礼拝

1月10日(日)礼拝

週報

説  教  題  「他者のために存在する群れ」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ4章13節から15節まで
讃  美  歌    265(54年版)

私たち日本に生きるキリスト者たちは、特にそうであるかもしれませんが、家族の中で、一人きりのキリスト者であるということがよくあります。一人きりでなくとも、夫や妻、子供に、同じ信仰に生きてほしい、キリストを信じる信仰の喜びに生きてほしいと願っているのに、なかなか信仰を持ってくれないということに、やきもきするということがあります。

 特に私たちはキリストへの信仰というものは、持っても持たなくても良いものではなくて、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と、聞いてきたわけですから、自分にとって大切な人にも、そうでない人にも、この方の名によって救われてほしいと願うのが人情であります。

 けれども、この時代のこの地域にあって、私たちは圧倒的な少数者であり、吹けば飛びそうな日本のキリスト者たちであります。教会の存続云々を超えて、そういうことは、脇に追いやっておいても、ただただ素朴に、キリストを信じて、その救いの喜びに生きる方が少ないことを、残念に思いますし、私たち教会の責任を痛感します。そういう私たちにとって、今日のパウロの出だしの言葉というのは、私たち教会が、見過ごしにはできない言葉であると思います。

 信仰はどこで生まれるのか?パウロは、今日の聖書箇所の出だしでさらっと語っていると思います。私たちが信じる者となり、伝道する者となるのは、「同じ信仰の霊を持っている」からだということを読み落としそうになるくらい、さらっと語っています。パウロが何でここで信仰の生まれる筋道については、あっさりと語っているかと言えば、ここでの彼の眼目は、信じることと、語ることは一つのことであるという、信仰者は福音宣教者であるというキリスト信仰の特徴を語ろうとしているのであり、信仰者が生まれる筋道を話題にしているわけではないからです。けれども、そうであっても、私たちにとって大変興味のあることが言われています。私たちは「信仰の霊を持っているので」、信じ、語っているのだと。

 ここでは、「信仰を持っている」と言ったほうが、素直であるように思います。特にパウロは、信じる者は、当然語る者となると言いたいわけですから、その方が、わかりやすいと思います。多分、私たちも自分の中で、そう読み替えていると思う。けれども、パウロは、キリストを信じる者は当然語る者とされるという信仰を私たちは持っているとは直接には言わず、「信仰の霊を持っている」という少し回りくどいような言い方をします。

 このような言葉遣いには、キリスト信仰というものは、私たちが直接持っている、直接信じているというのではなくて、パウロが「信仰の霊」と呼ぶ、霊を通して、注ぎ込まれるものであるという理解があると思います。パウロという人は、信仰というものを、私たちの心の内から湧き上がってくるようなものではなくて、人間に信仰を与える霊、すなわち、神の霊である聖霊が、外側から与えてくださるプレゼントであると、理解していたと思います。たとえば、Ⅰコリント12章では、信仰を神の霊が送ってくださる賜物の一つ、プレゼントだと述べており、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません。」とはっきり語っていました。

 自分の知恵と力で信仰に至らないというのは、私たち人間の頑なさと罪深さが原因だということは、確かに聖書に語られていることではあります。しかし、その不信仰を克服して、信仰に至らせるのは、教会を通して神が語り続られる福音の言葉と、その福音の言葉を、真実の言葉として私たちが聴けるように、私たちの心の内側にまで侵入してきて、明るく照らしてくださる聖霊の働きによるものです。

 だから、信仰に至る者が少ないというこの世の頑なさを責めたり、嘆いたりするよりも、同じように頑なな者であった私たちを信じる者と変えてくださった神の霊の働きを、隣人のために願い求め続けることが健全な態度であると思います。それは自分自身の信仰を顧みるときにも、大切なことだと思います。私たちは自分に信仰があるかないかということを考えるとき、自分の心の動きを覗いてみるということを普通はすると思います。80パーセントは信じているかなとか、50パーセント程度かなとか、大体7,8割くらい信じていられれば、まあ、自分は信仰者だと言えるかななんて考えがちかもしれません。

