礼拝

1月24日(日)礼拝

週報

説  教  題  「死は命に包囲された」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ5章1節から5節まで
讃  美  歌    140(54年版)

音  声 

金沢元町教会主日礼拝 のライブ配信 – YouTube

先週の臨時総会では、出席者全員の賛成を得て、教会堂の雨漏り補修と、講壇上方の窓サッシの交換を決定することができました。このことを神様に感謝いたします。既に色々な機会に触れていますように、これでもうしばらくの間は、教会堂のことについて安心していいということではなくて、むしろ、私たちの教会の会堂のあり方を模索していくためのある程度の時間的猶予を得るための必要最低限の修繕であるということです。神様が私たち金沢元町教会に託してくださる伝道の使命にどのようにお応えして行けば良いかということだけを念頭に置き、自由に考えていければ良いと思っています。

 いつか牧師室だよりにも書きましたように、聖書によれば、教会とは建物のことではありません。神の聖なる教会とは、建物のことではなくて、二人、三人と主イエス・キリストの名前によって集められた礼拝者たち群れのことです。だから、教会堂という建物がなくても、主イエス・キリストの名前が刻印された人間である洗礼を受けたキリスト者たちが集い、礼拝を捧げれば、そこが、どこであっても、教会はそこに存在します。週に一度だけ借りた建物内であっても、青空の元であっても、そこには何の不足もない神の教会があります。

 実際に新約聖書を読みますと、最初の教会は、主の日の礼拝のための専用の建物を持っていませんでした。おそらく信徒の内の比較的裕福な人の広めの部屋に集まって、そこで主の日毎の礼拝を捧げ、また、ことあるごとに祈りのために集っていました。この新約聖書の時代からさらに進んで、信徒がどんどん増えてくると、やがて世界遺産にもなるような立派な礼拝堂ということには直ぐにはならずに、今度は、ローマ帝国の迫害に遭い、大っぴらに集まれなくなりましたから、カタコンベと呼ばれる地下のお墓に集まるようになりました。その意味では、教会が教会であるためには、必ずしも専用の礼拝堂がなければならないわけですらありません。

 特に私たちは、改革派のプロテスタント教会です。礼拝堂の中には祭壇もなく、十字架もありません。カトリック教会の礼拝堂のような荘厳で、美しい装飾はどこにもありません。ここが他とは違う聖なる空間であることを示しているようなものはありません。万人祭司を標榜するプロテスタント教会においては、牧師に限らず、キリスト者の誰もが、献身者として、それぞれの家庭、それぞれの職場、それぞれの置かれた所で、聖なる者として主よりの使命に従って生きるのと同じように、この礼拝堂だけでなく、キッチン、職場、教室、通勤途上の車の中が、既に神と語り合うことのできる聖なる祈りの場であります。

 キリストが十字架で息をお引き取りになったとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けて以来、あらゆる場所が神が私たちと出会われる場所であることがはっきりとしました。

 ヨハネによる福音書第4章の主イエスは、サマリアの女との井戸端での対話において、神は霊であるから、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と教えてくださいました。エルサレムでもなく、ゲリジム山でもなく、そのシカルの井戸のほとり、真の人となって、私たちの生きるその現場に分け入ってくださった主イエスの来てくださったことにより、そこは、天の父を礼拝するにふさわしい場所になったのです。エルサレム神殿や、ゲリジム山という場所が問題ではありません。神の霊が与えてくださる、真の福音の信仰に生かされる者、主イエスに出会った者が、捧げる礼拝を、神は喜んでくださるのです。

 今日の聖書箇所の直前においてパウロも、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と語りました。引き続いて、今日の5:1において、「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」と言いました。幕屋とはテントのことですが、聖書の中で幕屋と言えば、何よりも神の幕屋のこと、エルサレム神殿の前に存在した、神を礼拝する場所のことです。

 この神の幕屋はソロモン王の建てたエルサレム神殿に負けず劣らず、いやそれ以上に、神様の御意志と、指示によって作られたものでした。その大きさ、形、素材、装飾に至るまで、主なる神様がモーセにお命じになるままに作らせたものでありました。その意味では神様の肝いりの礼拝所であります。

