礼拝

8月1日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  「平和望む方」 桶谷忠司牧師

聖書個所  詩編35章22節から28節

讃  美  歌    494(54年版)

今日、与えられた詩編35編の詩人は主なる神様にひたすら呼びかけています。22節で「沈黙なさらないでください。私の主よ、遠く離れないでください」と祈っています。詩人は、危機の中、試練にあって、主なる神様を呼び求めているのです。

私たちも今、危機的状況にいます。昨年の春から新型コロナウイルスが蔓延して、生活が一変しました。マスクを着用し、学校や職場、家庭においても距離をとって密にならないようにしています。職場ではリモートでできる仕事は、自宅でコンピューターを使うことが推奨されています。教会の礼拝においても同じように制限されています。私自身もそうですが、皆さんもこのような生活にストレスを感じておられることと思います。

人間には「生老病死」という4つの苦しみがあります。生まれてきた苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死への苦しみ、これらの苦しみから私たちは逃れることはできません。新型コロナウイルスは病の苦しみであり、死への苦しみであります。

コロナ禍は、「わざわい」であり、巣ごもり、スティホーム、クラスター等新しい用語が次々と登場しています。今迄の当たり前に過ごしてきた生活が見直され、密から疎へと変えられています。感染拡大を防ぐためには仕方がないことですが、多くの人々がストレスを抱え、心の病にかかる人も大勢います。コロナ禍・わざわいは、私たち人間にとって好ましくない出来事、いやなことですが、果たしてそうでしょうか。私は、コロナ禍という言葉は好きではありません。むしろコロナ下と言った方が適切であると思います。コロナ禍という、わざわいの表現に人間の身勝手さを感じるからです。地球全体から見て、またウイルスの立場から見たらコロナウイルスが蔓延することは不思議なことではありません。コロナ禍という言葉に人間のおごり高ぶりがみられるのではないでしょうか。細菌やウイルスが蔓延する歴史は、これまでも幾度となく繰り返されてきました。新型コロナウイルスは、人間がつくりだした物であるとも言われています。私たちは、新型コロナウイルスの蔓延によって生き方が問われているのです。その根底には、人間は一人では生きていけないという事実と、人間はあくまでも罪人であるという事実です。このことを自覚しなければならないと思うのです。コロナはそのことを問うているのです。

詩編35編は、表題に「ダビデの詩」と書かれています。ダビデが敵との戦いの中、苦悩の中で祈った嘆きの詩編です。ダビデの訴えは、主なる神様が、私の祈りを聞いてほしいという切実な祈りであり、正しい裁きが行われることへの祈りでした。ダビデを脅かす人々は多くいたのです。彼らに公平な裁きを求めているのです。ダビデは統一王国の王として民を治めました。また王として他国の侵略に対しても抵抗しなければなりませんでした。

もちろん側近の大臣もいましたが、内部には謀反を起こしかけない人々もいたのです。権力闘争はいつの時代でもありますが、ダビデの時代もそれ以降の王国制度の下でも繰り返されてきました。ダビデは国王として40年間在位し、国の頂点に立っている故に、心休まることなく、心に不安を抱え、夜も寝られない時があったのです。詩編35編は、そのようなダビデが主なる神様に祈り求めている詩編です。

私たちは、時に重い責任を負わせられることがあります。そのようなときに不安や怖れに陥ります。教会の中でも例外ではありません。私事ですが、私は神学校に入学する前は、内灘教会に出席していました。総会の選挙で長老として立てられましたが、最初のころは、礼拝司式当番での聖書朗読やいわゆる牧会祈祷で、すごく緊張したのを覚えています。今も教師として立てられ御言葉を語る時も緊張しますが、神様にお委ねすることにしています。準備をしたら委ねて精霊の働き、助けと導きによるしか私たちはできないのです。今、オリンピックが行われていますが、アスリートたちもそのような思いなのではないでしょうか。練習に練習を重ねたアスリートたちは「強い気持ちを持って試合に臨みたい」と発言しています。本番では今までのことを信じて「あるがまま」の心で、そして私たちキリスト者は聖霊の導き、助けによって歩むのです。

