礼拝

8月25日(日)主日礼拝

聖 書  申命記7章6節~8節
     ヨハネの手紙一 4章7節~12節
説教題  神の恵みの選び
説教者  松原 望 牧師

※説教者の体調不良により、本日の説教は代読です。

聖書

申命記768

6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

ヨハネの手紙 4712

7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

 今年の4月から、金沢元町教会の礼拝では旧約聖書をたどるように説教をしています。

 マタイ福音書の1章に、アブラハムから始まる主イエス・キリストの系図が記されていますが、これは単に、主イエスの血筋をあらわしているのではなく、すべての人を救う神の計画を示しています。そのことは、この系図の最後はヨセフになっており、主イエスはこのヨセフの婚約者であったマリアから生まれたと記されています。しかも、ヨセフは主イエスの系図上の父となりましたが、血筋から言いますと、ヨセフとは血のつながりがありませんし、そうしますと血筋から言えば、主イエスはアブラハムの子孫ではありませんし、ダビデの子孫でもありません。この系図は、主イエスの血筋を語るというより、アブラハムから始まる神の御計画を系図という形で告げているのです。その神の御計画とそれを実行している神の働きを、礼拝の中でたどってきたのです。

 神に召された時、子どもがいなかったアブラハムに子孫を与え、一つの民族になるまでにその数を増やすと約束され、それはアブラハムの孫のヤコブの時に、エジプトに行くことによって実現しました。そのエジプトから出発したアブラハムの子孫イスラエルの民は、もう一つの約束であった豊かな土地に向かって旅をし、様々な試練を受け、ついに約束の地に入っていくことになりました。その約束の地に入る前に、イスラエルの民を導いてきたモーセが最後に語った教えが申命記です。

 この申命記では、これまでのことを振り返るとともに、これから入っていく約束の地での生活について警告をしています。

 今日読んでいただいた申命記7章6~8節は、その警告の一部です。

 ここでは、イスラエルの民は神によって「聖なる民」とされていること、それは神の選びによるということ、そして、神がイスラエルの民を選んだのは、神がイスラエルの民を愛しているからだと告げられています。この神の愛は感情に流されての愛ではなく、彼らの先祖アブラハムに誓った誓いと深く結びついています。その誓いを果たすために、イスラエルの民を約束の地カナン(今のパレスチナ)へ導き入れるのだと告げているのです。

 これから、その一つ一つを見ていくことにします。

 1、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」

 まず第一に言われているのは、イスラエルの民が「主なる神の聖なる民」ということです。

 「聖なる民」と言われていますが、イスラエルの人々が立派な人々だとか、信仰深い人々だという意味ではありません。実際、これまで聖書に記されているイスラエルの人々は、たびたび神に逆らい、また背いてきました。それも一回や二回ではありません。これほどまでに不信仰なのかと思わずにはいられないほどです。そのような不信仰の民でありながらも、彼らは「聖なる民」と呼ばれているのです。

 聖書に出てくる「聖」という言葉は、「清い」という意味もありますが、「特別の目的のために他のものと区別して、特別に取って置く」という意味があります。

 例えば、私たちは聖書を用いています。皆さんの手元にも聖書があると思いますが、本ということからすると、他の本と何ら変わりはありません。小説や学術書、あるいは漫画の本と同じく単なる本です。ではなぜ私たちはこの書物を「聖書、聖なる書」と呼ぶのでしょうか。それは神の御心が示されているとして、他の本と区別しているからです。

 私たち自身もそうです。キリストを信じる私たちは「聖徒、聖なる人々」と呼ばれることがありますが、私たちが聖人君子であるとか、いつも立派な行いをしているという意味ではありません。特別の目的のために、神が私たちを他の人々と区別しているという意味なのです。

 そうすると、イスラエルの民であろうと私たちであろうと、人として特別という意味ではなく、他の人々と同じように不信仰であり、弱い存在であるにもかかわらず、神が私たちを特別の目的のために選んでくださり、「聖なる者」と呼び、またそのように扱ってくださるということです。

2、神の選び

 「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」とあります。

 ここで、神がイスラエルの人々を選んだと言われています。しかも「宝の民」とまで言うのです。イスラエルの人々が神の民となり、「聖なる民」と呼ばれるのは、そう呼ばれるにふさわしい資格を持っていたからではありません。また彼らの努力や信仰の結果ではないことは、先ほど見た通りです。聖書は「神が彼らを選んだ」と記しています。この神の選びという信仰は聖書の重要な言葉であり、私たちの大切な信仰です。しかし、この神の選びということを考えると、不思議なことばかりです。