 けれども、パウロはこの地上の住みかである幕屋は、滅びると言います。これは永遠に残り続けるものではなく、やがて神様が与えてくださるまだ見ぬ永遠の建物に代わる過ぎ去っていく地上のものだと言います。パウロの目の前にはこの時すでに神の幕屋はありません。それはとっくの昔にソロモンの神殿に取って代わられたものでした。しかも、その当時、パウロの目にしていた主の神殿は、ソロモンが建設したものでもありませんでした。最初の神殿はソロモンの後400年後くらいに、外国の手によって壊されました。捕囚後、帰ってきた人々によって第2神殿が建てられましたが、それも、その600年後に、ヘロデによって新しく建て替えられました。パウロが見ていたのはヘロデの建てた第三神殿でした。クリスマス物語において、幼子イエスを探し出して殺そうとしたヘロデが建てた神殿、どんなものだろうかと思いますが、実は、この三番目の神殿が一番立派なものであったと言われています。ヘロデが、ユダヤ人の歓心を買うために、大金をはたいて建てた神殿でした。ルカによる福音書21:5にも、見事な石造りと奉納物を目にした人誰もがほれぼれする神殿であったことが示唆されています。

 しかし、この一番立派な神殿が、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と主が仰った通りに、100年持たずに戦争によって、破壊し尽くされました。永遠をご覧になる神のまなざしにおいては、地上のものは、どんな立派なものもパウロが「幕屋」と言ったように、いずれも、畳んでしまえば跡形もない仮の住まい、テントのようなものに過ぎなかったのです。このように見えるものの限界を弁えること、その儚さに気づくことは、神を信じる者にふさわしいことであると思います。信仰者は、過ぎ去る見えるものではなく、永遠である見えないものに、目を注ぐようにと招かれているのです。このことは、私たちの教会生活、信仰生活においても、忘れることのできない指針です。

 ところが、前回もお話ししたように、目に見えるものの限界を弁え、見えないもの、神の栄光にこそまなざしを注ぐパウロは、それによって、単純に、見えるものを捨ててしまうのではありません。パウロは、第4章17節で、今の一時の艱難が、神の永遠の栄光へと実を結ぶのだと言っていました。主なる神様は、私たちの地上の艱難をも、決して無意味なものにはなさいません。必ず、そこから、永遠に至るものを作り出してくださるのです。

 今日私たちが聴いている個所もこれと同じです。むしろ、よりはっきりと語られています。4節です。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」

 普通に考えれば、天に憧れつつ、今はこの地上にあって、地上の幕屋を着ているから苦しみもだえていると言う人、やがて、この地上の幕屋を離れても、裸にはならない神が上から与えてくださる天の建物があると信じる人は、重荷の多いこの地上を去って、早く、天に帰ることこそ最大の望みとしているというのが自然であるかもしれません。もちろん、地上でなすべき使命が与えられ続けている限りは、喜んで仕え続けるでしょう。けれども、その人の最大の望みは、天に紐づけられているものでしょう。

 パウロがフィリピの信徒への手紙1:23以下で、「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなた方のためにもっと必要です。」と語るときは、過ぎ去るこの世を去ってキリストとの永遠の交わりに迎え入れられる死後に待つ憧れを語っています。確かに今日与えられた聖書箇所の文脈においても一方においては、これと同じことが言われています。次週読むところですが、8節には、「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言うのです。

 ところが、それが全てではないのです。その自分の願いに逆らうようにして、4節においてはっきりと、「この幕屋に住む私たちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを着たいからです。」と語るのです。この肉体をはじめとする地上のものから解き放たれて、まだ目で見ることのできない、手で触れることのできない天での生活に憧れることに留まらず、この滅びの運命の中にある地上の住みかが、丸ごと、天来の命によって飲み込まれてしまうことに突き進んで行くのです。

 地上のもの、地上の命は過ぎ去っていくもの、滅びていくものであることは、誰もが知っています。信仰者はいよいよ、永遠である神のまなざしにおいて、その儚さを知ります。また、この世の儚さを知る誰もが、永続するもの、永遠のものに憧れて、魂の不死や霊魂の不滅に憧れ、それを色々な形で信じてもいます。キリスト者もまた、たとえ、この肉体が滅びても、その時には、いよいよキリストのおそば近くに迎え入れられるのだという確信に生きています。

 けれども、パウロの憧れはここに留まりません。私たちの誰もがよーく知っていること、とことん知っていること、今私たちが目にしているこの地上、時が過ぎれば跡形もなく消えてしまうもろもろの地上的なものが、天の命に飲み込まれること、天国をその滅びるものの上から、着せられることを願っているのです。

 なぜ、多くの人が望むように、魂の不死で足れりとしないのでしょうか?死ねば天国に行けるということで落ち着かないのでしょうか?なぜ、脆く儚い過ぎ去る体に目を注ぐことをやめないのでしょうか?

