礼拝

10月9日主日礼拝(音声)

週報

説教題 霊と命の言葉

聖 書 ヨハネによる福音書6章60節ー71節

讃美歌 55番

 

本日は教会創立記念日の礼拝です。先日、創立137周年集会を日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師の奥田知志先生を呼んで行った北陸学院の創立から1年と1か月の後に、生まれた私たちの教会です。手狭になった柿ノ木畠にあった北陸学院の校舎を現在の場所に移動させた宣教師ジェームズ・ポーターの熱心な伝道によって生まれた、旧日本基督教会浪花中会の群れ、それが私たちの教会です。今日で、創立136年を迎えました。

今日は、記念すべき創立記念日礼拝ではありますが、いつもと変わらず、ヨハネによる福音書を読み進めてまいります。

先日の、CLC小羊書店の販売でも、奥田牧師の本と共に販売されており、教会図書として一冊買いました東京神学大学の旧約聖書神学の教授、小友聡先生の本があります。最近、ちくま新書として出された『絶望に寄り添う聖書の言葉』というタイトルの本です。新書ですから200ページ程度のもので30章に分かれて、それぞれの章が独立していますから、気軽に読みやすいものです。ぜひ、お手に取ってお読みになることをお勧めいたします。ちくま新書ですから、教会に足を運んだことのないご家族、また、ご友人にもお勧めしやすい書物だと思います。購入して、そっとご自宅のテーブルの上に置いておいても良いかもしれません。

今度の水曜日の夜の祈祷会では、そこから旧約『コヘレトの言葉』について書かれた文章を読んでみようと思ってますから、ご興味のある方は、ぜひ、いらしてください。小友先生は、みずき牧師の修士論文の指導教授であり、また私たちの結婚式の主賓挨拶もしてくださった、たいへんお世話になった先生です。私は、専攻が違ったので、それほどたくさんの授業を受けたわけではありませんが、今回、新しいご著書のあとがきを読んで、たいへん感銘を受けました。

小友先生は一昨年、NHK、Eテレの「こころの時代」シリーズで、旧約コヘレトの言葉を説かれました。その番組で、文芸評論家で、またご自身も詩人である若松英輔さんと対談されました。その若松さんとの出会いについて、新書のあとがきの中でこう書いています。少し長いですが、ご紹介いたします。

「私にとって若松英輔さんとの出会いも衝撃的でした。若松さんはカトリックの信者ですが、彼を通して私はカトリックの霊性に出会い、その聖書の言葉を読み取る姿勢に目を開かせられました。/私はプロテスタントの牧師です。プロテスタントは聖書を読む場合、その言語の意味を探求し、正確に理解し納得することが重要になります。プロテスタントの信者は『聖書の言葉を食べて生きる』と言うほど、聖書を大切にします。言語的知性が優先され、教会の礼拝で説教を聴いて理解する集中力が求められます。/ある意味で、それと対照的なのがカトリックです。カトリックは聖書の言葉を感性で受け取ろうとします。聖書の言葉を(知性的な)言葉としてではなく、霊的な『コトバ』として体験すると言ったらよいでしょうか。」

少々わかりづらいのですが、小友先生は、カトリックの作家、若松英輔さんとの出会いにより、聖書の言葉を、その文字通りを、知的に理解しようとする姿勢を越えて、その字面の背後にある精神、私の言葉で言い換えるならばコトダマとでもいうような聖書の心に出会う必要に目を開かれたと言うのです。

私たちプロテスタントの信仰者は、聖書を一字一句丁寧に、正確に読むことに長けているけれど、その霊的次元を捉え損ねた読み方をしているのではないか?細かい所に囚われ過ぎて、聖書の核、聖書の心を見落としてはいないか?自分はプロテスタント教会の牧師で、神学教授だけれども、その次元で聖書の言葉と出会うことに新しく目を開かれたと。

小友先生の名誉のために申しますが、小友先生という方は、そもそも字面ではなく、紙背に徹する読み方を大切にされてきた方だと思っています。私が神学生時代、小友先生はチャペル礼拝で、旧約聖書の古代写本の欠けた部分、空白を見ながら、この欠けに、空白に、預言者の万感の思い、神の言葉にならない思いがあると説教されました。忘れることができません。聖書の字面だけにこだわってきたような方ではありません。

だから、今までご自分が大事にされてきたことを、カトリックの若松英輔さんの聖書神学のち密な手続きなしに、すっと聖書の事柄そのものに、一気に肉薄してしまうような姿勢を通して、背中を押された気分になっただけではないかと私は推測いたします。御自分が聴こうと努めてきたし、実際に聴いて、語ってきたことは、聖書の文字の背後にある生ける神の心、人間と出会い、私たちを立ち直らせる神の生きた言葉。