3、神の選び ― 神の選びの不思議さ

 神の選びについて、モーセは「あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と語っています。イスラエルの人々は他の民族と比べて特に優れていたわけではないというのです。それどころか「どの民よりも貧弱であった」とまで言うのです。

 このような神の選びの不思議さは、時々聖書の中に見ることができます。

 例えばモーセです。モーセはイスラエルの人々をエジプトから導き出した、言ってみれば、英雄です。それを否定する人はいないと思います。しかし彼が、神に命じられてエジプトへ行き、イスラエルの人々を導き出したのは80歳の時でした。

 もともとモーセの命を守るために、母親がモーセをナイル川に籠に入れて流しました。それをエジプトの王女が拾い上げ、自分の子どもとして育てました。40歳の時、同胞のイスラエルの人を助けるために殺人を犯しました。しかしその同胞のイスラエルの人から殺人の罪を言い当てられてしまい、エジプトから逃亡せざるを得なくなりました。そして、荒れ野でミデアンと呼ばれる民族に保護されて、80歳になって、神に出会い、エジプトへ行くようにと命じられたのです。

 この時のモーセは、おそらく若かった時の体力もなかったに違いありません。しかし、神は若い時のモーセではなく、若さと体力が衰えたモーセをあえて選び、エジプトへ行かせたのです。

 新約聖書では使徒パウロを例に挙げることができるでしょう。(Ⅱコリント12:7~10)

 使徒パウロは体に痛みを感じながら伝道に励んでいました。この体から痛みを取り去ってくれるようにと、何度も祈ったそうです。しかし、神の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものでした。しかし、パウロはそこで腹を立てたり、腐ったりしませんでした。かえって、神は自分が高慢にならないようにとこの体の痛みを取り去らなかったのだと受け止めたのです。そして、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」と語ります。

 神は人々を用います。その時、彼らがこれは自分の働き、自分の功績だと高慢にならないように、そして、ただ神が共にいてくださって、神がそのすべてのことを成し遂げたことがはっきりわかるようにと、あえて無力な人々を用いるのです。

 神の選びは、神の強い意志が働いています。無力な人々を用いて、すべての人々を必ず祝福する、彼らを何としてでも救うという固い決意とやり遂げようという強い意志があります。しかし、それだけではありません。神の選びには、神の限りない愛があるのです。

 すべての人々に対する愛が溢れているのです。そして、そのために選ばれたイスラエルの人々に対する愛もあるのです。

4、神の選びと神の愛

 「あなたに対する主の愛のゆえに」と言われています。

 神はイスラエルの人々を単に道具として用いるというのではありません。むしろ、彼らに対する愛があります。

 すべての人々を祝福し、救うという御計画があるわけですが、そのすべての人々より先に、神はイスラエルの人々にその祝福と救いにあずからせるのです。イスラエルの人々を優先させているということができるでしょう。

5、神の誓い ― 神の契約(創世記12章 アブラハム召命の時の契約) 神の誠実さ

 しかし、神がイスラエルの人々を愛するというのは、感情の動きから来る愛というだけではありません。モーセは「あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」と語ります。

先祖に誓われた誓いというのは、アブラハムへの「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」「祝福の源となる。・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という創世記12章に示されている約束です。

モーセの時代からは数百年の昔です。それにもかかわらず、神はアブラハムに約束したことを誠実に守り、行うというのです。これが神の愛です。

6、神はかつて約束したことを実行しました。エジプト脱出と約束の地に入らせることによって約束をはたすのです。

 神の選びはイスラエルの人々への愛であり、どこまでも約束を守ろうとする誠実さです。

 神の約束は、約束の地に入って終わりではありません。そこから新たな出発をするのです。それから約千年の後、そしてその約束の地に神は独り子イエス・キリストを遣わし、すべての人々を祝福するのです。

7

アブラハムに告げられた神の言葉は、彼の子孫であるイスラエルの民に対しても告げられ、約束されました。そして、その言葉は主イエス・キリストにおいて成就しました。神の約束はアブラハムの子孫として地上に現れた主イエス・キリストによって現実となり、すべての人々は神の祝福に入れられるのです。

 アブラハムに約束された地カナンに、イスラエルの民が入っていきます。しかし、神の御計画の面から言いますと、その地に入ることが最終的なゴールなのではありません。むしろ、その約束の地に、神の独り子イエス・キリストが現れ、そのキリストから遣わされた新しい神の民であるキリスト教会が地上のすべての人々に神の救いを伝えるために出発していきます。その出発の地でもあるのです。

 キリストは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19~20)と告げ、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と告げ、弟子たち、すなわちキリスト教会を地の果てにまで派遣したのです。こうして、地の果てにある日本にまで、神の祝福が伝えられ、私たちも救われているのです。

 

 

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