 それは、パウロ自身の満足、不満足に関係することではなく、キリストの墓が三日目に空っぽになっていたことに結びついたことであると思います。私たちと同じ脆く崩れやすい土の器となってくださったキリスト、十字架で死なれた主イエスを、神は死人の中から甦らせてくださったのです。

 パウロは、コリント宛の第1の手紙の第15章において、復活の体は、肉の体とは違う霊の体だと言いましたが、それは肉の体とは全然別ものではありません。この弱く脆い肉の体は捨てられず、変えられ、生きるのです。

 それをパウロは、ここでは、地上の幕屋を脱ぎ捨てたいのではなく、天を上から着たいと表現するのです。自分の素朴な希望、体から離れて主と共にいたいということに逆らって、苦しみもだえを深めつつ、体を重んずるのです。

 私たちの家族も、今年度は、肉の体の弱さを、いよいよ思い知らされる経験をいたしました。体の自由の利かない不自由さ、手術をしても、術前よりも、動きが制限され、して良かったのか、しない方が良かったのか、今もまだはっきり言うことはできません。教会の仲間からも折々に、病やケガや、不可逆的なダメージを肉体に負ったという話を聞きます。何十年も共に過ごして、がたが来ている体を取り換えられるなら取り替えたい、やがて、ここから解放されて、傷も皺も、しみもない新品のような自分になりたいという思いは、40過ぎれば、私も含めて多くの人が、夢想することだと思います。

 けれども、父なる神様は、クリスマスから復活に至るイエス・キリストの出来事において、その空の墓、目で見、触れられたご復活の体において、語られます。私たちのガタが来て、脱ぎ捨てたくなるようなこの体を捨てない、命に飲み込むのだと語られます。死に向かっている体、滅びに向かって、壊れていく体をも神は、丸ごと、キリストの命に飲み込んでしまいたい。

 今日、私たちが聞いています第5章の冒頭について、多くの注解書は、人間の命について語られていることだとします。そして、地上の幕屋とは、第一には、この体のことだと言います。その意味では、実は、会堂について話し始めたことは、少しずれたことのようにも思えます。

 しかし、この第5章におけるパウロの視野は、それを第一に見つつも、そこに留まらず、もう少し、広げられていると思います。天から与えられる住みか、すなわち天国を上から着たいという言葉には、主イエスの教えられた「御国が来ますように」、この地上に普く神の御支配が行き渡りますようにという祈りを、思い出させるものです。神が主イエスにおいて、ご自身の御支配のもとに取り戻し、回復したいと願われているもの、それは、人間の魂だけでもなければ、人間の体だけでもありません。神がご自分の言葉によって造りだされ、それを見て極めて良かったと満足された、この被造世界全部です。

 今日は色々な所を引用するようで恐縮ですが、ローマの信徒への手紙8:18以下は、今日の聖書箇所を理解する上で、欠かせない箇所であると思います。特に20節以下にこうあります。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意思によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」全被造物が、神の回復の対象なのです。この世界を取り囲む滅びが、命に飲み込まれて万物は贖いに与るのです。そうであれば、この地上における一つ一つの物事、出来事、関りは、あだや疎かにはできない一緒に永遠を祈り求める仲間であります。

 この全被造世界の中にあってキリスト者は、天の高みを悠々と一人飛ぶ鳥ではなくて、世の只中にあって全被造物の苦しみ、嘆きを、神に向かって代表して執り成し続ける祭司であります。また、神の使者として死ぬはずのものは命に飲み込まれるとの神の決意を世にあって告げる預言者でもあります。

 私たちの体を重んじ、被造世界を重んじてくださる、そういう神様の使者として、執り成しの祈りと福音宣教の拠点であるこの礼拝堂をどうしていくかということも、当然、私たちの世に向かっての信仰の表現となり、神様に向かっての献身のしるしとなり得ます。

 死を命で包囲し、地に天をもたらすために、かつて来られ、やがて再び来られ、今共にいますイエス・キリストの父なる神様です。その神様が、この福音を告げさせるために選び、聖霊によって生かしている私たち教会です。私たち教会は、天の事柄と共に、地上の事柄においても、率直かつ、丁寧に神のみ旨を尋ね求め、この世に対する神の愛と配慮にふさわしい応答を模索していきたいと願います。

 

祈ります。

主イエス・キリストの父なる神様、御国を来たらせてください。

御心の天に成るごとく、地にも成らせてください。

人となられた御子イエス・キリストにおいて、

既に、天と地に成就してくださった御心を誰の目にも見えるようにしてください。

そのために選び出し、建てられた教会を、力づけ、用いてください。

滅びと戦う者たちを祝福し、神の命の約束を告げることができますように。

天と地の主であるイエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

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