プロテスタントの牧師として、神学教師として、改めて、聖書を貫いて呼び掛けてくる神の生きた言葉、呼びかけにこそ、耳を澄まそう、それを語ろう。

今日与えられた聖書箇所の63節というところで、主イエスがご自分の語る言葉について言っていることは、まさに、このことであると思います。

私たちが、教会創立記念日に聴くべき言葉が与えられたと思います。

「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」

わたしの言葉は霊の言葉だ、命の言葉だと主イエスは仰います。ここで大切なことは、それは主イエスが、人々に向けて話した言葉だということです。「わたしがあなたがたに話した言葉」なのです。

当たり前のことを言っているだけ、読み飛ばしてしまうような言葉ですが、聖書を本当に読めるかどうか、聖書を本当に聴いたかどうかは、ここに掛かっています。

主イエスが私たちに話す言葉、生ける主イエスが、今の私たちに現に話されている言葉。

聖書から生ける主イエスの声が聞こえてくるかどうか?これが、聖書を読む者の生命線です。

生ける主イエスの声が聞こえて来なければ、聖書を読む価値は、激減します。

もちろん、古代文献としての価値は残ります。人間の数千年に渡る知恵の集積としての価値も残ります。それを、神の掟と重んじて読むことも、もちろん、有益でしょう。それだけでも、一生をかけるに値する価値はあります。

けれども、聖書の真価、本当の力は、そんなところにはありません。

この文字から、人間の書いた文字から、この書物から、生ける主イエスの声が聞こえてくるのです。牧師が何か神がかった、神秘的な経験を求めるようにと勧めているのかと思われるかもしれませんが、わたしは至って冷静です。今までと一つも変わりません。生ける主イエスの言葉をこの書物から聴くということは、別に全然神秘的なことではありません。一生のうちに何度しかない特別な経験のことを言っているのではありません。

確かにそういうことも、時にはあるでしょう。雷が落ちたように、ある一つの言葉が生きた神の言葉としてわたしの心に響いてくるということはあります。その経験は、大切にされたら良いと思います。けれども、聖書が生ける神の御言葉、生けるキリストが、今この私たちに語りかけてきた御言葉として聴かれるというのは、とても日常的なことです。

その言葉を読んで聴いて、しみじみと、「これは本当にその通りだ」と、心に響いた経験のことです。

主イエスのたとえ話を聴きながら、「ああ、これは神さまにしか語れない言葉だ。これは人間の言葉じゃなくて、天からの言葉だなあ。」と、思わされる時、主イエスの生きた声、命の言葉を聴いたのです。

毎朝、自分で聖書を読むとき、日曜毎に説教を聴くとき、「これは私たち自身の罪の姿だ。」また、「神の愛はこれほどまでにも深いものなのか」と、納得しながら聴くとき、そこで、私たちは、霊であり、命である、今、私たちに語りかける生けるキリストの声を聴いたのです。

生涯に一度、二度という特別なことではありません。

私たちが喜んで聖書の言葉を読んでいる時、喜んで説教の言葉を聴いている時、そして、何よりもそこでキリストを愛し、この方にひれ伏し、神を拝む思いが与えられるとき、いつもいつも起きていることです。この教会でも起き続けたことです。

パウロはテサロニケの信徒への手紙Ⅰの2:13でこう言います。

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」

神の言葉を聴く経験というのは、何も天から不思議な声がしてくることではありません。人間であるパウロの言葉が、神の言葉として聴かれたのです。しかも、特別に神に憑依された巫女さんや、青森のイタコ、沖縄のユタのように神がかりとなったパウロの言葉を、神の言葉として聴くというのでもありません。イエス・キリストの出来事を語るパウロの普通の言葉、福音を語るそのパウロの普段の言葉を、神を指し示す言葉として聴いて受け入れた。キリストを信じ、神を拝む思いが与えられた。それが生ける神の言葉を聴いた経験であり、それ以来、生ける神の言葉が、信じ続けられているということが、今なお、信じた者の内に、生ける神の言葉がありありと働いているしるしなのです。

このような神との出会いに生きるのは、パウロのような理性的な人だけではありません。情熱的な主の一番弟子ペトロも同じでした。

第Ⅰペトロの1:8にこういう言葉があります。

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」

私はよく、生けるキリストに出会うという話をいたします。けれどもそれは、不思議な霊的体験を求めようということではありません。聖書を読んで、説教を聴いて、うんうんと頷いて、イエスさまを好きになったら、生ける神の言葉を聴いたのです。生ける神に出会ったのです。

