礼拝

9月19日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  「自己吟味への招き」大澤正芳牧師

聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ13章5節から10節

讃  美  歌    130(54年版)

私が以前仕えていた教会で、印象的な出来事として、皆さんに記憶されていた出来事があります。

 

それは若草教会の伝道師でもあった加藤さゆり先生という先生と、まだ洗礼を受けていない求道中の方とのやり取りの言葉です。

 

教会でしばしば求道者会、入門講座を担当された先生にある時、参加された方が正直に仰いました。「信仰を持つことはわたしにはなかなか難しいです」と。

 

その言葉を聞いて、加藤さゆり先生は、目を丸くして、しかしユーモアを湛えながら仰ったそうです。「信仰を持つですって?それは私にも絶対に無理よ。信仰は持つものじゃなくて、与えられるものよ。」

 

そこにいた多くの方が心に留められる言葉となりました。やがて、その方は洗礼を受けられました。教会員の口を通し、また、お連れ合いの加藤常昭先生の口を通し、私にも忘れがたい言葉となりました。

 

鎌倉雪ノ下教会にとっての常識、一つの合言葉のようにさえなっていると私は感じていました。「信仰は自分で持つものじゃない。神さまから与えられるものである」。

 

しかし、これは、一つの教会の常識であるだけでなく、全てのキリスト教会の弁えているはずの常識だと思います。少なくとも、私たち元町教会、金沢教会、内灘教会、小松教会、羽咋教会、七尾教会、若草教会、北陸学院など、改革長老教会の伝統から生まれた教会にとっても、またそこに今も意識的に立とうとする教会と学校にとっても、前提中の前提、常識中の常識であると思います。

 

信仰とは、持てるようなものではなくて、与えられるものである。自分の力では決して持てるものではありませんが、神様が私たちへの贈り物として、信仰をお与えくださる。

 

だから、私は、「信仰を持ってください」などという呼びかけを誰にもいたしません。自分の決断とか、努力でどうこうできるようなものではないからです。

 

主なる神さまが与えてくださる信仰によって、主なる神さまが与えてくださる福音の言葉を語り、主なる神さまが聴く私たちの内に信仰を起こしてくださるように祈りつつ、待つだけです。

 

このような信念に生きる私たちにとって、今日のパウロの言葉は、出だしから心が少しざわざわしてくる言葉であると思います。

 

パウロは、コリント教会にこのように語りかけ始めます。

 

「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」

 

一見とても常識的な言葉であるように思います。一つの教会の内側に問題が起こる。しかも、そこで起きた問題は、どうも教会らしい問題とさえ見えない。

 

普通考えれば、世の中の諸団体、人間の集まりの中で起こるような問題は、同じ神様を信じる教会の集まりの中では起きづらいのではないかと思われているものだと思います。

 

どんな人間の集まりの中にも生まれる問題がありますが、教会は、それらに比べると、もう少し、ましなのではないかと私たち自身思っているところがありますし、世間の目は、ますますそのように教会を見ていると思います。

 

ところが、教会どころか、世間の常識から言っても、決して通用しないようなことが教会の中に起こることがあります。

 

コリント教会には、教会外の人からも後ろ指さされてしまうようなスキャンダルが、起きていました。

 

だから、そういう状況において、パウロが、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」というのは、至極、真っ当なことのように思います。

 

「主なる神様を信じていない人だって、決してしないような罪を犯している人があなたたちの中に入る。それはほんの一握りの人かもしれない。しかし、あなたがたはそれを見て見ぬふりをしている。それによって許容してしまっている。そうするには一理あるとさえ、考え始めている。あなたがたには本当に信仰があるのか自己吟味しなければならない。」

 

こういうパウロの言葉、私たちにもよくわかります。分からないはずはありません。洗礼を受けた者も、まだ洗礼を受けていない者も、よくわかると思います。

 

「あれで神さまを信じていると言えるのだろうか?」「あれでもクリスチャンなのだろうか?」

 

多くの人は、そう思った経験はあるのではないかと思います。イエスさまは好きだけど、キリスト者に躓いたってことは、それなりにあることだと思います。

 

しかし、洗礼を受けた者は、ただただ自分が躓いてしまった経験を思い起こすだけでは済みません。この自分自身が、躓きとなってしまっていること、自分は信仰を持ったものとしてふさわしい言葉と行動に生きているかと反省し、自己吟味したら、失格としか言いようのないような自分を発見せざるをえません。

 

自分の配偶者に対しても、子どもに対しても、主なる神を信じ、キリストを信じる者としての、実を見せているかと吟味するならば、私は、自分の妻にも、三人の娘にも、謝罪せずにはおれません。

 

もちろん、教会の仲間にとっても、初めて教会に訪れた人に対しても、不出来なキリスト者ですみませんと言わざるをえません。

 

「それでもお前は信仰を持っていると言えるのか?」と問い質されれば、「持っているとはとうてい言えません」としか、答えられません。それは、私に限ったことではないでしょう。

 

その意味で、出だしのパウロの言葉は厳しく、立つ瀬がなくなる裁きの言葉です。

 

ところが、パウロは、信仰者であるはずなのに、信仰を持っていないかのような罪を犯してしまう者たちに向かって、裁かれるべき私たちの姿を明らかにする信仰の自己吟味を求めつつ、こう言います。

 

5節後半です。「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」

 

教会どころではありません。世の常識からも外れてわがままに振舞い、それでも信仰があると言えるのか、反省し、自己吟味しろと、パウロに迫られる。

 

しかし、パウロは、そう厳しく迫りながら、「だから、もっと信仰者らしく振舞え!!そうでなければ、失格だ!!」と続けるのではありません。

 

パウロの言葉に促され、自分を顧み、自分の内側を吟味するならば、イエス・キリストが自分たちの内側におられることを発見するのです。

 

