聖書:エレミヤ書29章10節~14節
マルコによる福音書1章1節~15節
説教題:時は満ち、神の国は近づいた
説教者 松原 望 牧師
エレミヤ書29章10~14節
10 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。12 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。
マルコによる福音書1章1~15節
1 神の子イエス・キリストの福音の初め。2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
◆イエス、洗礼を受ける
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
◆誘惑を受ける
12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
◆ガリラヤで伝道を始める
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
「 説教 」
序、マルコ福音書
昨年4月からクリスマスまでの礼拝では、旧約聖書を主に取り上げてきました。神が主イエス・キリストを地上に遣わされた目的と、そのためにどのような準備をされてきたのかを見るためでした。
1月からは、地上に遣わされた主イエス・キリストが全ての人々の罪を贖うための十字架にかかるために歩まれた様子を見ていきます。その主イエスの地上での働きを記しているのがマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書です。その四つの福音書の中からマルコ福音書を取り上げます。このマルコ福音書は、四つの福音書の中で最初に書かれたこと、そして、伝説ではヨハネ・マルコという人物が使徒ペトロの通訳をしていて、そのペトロから主イエスの地上での様子を聞いて記したのが、このマルコ福音書だとされています。そのため、確かに、この福音書にはペトロだからこそ語れると思われる出来事がところどころに出てきます。
今年は4月20日が主イエスの復活日(イースター)ですので、その日まで、マルコ福音書の中から十字架に向かう主イエスの姿、そしてペトロや弟子たちの様子をたどっていきます。
1、「神の子イエス・キリストの福音の初め」
「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)。これがマルコ福音書の冒頭にある言葉です。
マルコ福音書に限らず、新約聖書の一つ一つの文書には、本のタイトルはありませんでした。「マルコによる福音書」というタイトルも後からつけられたものです。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉はこの書物のタイトルではありませんが、この一言でマルコ福音書が語ろうとしている最も大切な内容があらわされています。すなわち「イエスはキリストである」、「イエスは神の子である」、「イエスは福音そのものである」。これは、マルコ福音書の信仰告白であり、この福音書を読む読者にもっとも言いたかったことです。
2、マルコ福音書は「福音」を記した書
マルコ福音書は主イエスの生涯を記していますので、「イエスの伝記」、「イエス伝」と思われることが多いかもしれません。私も初めて福音書を読んだ時、社会に貢献した人や多くの人から尊敬されている人の生涯を描く、いわゆる「偉人伝」だと思っていました。確かに「偉人伝」と似ているところはありますが、聖書の福音書は「偉人伝」として書かれたものではありません。
マタイ福音書とルカ福音書は主イエスの生まれた様子から記していますが、マルコ福音書は、主イエスが伝道を開始した頃から始めています。新約聖書より少し後に書かれたローマの英雄的な人々の伝記がいくつかあり、「〇〇列伝」というタイトルが付いていますが、それともずいぶん異なっていると言われます。
3、マルコ福音書が書かれた動機
マルコ福音書は、なぜ書かれたかを少し話しておく必要があります。
伝説になりますが、マルコ福音書が書かれたのは西暦70年ごろ、ペトロの通訳をしていたヨハネ・マルコという人物がローマの獄中にいたペトロから主イエスの地上での様子を聞き、この福音書を記したされています。
当時、パウロの手紙が読まれ、パウロ自身もローマで伝道しており、主イエス・キリストの十字架と復活の信仰は伝えられていました。しかし、まもなく再臨すると思われていた主イエスがまだ現れません。そのころには、主イエスを直接知っている人も少なくなりつつあり、主イエスの地上での言葉や働きを知りたいと思う人が増えてきたようです。そこで、人々は獄に囚われているペトロから地上での主イエスの様子を聞き出すためヨハネ・マルコを送ったと言われています。
主イエスが伝道を開始してまもなくペトロとアンデレの兄弟が弟子になる記述があるのは、そのためと思われます。
4、「イエスはキリストである」
最初にも話しましたように、マルコ福音書は信仰告白的な文書であり、また読者に「イエスはキリストである」、「イエスは神の子である」、「イエスは福音そのものである」ことを訴える文書です。
キリストという言葉は、旧約聖書のメシアという言葉の翻訳です。「油を注がれた人」という意味で、王や祭司、預言者がその職に就くときに香油を注がれたことからこのように呼ばれました。
主イエスの時代、自らキリストと名乗る人やある人をキリストだと祭り上げて、クーデターを起こす人が現れました。主イエスは自らキリストと名乗ることはありませんでしたが、主イエスの弟子たちは、十字架にかかられよみがえられた主イエスこそまことのキリストだと主張したのです。(Ⅰコリント2:2)
5、「イエスは神の子である」
そして、マルコ福音書は「イエスは神の子である」という信仰を最初に記しています。
主イエスが神の子であることは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時と、山上で弟子たちの見ている前で姿が変わった時、天から声が響き「これはわたしの愛する子」という神の宣言があったことを記しています。
6、「イエスは福音そのものである」
「神の子イエス・キリストの福音」というのは主イエスが福音を語ったという意味でもありますが、何よりも「主イエスご自身が福音そのものだ」との信仰を示し、主張しています。
もともと「福音」と訳された言葉は戦いで勝利した喜びや皇帝の即位の喜びを指していました。しかし、使徒パウロや初代の教会で主イエス・キリストこそ福音であると強く主張し、これが定着していったのです。
主イエスが福音そのものであるというのは、主イエスが私たちの罪の贖いとなって十字架にかけられたからです。
7、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。これが主イエスが伝道を開始された時の言葉と記されています。
「時が満ちる」というのは、神が準備してこられた救いの計画が、今まさにこれから始まることを意味しています。福音が主イエスの十字架の出来事を指していると先ほど言いましたが、主イエスの地上の生涯は、十字架に向かっての歩みであることをこの福音書は語っているのです。
「今までの自分の生き方を神の方に向けなおして、まことの福音である主イエス・キリストを信じなさい」と、この福音書は告げているのです。
私たちのための救いがすでに用意されています。主イエスこそ私たちのためのキリスト、神の独り子、まことの福音です。このキリストを信じる事こそ、神の国にいたる道を歩むことなのです。共にこの道を歩んでいきましょう。
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