礼拝

5月17日礼拝

5月の長老会だより

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今週の週報

礼拝は10時30分より配信されます。
今週の聖書箇所はマタイ26:31-35
讃美歌は379番です。

「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 ここに福音の全体重がかかっています。主イエスのお語りになる「しかし」、それは、私たち人間を挫く「しかし」ではありません。転んだ私たちを助け起こす「しかし」です。この主イエスの「しかし」によって否定されるのは、私たちの「もう駄目だ」という思いです。いや、単に心構えの問題ではありません。もう駄目だと嘆かざるを得ない状況そのものが、主イエスの「しかし」によって終わりを迎えるのです。

 キリスト教を、単なる新しい現実の見方を教えるものという風に、小さく低く見積もってはなりません。変えられるのは単に自分のものの見方ではありません。もちろん、それも含まれるでしょうが、それはおまけに過ぎません。主イエスが弟子たちに、この「しかし」を語ろうとされていたその時、何かもっと根本的な変化が起きようとしていたのです。

 私たちの頭の中のことではなく、心の中のことだけでなく、さらに人間の置かれた状況だけでなく、もちろんそれらも含まれるのですが、そのような限られた領域を超えて、この世界、この宇宙の秩序そのものを変えてしまう、誰もその新しい出来事からは無関係だと言えない、全被造物的な出来事が起ころうとしていたのです。

 「しかし、わたしは復活した後、、、」そうです。イエス・キリストは復活なさろうとしていたのです。イエス・キリストのご復活、それは、人間の心の中に起こったことではありませんでした。主イエスは、信じる者たちの心の内に、永遠の思想、普遍的な教えとして甦えられたのではありませんでした。この地上に、手で触れることができ、ヨハネによる福音書によれば、焼いた魚をむしゃむしゃと食べることがおできになるお方としてお甦りになられました。しかも、だからと言ってそのご復活は蘇生とは違いました。仮死状態にあったものが、何かの拍子に息を吹き返したというのではありませんでした。

 数週前に紹介しました市川和恵牧師のショートメッセージで取り上げられていた画家ホルバインの描いた「墓の中の死せるキリスト」、ぜひ、インターネットででも検索して、その絵をご覧になって頂きたいと思います。ドストエフスキーは、それを見て、「すべての希望を打ち砕いてしまうような画」だと言いました。ライン川から引き上げられた死体をモデルに描いた言われる実物大の死せるキリスト、復活の朝の前の土曜日のキリストのお体は、墓の中で、既に朽ち始めていたのです。

 その後戻りできない死に直面し、キリストは、時間を巻き戻されたのではなく、その死を飲み込まれ、その死を打ち破る形で、お甦りになられたのです。いや父なる神がキリストをお甦りにならせたのです。鍵のかかった扉をものともせずに乗り越えて、弟子たちの元にやって来られる、と同時に、魚をむしゃむしゃとお召し上がりになれるような私たちが未だ見たことのない新しい命にお甦りにならせたのです。

 だとすれば、イエス・キリストのご復活の出来事の聖書の報道は、信じる者にだけ意味があり、関係があるというようなけちな出来事ではありえません。一つの政治体制が変わるとか、一つの経済システムが崩壊するとか、そういう歴史的ニュースを軽く凌駕する、宇宙の秩序を覆すような大きな新しい出来事が起きたと語っていることになります。誰一人、その出来事と無関係にあるものはないのです。

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 しかし、このような歴史的というよりも、全被造物に関係する出来事が、福音、良き知らせであるということは、もしかしたら自明なことではないかもしれません。というのも、大きな出来事というのは、たいていにおいて、私たちのささやかな生活の安定を脅かすものだからです。

 ここ数ヶ月、何度も話題になる言葉があります。これは批判の多い鵜呑みにはできない言葉ではありますが、新型コロナウィルスという病の前では、誰もが平等だと語る者がいます。有名な芸能人だろうが、一国の首相だろうが、新型コロナウィルスのパンデミックから逃れることはできません。もちろん、本当は平等でなんかない。ステイホームできない働きに出なければならない人ほど感染のリスクが高く、医療を受けられない者ほど、死亡率は高いわけですから、絶対にこの病の前に人類は皆平等だとは言えません。けれども、誰もが感染のリスクにさらされているということは本当ですし、このような他人事とはできない大きな出来事が起こる時、それは良い知らせではなく、たいてい悪い知らせだということも、お決まりのことのように思います。

