礼拝

1月17日(日)礼拝

週報

説  教  題  「見えないものを見るまなざし」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節から18節まで
讃  美  歌    316(54年版)

私たちが礼拝で使う新共同訳聖書が出版から30年が経って、今から2年前に聖書協会共同訳と呼ばれる新しい翻訳聖書が出版されました。計画中の教会はあるようですが、まだ、石川県内の教会で礼拝で読む聖書を、この翻訳に完全に変えたという話は聞こえてきませんが、北陸学院では、最初に大学から、それから今度の4月からは、小学校も、たしか中高も、この聖書に切り替えるという話を聞いています。

 私たちの教会でも、ある集会では、この新しい翻訳聖書を通読しようという試みを始めているようですが、私としても、新しい年度は、この新しい翻訳を、教会挙げて、学んでいく年度にしたい。この翻訳の特徴を学ぶ勉強会を開いたり、お互い励ましあって創世記から読み始めて黙示録まで至る全巻通読にチャレンジしていくようなことができたらいいのではないかと考え始めています。まだ長老会にも挙げていないことなので、どういう形になるかはわかりませんが、何か良いアイディアをお持ちの方がいたら、私に仰ってください。

 聖書の翻訳というのはなかなか難しいものだと思いますが、一つには初めにどういう方針で訳すかということを決定することが難しいことです。大まかに言えば、原語に忠実に、逐語的に訳していくのか、あるいは、解説がなくても読んで大体の意味が取れるように意訳的に訳していくのか、その方向性を決めなければなりません。たとえば、岩波書店から出ている岩波訳と呼ばれる聖書は、できるだけ原語に忠実に訳すことを目標にしている翻訳だと思います。その反対の意訳の代表的な聖書には、リビングバイブルという翻訳があります。どちらもはっきりとした目標を持って訳していますが、しばしば逐語的か、意訳的かというのは、対立的に考えられます。

 さて、その新しい協会共同訳聖書ですが、これはどちらの方向性をもって翻訳された聖書であるのか興味のあることです。ホームページなどでも確認できる日本聖書協会の説明によりますと、少々耳慣れない言葉ですが、これはスコポス理論というものに則って、新しい翻訳をしたと聞いています。スコポスという言葉は、目的とか、目標という意味のギリシア語で、その翻訳聖書が、誰を読者に想定しているか?また、どんな場面で使われることを想定するか?ということを、意識する中で、原語に忠実な逐語訳か、意味が取りやすい意訳かという対立を超えて、想定したTPOにふさわしい翻訳を目指したもののようです。じゃあ、そのスコポス、目当てというのは具体的には何を想定しているかと言うと、「翻訳方針前文」という文章では、礼拝で用いること、特に、朗読にふさわしい格調高い美しい日本語訳を目指すということが、最初のスコポスとされています。そして、その聖書を読んだり、朗読を聞く対象ですけれども、「義務教育を修了した日本語能力を持つ人を対象とする」と、されています。このような目当てを決めれば、学者間の逐語訳か、意訳かという綱引きに捕らわれない、そこで迷わない、使用目的と対象読者のための翻訳がなされるわけですから、これは私たちにとっては、大変歓迎すべき、翻訳がなされたと言って良いだろうと思います。新年度は、そのことを感じ取れるように実際に読んでいければと願っています。

 今日の聖書箇所と関係のない話をしているようですが、実は、この耳慣れないと申し上げた翻訳理論のスコポスという言葉ですが、これは実は、今日の18節の、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」という言葉と響きあう言葉です。18節の「目を注ぎます」という言葉は、スコペオーという言葉が使われていますが、これはスコポスという名詞が、動詞化した言葉です。「目を注ぐ」というのは良い翻訳だと思いますが、ただボーと見ているのではありません。目標を定めて、見ることです。まさに注目して見ることです。