 けれども、実はそれは私たちが自分の信仰を語るときの本筋にはならないことです。私たちに信仰があるか、ないかは少し乱暴な言い方をすれば二者択一の事柄であり、その基準はパウロの言い方によれば、私たちが信仰の霊を持っているか否か、聖霊を持っているか否かという内面的なことよりも客観的なことによって判定されるものだと思います。そして、この客観的なことは、私たちの信仰深さの度合いによって計られるものではなく、約束に基づくことです。

 聖霊は神の霊ですから、つまり、神ご自身ですから、本当ならば持つ、持たないとか言えるものではありません。自分の所有物のように神を持てるという言い方は絶対にできないはずです。それなのに、もしも、私たちが神の霊を持っているということができるならば、神の霊のほうが、私たちを選んでくださったのです。神の自由な一方的な恵みとして、聖霊を持つ者とされているのです。主イエスは、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と、聖霊が、一人の人を信仰者として生み出すのは、私たちのコントロールを超えた風のような聖霊自身の自由に属することであると語られました。

 けれども、それは、神様の気まぐれということではありません。むしろ、神様の恵みの絶大であることを語ろうとする言葉だと思います。つまり、途方に暮れさせることではなく、聖霊がその自由において信仰を与えてくださるということは、私たち人間の気持ちによって左右されるようなあやふやなものではないということ、神の一方的な愛の自由意思のゆえに、与えられ、最後まで持ち堪えられるものであることを語ろうとするものであるでしょう。

 それがどれだけ、わたしたち自身の自覚と離れたところで成り立つ事柄であるかは、Ⅰコリント3:16のパウロの言葉から明らかであると思います。そこでは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と言われています。この言葉を真剣に聴くならば、私たちは忘れてしまうことがありうるということです。信仰があるかないか、その根拠である聖霊を持っているか、ないか、わからないし、知らないということがありうるということでしょう。けれども、それはあくまでも私たちが知らないというだけであり、「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」という事実は、微動だにしないということでしょう。

 神様が私たちの内に住まうほどに私たちのそばに共におられることは、私たち人間の風に揺らぐ葦のようにあやふやな心に左右されたりはしないということは、私たちの神様によく当て嵌まることではないかと思います。そもそも信仰というのは、ピスティスという言葉の翻訳ですが、パウロの言葉遣いによれば、これは一般的に我々が考える信仰という訳語だけでなく、「まこと」「真実」という意味で、使われる場合があるというのが、最近の大方の聖書学者たちの意見です。しかも、パウロが、その真実と訳しうるピスティスという言葉を使う時、神の真、キリストの真実を語ろうとするのが、第1のことであるという反省がなされました。信仰義認という言葉がありますが、これを信じることによって義とされると理解するのは、少々乱暴すぎる。実は、ルターもそんなことは意図していなかったし、ルターがパウロを読むことによって再発見したキリストの福音というのは、私たちが救われるのは、私たちがキリストを信じる信仰によってではなく、キリストにおける神の真実、神ご自身の真によって我々は救われるという福音であると、理解すべきです。

 しかも、このような確かな取り去られない恵みは、既に、洗礼を受け、教会に結びつけられ、キリスト者となった者たちのみに向かっているものではありません。なぜならば、このような信仰に招かれ、信じた者は、今日のパウロの言葉によれば、語る者であると言われているからである。信仰者が語る者であるとは、キリスト者は自己完結しない。聞く者を求めるのです。そしてそれこそが、今日の聖書箇所の眼目であると思います。福音を信じる者は、福音を語る者である。私たち頑なな者を信仰者に変えてしまわれる聖霊は、私たちを信じる者とすると同時に、福音を隣人に語る者とされます。

