが出会ってくださいます。私たちの罪を裁くお方として、出会ってくださいます。私たちの罪を赦すお方として、出会ってくださいます。私たちのために十字架におかかりになったお方として、出会ってくださいます。私たちのためにご復活されたお方として、現前してくださるのです。

私たち教会はこのように信じています。聖書が説かれる度に、そのキリストをご紹介する言葉によって、今、ここに生きておられるキリストのお姿が見えるようになる。そのキリストご自身が身を乗り出して、ご自身を私たちに見えるようにしてくださる。どんなに小さな証の言葉においても、どんなに貧しい説教の言葉においても。この私たちのため、この私のために、身を向けてくださっているキリストとの出会いが必ず与えられます。

シモン・ペトロと現前される生けるキリストとの出会いの物語を先々週から読み続けております。なぜ、読むかと言えば、その物語が教会によって語り直される時、ここで私たちにも、主が出会ってくださる出来事が起こると約束されているからです。主イエスと、ペトロの出会いが語られる時、そこに、主イエスと私たち自身の出会いが起こります。

先週、お読みした箇所において、シモン・ペトロは、ご復活の主イエスと一対一の対話をなさいました。そこで、まさにペトロに向かって、ペトロを目指して、いくつもの言葉を語ってくださいました。ペトロは、主のお言葉を夢中になって聴いたと思います。十字架に向かわれる主を、裏切ってしまった自分です。主に予告されていたにも関わらず、そんな貧しい自分であることを認めることすらできなかった自分です。そのように主への愛に挫折したペトロを傍らに招き寄せて、お甦りの主は語ってくださいました。その主の御言葉は、このようなペトロの罪を徹底的に裁きました。しかし、また、そのペトロの自己中心を徹底的に癒してくだいました。

その終わりにお甦りの主は仰いました。

「あなたは、若いときは、自分で腰に帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

これは、ペトロがどのような死に方で、神の栄光を表すことになるかを示そうとして、主イエスがお語りくださったことだと福音書記者は言います。ペトロはその信仰に殉じて死ぬ。つまり、殉教するのだと語られたのです。「殉教」と訳されるようになった言葉は、元々、「証言」者という意味があります。つまり、殉教者とは、その死が、主を証するものとなる証言者のことなのです。ペトロの死は、神の栄光を表す証言として用いられると約束されたのです。主の羊を飼うこと、そして、その死によって主の栄光を表すことが、ペトロに与えられました。これが、ご復活の主が、ペトロの傍らにあって、ペトロの目を覗き込んで、ペトロに語ってくださった、ペトロの使命でした。

この使命を主イエスの生けるお言葉として、聴かせて頂きました。ペトロは、これを主の弟子たる者の使命として、しっかりと受け止めただろうと思います。ここにキリストの弟子の戦いがあると。本当に真剣に受け止めたのではないかと思います。

けれども、その時、ふと一人の人の姿が視野に入りました。20節です。

「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である。」

ペトロは、彼の近づいて来るのを見て、主に問います。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」

あなたの愛しておられるこの人はどうなるのでしょうか?彼もまた、私と同じように、殉教するのですか?主の弟子たる者にふさわしく、その死によって、主の栄光を表すのですか?ふと、自分以外の主の弟子が気になったのです。

解説者によれば、ここには、ただ、ガリラヤ湖のほとりでのご復活の主イエスとペトロの出会い、また、ペトロに続いて主に従って来る、主に愛されている者の姿の記憶が記録されただけではないと言われます。ここには、記録された実際の場面を越えて、その後の、ペトロと、主に愛される弟子のそれぞれの属した教会の姿が反映されているだろうと言います。すなわち、ペトロをリーダーとした教会と、主に愛されている弟子をリーダーとする教会、その二つの教会のその後の歩みをも、重ね合わせられて描かれているだろうと言います。

この二つの教会が必ずしも、一つの共同体と言えるような関係にはありません。主に愛されている者の教会、おそらくは、このヨハネによる福音書を生み出した群れであると考えられています。その別の群れに向かって、ペトロの教会が言うのです。

「主よ、この者たちはどうなのですか?」

この者達もまた、あなたの教会であるならば、主よ、あなたの愛弟子の群れであるならば、この者達が歩む道のりも、当然、私たちと同じものになりますね?私が主の弟子として殉教するのであれば、当然、あの者も、あの群れも、同じ苦難の道を辿りますね?