 見えるものではなく、見えないものを注目してみる。見えないものなのだから、見ようがないじゃないかと混乱しそうですが、実際に見ることではありません。見えないものを目標と定める。見えないものを目指して生きる。それが我々信仰者の歩みだとパウロは語っているのです。見えるものは一時的なもので過ぎ去ってしまうけれど、見えないものは、永遠のもので、永遠に続くからだと言われています。

 私たちはこの礼拝の中でマタイによる福音書を3年間かけて読み終えて、コリントの信徒への第2の手紙というパウロの手紙を読み始めて、数か月を過ごしています。私の計画では、読み終えるまでに1年と少しかかる予定ですが、このパウロの手紙を読み始めてから、少し抽象的で自分には難しく感じるという感想をたまに聞くことがあります。福音書を離れて、手紙シリーズ、特にパウロの手紙を読むと、だいたいどの教会でも、聞こえてくる感想だと思いますけれども、私はあまり、パウロの手紙は抽象的な議論をしているとは思っていません。

 福音書を読めば、たしかにイエス様のたとえ話も奇跡の話も、具体的で、物語があり、理解しやすいようですし、実際に教会学校で子供たちに向けて福音を語るときは、パウロの手紙よりも、福音書を中心に語ることになりますから、誰にでもわかりやすいということはあると思います。

 けれども、パウロの手紙が、我々の具体的な日常生活、信仰生活とはかけ離れた抽象的で高級な宗教論、あるいは哲学論を語っているかと言えば、全然そういうものではないと思います。むしろ、私たちの先祖である初代の教会の人々が、信仰生活の中で直面した具体的な問題、課題に、向けて、手紙を書き送っているわけですから、ある意味では、福音書よりも、具体的で、わかりやすいとも言えます。パウロが手紙を書き送った先の教会の問題、課題が、私たちの教会生活の課題と同じであるということを掴むまでは、ピンと来ないことがあるかもしれませんが、それがわかるようになると、むしろ、自分自身にあてられた手紙のように思えるようになると思います。とても、具体的な課題に向けて書かれているものなのです。

 しかし、パウロの手紙を読んで抽象的という感想は、必ずしも全部見当違いな感想というわけでもないとも思います。と申しますのは、改めて、抽象的という言葉の反対の具体的ということを併せて考えますと、具体的というのは、体を具えているということですから、具体的なものとは、手で触れることができるもの、目で見ることができるものというものを意味するのでしょう。パウロの手紙の背景にはいつでも、宛先教会の実際の課題、具体的な問題が、あるわけですけれども、その課題、問題を解決に導くために、これを見なさいとパウロが指さすものは、手で触れられるものではありません。目で見ることのできるものではありません。18節で語られているように「見えるものではなく、見えないものに目を注ごう」と勧めるわけです。その意味では確かに具体的ではないのです。手では触れられないもの、目では見えないものに、注目するように招くのです。

 私たちが具体的な生活を続けていく中で、信仰者であろうがなかろうが、落胆してしまうことが起こります。四方から苦しめられること、途方に暮れること、虐げられること、打ち倒される出来事、少しも抽象的でない具体的な困難が、この身に迫ってまいります。わたしは神の子だ、神に愛されている者だと、信じているけれども、キリストに救われたからと言って、ご利益を受けて、艱難、困難から具体的に即座に救われるということではありません。

 じゃあ、具体性がない救いというのは、絵に描いた餅なのか?抽象的で、実際の困難が起これば消し飛んでしまうような弱い慰めでしかないのか?そんなことは我々は思いません。見えるものではなく、見えないものにこそ目を注ぐとき、私たちは四方から苦しめられても行き詰らない。途方に暮れても失望しない。虐げられても見捨てられない。打ち倒されても滅ぼされない。落胆しても落胆し切らない。見えないものに目を注ぐときこそ、そういう者として生きられるのです。

 具体的な困難に直面しても、見えないものに目を注いでいるおかげで、私たちキリスト者は、落胆しきることがありません。そこで改めて、私たちが落胆し切らない力を与えてくれる目に見えないものとは一体何でしょうか?

