礼拝

2月14日(日)礼拝

週報

説  教  題  「今こそ恵みの時」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1節から2節まで
讃  美  歌    358(54年版)

司式者に読んで頂いた短い2節は、教会は初めてという方、まだあまり聖書の語ることがわからないという方にぜひ、聴いて頂きたい聖書の言葉であります。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。…今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。この手紙を書いた使徒パウロが、ここに恵みがある、ここに救いがあると、指し示している個所です。これを見てほしい。これを見れば、もうばっちりなんだ。その意味で、隠れるところのない福音の神髄を語る言葉、土台である言葉が語られている個所、教会は初心者だという方に、どうしても聴いて頂きたい箇所です。

 けれどもまた、この言葉は、洗礼を受けて、長く教会生活を過ごしている者たちもまた、改めて聴くべき言葉であると思います。なぜならば、この福音の言葉は、全ての人に差し向けられている神の言葉ではありますが、使徒パウロが、まず語っているのは、コリント教会の人々、つまり、洗礼を受けて教会に加えられている信仰者に対してだからです。もちろん、その人たちにだけ適合する良い知らせを語っているのではありません。教会にとっても真実であり、また、全ての人にとっての真実である、ただ一つの福音、神の良き知らせです。神がくださる福音には、素人も玄人もなく、神が人間に与えてくださったただ一つのグッドニュースがあるだけです。ただそれは私たちの信仰の貧しさと神のくださる豊かさのゆえに、わかりきった、知り尽くした、味わい尽くすということがないのです。それゆえ、新来者も、求道者も、熟練のキリスト者も、ただ一つの恵みを生涯かけて頂くのです。

 そのただ一つの恵みとは、一体なんであるのか?改めて申しますと、それは、神との和解です。神さまと仲直りすることができるということです。直前の個所で、語られました。神はキリストをとおして、私たちをご自分と和解させたのだ。

 神さまと仲直りすることが、私たちに与えられた唯一の恵みとであると言われると、おそらく初めて教会に来たような人は、肩すかしを喰ったような気になるかもしれません。というのは、教会の門をくぐってくる方の中で、自分は神さまと仲たがいしてしまっている、それが苦しくて仕方がない、どうしたら神さまと仲直りできるでしょうか?などと、問いながら、来る人はほとんどいないからです。おそらく、今日ここにいる誰一人として、人それぞれ、教会につながるようになった事情は色々あるとしても、神さまと喧嘩していて苦しいと感じていた者はいないと思います。そうであれば、神が私たちに語り掛けてくださる福音というのは、私たちにとって、到底福音、すなわちよい知らせとして、直ぐに聞こえてくるようなものではないかもしれません。私たちは、自分たちが神様と仲違いをしていることに気づかないほどに、神さまから遠く離れた存在になってしまっています。

 けれども、こう言い換えたらどうでしょうか?私たちはそれぞれに生きづらさというものを感じています。あるいは、不満を持っています。それもまた、人それぞれ千差万別かもしれませんが、そういうことを一切感じないということはなかなかないと思います。今抱えている生きづらさ、生活の不安、不満が、もしも、解消するとすれば、もちろん何の不満も、不安もないという瞬間が訪れるかもしれません。けれども、そういう瞬間というのは、それほど長続きしないものではないでしょうか?一つ一つの不満をつぶしていっても、いたちごっこのように、新しい不満、新しい不安、また新しい生きづらさが、芽生えてくるようなものではないでしょうか?

 先週も少しだけ触れました。今、にわかに存在感を増してきています反出生主義という思想があります。簡単に言ってしまえば、生まれてこない方が良かったという考えです。これには、人生には良いことよりも悪いことの方が多い、満足よりも、不満であることの方が多いという、素朴で単純な、私たちの生活実感に、訴えるものがあると思います。

 聖書の見方においても、これは考えるに値しない意見ではありません。むしろ、聖書にも結晶化されている人間の原初的な実感であるとさえ言えるのではないかと思います。最初の人アダムがエデンの園から追い出された時、神は確かにこう言われたからです。「お前のために、大地は呪われた。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前は額に汗してパンを得る。土に還るときまで。塵にすぎないお前は、塵に還る。」たとえば、聖書の中の有名なコヘレトの言葉は、創世記のこの言葉を念頭に置きながら、この生涯を通して、人間は自分が動物と同じようなものに過ぎないことを、思い知らされることになるのだと語りました。

 しかし、なぜ、このような生きづらさの中に我々が置かれてしまっているかと言えば、社会学や、医学や、生物学や、心理学や、文学や、様々な学問が、その理由を分析し、それを解決する方法をそれぞれの仕方で語ると思いますが、聖書は、その理由を私たちが神と仲たがいしてしまったからだと言い、その解決法を、神と仲直りするようにと言うのです。人が抱える不安や、不満、生きづらさには千差万別色々あるかもしれませんが、それが何に由来するものなのか?さかのぼってさかのぼって、突き詰めて、突き詰めて言えば、それは、神さまと仲たがいしてしまったからだと言うのです。

