礼拝

2024年1月14日主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書20章19節~23節

説教題 主の息を吹き入れられて

讃美歌 367,130,349,25

「わたしは主を見ました」との、マグダラのマリアの証言を通して告げられた主イエス・キリストの墓からの甦りの知らせにも関わらず、イエス・キリストの弟子たちは、家の戸に固く鍵をかけて、息を殺していました。

主イエス・キリストのご遺体を納めた墓は空になり、そのお方はお甦りになり、「私の名前を呼んでくださった」と、マグダラのマリアが、熱弁するにも関わらず、弟子たちは、家の戸に鍵を固くかけて、息を殺して、じっとしていました。

ユダヤ人を恐れてのことであったと、説明されています。

神の民ユダヤ人、自分たちと血を分けた兄弟であるユダヤ人、しかし、主イエス・キリストを十字架につけて殺してしまった人間の代表であるユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけて、息を殺していました。

聖書学者は、この「恐れて」という言葉は、聖書の中で、元来、神に対して使うべき言葉がここで使われていると、指摘いたします。

主なる神さまを畏れ敬う思い、行動を言い表すときにこそ、ここで「恐れて」と訳されるギリシア語の単語が使われるのだと、言います。

つまり、主イエス・キリストの弟子であった者達は、主イエス・キリストを十字架に追いやった人々のことを、その暴力を、あたかも神のように恐れて、その力の前に、ひれ伏しているのです。

「怖いだろう?お前たちも同じ目に遭わせてやる。」

主イエスを十字架につけた人々に凝縮して象徴されるような死の力が、弟子たちを、人間を脅しているのです。

その力の前に弟子たちはひれ伏す死の神々の信者であり、その奴隷となっているのです。

それが、「その日、すなわち週の初めに日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」という、描写が語らんとしていることなのです。

もう一度申し上げますが、主の弟子たちは、主イエスの御甦りの知らせを既に伝え聞いていたにもかかわらず、人間を恐れて、その力にひれ伏す姿勢を取ってしまっていたのです。

もしかしたら、私たちは、マグダラのマリアの言葉を信じられなかったから、恐れたままだったのだと、考えるかもしれません。

死人が墓の中から甦るなどということは、いくら信頼できる仲間の言葉だからと言って、到底信じることのできない言葉だから、当然、信じることができなかったから閉じこもっていたのだと考えるかもしれません。

けれども、本当はそうでなかったかもしれないとわたしは思うのです。

なぜならば、ヨハネによる福音書を読み進めていくと、ご復活の主イエスの顕現は、一度きりではなかったからです。

引き籠る弟子たちをその使命に招き出すために、何度も何度も、ご復活の主は現れなければならなかったのです。

四つの福音書に続く、使徒言行録においても、弟子たちは、今日の聖書箇所と同じように一つの家の中に一堂に集まっていた。座り込んだままだった。そういう記述があります。

ご復活の主とお会いしても、閉じこもり、そこに聖霊が降り、立ち上がったそういう書き方がなされています。

でも、それ以来、座り込むことはなくなったのか?そうでもないのです。

それは、使徒の手紙を読めば、誰でもわかることです。

だから、ここには、私たちの姿そのままがあると感じさせられます。ずーと、ずーと、このようなものであり続けた初代教会以来の教会の姿、私たち人間の姿があると思うのです。

ああ、ここには、私たちがいる。私たちが、その家の中にいて、鍵を閉めて息を殺している。そう、思わされます。

主イエスのご遺体を納めた墓は空であり、私たちの仲間が、「わたしは主を見ました」と熱烈に証言し、それを、そうなのだと受け止めることができるのです。しかし、できたとしても、意気地なしで、なお、ユダヤ人を恐れ、人を恐れ、まるでキリストがお甦りにはならなかったかのように、家の戸に鍵をかけて、息を殺してびくびくしながら生きている。