このような問いは、いつでも不適切なものではないように思います。主の弟子、キリスト教会とは、おしなべて、どのような群れであるのか、明らかにするための自然な問い、私たちの信仰の筋道を明らかにするための問いであるとも言えます。しかし、同時に、嫉妬や、僻みや、うらやむ思いから生まれる問いである場合もあるでしょう。あるいは、咎めたり、主に密告するような思い、主だけを見つめることから逸れてしまったまなざしから生まれることもある問いでもあると思います。それだけでなく、自分は良いけれど、親しい者が、主に従うことによって自分と同じような苦しみを通ることになることは耐えきれないという配慮の問いである場合もあると思います。

「主よ、この人はどうなるのでしょうか」

この人も、主の弟子として、困難な道を歩むことになりますか?私のように苦労しますか?あなたが私にお与えになるような重荷を、厳しい信仰の戦いを、この人も、同じように負わなければなりませんか?

その問いが、どういう感情から湧いてきたものかはわかりません。自分ばかりが苦労させられるのは納得いかないということか、自分と同じような目に遭ってほしくないということか、、、妬みか、配慮か、それは、あまり、問題ではありません。なぜならば、主はペトロにきっぱりと仰います。

「わたしが来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

あなたは、わたしに従いなさい!!わたしの与えるあなたの使命にただ忠実でありなさい!!あなたはあなた、彼は彼。それ以外は、余計なお世話だ!!

ある著名な説教者は、「ここでは無関心が薦められている。人のことなどに構うな。だれがどのような道を歩もうと、あなたよりも、幸せな道を、あの伝道者この伝道者が歩もうと、それがあなたとなんの関係があるのか。あなたは、わたしに仕え抜くがよい。」という主のお言葉であると言います。

主イエス以外、ほかのだれに対しても無関心であっていい、強烈な言葉です。しかし、その説教者は、これは厳しい言葉だけれども、また、ありがたいみ言葉であると言います。

私たちは、あれもこれも、たくさんのことがあり過ぎて、たくさんのことを気にし過ぎて、身動きが取れなくなることがあります。自分の使命に単純に従えなくなることがあります。けれども、主に愛されている他の者を振り向き、気にする私たちに、主は仰います。

「わたしが来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

この主の断ち切る言葉によって、ペトロは他人に対する好奇心、他人に対する嫉妬、他人に対する心配、それら全てから切り離されます。あなたはあなた、彼は彼。それ以外は、余計なお世話だ!!彼とわたしの出会いは、あなたの手の内にはない。あなたは、わたしから目を逸らすな!!

もちろん、それは、他の弟子仲間を、あるいは他の教会共同体を単純に捨て置くということでは決してありません。自分の、また自分の歩みの断片であることを受け入れなさいということであると私は、聴きます。私たちは神ではなく、人であるということだと聴きます。つまり、私たちが主に代わって、立ち入ることの許されない、主と隣人の領域があるのです。真に、厳しいことでありながら、それ以上に、真にありがたいことです。

「あなたは、わたしに従いなさい」

そして、ここにも、この言葉を語りかけられる主と、それを聴く私だけの誰も立ち入れない領域、誰も、間に入って来ることのできない領域があるのです。あなたはわたしに従っていい。安心して従っていい。完璧を目指さなくていい。人と比べなくていい。あなたは、あなたとして、わたしに従っていい。

このような言葉を主は、この私たちにも語りかけていてくださるのです。そこには、主のほか誰も立ち入れない。牧師だって立ち入れない。そういう主と私だけの奥まった部屋があるのです。良くも悪くも、隣人を心にかけ続けて生きている私たちですが、主は、限界を設けられます。

ここから先は、あなたの立ち入る所ではない。それは、厳しいけれども、ありがたいことです。主の使命を与えられた私たちではありますが、なお断片であることがゆるされており、ただしるしであることがゆるされているということだからです。それは、私たちの限界が主の限界ではないということでもあります。ペトロの立ち入ることのできない先にも、主は進んで行かれるのです。つまり、主ご自身が、主に愛されている弟子との出会いを果たされるのです。その系譜に属する福音書記者自身が証します。

「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」

ペトロがまだ知らなかった、知る必要のない主と人間の出会いがあるのです。主とその弟子の新しい出会いと対話が、生まれ続けて行くのです。

しかし、「あなたは、わたしに従いなさい」

あなたは、あなたで、わたしに従いなさい。

完璧でなくて良いのです。断片で良いのです。

この主の招きを受け、ただ主だけを見つめ、このお方に従う歩みを、ここで作り続けていく唯一無二のお一人お一人であり、世界でたった一つの金沢元町教会なのです。

 

 

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