しかし、主イエスの周りには、それでは納得しない者たちが、始めからいました。

今日読み終える第6章の最初の方、既に読んだ30節に、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことを行ってくださいますか。」と、主イエスに問い続ける者がいるのです。

しるしが見たい。奇跡が見たい。このわたしが納得できる特別な証拠が欲しい。

十字架にお架かりになる主イエスに対して、たくさんの人々が侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」

しかし、信じる者にはしるしなど必要ありません。しるしではなく、もう、神の恵みそのものであるキリストが、私たちと共におられるのです。

その言葉を毎週毎週、毎日毎日、語りかけていてくださる。

その言葉を聴くごとに、自分へのこだわりを手放し、主イエスへの愛、神への愛を新たにされる私たちにとっては、いつもいつもイエスさまとの生きた出会いがあります。

もちろん、はっきりとしたしるしも一つだけあります。確かにイエスさまが世の終わりまで私たちと一緒にいてくださるしるし、それは、マタイとルカが、ヨナのしるしと言ったもの、すなわち、2000年前にこの地上に、この私たちの生きる歴史の中に確かに打ち立てられたキリストの十字架と陰府下りです。このしるしが最大、最高のしるしであり、これ以外の奇跡は、パウロが第Ⅱコリント書で語るような第三の天にまで昇ることも含めて、比べるに値しません。

なぜって、あの十字架の出来事における御子こそ、私たちがどこにあっても、この方がどこまでも一緒にいてくださることの確かな証拠だからです。

奇跡は起きないけれど、本当に本当に神さまは私たちを見捨てないのか?

天から声は聞こえないけれど、イエスさまは本当に今も一緒にいてくださるのか?

聖書の指し示す十字架の出来事を見てください。イエスさまは、十字架まで、陰府、すなわち、地獄の底まで、私たちと共に行かれる神です。私たち教会はそのことを信じ、主イエスを愛し、神を拝む群れです。

ところが、主イエスは、実に、このように生ける神の言葉を聴き、神に出会い、神を信じる群れであるはずの教会の中に、ご自分を信じない者がいると仰います。64節です。

「しかし、あなたがたの内には信じない者たちもいる。」

この「あなたがた」とは、他の誰でもありません。60節にあるように、「弟子たち」です。しかも、ここで、主イエスに躓いた者は、主イエスの弟子の内の少数者だとは言われていません。「弟子たちの多くの者」と言われています。主イエスの言葉と本当の意味で出会えない者は、実に多いのです。聖書学者たちの見解によれば、非常に耳の痛いことですが、この弟子とは、教会のことだと言われています。この主イエスの言葉は、ヨハネの教会において、主イエスを何者であると告白するか?というキリスト告白において、結局、教会の信仰を告白し切ることができず、教会から脱落してしまった者達の姿がここに記憶され、記録されていると言われるのです。

主イエスに心惹かれ、また主イエスの語る言葉自身に、熱狂しつつも、生ける霊の文字としてではなく、死せる言葉としてしか聴けなかった者たちもいるのです。その人たちは、自分の受け止めていた理解の範疇を越えると、教会の交わりから去ってしまったのです。この金沢元町教会の古い古い長老会記録を見ても、教会から去って行く者たちの記録は枚挙にいとまがありません。そのことが起こらなかった時代はありません。

どんなに聖書の言葉に精通していても、一字一句重んじるような読み方をしていても、それを食べ物のようにして読んでいても、霊的な言葉として体験していなければ、つまり、主イエスの愛にぶつかるような読み方が与えられなければ、主イエスの元から去ってしまうのです。

66節、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」

厳しい厳しい聖書の言葉です。厳しい厳しい出来事です。

けれども、その厳しさとは、主イエスの元から、ヨハネの教会から去って行った者たちに対する厳しい言葉であるというのではありません。去って行った者たちは偽物だったと裁く厳しさではありません。この主の弟子集団の中に起きた事件とも言うべき出来事が、厳しい出来事であったというならば、その厳しさを誰よりも、誰よりも、経験しておられるのは主イエス御自身なのです。

67節、そして70節から、主イエスの悲しみの心が溢れ出して、私たちの心にまで流れてきます。

「あなたがたも離れて行きたいか」、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」

64節の後半に、「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。」とあります。けれども、それにも関わらず、67節と、70節の言葉に滲み出ているのは、悲しみではないでしょうか?ご自分の元から去って行く多くの弟子を見ながら、主イエスは、あの者たちは最初から父が選んだ者ではなかったのだ、初めからわたしのものではなかったのだと平気な顔をしていられません。

苦しそうに、「あなたがたも離れて行きたいか」、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と、呻くように語られるのです。主イエスこそが、厳しい厳しい思いになっておられます。