この世のもろもろの力を恐れ、あたかもそれが神であるかのように、脅え切ってしまっている。結果的に、それを拝み始めてしまっているような生活を作ってしまう。それが、私たちではないかと思います。

実際にどのような力を恐れてしまっているか?どのような偶像の前にひれ伏してしまっているか?いちいち数える必要はないでしょう。

たくさんのサンプルを私がここで取り出して見せずとも、自分自身がよくわかっているのです。

まるで神のように、私は、これを恐れている。そういうものが、一つと言わず、たくさんあるのです。

そして、まるでキリストがお甦りにならなかったかのように、諸々の神々と言うべきものを畏怖してしまっているのです。

お甦りのキリストの知らせを聞いたキリストの弟子であるにも関わらずです。

これは、私自身のこととして申し上げています。けれどもまた、今日の聖書箇所を読み始める時の、この私の個人的な感慨は、皆さんの正直な思いでもあるだろうと思います。

キリストが墓からお甦りになられた。この私たちのために。この世界にために。

常識外れの愉快な知らせです。思わず笑みがこぼれるユーモアあふれる神の業です。

私たちの常識をひっくり返し、これはどうにもならない岩盤のようだと感じられる人生の不条理や、残酷、シリアスさを、相対化し、非神話化し、そうやってその化けの皮をはがしてしまう、愉快な私たちのためのキリストのお甦りが、あたかも何事でもなかったかのように、生きてしまう。

これは私のことであり、皆さんのことではないでしょうか?私たちは、あたかもキリストがお甦りにならなかったかのように、シリアスぶってしまうのです。

ところが、世にある諸々の神々を恐れ、ひれ伏すあまりに、引きこもり、戸に鍵をかけて、縮こまっている者たちのところに、ご復活のキリストは入って来てしまわれるというのが、今日の聖書箇所です。

戸をがちがちに固く閉ざしているのに、ご復活のキリストのお身体は、それを物ともせず、入って来てしまわれ、弟子たちのど真ん中に、私たちのど真ん中に、やって来てしまわれるのです。

石原吉郎というキリスト者である詩人の詩の一篇をこの講壇から紹介したことがあります。振り返ってみると、これまで二回もご紹介しました。

でもやっぱり、私はこの詩が好きなのです。この詩が、福音の神髄を、言い表してくれている言葉のように感じ、いつもいつも心に浮かび上がってくるのです。

「最後の敵」というその詩を抜粋しながら、今までより少し長く、もう一度、ここで、多分、これで最後、元町教会の礼拝で、ご紹介したいと思います。

こういう詩です。

 薔薇のように傷あとが

 耳たぶの後ろで匂っている

 そんなおとこに会っては

 いけないのか

 華麗な招待の灯(ひ)の下でも

 腕ぐみをとかずに向き合える

 そんなおとこに会ってはいけないのか

 夕やけの中の尖塔のように

 怒りはその額にかがやいているが

 とおく十字路を

 ふりかえる目のなかには

 颱風(たいふう)が やさしく

 とまどっているようだ

 ・・・

 いたみにはやさしくかたむく

 秤のような肩と

 どんな未来をもはねつける

 きりたった胸とが

 どこで遭っても見わけのつく

 そいつの誠実な目じるしだ

 敵のなかに さらに敵をつくり

 鞭をまたいで ついに

 ぼくらをふりむかなかったおとこ

 そうしてなによりも 終末の日に

 塔よりも高い日まわりが

 怒りのように

 咲きならぶ道を

 彼はやって来るだろう
 かんぬきよりもかたくなな
 ぼくらの腕ぐみを
 苦もなくおしひらいて
 その奇体なあつい火を
 ぼくらの胸に
 おしつけるために

 

文芸評論家は、この石原の詩が語る「彼」が誰であるか?色々な人のイメージが重なっていると言いますが、私はその中の一人、しかも、主要なイメージは、イエス・キリストそのお方だと受け取っています。