ダビデもそのような思いが強かったのです。油注がれた者として、祝福された主として、孤独の中を為政者、政治を司る者として歩んだのでした。頂点に立つ人は孤独なのです。しかし、そのような中でダビデは神様と向き合い、祈り求めたのでした。ダビデは信仰深く、正しい人、義人とされていますが、反面、罪人でもあったのです。バドシェバと関係を持ち姦淫の罪を犯しました。このことは、人間存在の本質、二面性を聖書が語っているものであり、人間は誰でも罪を犯す9存在であることを示しているものです。

先ほど、長老に読んでいただいた少し前の20節には、「彼らは平和を語ることはなく、この地の穏やかな人々を欺こうとしています」と書かれています。ダビデは平和を願っていました。国と民の平和を願い、祈り求めていたのです。私たちは今、いろんな不安や恐怖の中にいます。日常生活も今までのように自由に活動できません。いろんな制約にしばられています。ダビデ王が生きた約三千年前は現代と状況が違うかもしれませんが、人間が存在する限り不安や苦悩はなくなりません。

今日は、私たちが属する日本基督教団が定めた行事である「平和聖日礼拝」です。毎年、私のような者が、金沢元町教会の説教者として立てられていることに改めて感謝申し上げたいと思います。平和せいじつは先の戦争を反省し、平和を祈念する日、平和を祈り求める日です。現代は、いろんな意味で人々の分断が起きています。敵か味方かという発想で異なる意見や少数者の声を聞かない風潮になってきました。平和は、この地上にあるのか?と私たちは疑いたくなります。ダビデ王もそのような中で神にひたすら祈り求めたのでした。私の祈りを聞き公平な裁きが行われますようにとの叫びの祈りなのです。この祈りに対し、主なる神様は、27節のかっこの中で応えられています。「主をあがめよ。御自分の僕の平和を望む方を」と・・・。これは、主なる神様が直接言われたのではなく、前の行いに「絶えることなく唱えますように」と書いてあるように、ダビデ王とイスラエルの民が主なる神様に対して唱えた祈りです。そして神様の御命令でもあるのです。「主をあがめよ」とは常に私をあがめよ!讃美しほめたたえよと神様が言われているのです。主に栄光を帰せよと命じられているのです。「御自分の僕」とはダビデが治めるイスラエルの民であり、神様が主権を持っておられる僕、イスラエルの民のことです。主なる神様は主人であり、私たちはその僕なのです。これは神様がすべてを創造された、全知全能の神であり、すべての被造物を支配されるお方であるということです。そしてその僕の平和を神様が望んでおられるのです。「主をあがめよ。御自分の僕の平和を望む方を」の聖句は、今日のキーワードであり、神様は私たちの平和を望んでおられるお方なのです。たとえ、どのような試練の中に、困難の中にあったとしても、平和を望まれ、平和を実現されます。

いろんな困難な状況にある私たちです。戦後の復興期や高度成長期のような高揚感はありません。しかしダビデ王が主なる神様に平和を望んだように、私たちにも平和が訪れるのです。平和が実現するのです。絶えることなくあなたを讃美し、感謝の祈りをささげたときに、平和が訪れます。平和聖日は、コロナウイルスの沈静化を祈り、ささげるだけでなく、神様による全世界の平和の訪れを祈り求める時なのです。自分を置いて、自己を捨て、他者と共存するときに平和が与えられます。主なる神様に対し喜び歌い、喜び祝い、絶えることなく神の御名を唱えたときに、神様が応答され、私たちに平和が訪れます。キリスト者は、そのことを信じて平和の中を歩み続けるのです。

 

祈ります。

主なる神様。ダビデは苦悩の中にありました。

神様に平和を祈り求めました。

私たちも今、困難な時代にありますが、そのような時こそ、あなたに立ちかえり、罪を自覚し歩ませてください。主を讃美する生活をさせてください。金沢元町教会を祝福の中においてください。病める人、労している人々にいやしと平安を与えてください。

主イエスキリストの御名により祈ります。アーメン。

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