 だから、アウグスティヌスという古代の神学者は言いました。「神よ、あなたはわたしたちをあなたに向けてお造りになられました。それゆえ、わたしたちの心はあなたのなかで憩うまで安らぐことができません。」

 もしも、聖書を熟読した彼が言うことが本当ならば、いくら医学が発達しても、心理学が発達しても、社会科学と政治が手を組んで理想的な人間社会を実現したとしても、私たち人間の心が安らぐことはありません。何によっても決して満たされない空洞を抱えたままになります。神と和解しなければ、神様と仲直りできなければ、どこかで生まれてこない方が良かったと言わなければならない、その言葉が真実である可能性と存在感をどこまでも持ち続けることになるのではないかと思います。

 それは無神論者であるか、有神論者であるか、関係ありません。事実、聖書には、いい加減な信仰者ではなく、正しく敬虔な信仰者でありながら、「わたしの生まれた日は消え失せよ。」(ヨブ3:3)、「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。」(エレミヤ20:14)という言葉を語らなければならなかった者達に声が記録されています。

 彼らは皆、自分と自分の生きる世界が、神が造られた全てのものをご覧になって、「それは極めて良かった」(創1:31)、素晴らしい世界だと喜んでくださったものであることを止め、神と仲たがいし、「生まれなかった方が、その者のために良かった」(マルコ14:21)と言われなければならない者となってしまっている呪われた自分と世界であることを、どんな悲観主義者や厭世主義者、ニヒリストよりも深く知っていたのです。今話題の反出生主義よりも深くこの世の呪われた現実、呪われた人間の命を、知っている聖書なのです。

 ところが、これで終わりではありません。聖書はたとえばギリシア神話のように、こうしてパンドラの箱が開けられると、災難というものが一切なかった世界に、悲しみと苦しみがまき散らされてしまったというような世界の苦しみの説明、世界観を提示しようとするものではありません。

 聖書は福音を語ります。神話的な時代以来、我々人間とは切っても切り離せない関係となっている呪われた大地に生きるような人間の現実、それを引き起こした神との仲たがい、それは永遠不変なものではないと言うのです。そのような神話的と言うほどに古い古い強固な人間のありさまは、過ぎ去り、新しい時代が始まる。この私たちの、不倶戴天の敵になってしまった神が、キリストをとおして、私たちをご自分と和解させ、もはや、我々の罪の責任を問うことはしなくなったと宣言するのです。もう罪は問われない。神さまはもう敵じゃない。神さまともう仲直りしている。

 それは、教会に来たばかりの頃の人にとっては縁遠いような言葉であるかもしれません。思いもよらないような神さまと仲たがいしているという前提をよくわからないままに、押し付けられたように感じてしまうような言葉であるかもしれません。でも、これは、こう言い換えることができる言葉だと思うのです。「あなたが生まれてきてくれてよかった。あなたが存在してくれて嬉しい。あなたが生きていることがわたしの喜びだ。」そういう神さまの言葉が私たちに向かって語られているということです。「何もできなくても構わない。どんなあなたでも迷惑だなんて思わない。ただあなたがいることが私は嬉しんだ。あなたは、誰にも何にも代えがたい私の宝だ。」そういう風に神さまが私たちに向かって語っておられる。神の言葉が比類のない深さを持って、私たちの「生まれてこない方が良かった」呪いの現実を見据えていたように、キリスト・イエスの出来事を通して私たちに新しく語りかけられている神の言葉は、私たちを支え、生きる勇気を与えてくれる誰のどんな言葉よりも、深く深く根っこの根っこから、私たちを丸ごと祝福する揺るぎのない言葉です。ある神学者はこんな趣旨のことを言います。私たちは生きることを強制されてはいない。「生きなければならない」のではない。私たちの命は、ねばならない命ではなく、許された命なんだ。「あなたは生きていてよい」。ありのままに、まるごとのあなたが生きているだけでよい。その言葉を聞くことが、神の赦しの言葉を聞くということです。

