礼拝

8月13日主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書15章4節~5節

説教題 わたしにつながっていなさい  大家健治長老

讃美歌 115,348,532,27

さきほど司式者に読んで頂いた聖書の箇所は、「ぶどうの木のたとえ」として教会へ通う人はもちろん、教会へ来られていない人にもよく知られた聖句だと思います。

大澤先生は昨年2月からヨハネ福音書の講解説教を続けておられまして、先月7月16日の礼拝説教でこの箇所の解き明かしをされました。ご記憶のある方も多いかと思います。そのことも覚えながら、あらためてみ言葉を味わってみたいと思います。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」本当に慰めに満ちたみ言葉です。

私がなぜこの箇所を説教の聖句に選んだかと申しますと、自分のこれまでの歩み、特に若いころの自分の歩みを思うと、まったくこの言葉とは反対側にいたなあと思うからです。「自分はそんなぶどうの木など必要ない」とか、「精神一到、何事かならざらん」という思いでした。第5節の終わりに、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」などと言われると、勢いのある若者としてはむしろ反発を感じます。確かに若者はそうです。将来への不安というものはあるけれど、若さのもつエネルギー、挑戦する力、それらがいろいろな不安やためらいを打ち消してくれるからです。

 

私もそのような若者の一人でした。なんでも自分でできるし、またするものだと思っていました。自分の強さを誇る強がりです。もちろん別の一面もありました。それは自分の弱さです。「なにもできないじゃないか」という弱気です。強がりと弱気が行ったり来たりします。それはなにも私だけではなく、ほとんどの若者がそうだと思います。私の場合は、その振幅が極端だったかも知れません。もう数十年前ですが、会社での現役だったころ、仕事の先輩が私のことを、「面の皮が厚いわりには心臓が小さい」と評したことがあります。その瞬間むっとしましたが、よく考えてみると、まことに言い得て妙、いや私のことを正確に見ているなあと感心してしまったほどです。

このような極端な強がりと極端な弱気の繰り返しの中で、私はずるずると「ある方向」へ引っ張られていきました。なにをやっても失敗ばかり、状況はどんどん悪くなり、カリカリして人を傷つけ、やけになってバカなことをしてしまいます。そのうち自分で自分を制御することすらできなくなりました。

いま思えば、私に働いていた目に見えない力、それこそ「罪の力」だったのでしょう。自分がしたいと思っていることと、実際にしていることが違うというとまどい、恐ろしさ。『ローマの信徒への手紙』第7章でパウロは、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」と告白しています。えらい方を引き合いに出して恐縮ですが、それに近い状態だったのでしょう。

 

罪というのは一種の引力のようだと思います。それは目には見えないけど、確実に存在します。地球の重力という引力が、目に見えないけど存在することと同じです。最近はAI画像なども普及してきて、いよいよ「目に見えるもの」の不確実性が言われるようになりました。そのうち「目に見えるものは信用できない」ということになるかも知れません。

ちょっと話が脱線しますが、ときどき養老孟司さんの本などを読むことがあります。こういう本は寝床の中で読むと適度な睡眠薬になって、すぐ眠りに入れます。その本は対談集でして、確か伊集院光さんとの対談だったと思いますが、その中で「幽霊はいるか」という冗談半分の問いがあって、その答えが「いる」でした。理由は「たとえば暗い廊下で幽霊がいるのじゃないかと恐ろしくなって、廊下の桟につまずいてけがをしてしまった。このケガはまぎれもない現実である。だから幽霊も現実だ。ただ外にいないだけで私たちの中にいるということだ」と。それもそうだなあと感心しました。罪と幽霊をごっちゃにしてお恥ずかしいですが、「見えるからある」とか「見えないからない」というものではないということです。

 

「罪の力」は引力のように目には見えないけど、私たちに24時間365日作用しています。私たちは日常を昨日と変わらないように歩んでいるけれども、なにも気付かずに歩んでおれば、必ずその引力の方向へずれていきます。どんどんずれていって、やがて目の前に「とんでもない破局」が見えて、慌てて元いた場所にもどろうとします。そしてこれからは気をつけようと自分に言い聞かせますが、しばらくすると、やはりよく似た過ちを繰り返します。

 

それではこの引力のように見えない「罪」を私たちは自分の力でやっつけることができるでしょうか。聖書は、それは人間の力ではできないと教えています。

イエス・キリストが私たちに与えてくださった「主の祈り」は、私たちにとっては最後のまた確実な守りでもあると思いますが、その中では「われらの罪をも赦したまえ」とあります。「罪を犯した場合は赦したまえ」とは言っていません。もう罪を犯していることが前提になっています。それは人間と罪とは切り離そうとしても切り離すことができないものだからです。人間であるかぎり罪があるとも言えますし、そうした意味で罪は客観的な事実であるとも言えます。

教会へ通うようになってから、ますます「罪」というものを現実的に感じるようになりました。いや人間存在とは切り離せない以上、それはもう人間の一部ではないかとさえ思うようになりました。もちろん自分ではとてもそれに打ち勝つ力はないことを認めざるを得なくなりました。

 

同時に教会で教えられたことは、私たち人間はその「罪」を背負わされていると共に、またそれからの「救い」も与えられているということでした。人生は悲しんでいるだけではない。間違いなく喜びのときがあり、楽しみのときがあり、希望のときがある。これもまた事実です。ところでそれらは自分でつくり出したものなのだろうか。年齢が進むにつれ、どうもそうではないように思えてきました。なぜなら「罪」に打ち勝つ力さえない自分が、自分の力で喜びや希望を創り出すことはできないと思うからです。そして「救いも希望も、自分の外から一方的に与えられる」と教えられました。