 信仰者になること、キリスト者になるということはどういうことであるかというと、自分が救われるため、自分の現在も、将来も、死後も安泰だという安心感を得るためではありません。もちろん、そのような神の祝福を信じる平安が、我々信仰者の心に与えられることは間違いのないことでありますが、神は、教会を現代の箱舟とし、その内にある者が、安心して自分の救いの実感を確信し、楽しむために、信仰者を生み出し、教会を建てたのではありません。信じる者は、語る者、福音を次の人に手渡す者であるというのが、聖霊が作り出してくださる信仰者の姿です。

 12節で、「わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働く」とパウロは語りました。信仰者は自分の命のためではなく、隣人の命のために存在する者達です。同じように、今日の15節にも「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるため」と語られます。「あなたがたのため」に、他者のために、キリスト者は存在します。だから、ただ信じる者ではなく、信じ、語る者なのです。キリスト者はお客様の立場、神の恵みの消費者の立場に留まることはできません。聖霊は、献身者として、福音伝道者として私たち信仰者を生み出されたのです。

 けれども、この献身の働きは、人間が地上での神の手のようになって働くことではないと思います。あくまで私たちは神の協力者の位置に留まります。他者のために生きるパウロの働きの目的を語る言葉であるような15節の言葉は、新しい翻訳では、もう少し躍動を感じられるような翻訳になっており、そこでは、「すべてのことはあなたがたのためであり、こうして、恵みがますます多くの人に及んで、感謝を満ち溢れさせ、神の栄光となるのです。」となっています。

 主語が、人間から恵みに変わっています。こうなると、パウロの宣教の努力と、それが聞く者に受け止められるいうのは、神の恵みの自己運動であることがわかります。つまり、神ご自身が、伝道を願い、その最前線に立っておられるのです。神様は気まぐれにある人に恵みを与えたり、取り去ったりなさるのではなく、神の御意志というのは、ますます多くの人にご自身の恵みを与えたい、恵みを押し入れ、揺すり入れたい。そして、神様の恵みが、多くの人に及んだ結果、感謝が満ち溢れてくることを待ち望んでおられる。それが神の栄光だと言うのです。それが神の栄光だというのは、言い換えれば、神様が一人のキリスト者が生み出されることをご自分の誇りとしてくださる。喜びとしてくださるということです。

 私たちは周りを見ても、時代を見ても、神様を信じる人は少ないと思っています。それは現代人が頑なで無神的な時代だからという言い方もできるかもしれませんが、我々は、どんな時代、科学が発達していない古代であっても、信仰に至るのは、人間の側の条件ではなくて、人間的状況に関係なく一方的に信仰を与えてくださる神の選び、恵みによると信じています。そうすると、信仰に入る人が少ないと見えるこの時代には、神様は、人間に信仰をお与えになることを止めてしまっているのか?思い留まっていらっしゃるのだろうか?と言いたくなるようですけれど、今日の御言葉に聞けばそうではない。恵みを与えること、信じる者が生まれることを神様は、ご自分の喜びとし、誇りとし、決してその働きの手を止められることはないということがわかります。そうであるならば、私たちが伝道を諦めることはできない。神の働きが見えづらいという時にも、諦めずに伝道に励む必要があるのです。

 いやむしろ、実は、私たちに神様が露わにしてくださった福音、教会を生み出し、私たちに託してくださった神の決定的な思いであるキリストの福音というのは、神様のことが見えない闇の中でこそ響いてくる言葉であると思います。

 13節「わたしは信じた。それで、わたしは語った」という信仰と電動がセットであることを語る言葉は、「書いてある通り」とパウロが聖書の言葉を引用していることを示唆する言葉ですけれども、印象付きの聖書によると、詩116:10とされています。しかし、そこでは、「わたしは信じる『激しい苦しみに襲われている』と言うときも」とあります。だいぶ雰囲気が違います。パウロは、信じる者は当然語る。信仰と伝道はセットであるようなことを語っていると思われますが、詩編の方は、自分の口を突いて出る言葉は、「苦しい、苦しい」という言葉であるかもしれないけれど、それでも、信仰を失うわけではないということを言っていると思われます。