信仰は持つことができません。その初めだけでなく、その半ばにおいても、信仰は持つことができません。信徒だけでなく、牧師にも持つことができるものではありません。だから、信仰から外れて行ってしまう時、私たちは信仰を持ち直すことはできません。それは与えられなければなりません。

 

しかし、それは与えられています。しかも、私たちに与えられる信仰とは、私たちが想像するような強い意志とか、神さまを愛する感情とか、信じる気持ちのことである前に、イエス・キリストご自身のことです。

 

だからある神学者は、パウロの5節の言葉をこう訳します。

 

「あなたがたは、はたして自分がまことの中にあるかどうか、自分自身を吟味し、自分自身を検証するがよい。」

 

実は、「信仰を持つ」などという言葉は、原文にはないのです。「信仰の内にある」というのが、直訳です。

 

「自分自身が信仰の内にあるかどうか」、それを意訳し、新共同訳聖書は、「信仰を持って生きているかどうか」としました。

 

しかし、その神学者は、この「信仰」すらも、私たちが神に対して持つ信仰とすら第一には取りません。

 

この信仰という言葉をパウロが使う時、それは「神のまこと」、「神の信実」、「神の誠実」をこそ、第一に指しているものだということは、多くの学者が指摘していることです。

 

少なくとも、私はこの箇所は、神のくださる「まこと」と読まなければならないと思います。

 

「あなたがたは自分が神のまことの内にあるかどうかよく考えてごらんなさい。なぜ、自分自身のことが分からなくなってしまったのですか。救い主イエス様があなたがたの内にいらっしゃるではないか。」

 

どうして、コリント教会の人々は、真の福音から逸れて行ってしまったのか?どうして、この世の常識でも許されるようなことではないわがままを教会の中で発揮するようになってしまっているのか?

 

自分自身のことが分からなくなってしまっているからです。いいえ、神さまのことが分からなくなってしまっているからです。イエスさまが共にいてくださることが分からなくなっているから、わがままに罪を犯すようになってしまっているのです。

 

しかし、そのわがままは、「我が意のまま」ということではなくて、実は、自分を失ってしまっているのです。本当の自分ではなくなってしまっているのです。だから、わがままに振舞えるのです。

 

それゆえ、「目を覚ましなさい。正気に戻りなさい。キリスト・イエスは、あなたがたの内におられる。誰も、なにものもあなたがたを、このお方から引き離すことはできない。」というのが、パウロの語る趣旨であろうと思います。

 

5節後半から9節にかけて、「失格者」、「適格者」、「完全な者」という印象的な強い言葉が、繰り返し出てきます。

 

パウロが信仰の試験官のようにして、コリント教会に判定を下すために持ち出している言葉ではありません。

 

パウロは、この失格者という言葉を7節で自分自身にさえ当て嵌めて、適格者と見なされず、失格者と見えても良いとさえ言います。

 

コリント教会が、目を覚まして、自分たちが神のまこと、神の恵みであるキリスト・イエスの内にあることを思い起こしさえしてくれるならば、それで良い。あなたがたが正気になって、罪から離れ、善い行いに生きられるようになるならば、それで良いとパウロは言います。

 

しかし、前後するようですが6節、「わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。」とパウロは言います。

 

ここで、これまでの説教を聴き続けた来られた方には思い出されることがあるでしょう。

 

パウロはこの手紙で、一所懸命、自己弁明、自己推薦をしてきました。

 

それはパウロを捨てるならば、一緒にパウロの説いた良き報せを捨てることになるからです。

 

 

なぜならば、パウロが説いた福音、それは、神はキリストにおいて、世の小さき者、無きに等しい者を選ばれるという福音であったからです。

 

十字架とご復活のイエスさまが共におられるゆえに、私は弱いときにこそ強いという福音です。

 

神の御前に出ることなど適うはずもない失格者であるはずの私を庇い、神様の御前に子として一緒に立たせてくださるイエス・キリストの福音です。

 

もしも、パウロのことを弱く情けない、福音の初歩しか知らない失格者と見做すならば、コリント教会自身も、主イエスが、自分たちの内におられることを、忘れてしまうことになるのです。

 

主イエス・キリストが裸の貧しく弱い自分たちの内におられるということが分からなくなった教会は、どんなに熱心で、盛んなように見えても、とてつもない綻びが現れだす。

 

自分たちはこの世とは隔絶した聖なる者と自負しています。しかし、実際は、この世から見ても、非常識な罪を犯しているのに、そのことに自分たちでは一向に気付かないほどに自分のことが冷静に見えなくなってしまっているというのが、コリント教会の有様だったのです。

 

もはや、小手先だけでは、どうにもなりません。

 

けれども、なお、その教会の内に、イエス・キリストがおられることには変わりがないのです。

 

自分を見失ってわがままになってしまった者たちと共に、イエス・キリストが共におられることに違いはないのです。

 

キリストは絵空事の罪人の救い主ではなく、正真正銘、頑迷固陋な罪人の救い主であられると、ルターが言った通りです。

 

この私たちを見捨てることのない救い主が、私たちがその方を見失っている瞬間にも、私たちと共におられるというキリストの「まこと」、キリストの「真実」を、深く考え、自己吟味することが許されています。

 

そしてこの事実に気付かされるならば、わたしたちも善に生きるようになる、真理にふさわしい歩みを作れるようになるのです。

 

たとえ、伝道者パウロを通して響く神の言葉が、私たちを裁き、罪に定めるもの、壊すものであったとしても、裁きの末に残される堅い土台、どんな私たちであっても、「イエス・キリストがあなたがたの内におられる」という事実の上に、もう一度、新しく造り直されていくのです。

 

 

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