先々週の図書販売で、小友先生の本と共に、北陸学院の137周年を祝うために呼ばれた奥田知志牧師の『ユダよ、帰れ』という説教集もまた、販売されていました。この方は、バプテスト教会の牧師であり、教会理解、信仰理解において、私たち改革長老派教会とはだいぶ異なる理解を持っている部分があります。特に教会の社会に対する使命をどこに見るかという点においては、私たちとは強調点が違うところが多少あります。違うからこそ、自分たちの立ち位置を確認するために、学ぶところが多いとも言えます。

しかし、初めて刊行されたこの説教集に関しては、やはりその中にもある細部の理解の差はどうあれ、私はそれを読みまして、それこそ、聖書の字面ではなく、その心が生きて立ち上がってくるような読書経験、御言葉経験を与えてくれる説教に、何篇も出会いました。中でも、その説教集のタイトルにもなった『ユダよ、帰れ』という一篇に深く心を惹きつけられます。その中で奥田牧師は言います。

「全知全能の神は、実に不自由な方であると。全能の神にもできないことがあります。それは『見捨てる』ことです。神は何を言おうが自由であり、何でも言えるのだが、実は絶対に言えない一言があります。『知ったことか、自分で始末しろ、それはお前の問題だ』。神様は逆立ちしてもこれは言えない。」

それから、福音書のユダの物語の続きを、「オクダによる福音書」と言いながら、その続きを想像して、陰府に降ったイエスさまがユダを見つけて、抱きかかえてこう言ったろうと想像を語ります。「私はお前よりも先に地獄に降り、お前の受けるべき裁きを受けた。お前の罪は裁かれた。大丈夫だ。お前は赦された罪人としてこれからも生きるのだ。わたしと一緒においでなさい。さあ帰ろう。」これは「オクダによる福音書」だと言いますが、実は、これは、オクダ牧師の完全な創作ではありません。

これは20世紀最大の神学者と言われる、私たちと同じ改革派の神学者、カール・バルトの言葉から着想を得たものです。色々な人の名前が出て恐縮ですが、私たち連合長老会に属する教会の代表的な神学者である熊野義孝という人が、この改革派の神学者バルトの最大の功績は、誰が選ばれ、誰が棄てられるかというまさに改革派が重んじてきた予定論に画期的な理解の転換をもたらしたからだと高く評価しました。

主イエスは、父からおゆるしがなければ誰もわたしのもとに来ることはできないと仰います。けれども、また、遡った第5章では、裁きは一切子に任されているとも仰います。

それゆえバルトは、この裁きを任された御子イエス・キリストは、御自分を滅びに選び、私たちを命に選んだ、それが十字架の出来事であると言いました。議論百出の理解ではありますが、熊野義孝という人は、これがバルトの最大の貢献だと言いました。奥田牧師の説教を読んで驚かれた方もいると思いますが、実は、この金沢元町教会の福音理解の伝統と、とても近い所にある信仰です。いいえ、むしろ、私たち改革派教会、御言葉によって絶えず改革されていく教会と自らを呼ぶ教会の中に与えられた聖書の読み方です。

バルトはユダが救われたとは言い切らない。熊野先生も言い切りません。

けれども、これは確かに言えます。

御自分の元から去って行く者たちを見る時、主イエスは苦しくて苦しくてたまらない。

去って行く者、また残された者が苦しんでいる以上に、一番、苦しんでいるのは主イエスなのです。

そして本当に、この方は、神を愛することのない者たちを棄てることができず、しるしばかりを追い求める自己愛病にかかった人々を棄てることができず、ずるずるずるずると十字架への道へと歩んで行かれたのです。このような道を主イエスに歩ませてしまう私たち人間の罪は少しも愛らしくない。腐りきっています。けれども、それにも関わらず、主イエスにあって、天の父は、私たちが可愛くて仕方がないのです。

主イエスを悲しませている私たちの罪の深さとか、それをはるかに凌駕する主イエスにある深い深い神の愛がお分かりでしょうか。

このイエス・キリストのお姿を聴き、自分の罪を嘆き、しかし、それ以上に、キリストを愛し、神にひれ伏す思いが与えられたならば、私たちは、死せる聖書の文字ではなく、キリストを証しする、霊の言葉、命の言葉を聴いたのです。

私達金沢元町教会を136年間生かしてきたのは、聖書の字面ではありません。聖書の魂、聖書の命そのものである神の憐み、御子イエス・キリストの愛です。

私たちが命を懸けて従うのは、死せる文字ではなく、この方の元から去る罪人である私たちのためにこそ命を注ぎ尽くしてくださった、生けるキリストです。

 

 

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