 たとえば、16節の「外なる人」は衰えていくとしても、「内なる人」は日々新しくされていきますという言葉を視野に入れながら、この言葉を聞いていくときに、それこそ私たちは外なる肉体は衰えても、内なる魂は、永遠に若々しいという人間理解をするかもしれません。特定の信仰を持っていない方でも、死んだら全ては無だというのではなくて、それこそ、肉体は焼かれても魂は千の風になって、残り続ける、肉体の内に留まっていた時よりも自由に、本来の姿に戻って、魂は永遠に残ると漠然と考えている方は、いらっしゃると思います。私たちキリスト者も、時に、似たような理解をしていることがあります。死んだら天国に行って、そこで魂として永遠の命に生きることをクリスチャンの最終的な望みと思っているとしたら、それは実は、聖書的というよりも、ギリシア哲学的な理解です。

 主イエスご自身、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と仰る時には、同じ理解をされているようにも思えますが、しかし、続けて、「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と仰り、父なる神様の視野に入っているのは、いつでも私たちの体と魂の両方だと知ることは、大切だと思います。

 だから、「外なる人」とは、この衰えていく体のことであり、「内なる人」とは、魂のことではないと思います。聖書はそう言った意味で、肉を低いもの、魂を一段高いものとは見ていません。だから、今まで何度も聞いて来られたこととは思いますが、外なる人、内なる人とは、聖書の別の言葉で言えば、キリストに結ばれる前の「古い人」と、キリストに結ばれて後の、キリストの霊を内に宿した「新しい人」のことであり、今日の言葉で言えば、その違いは、見えるものに目標を定めて生きている人であるのか、見えないものにスコポス、すなわち目標を定めて生きている人であるのかということであると思います。

 つまり、見えないものを目当てとして、生きるキリスト者とは、今の世では土の器として、困難苦難に付きまとわれているかもしれないけれども、この土の器である肉体を離れた後は、清らかな魂になって天国で神様と永遠に喜ぶという希望によって、苦難を耐え忍ぶということではありません。今日語られている目を注ぐべき「見えないもの」とは、見えないからと言って具体性のない漠然とした、方向性の定まらないものではなくて、はっきりとした目標が定まったこと、その目標とは、直前の15節が語る「神に栄光を帰す」という目標に向かって生きることだと思います。これが、聖書が「内なる人」とか、「新しい人」とか、「霊の人」とか色々な言い方をしていると思いますが、キリスト者の歩みであります。キリスト者である私たちは、自分の歩みの成功、不成功を自分勝手に決めずに、きちんとした基準、きちんとした目標に従って反省するのです。

 私たちの教会は、改革派の流れを汲む教会ですが、この教会は、カルヴァンという人に、多くを負っている教会です。そのカルヴァンが、ジュネーブ教会信仰問答という子供の信仰教育のために書いた書物がありますが、その最初の所で、私たちの人生の目的を、語ります。そこで彼は、人生の目的を、神を知ることと記し、しかも、神をあがめるためにこそ神を知ることと語りました。私たちはこの生涯、命を用いて、神に栄光を帰することが、生きる目的だと言いました。その根拠となる聖書箇所はどこかということは、書かれていませんが、今日私たちが読んでいる聖書箇所も同じことを語っている言葉だと思います。

 この目標がはっきりすると、私たちが自分の歩みを振り返って、成功だったか失敗だったか判断できるようになり、この基準に従うと、たとえ、がっかりすることはあっても、落胆し切ることはないのです。なぜならば、私たちの生きる目当てが、世の多くの人のように、自分の命を長らえさせることとか、幸せになることではなくて、神に栄光を帰することに書き換えられたからです。

