聖 書 ヨハネによる福音書20章24節~29節
説教題 ご復活の主の真剣さ
讃美歌 367,192,197,25
私たちの信じる神さまはたいへん不思議な神さまであられると思います。
何が不思議であるかと言うと、天地万物の主であられると、告白されるお方であるにもかかわらず、簡単に妥協してしまう、人間に寄り添ってしまうところがあるように見えるからです。
この広大な宇宙よりも大きい天地万物の造り主であられると、教会によって告白され続けてきた方であるのに、何だか、簡単に私たち人間に妥協してしまわれるように見えることがあるのです。
そういう箇所を読むと、わたしは、不思議だなあと思います。
神の意志、神様の御心は、この世界で最も強固なものであり、預言者イザヤが、「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」と、語る通りのものであるはずです。
神の御心、裏表のない、そこには何のずれもない御心と一致した神の言葉は、強固であり、必ず実現するものです。
ところが、その強固な神さまの意志が、突然曲がってしまうように見えること、あるいは、妥協しているように見えること、聖書の中には、そういう神の御姿が、散見されます。
たとえば、今日私たちが読んでいる、神の言葉そのものであられるご復活のイエス・キリストの御姿にも、同じ、不思議を見る思いがいたします。
今日お読みしている聖書の出来事において、この伝承された一塊の、ご復活の主イエスの物語が、私たちに向かって、語りかけて来る内容は、明らかであると思います。
主イエスの最後の言葉です。
「見ないのに信じる人は、幸いである。」
このことです。
ご復活の主イエスが、一つの部屋に集まり、ユダヤ人を恐れ、扉に固く鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの真ん中にやって来られ、息を吹きかけられ、「あなたがたに平和があるように」と、言ってくださったと時、12弟子の一人、ディディモと呼ばれるトマスはその部屋にはいませんでした。
少なくない信仰の仲間たちが、私たちはご復活の主にお会いした。この部屋に来てくださった。私たちの真ん中に立ってくださった、その息を私たちに吹きかけてくださった。その息は確かに私たちの顔をくすぐったと、口々に証ししても、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と、言いました。
それはそうでしょうと思います。しばしば、この箇所のやり取りを評して、私たちはこのトマスのことを疑い深いトマスと言ったりしますが、別に、疑い深い人であるとは私は思いません。
ごく普通の反応、当たり前の言葉であると思います。
このトマスの言葉を注意深く読みますと、この人は別に、ご復活の主に出会ったと語るマグダラのマリアや、その他大勢の仲間たちが、何かしらの経験、誰かしらにあったということを、否定するような言葉ではないように思えます。
奇妙な誰かにあったのかもしれない。何かしらの不思議な経験をしたのかもしれない。
けれども、それが、自分のよーく知っている自分の師匠、自分の主人であったナザレのイエスであるとは、信じないということです。
ご復活の主に会っただって?わたしは、十字架につけられたあの方の手の釘跡、また槍で刺されたそのわき腹の傷を見ない限り、その傷あとにこの指を差し入れて、その感触を味わわない限りは、決して決して信じない。
ディディモと呼ばれるトマスはご復活の主イエスとの生々しい出会いを求めました。その傷跡に指を差し入れて確かめられるような生々しいご復活のキリストとの出会い以外の、復活顕現の証言以外には、興味がなかったと言うことができるかもしれません。
これは、トマスの言葉の字面を裏返した言い方ではありますが、トマスの定義においては、彼が信じることのできるご復活の主イエスの御姿とは、この指をその傷跡に差し入れて、かき混ぜることができるような生々しさを持った、実体を持つ、身体を持つ復活者との出会い以外ではなかったのだと、言うことでしょう。
私は今回はそのように読みました。
トマスのあだ名であるディディモとは、これはよく教会の中でも知られていることですが、双子という意味の言葉です。
トマスには双子のきょうだいがいたのでしょう。だから、こういうあだ名が付いたのでしょう。
トマスの双子の片割れというのは、聖書の中には登場しませんが、私たち教会は、このトマスの双子の片割れとは、まさしくこの自分自身のことだという理解を自然としてまいりました。
主イエスのご復活の証言を信じられないトマスの双子の片割れ、それは、私達自身のことだと読むのは、自然なことであり、当然の、ふさわしい聖書の読み方だと私は思います。