 なんでこんなに違うかと言えば、ある聖書学者によると、これは、パウロが、ヘブライ語の旧約聖書ではなく、ギリシア語に翻訳された旧約聖書を引用したためだと言います。実際にその聖書を見てみましたが、そこでは「わたしは信じたので、語りました。しかし、非常に苦しんでいました。」となっていました。パウロは、この言葉の前半だけを引用しました。苦しみの部分をわざわざ削除して引用しているようにも思えますが、無視したのではなくて、もうこれ以上は必要なかったのだと思います。なぜなら、ここまでの所で、既に十分に語られていました。四方からの苦しみ、途方に暮れること、虐げられること、打ち倒されること、土の器である自分、イエスの死の体をまとった自分、死ぬはずのこの身、自分の内に働いている死の力。

 パウロは、むしろ、詩編の語る苦難を、何か思いがけないものとして、その上でなお信じるというのではなくて、信仰者の苦難を、キリストの死に結びつけられた、キリスト者とキリストを一体としている福音の働く場そのものへと深化させていると言っても良いと思われます。つまり、「苦しくても信じる、苦しい苦しいと言いながらも、なお信仰は失わない」というよりも、「キリスト信仰とは、主イエスの死の苦しみと、自分の苦しみが一つとされることを知ること」ということでしょう。

 しかも、それは、単に、心の問題ではありません。人となったキリストは、死ななければならないという私たちの苦しみをご存じでいてくださるという慰めに尽きるものではないのです。確かにキリストは、私たちと同じ土の器になってくださった。やがて壊れてしまう脆く弱い体をご自分のものとしてくださり、私たちの兄弟となってくださいました。しかし、このお方が、そのような土の器になりきってくださったのは、私たちと一つになりきるためであり、ご自身と一つになりきったその私たちを、体を含めた丸ごとの私たちを、ご自身の甦りの命に巻き込むためでありました。だからパウロは14節で、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」と言います。

 主イエスのゆえに、自分が死に行く人間であることを見つめることができたパウロ、人間イエスが、十字架に至るまで苦しみ、私たちの一つになり、兄弟となったゆえに、四方からの苦しみ、途方に暮れること、虐げられること、打ち倒されること、死を身にまとった自分であることを受け止めることが許されたパウロが、そこで止まらず、復活の希望にまで突き抜けていきました。信じることと語ることが一つのことであるように、キリストの死と私たちが一体となる慰めと、キリストの甦りと私たちが一体となる希望とは、まるで一つのことなのです。これがキリスト信仰です。これこそが福音です。

 だから今、私たち教会は、世に向かって次のような私たちの信仰を、語っていきたいと願います。死こそが人間の最後の運命であるなどという時代は、もう終わったのです。キリストが、私たちの兄弟となり、死の体をまとい、十字架で死なれ、陰府に下り、しかし、神によって、三日目に甦らされて後は、復活こそが人間の最後の運命となったのです。それは、私たちの内なる心の動きと何の関係もなく、私たちの外で、しかし、私たちのために、神がイエス・キリストの出来事によって打ち立ててくださったこの世界の客観的な現実と言うべきことです。

 「苦しい、苦しい」と言っていても、「怖い、怖い」と言っていても、それでもこの信仰こそが、いや、神のまことこそが、私たち人間のまだ見ぬ現実となります。今はまだ信仰においてしか見ることのできない隠された現実ですが、真の現実です。この真の現実は、もう覆りません。いかに私たちが不誠実でも、神は、誠実を尽くしてくださいます。けれども、この死の手前であるゆえに、復活の手前でもあるこの世界においても、私たちが、感謝に満ち溢れ、今日をキリストの甦りの命に結ばれた命として私たちが生きるとしたら、神は、それを神自らの喜びとし、誇りとしてくださいます。そしてまた、神は、思いがけないこととして、それを喜んでくださるのではなくて、キリスト教会を用いることによって、この知らせをご自身の御心として大いに語り、ますます信仰に生きる者を生み出されることを、ご自身の大きな働きの内の欠くべからざる業の一つとしてくださいます。私たちも謹んで、世に命の運命を語る使命を受け取り続けたいと思います。

 

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