 そうであるならば、歴史的出来事をはるかに凌駕する、死者の甦りという自然秩序を覆すキリストのご復活は、誰もが無関係と思えないどころか、本当は、コロナの出来事以上に、そのニュースの前にのほほんとしていることはできない、危機的な事件であります。

 しかも、イエス・キリストのお甦りの前提となる死は、十字架の死でありました。それは、弟子たちの裏切りと逃亡によって、迎えた死であったのです。また、その当時の世界秩序の代表と言って良いローマ総督の判決に基づく、私たち人間からの正式な処刑であったのです。私たちがこの方を捨てたのです。しかし、神はこの自然の秩序を覆し、この方を死者の中からお甦りにならせたのです。

 その全被造物を巻き込む出来事が、その方を十字架につけた我々人類にとって、福音であるということは全く自明なことではないのです。むしろ、極めて恐ろしい罪の告発でありうるのです。

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 ところが、この罪の告発と、それに続く裁きの代わりに、キリストの「しかし」が立っているのです。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 弟子たちにとってのガリラヤ、私たちにとってのガリラヤ、それは、失意の地です。風光明媚なガリラヤ、のどかな田舎としてのガリラヤ、そんないいものではありません。ガリラヤとは、主に躓いた彼らが、ほうほうのていで逃げ帰っていく場所です。

 勇ましい気持ちで乗り込んだエルサレム、人生の盛り、真ん中にあったエルサレム入城でした。けれども、その地での歩みが、主の十字架に至った時、誰一人、自分の信念に殉ずることができなかったのです。主イエスに従い切ることができなかったのです。だからガリラヤとは、誰もがが、自分は主イエスを裏切っていないなどとは言えない挫折の内に、逃げ帰る自分の出自、自分の掘り出された穴倉なのです。

 どんなに固い決意も、どんなに熱い情熱も、どんなに深い信仰の熱心も、必ず破れる地点が私たちにはあるのです。そこに私たちの本当の罪が見えてくるのです。そこに至る前の、自分でどうにかすることのできる事柄は、聖書の語る罪の人間の姿ではありません。

 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」というペトロの言葉は、正直な心を表明した言葉だと思います。それを偽善だとする必要も、大言壮語だと言う必要もありません。心から誠実に願っていたのです。

 けれども、主イエスは、神の子の厳かさをもって、そのペトロにはっきりと仰いました。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

 ペトロが特別に自分を知らなかったわけではないのです。キリストの十字架とは、神以外誰も覗き見ることのできない人間の限界状況を露わにする場所なのです。努力や才能、誠実や信仰によっても、克服することのできない人間の弱さや貧しさ、それでいて、それはやっぱり自分が責任を負っている罪という他ない、私たち人間存在のありのままの姿が浮き彫りにされてしまうところなのです。お酒がやめられないとか、タバコがやめられないとか、ラーメンの汁を飲み干してしまうとか、そういうところで感じる罪責感とは全然違う、本物の弱さ、本当の貧しさ、しかも、それらに対して自分には責任がないとは決して言えない、これはわたしの存在と一つとなっているわたしの罪としか言いようのない自分、キリストを十字架につけてしまう、人どころではない、神の子を殺してしまうような自分がいるのです。

 数週間前のユダの裏切りについて私が語った説教を聴かれ、はじめて、自分がユダと同じような者だと思ったと感想をくださった方がいました。それは本当に正しい聖書の読み方であると思います。それは神の御心に適った気付きであると思います。なぜならば、31節に、主イエスは弟子たちの躓きについて、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」という旧約の言葉を引用されるからです。

 すなわち、悪魔のそそのかしと、人間の罪との相互作用である主の十字架は、またもう一つ別の側面から言えば、主なる神の御心であったとも言えるのです。

 そのことが少しも、悪魔への裁きと人間の責任を少しも減ずることにはなりませんが、人間が持ち堪えず、キリストを見捨てて散ってしまう罪ある者であることが、徹底して露わになることは、神の御心であったのです。それは神さまが、好き好んで人を罪の誘惑に陥らせるとか、悪に誘うとかいうことではなしに、我々のメッキがはがれるということに過ぎません。キリストの御前に置かれる時、神の御前に立つとき、私たちの弱さは隠しておけないのです。