 第5章から今日の個所に至るまで、見えるものではなく、見えないものに目を注げと言われてきました。それはまた、今私たちが聞いたことから、言い直すならば、この世界の中に、私たちが呪われていて、私の人生には生きる価値がないと語り、証明する目に見える証拠が、数多く存在するとしても、神さまはそのすべての証拠を吹き飛ばし、かき消す、終末的な大声でもって、「あなたが生まれてきて嬉しい」と、断固、お語りになるということです。この世のすべては過ぎ去るものです。父親の声も、母親の声も、教師の声も、上司の声も、同僚の声も、友人の声も、新聞の声も、政治の声も、心理学の声も、夫の声も、妻の声も、自分自身をダメだしする自分の声も、目に見えるものも、神に由来しない目に見えないものも、全部過ぎ去ります。けれども、草は枯れ、花はしぼんでも、神の言葉はとこしえに立ちます。(イザヤ40:8)私たちは、生まれてきて良かったのです。イエス・キリストの父なる神さまが私たちのことをそういう風に喜んでいます。「今のままのあなたが生きていていいよ。今のままのあなたが生きていて嬉しいんだ」。

 私たち人間は、この神の言葉を受け止めるのが、本当にへたくそであると思います。自分が神様から離れていることすら気付かない私たちは、同じように、福音を聞くのもへたくそです。

洗礼を受けたキリスト者であっても、私たちは本当にこの言葉を味わいきれていない。だから、パウロは「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と語らなければなりませんでした。ふさわしくない者が、ただただ無償で、神の一方的な選びによって、100パーセント受け入れられ、肯定されている。

 しかし、このことを卒業して、次の段階への成長、アドバンスコースに進んで、恵みによって支えられているところから逸れて、自力でふさわしさの中身を積み上げていく、神の恵みを少しでも、自分の良さに置き換えることができるという段階に移行しようとすれば、もう、そこでは、福音が既に聞こえなくなってしまっているのです。それがコリント教会の問題であり、だからパウロは、ここで改めて、「今」と語る必要がありました。

 未信者の前にも、キリスト者の前にもあるのはただ一つの福音であり、それは、今、この私たちが、恵みの時に生きているということ、救いの時に生きているということです。

 2000年前に、神がキリストにおいて始めてくださった恵みの時、救いの時が、今、私たちが生かされているこの時です。

 今です、今です。過去でもなく、将来信仰を失った時でもなく、洗礼を受けていない者にとっても、洗礼を既に受けた者にとっても、私たちの見えるところ、持てる者によらず、ただ恵みと救いによって生かされるその時とは、今この時のことです。

 今、この私に言われているんです。私たちが神様を求める前に、神様の方から宣言されます。「何もできなくても構わない。どんなあなたでも迷惑だなんて思わない。ただあなたがいることが私は嬉しんだ。あなたは、誰にも何にも代えがたい私の宝だ。」

 このイエス・キリストを通して与えられる和解の言葉、仲直りの言葉、祝福の言葉を、私たちへの言葉として一緒に聴きましょう。私たちの信仰生活の中に、生涯の中に、それ以外の言葉が存在感を増すことを許してはなりません。主なる神さまは、直ぐに自分の業によって、自分の善さを確認したくなる私たちのために、主日毎の礼拝において、ただ恵みによってのみ生かす見えない御言葉である説教と、見える御言葉である聖餐を教会に与えてくださったのです。

 ここまで触れずに来ましたが、1節に神の協力者という印象的な言葉があったことを、最後にこれまでの関連から触れたいと思います。

 竹森満佐一という牧師は、まじめでよい生活をすれば、神と一緒に働いていると思う人がいるけれども、それは間違いではないかと言います。より正しいことをすることによって神の仕事を援助すると思うとすると、それは、いつの間にか、神の不足分を自分が補っているという意味で、協力者であると理解してはいないかという趣旨のことを言います。そういった意味で、我々は神の仕事のお手伝いをすることなどできないと。そうではなくて、パウロの言葉で言えば、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているから」、私たちは神のために働くのだと。この私たちを駆り立てるキリストの愛とは、私たちが今日聞いた福音の言葉以外ではありません。

 それだから、私たちが、この変わることのないただ一つの嬉しい言葉をすべての人と聞き続けるために、神の言葉を自分に対して、また、隣人に対して、語り続けるならば、その時、私たちはキリストの体と呼ばれる神の教会であり、神と共に働く者なのです。この福音の言葉を全身全霊で聞き、語る者が、つまり、時が満ちて、堰を切ったように溢れ出してきたキリストの出来事における神の恵みに、圧倒され、いつのまにやら巻き込まれて生きている者が神の協力者と呼ばれるのです。神の恵みに聞くのが下手で、何度も何度も失敗しますが、確かにその言葉を自分への言葉として聴き、この土台からやり直そうとし続ける群れが、ここにあります。

 今日、ここにいる私たちは、溢れ出してきた福音の言葉、神の和解の言葉、「どんなあなたでも、あなたが生きていることは嬉しい」というキリストの出来事の語る神の言葉に前から後ろから、内側から外側から、溺れずにはおれないほどに巻き込まれているのです。

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