けれどもまた、わたし自身のことを言えば、この私の信仰の双子の片割れであるトマスほどに、生々しいばかりのご復活のイエス・キリストとの出会いに、こだわりを持っていたかと言えば、そうでもないと言わざるをえません。
十字架とご復活の主イエスのお身体に触れるような、生々しい出会いがなければ、イエス・キリストを、父なる神を信じることができないというような態度はこれまで取って来なかったなと思います。
トマスの疑いを私たちの常識を逸脱した深い疑いであるとは決して思いませんが、「あの方の手に釘の痕を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」ということでもないと、私などは思います。
この私たちの双子の片割れの言葉は、分からないわけではないけれど、不思議なことに、信仰というのは、見ないで与えられるもの、見ずとも与えられるものであるという方が、しっくり来ます。
先週も引用しました聖書の言葉、Ⅰペトロの1:8の「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれています」と、使徒ペトロが驚きながら語った信仰こそ、2000年の教会の信仰の姿、今の私たち自身の姿そのものであると思うのです。
だから、私たちは私たちの双子の片割れのようには、この指をその傷跡に挿し入れなければ、本当にご復活の主にお会いしたとは言えないとは思いません。
主イエス御自身も、このような私たちの信仰を、足りない信仰とはおっしゃらず、このような信仰こそ喜んでくださるように思います。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
見ないで信じる者になりなさい。
確かな証拠があるから、信じるんじゃない。私の遣わした証人たちの口を通して、私が語りかける、わたしの声を聴いたなら、その声があなたに届いたのなら、信じない者ではなく、信じる者になりなさい。
私があなたと共にいるあなたの主であり、神であることを信じてほしい。私に信頼してほしい。
今も、主イエスが、先週読みました20:21の遣わされた弟子たちのその延長線上にある、私たち教会を通して、私達自身に、また、この世界に向かって語りかけておられる主イエス・キリストの思い、主イエス・キリストの意志、天地万物の造り主なる父なる神様の御心そのものです。
「見ないのに信じる人は、幸いである。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
ここに神の御心があり、皆さんに対する神様の招きがあります。
ところが、冒頭で申し上げましたように、私は不思議に思うのです。
見ないで信じる信仰をお喜びになり、お求めになるお方が、何度も何度も、見えるお方として、現れるのです。
先々週の箇所でも、先週の箇所でも、今日の箇所でも、それから、二週間後読む予定の聖書箇所においても、ご復活の主イエスは、見えるお姿で、人間の前に現れられたのです。
不思議なことだなと思います。
何が不思議かと言えば、そういう不思議な経験を、弟子たちが経験したようだ、聖書がそう記録しているということだけではなくて、主の言葉と行動の間にずれがあるように思えるのが不思議です。
「わたしを見たから信じるのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と、トマスをたしなめられるのであれば、トマスがひれ伏す他ないほどに、見えるお方として、ここでお会いになる必要はなかったのではないかと思うのです。
カラヴァッジオという画家が描いた「トマスの不信」というこの場面を描いた絵がありますが、それはまあ、本当に生々しい絵です。
トマスを先頭とした三人の弟子が、主イエスと頭と頭がくっつくほどの近さで向かい合わせになっています。
少し驚くような太い指を持った主イエスの左手が、トマスの右手を掴み、御自分のお身体に引き寄せ、服をずらして露わにされたわき腹の傷あとに、トマスの人差し指を、差し入れさせているのです。
トマスを含めた三人の弟子たちは、主イエスの温度、その息遣いが聞こえてくる近さで、そのわき腹に開いた穴の中を、覗き込むようにしている。
トマスの背中は曲がり、腰が引けているようでもあり、あるいは、その傷あとがよく見えるようにと、屈んでいるようにでもありますが、その目は驚きで見開いています。
そういう絵です。本当に生々しい絵です。
けれども、26節以下で語られる、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、トマスに向き直り、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」という出来事とは、こういう生々しい出来事であったのです。