 主イエスの弟子たちが通っていかなければならなかったところとは、そのような道です。しかも、それは本当は、誰一人自分は、そのような者ではないとは言えない仕方で、神の御心として、露わになる他なかったすべての人間の弱さであり、罪です。

 しかし、その我々人間の代表であり、我々人間のサンプルである、主の弟子たちの行き止まりの場所、人間の袋小路に、前もって主の言葉が立てられているのです。

 「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 あなたが転んだ先、あなたが逃げ帰った先、あなたが挫折した先、あなたが取り返しのつかない形で通り過ぎてしまったもう何もかも終わってしまったその地点、あなたのガリラヤに、復活したわたしは先に行く。もう終わってしまった。もう立ち直れないというそこに、わたしは死を乗り越えて先回りして待っている。

 これが主イエスです。この弟子が、キリスト者です。ここ以外の場所で、本当の意味でキリスト者であることなんてできないのではないでしょうか。

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 かつて金沢長町教会の牧師であった平野克己牧師は、最近の説教でこういう趣旨のことを言いました。私たちはこの感染症の中で、自分の無力さというのを知らされたのではないか?生活が止まった。走り続けることができなくなった。けれども、ここでこそ、思い起される聖書の言葉をある説教から教わったと。それは、詩編46:11の御言葉、「力を捨てよ。知れ、わたしは神。」今こそ、神の力を私どもは知る時ではないか?

 「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 ここにも同じ神の言葉が聴こえてきます。私たちが本当に聴くことを必要としている言葉です。私たちを本当に生かすことがおできになるキリストの言葉です。転んだ先で出会ってくださるご復活の主、このお方が、私たちを助け起こしてくださる。

 そしてもう一度申し上げますが、主の弟子たち、主の教会は、すべての人間のために立てられたモデルであり、サンプルです。教会が地の塩、世の光と呼ばれるのは、教会が自己目的な存在ではなく、地のため、世のための教会だからです。

 教会のしるしとは、古くから正しい説教と、聖礼典が執行されるところだと言われてきましたが、その教会のしるしに、「世のための教会」というしるしを加える神学者がいます。教会だけが救いに与るのではない、教会だけが聖なる者なのではない。教会は誰も本当はそこから自由ではないキリストの宇宙的救いの出来事が、既に起きたことを、この身を持って証しする存在だと言うのです。

 そしてこの私たちの証しは、世に向かって「私たちのような立派な人間になれ」と言うのではない。「罪の穴倉から這い上がってきなさい」と言うのではない。「倒れこんだそこに、キリストは先回りして、待っていてくださる」と語ることです。「もう駄目だ、もう終わってしまったという、そこが本当のはじまりだ」と証言することです。

 この良き知らせを証しする者は、立派である必要がありません。ただその存在が丸ごと、ありのままに神の御前にあるように、神と人の前にあれば良いだけです。私たちが転んだ先に待っていてくださったキリストが、私たちの嘆きも、沈黙も、神への祈りとし、隣人への証しとしてくださるのです。24時間、365日、いついかなる時にも、どこにあっても、キリスト抜きの私たちではなく、キリスト抜きの世界では最早ないのです。だから、主に変わって申します。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。安心して、歩み出しなさい。」

 

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神さま、今の私たちの生活が一体どこに向かってしまうのか、少しもわからない不安の中にいます。細い綱の上を渡るように、薄氷を踏むように、しかも、私たちはまるでこんな生活を送ったことがないのです。

 励まし合う友の顔を間近に見ることもかないません。主よ、倒れそうな私たちを助けてください。しかし、主よ、急いできてくださるあなたは、私たちの先回りをして、待っていてくださいます。どこに向かおうとも、そこにあなたが待っていてくださることだけは確かです。その約束を知っている者も、知らない者も、ただ、あなたによって、守られ、支えられ、今を生きることができますように。

 ご復活の主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

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