礼拝

2月6日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  キリスト者の復活は、宇宙の希望 大澤正芳牧師

聖書個所  ローマの信徒への手紙第8章18節~25節

讃  美  歌    90(54年版)

今日は使徒信条の中の「からだの甦り、とこしえの命を信ず」という最後の言葉を聞いてまいります。

 

この信仰箇条は、考えてみれば驚くべき教えです。

 

ここで言われているからだの復活と、永遠の命に生きるようにされる者とは、私たち人間のことだからです。

 

使徒信条というのは、もともと、古代教会の洗礼の時の信仰告白が起源だと言われています。つまり、これだけ信じていれば、洗礼に与ることができるという、キリスト教会の根本、基礎的な信仰を語る言葉だということを意味します。

 

洗礼を受ける準備として、聖書66巻を読み切り、そのすべての言葉に同意しなければならないとしたら、なかなかしんどいことだと思います。しかし、そんな必要はありません。口に出しても、1分とかからないこの小さな使徒信条の言葉に同意できるならば、洗礼の準備は整ったのです。

 

けれども、この基礎的な、最低限の言葉は、とんでもないことへの同意を求めます。

 

十字架で死んで墓に葬られ、陰府に降り、三日目に復活した一人子イエス・キリストと同じように、主なる神様は、やがてこの私たちもからだをもって復活させる。これを最低限、同意しなければならないことの一つだと教会は求めるのです。

 

冷静に考えれば、これはなかなかハードルの高いことを、信仰生活のスタート地点から求めるものだと思います。

 

これを自分の口で告白できなければ、洗礼を受けられない、キリスト者として出発できない。もうちょっと何とかならないかなと考える人はいると思いますし、千差万別色々な言葉によって、このハードルを下げようとする試みは、たくさんあります。使徒信条のこの項目を説こうとする説教の中にも、何とか、この死人のよみがえりを説得的に語ろうとする試みもたくさんなされていると思います。それは、とても有益なものですから、それぞれが、お読みになってみればよいと思います。私もそういう説教をしたことがあると思います。

 

けれども、今日は、そういう話にはならないと思います。

 

今日のローマの信徒への手紙第8章を読みながら、そもそも死人のよみがえりの必要性を、たとえば、それがネックとなって洗礼に踏み切ることができないと悩んでいる人を説得し、納得してもらわなければならないかのように考える前提を覆される御言葉経験をさせられたからです。

 

ロマ書第8章の言葉を語る使徒パウロの信仰というものは、虚心坦懐にその言葉に向き合ってみますと、どうも、私達の立つ常識とは違う。この信仰箇条は、教会とそれ以外の世界の境界線をくっきりと分けてしまうような分断線となっているとは、少しも考えていないように思えます。

 

なぜならば、今日の19節で、パウロはローマ教会の信徒たちに向かって、この世界自身の思いを次のように代弁して見せているからです。

 

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」

 

今日の聖書箇所に何度も何度も登場する「被造物」という言葉、これは洗礼を受けたキリスト者、教会に限らず、この世界のすべてのもののことです。

 

使徒信条が「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白したときの、天地のことです。しかも、ここで使われている言葉は、造られたものだけでなく、その造られた世界の法則や、また神さまの創造行為そのものを指す言葉でもあります。つまり、この世界、この宇宙の一切合切ということです。

 

そして、この宇宙の一切合切が、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいると、パウロには、信じられているのです。

 

朧気にそう感じられるというのではありません。この宇宙全体の切実な願いとして、パウロの胸に被造物の思いが迫ってくるのです。

 

「切に待ち望んでいる」という言葉には、原語では、二つの言葉が重ねられています。「熱望」という名詞と、「熱心に待つ」という動詞です。だから、ここを直訳的に訳すと、「被造物の熱望は、熱烈に待っている」です。熱い熱い思いだというのです。

 

このローマの信徒への手紙第8章の前後は、体の贖い、死者の復活を巡る言葉です。死後の復活そのものが話題となっているわけではありませんが、この物質であるからだが、どのように神に生かされることになるのかということをパウロが語り続けている個所です。

 

具体的には、洗礼を受けたキリスト者たちが、このからだを持って、どう神の命に生きて行けるかということを語る言葉が語られます。

 

この罪の体、肉の思いが、キリストによって、どう生かされていくのか?

 

しかし、既にからだのよみがえりを信じるキリスト者にそう語りながら、全被造物の熱烈なる熱望が、パウロの心に迫ってきます。

 

世界は「神の子たちの現われるのを」すなわち、教会の出現を切に待ち望んでいる。なぜならば、21節、世界自身が、「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由に与れる」、この希望を持ち、熱烈に熱望しているから。

 

今の私たちが見ている世界とは、違うものがパウロには見えているようではないでしょうか?