これらはいずれも自分のこれまでの人生観、つまり「精神一到、なにごとかならざらん」というような人生観を180度、転換せざるを得ないことでした。

 

 あらためて自分の歩みを振り返ります。おはずかしながら、それはまことにお粗末でひと様に紹介できるような代物ではありません。多くの過ちを繰り返し、多くの人を傷つけながら、また自分も傷つきながらの歩みでした。言葉を換えていえば、「罪深く、罪多い人生」だと思います。けどそのような人生もよく見ていると、ときどき小さな光が輝いています。喜びや希望がその歩みの中で輝いたときです。そしてその小さな輝きをつないでいくと、ある細い糸がそれらを結んで筋のように伸びてきているのが感じられます。それが私を破局から救い、いまに導いてくださっているのだと思うのです。す

るとその周辺のいろいろな出来事が、悲しかったこと、つらかったことを含めて、それぞれに意味があったのだと思わされてきます。

 

突然、絵の話になって恐縮ですが、バロックの画家であるレンブラントの作品に、『病人をいやすキリスト』という版画があります。全体が暗い背景で、1/3ほどがぼんやり明るくなっていて、その中心にイエス・キリストが立っていますが、これも薄くて細い光輪がある程度で、あまり精彩があがりません。周りの人も、イエスさまに癒しを求めたり、お話を聞いたりしている人もいるけど、多くの人はボォ~としていて、中には後ろに手を組んで、いかにも無関心な様子です。なにやらそのまま私たちの姿を描いているような気がします。

この版画もさることながら、現代ドイツのある神学者がこの版画について次の趣旨を語っているのが印象的でした。「恵みは日常生活の中で人々の注意を引かず、静かに生じるものだが、キリストが現れるときの光、すなわちキリストと人との出会いもそれと同じだ」。なるほどなあと思いました。キリストとの出会いも恵みも、何も劇的なものではなく、日常生活の中では気づかないうちに、いつの間にか現実となっているのです。

 

 自分の歩みは罪多い歩みだと思っているけど、実はその中にめぐみの筋が一本通っていて、いつの間にか多くの必要が満たされている。そのことに気づかされたことは喜びです。それは自分の人生を肯定しているからです。そして「あなたはそれでいいんだよ」と肯定してくださっているのがイエスさまだと思います。なぜならイエスこそわれら罪人の救いのために十字架にかかられたからです。私たちの「罪」がなくなるわけでも、「罪多い人生」が変わるわけでもなく、そのままに「罪が赦される」からです。ただ自分の罪を自覚し悔い改めることだけが求められます。

さらにイエスさまはルカの福音書第15章で「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しいひとについてよりも大きな喜びが天にある」とまで言っておられるからです。本当に感謝です。もちろんこれは私だけにではなく、すべての方におっしゃってくださっています。

 

そして今日の聖句、「わたしにつながっていなさい。」に戻ります。私たちは主につながっているだけでいいのです。さらにわたしたちはすでにつながっているのです。日曜ごとにいつの間にか教会へ来ています。日曜日だから他に楽しいことがたくさんあるだろうし、家の人ににらまれることもあろうけど、ついつい教会へ来てしまいます。知らず知らずのうちにつながっているのです。

 

大澤先生は7月16日の説教で、この「つながる」という言葉の原文は「私たちの内にあって」という意味だと話されました。そう思って文語の聖書を見ますとこのようになっています。「我に居れ、さらば我なんじらに居らん。枝もし樹に居らずば、自ら実を結ぶこと能わぬごとく、汝らも我に居らずば亦然り。」つまり「つながる」とは「…に居る」ということです。新改訳聖書は、この「つながる」は「私の中にとどまる」と訳しています。

私たちはすでにイエス様のうちにとどまっている。そしてただ「とどまり続けなさい」と言われています。それ以上の努力も修練も求められていません。主も私たちのうちにとどまっておられる。本当に感謝です。

 

私たちはこの世にあって、いろいろな現実に対処しなければなりません。特に現代は解決の難しい問題に取り巻かれています。ロシアとウクライナの戦争、地球温暖化、内乱と内戦、貧困と飢餓、原発問題などなど、それこそきりがありません。日本では「8月は6日、9日、15日」といわれるほど、特に平和について考えさせられます。最近は軍備増強や憲法改悪など、どんどんきな臭いにおいが強くなってきています。これらについていろんな考え方があり、またいろいろな対処法があるでしょう。けどどのような時も、「罪への恐れ」に振り回されるのではなく、「罪からの救い」を信じ、希望をもって対処したいものです。

同じように私たちは、主からその人に応じてのミッションが与えられています。それは一人一人違うものです。若い人には若い人なりに、私ども先の短くなった年寄りにはそれなりに。いずれにしてもそれは神さまからのめぐみです。このみ言葉に慰められ励まされながら、喜びのうちにその務めをなしていきたいと願っています。

 

祈ります。神さま、礼拝説教の奉仕を支えてくださり感謝します。また多くの方が説教奉仕のために祈ってくださいました。感謝します。

世界は理不尽なことばかりです。大は国と国との戦争から、小は私たちの日常生活まで、理不尽なことに満ちています。けどそれらを見るときも、私たちはイエスさまと共にいること、そしてイエスさまはすでにこの世に勝っておられることを覚えて、希望をもって見ることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 

 

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