 そして、この目標は、パウロによれば、今まで意識していなかったとしても、今すぐに始められるのです。パウロは既にコリント宛の第1の手紙において、「あなたがたは食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(10:31)と語っていました。これは本当に驚くべき言葉ですけれども、必要最低限の生命維持の行為であるとも言える飲み食いにおいても、私たちは神の栄光を現すためにそれを行えるのだと言うのです。つまり、キリスト者は、一挙手一投足のすべてで、神に栄光を帰する、神様がほめたたえられるようになるという人生の目標に従うことができるのです。飲み食いによって現わせるのですから、次の食事から、できそうですが、具体的に、どうやったら私たちの飲み食いによって神様に栄光を帰することができるか、神様がほめたたえられるようなご飯の食べ方、みそ汁の飲み方、どうすればいいのか?と思いますが、まず、ここで思い起こすべきは、これまでのパウロの語り方だと思います。

 パウロは私たちがやがてキリストに似た者へと変えられていく希望を語りましたが、それは、私たちが天に近づいていくことによってではなく、キリストの憐みによって、実現するものだということが語られました。私たちをキリストに似た者とする神の憐みとは、キリストが、私たちと同じ土の器になってくださった、死ぬべき者になってくださったというクリスマスの奇跡以外ではありません。

 そうであれば、飲み食いによって神の栄光を現すとは、好き嫌いや贅沢を言わず、なんでも感謝して食べるとか、大酒を飲まないとか、そういうことも含まれるかもしれませんが、それよりも何よりも、飲み食いという人間の非常に動物と変わらない、日常中の日常というような瞬間を通じても、神がキリストを通して、神に栄光を帰する私たちとして私たちのすべてを用いてくださるのだという約束と、励ましの言葉であると思います。

 私たちは牧師に限らずみんな献身者だと聞きますが、神様への奉仕と、自分の生活の都合を切り離して考えがちです。たとえば、親やパートナーの介護があるから、長老を辞退しなければならないという時に、自分の都合で神様の奉仕を断ったという負い目を持つかもしれません。もちろん私たちが福音を聞き続け、神を礼拝するのはこの礼拝においてです。だから、この礼拝を成り立たせるための、教会のもろもろの奉仕は、揺るがせにできない欠くべからざるキリスト者の第一の奉仕です。ここで捧げられる主の日毎の礼拝こそ、神に栄光を帰す、私たちの命の第一目的です。でも、私は、様々な事情によって、教会の奉仕を引き受けられない時も、礼拝に集えない時も、自分が献身者であることを、辞めてしまっているなどと思わないで頂きたいと思います。別の形での固有の奉仕を頂いたのです。社会人として働くこと、親が子を育てること、親の介護をすること、それが神への献身においてなされるのです。

 それがどの範囲まで及ぶかと言えば、飲み食いのような動物と少しも変わらない、もっとも外なる人に関することと言いたくなるような肉体の配慮においても、私たちは、神の栄光を現す土の器として、新しい人として、存在しているのです。本当にこれは思いもよらないような新しいことだと思います。今日の個所では、17節が言わんとしていることが、そういうことだと思います。私たちの肉の目によれば、全然関係があるようには見えないもの。私たちの現在、経験している苦難、艱難が、どうして神の栄光に結びつくかと思えるようなことが多いと思いますが、その艱難が必ず、神の栄光に結びついていくのだと、パウロは語っていると思います。

 私たちの信仰は、この世を捨てて、あの世に望みをつないで今を耐えるという、宗教ではありません。この世を拒否しない。どんな状況でも落胆し切らないのです。17節は、今の艱難に比べれば、やがて神様が下さる栄光は大きいと言うのではなくて、今の艱難が、「比べものにならないほどの重みのある栄光をもたらしてくれ」ますと、今の艱難が栄光に結びついていることを語っています。しかし、それは、努力の先に栄光を待っているとか、痛んだ分だけ、大きな利益が待っているということではありません。神が私たちを見捨てられないということです。土の器を選び取ってくださる主イエス・キリストの父なる神様が、艱難の中にある私たちをあえて選び、その艱難を通して、ご自分の輝きを輝かせることを良しとされるからです。