 

私たちは、私たち教会を取り巻くこの世界は、教会のある必然性を感じていない世界であるかのように思っています。

 

からだの甦りも、永遠の命の希望も、この世界に住む人々の心を打ち、強く訴えかける力を持っているようには思えません。

 

少なくとも、その信仰箇条の持つ豊かな意味と慰めを、言葉を尽くして、思いを尽くして、文学、哲学、科学の言葉を総動員して、説得力を持って語ることができない限り、まともに相手にしてもらえないような、信仰箇条だと思っています。

 

私たち自身にしても、全能の父なる神さまの存在を信じることができるならば、あとは、何でも信じることができるなという具合に、信じているに過ぎないということがあるかもしれません。もちろん、切実に、熱烈に、このからだの甦りの信仰を持つ者も多くいます。私も、信仰者としての月日を重ねるごとに、愛する者達との死別を経験するたびに、その信仰の慰め深さがどんどん身に沁みる思いになります。

 

けれども、まだこの信仰を自分の信仰告白として口にするに至っていない方々、教会外の世の中にとっては、これは高い高いハードルだろうな、単なる死を恐れる子供の夢の延長に見えるだろうな、そして、しっかりと、死に向き合った人の中には、子供じみた永遠の命の夢に勝る、深い希望をその胸の内に持つだろうとさえ思います。そしてそれは、深く深く、この世の実相を見つめていると言えるとも思います。

 

パウロはそのような世界を知らないのだろうか?パウロの生きた社会は、誰もが永遠の命を夢見るような未成熟な社会だったのだろうか?

 

いいえ、滅びからの隷属から解放されることを、この宇宙が熱烈に待ち望んでいると感じ取っているパウロは、同時に、被造物が虚無に服していることをも見て取っています。

 

全宇宙が虚無に服している。もう一度申しますが、この被造物という言葉の中には、神の創造行為の全てが含まれています。この宇宙の背景にある制度、たとえば、自然法則をも、内に含むことのできる言葉です。

 

つまり、パウロが被造物が虚無に服していると見て取る時、全宇宙は、その自然なあり方において滅びへと向かっている。無へと向かっていると、見て取っているのです。

 

神がお造りになった世界は、命に向かっている。最終的には、この宇宙は命の法則によって導かれているなどとは、楽天的に考えてはいません。

 

21世紀に生きる現代人である私たちと、ほとんど変わらないかのように、被造物は、虚無に服し、滅びに隷属している、行き着く先は無だと見ています。この宇宙は根本的に虚無と、滅びの元にある。だから、全被造物は、苦しんでいると見て取ります。

 

しかも、20節を見ると、パウロは、そこに創造者の意思を見ます。天地を造られた神の意思として、この宇宙は、虚無に服していると言います。

 

これは、私たち教会の、常識を揺さぶりかねない言葉です。なぜならば、私たちは、被造物が虚無と滅びに服しているのは、神さまがこの世界をそのような無常なものとして造られたからではなく、素晴らしい世界が人間の罪によって、台無しになったからだと語ってきたからです。

 

ところがパウロは被造物が虚無に服しているのは、20節で、「自分の意志によるものではなく、服従させた方の意思によるもの」だと語ります。

 

これ以上、あまり話をややこしくしない方が良いかもしれません。簡潔に申し上げます。

 

私たち教会に属するキリスト者は、どこかで、聖書の語る滅びとか救いというものは、私たち人間の胸先三寸によって、どうにかなるものだと思っているところがあるかもしれません。

 

神による天地創造の行為において、人間の意思が何らかの形で、少しでも介入したと考える人は誰もいないと思います。

 

しかし、神による被造物の滅びと救いの業においては、私たちの人間の意思や行為は、何らかの仕方で少しは、介入する部分はあるのではないか?

 

いいえ、少しどころか、滅びと救いに関しては、私たち人間の意思と行為は、むしろ、決定的な役割を持っているのではないか?

 

たとえば、「からだの甦り、永遠の命を信ず」と自分の意志を持って、自分の口で、告白することができなければ、虚無に服し、滅びに隷属し続ける他ないのではないか?と、考えているところがあると思います。

 

けれども、今日の聖書箇所では、パウロは、被造物が、虚無に服しているのは、天地の創造者なる神様のご意志だと語ります。

 

そして、また私たち教会が時として、神への憧れを少しも持たないと見なしがちなこの世界、からだの甦り、永遠の命なんておとぎ話だと思っているに違いないと見なしがちなこの世界が、その滅びの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に与る希望を切実に、熱望している、何の疑いもなく、私たち教会と同じ希望を共有していると言い切るのです。

 

パウロは明らかにここで、滅びと救いは、天地創造のような神さまの御業の次元に属するものだと見做しています。そして、もしも、被造物の神さまへの期待、神様への信頼ということが問題となるとすれば、パウロにとっては、全被造物は、一方において、宇宙法則レベルで、虚無に服しながら、また、もう一方において、熱烈に神さまの御業に期待しているのです。例外なく。

 