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と応じます。疑い深い者と呼ばれるこのトマスが、ヨハネによる福音書では、誰よりも先に、このご復活の主イエスをわが主と呼ぶだけではなく、「わが神よ」と告白します。
ここにキリスト教会初めてのキリスト礼拝があると言って良いのです。
神の言葉には力がある。聖書の言葉には力がある。神の御心は必ず成る。
私たち教会は、キリスト者はそのように信じております。そのように告白し、宣伝いたします。
けれども、それは、言霊のようなこととはちょっと違うなと思います。つまり、魔法のようなこととはちょっと違うと思うのです。
神の言葉に力がある。聖書の言葉には力がある。神の計画は必ず成るというのは、魔法のように、運命の力のように、その言葉、その御心が実現していくのではないと思うのです。
そうではなくて、この神が何でもなさるということだと思います。
その言葉、その御心に、いつでも、神が真剣だということなのではないかと思うのです。
信じない者を信じる者にするために、ご復活の主イエス御自身が駆けずり回り、働き続けられる。
そこに、見ないで信じる者の幸いもまた、造られていくのではないかと思うのです。
主イエスの御働きとは無関係なところや、主イエスの情熱的な近寄りとは別なところで、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれています」という2000年の教会の姿が形作られたのではないのです。
見ないでは信じられないという者を、見ずに信じる者とするために、一所懸命に働かれる、主の情熱的働きがあるのです。
それは私は最初は妥協と表現しましたが、妥協ではなく、主のへりくだりと申し上げたいと思います。
そしてそのような主のへりくだりこそ、教会をつくっているのです。
この教会を通して、今ここに生けるキリストの生々しい臨在があり、その方との出会いを私たちに対する出会いとして、引き起こしてくださる今ここにおける、ご復活のキリストのお働きがあるのです。
そうです。私たちキリスト教会は、このような生々しい主の迫りを、20:21の主の派遣の通り、神の息、すなわち、聖霊によって生かされるキリストの教会において見るのであり、プロテスタント教会の理解で言えば、神の息を吹きかけられた者たちの群れ、教会に託された主の日の説教、洗礼と聖餐の聖礼典、そして、それだけでなく、信徒相互の交わりの中で、この生ける主イエス・キリストの生々しい近づきに出会い、その元にひれ伏してきたのです。
つまり、やはり、私たちはトマスの双子の片割れなのです。
実は、このトマス以上に、神の息がもたらす生々しいご復活のキリストの迫りを受けたからこそ、見ないのに信じているのです。その方を見てはいないのに、今、ここでキリストへの愛に生きているのです。
わたしは双子の片割れと共に、このお方の前にひれ伏し、「わたしの主、わたしの神よ」と、拝んでいるのです。
今日、この礼拝の後に、牧師招聘のための臨時教会総会を行います。
たいへん申し訳なく、情けないことに、わたしは、かなり差し迫ってから、今年度を持っての辞任を申し出ました。本当に皆さんを不安にさせてしまったことを、申し訳なく思います。
そのため、新年度から新しい牧師に来て頂けるかどうかも、難しいところがありました。
けれども、本当に不思議なことですが、北陸の教会のことをよく知った富山出身、それも私たちと同じ北陸連合長老会の富山鹿島町教会出身の松原望牧師を、私たちの教会の牧師、説教者として、お迎えすることができるようになりました。
私は、ここにも、私たち信じない者たちのための主の迫りを覚える者です。
まさに牧師招聘とは、観念的なことではなく、生々しいことです。一人の人間を、生ける神の言葉を語る教会の口として、立てようとすることです。その牧師の語る言葉を生ける神の言葉として聴こうと願うことです。
そして、その私たち教会の願いにこたえて、一人の人が、ここに身を投じて、共に、キリストの教会となろうとしているのです。共にキリストの生ける声を聴こうと、志を立てて、やって来ようとしているのです。
その牧師をお迎えする教会もまた、同じ志を新たにするのです。
新しい牧者を迎え、新しい説教者を迎え、また、今、この元町教会に語りかける、またこの元町教会を通して、この金沢の地に生きる一人一人に向かって語りかける生々しいキリストの声を聴き、その生々しい声を語ろうと、もう一度、その志を立て直すのです。
私たちがいつのまにか戸を閉ざし、鍵を閉めてしまっても、何度も何度も、私たちの元にへりくだってこられる生けるキリストに出会い直し、そのお方を、私たち金沢元町教会の主、私たちの神として、また、この世界の主、この世界の神として、拝み、ほめたたえる志を与えて頂くのです。
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