 本当を言えば、私たちが、自分の利益ではなく、自分の命を大きくするのではなく、全身全霊をもって神の栄光のために生きようとしても、この小さな私たちが神様の栄光を現すなんてことは、自分の命を可愛がることなんかより、ずっと難しいことです。人間にできることではありません。でも、神様が、私たちを一人きりにはしません。必ず、ご自分の栄光を私たちを用いて、明らかにしてくださる。私たちの奉仕だけでなく、その死を通してさえ、十字架のキリストの似姿を表してくださる。それだから私たちは、この一挙手一投足を通じて、生涯、献身者であり、どんな時も神に栄光を帰す人生を歩むことができます。神様がそういうものとして、私たちの人生を引き受けてくださったというのが、キリストの出来事の語る福音です。だから、安心して良いのです。キリスト者としての歩みに失敗を恐れなくて良いのです。失敗はないのです。

 ルターの言葉ではないのですが、ルターの言葉として伝えられています「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、わたしはリンゴの木を植える」という言葉があります。これは、比較的新しい言葉で、それこそ、核戦争が起きて世界が終わってしまうかもしれないという雰囲気が蔓延した冷戦時代に知られるようになった言葉のようです。そういう雰囲気の中で、このように語れるということは、かっこいい、勇敢な言葉に聞こえますが、私はこれをキリスト者の言葉として聞くときには、勇ましい言葉だとは思いません。そうではなくて、人を人とし、神を神とする者の言葉、慎ましい言葉、だから、やはりルターの言葉とも言いたくなるような言葉だと思います。

 神の栄光のために、神のために生き始めている私たちですが、思い描いたことを成し遂げることはできないかもしれません。始めたことを中断してこの世を去って行かなければならないかもしれません。けれども、神様が必ず、良くしてくださるのです。私たちが下手っぴに植えたリンゴの木をも、誤って植えた茨をも、必ず良いものへと変えてくださいます。折れそうでも、枯れそうでも、神様が必ず良いものとして完成させてくださいます。ご自分の栄光を物語る喜ばしい実りを結んでくださいます。今はまだ見えなくとも、誰の目にも見えなくても、そう信じてよい、私には実りがはっきりと見えると、神様は招いてくださるのです。

 しかも、必ずご自分の栄光を現してくださる神様は、栄光を現すために私たちをあえて選び用いてくださるだけでなく、私たちをもその栄光に与る者としてくださいます。それはそれこそ、新共同訳よりも、新しい協会共同訳にはっきりと訳し出されていることですが、17節は、神の重みのある栄光は、私たちの内にももたらされるものと語るのです。私たちをも神が結んでくださった実りを喜び、楽しむ、過ぎ去ることのない神の永遠に与らせてくださるのです。

 まとはずれな生き方を止めて、このような信仰に生きることこそ、キリストが私たちのために作り出してくださった新しい現実、地に足の着いたキリスト者の歩みであり、また、誰でも、この信仰に生きることができるようにと、招いてくださる神様であります。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様、この地上にあって、死に取り囲まれるようにしながら、一日一日を刻むようにやっと歩むことしかできない私たちです。昨日よりも今日、今日よりも明日、どんどん擦り減って行くばかりで、新しさなどどこにも見出せないような私たちです。しかし、私たちの手から零れ落ちていってしまう私たちの命と日々を、あなたは御子イエス・キリストに結び付けてくださいました。御子において、私たちの土の器であるこの身も魂も引き受け、作り替え、我が実りと呼んでくださるためです。このために喜んで自分に死に、この身も魂も、あなたの御手に全く委ねることができますように。今から後は、私たちの吸う息、吐く息においても、あなたの栄光を現すものとして用いてくださいますように。生きるときも、死ぬ時も、私たちの主人であり続けられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。

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