このパウロの言葉には、驚かされますし、本当に、私たちに語りかけられている言葉として、どう受け取って良いのか?自分の信仰の全体の中で、どう位置づけて行けば良いのか?正直に言えば、ちょっとまだよくわからないところがあります。わからないところがありますが、すごく、安堵するような思いがあります。

 

パウロが置かれているところと、私たちが置かれているところはとても似ています。世界の中にあって、社会の中にあって、キリスト教会は、いまだ小さな小さな群れです。

 

家族、親せき、友人、知人一同、生まれながらにキリスト者だなどという中世ヨーロッパのキリスト教世界とは違います。本音ではどうあれ、表向きには、使徒信条に表されたような教会の信仰に同意する人々によって、作られている社会ではありません。

 

死者の復活にパウロの宣教の言葉が及べば、嘲笑われるか、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と相手にしない社会です。

 

けれども、パウロは、ほとんどの人が、キリストの福音に見向きもせず、宇宙の法則レベルで、がっちりと、虚無と滅びに説得され切っているこの世界が、神の救いを心の底から熱望している当の世界だと見て取っているのです。

 

このようなパウロの言葉を聴いて、このようなパウロのまなざしが私たちにも与えられて、私たちの伝道は、変わらざるを得ないのではないかと思います。

 

このパウロのまなざしが与えられれば、礼拝に訪れず、福音を信じない、困った夫、心頑なな妻、信仰を継承できなかった子ども、孫は、もういなくなってしまうのではないでしょうか?

 

なぜならば、本人がどんなに無視しようとも、どんなに反発しようとも、パウロのまなざしにおいて見れば、全被造物は、熱烈に神の御業を熱望しているからです。

 

なぜ、私たちには、そのような世界の姿がはっきりと見えて来ないのか?おそらくそれは、18節や、23節以下のパウロの言葉にヒントがあるかもしれないと、今、私は考え始めています。

 

そこにでは、私たちの現在の苦しみについて語られています。私たちもまた、滅びの隷属からの解放を待ちわびる被造世界と同じように、「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と、語られています。つまり、私たち教会もまた、この世の一部であるということです。神によって、召し出され、呼び出された者ではありますが、世と共にある世の者です。

 

私たちの肉の目は、この体は、贖われる前であり、いまだ虚無の元にあるのです。

 

だから、目に見えるところに従えば、神を求める者は少なく見えるのです。

 

けれども、やがて、そのような甦りの目が与えられます。それだけでなく、今ここにおいて、既に信仰のまなざしが与えられているのです。

 

見えないものを信じる信仰のまなざしです。キリスト者とは、この信仰の目を持って、今ここで、この世界が隠し持っている情熱と、宇宙の理を越えて、命をもたらす慈しみ深い父なる神の御旨を、目の前に現に見ているかのように語りだすことができる者達のことです。

 

なぜならば、キリスト者とは、ロマ書8:11「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と語りかけられる者であり、また、8:26「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。」と語りかけられている者だからです。

 

洗礼の水と共に、私たちに下られる神の霊が、全被造物の隠し持つ神の救いへの熱烈な熱望を、目に見えるところによらず、信仰において、霊において、わかるようにしてくださるのです。

 

私たちをここまで導いてきた「切に待ち望んでいる」という言葉ですが、これは聖書中たった二か所に使われる言葉です。

 

実は残る一回もパウロが使っています。フィリピの信徒への手紙1:20で使われています。今日の個所をより立体的に理解するために、必要だと思うので、引用します。

 

パウロは言います。「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」

 

生きるにも死ぬにも、わたしの身によって、わたしの働き、わたしの言葉、わたしの生き様、わたしの死に様、わたしの全部を用いて、「キリストが公然とあがめられるように」なることを、熱烈に熱望するのです。

 

全被造物の肉の目には隠されている熱望である主なる神様を慕い求める思いが、公然となる、キリストを通して、召されたパウロ、キリスト者、教会によって、公のものとなる。そのようなパウロの願いと確信が語られている言葉です。

 

ロマ書において、全被造物が「神の子たちの現われる」ことを熱望していると言っていたことと、重なります。

 

神の御意志と言う他ないほどに、深い深い虚無の元にある世界です。どんな思想も哲学も、覆せない虚無です。すべての者を説得してしまう虚無です。

 

ところが、説得されない者達がいるのです。この世が宇宙法則レベルで虚無であることを認めながらも、説得されない者達がいるのです。

 

自分たちは滅びの子ではなく、神の子だと語り続ける者がいるのです。この世界もまた、同じ希望に与っていると、語る者達がいるのです。

 

それがキリスト者です。それが教会です。たとえ、この世界が、体の甦りと永遠の命がおとぎ話に過ぎないと、説得され切っているとしても、同じように虚無の支配の元に、苦しみうめいている被造物仲間たちの内に、命の勝利を信じている者たちがいる。

 

この世界の隠された熱望において、そのような人間たちが、そのような共同体が、この地上にあることは、どれほど、喜ばしいことであるか、どれほど、必要なことであるか?

 

世界は教会になりたがっているのです。

 

 

 

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