薔薇のような傷あとが耳の後ろから匂っている男、鞭うたれ、茨の冠をかぶせられ、血を流されるキリスト。

高い塔のように立ちはだかり、私たちの罪を告発する、強く跳ね返す胸、妥協なき厳しさをお持ちになったキリスト。

しかし、人の痛みには優しく傾く天秤のような肩を持ち、颱風のような激しく渦巻く優しさが、その目に宿っていらっしゃるキリスト。

そして、やがて私たちを裁くために真っ直ぐに歩み寄って来られるキリスト。

そのお方は、固く閂で閉ざした扉のような私たちの腕組みを押し開き、わたしの心のど真ん中に、私たちの交わりの中心に、やって来られるのです。

私たちの勇気、私たちの決断、私たちの悔い改めでは決して押し開くことのできない、どうしようもなく、神ならぬものを恐れ、神ならぬものにひれ伏し、神ならぬものを拝んでしまう、そちらをどうしても選んでしまう私たちの頑なな扉を押し開き、真ん中にお立ちになるのです。

いいえ、今日の聖書の記述に従えば、押し開くどころではありません。

頑ななままの、腕組みをしたままの、鍵をかけたままの、だから、神ならぬものを畏れ続け、拝み続けたままである、そういう私たちのど真ん中に、いつの間にか、ご復活のキリストがやって来られ、その私たちに向かって、「あなたがたに平和があるように」と、語り込まれるのです。

そのお方は、手と脇腹の傷、十字架の傷、その十字架上で槍で刺された傷をお見せになり、ここに私はいる。現に私はここにいる。あなたがたと共にいる。間違いなく、わたしだ。あなたと共にいる私だと、その手の傷、脇腹の傷をお見せになります。

つまり、私たちの腕組みをやすやすと乗り越えて来られるそのお方が、鍵を閉めている私たちの真ん中にやって来られ、私たちと出会われ、マグダラのマリアと同じように、皆さんが、「わたしは主を見ました」と言えるようになるのです。

いいえ、そう言っているのです。なぜって、皆さんの体がここにあり、この金沢元町教会の会堂の中に置かれ、ここでキリストを礼拝している。説教を聴き、また、説教を聴くことによって、説教を私と共に語っている。それは、すなわち、「わたしは主を見ました」と語っていることなのです。

もう一歩、進めて申します。

そんなことわたしは言っていない。そんな心持でここに座っているわけではないと言う方もおいでになるかもしれません。

けれども、この礼拝の場は、キリストが、この私たちの真ん中にお立ちになることだと、私たち教会は信じています。

そして、今、読まれ、説かれている聖書の言葉こそ、私たちの座るこの場所の中に入って来られ、私たちの真ん中に立たれ、そして、「あなたがたに平和があるように」と告げられる、お甦りの主イエス・キリストの声として聴いている言葉です。

キリストが今、ここでお語りになっているその生けるお言葉として、私たち教会は聖書を読み、その生けるキリストの声を、キリストの言葉を、牧師に発音させていると信じています。

「あなたがたに平和があるように。」

きちんと聴こえるように、聴き洩らすことがないように、それが、この私たちの真ん中にお立ちになっている生けるイエス・キリストが、この私たちに向かって、皆さんに向かって、当のあなたに向かって、届けられるキリストの言葉であることが分かるように、もう、誤解しないように、21節、お甦りの主イエスは、重ねて仰います。

「あなたがたに平和があるように。」

怖れの中にいるあなた、怖れに憑りつかれてしまっているあなた、神ならぬ神々の力、死の神々に脅え切っているあなた、そのあなたがたに、そのあなたに、平和があるように。

そして、この言葉を聴いたこのあなたが、わたしの使者となる。私が父に遣わされたように、私があなたを遣わす。子なる神に遣わされたみ使いになる、天使となる。いいえ、それどころか、御子と似た者となるのです。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

御子イエス・キリストと私たちが、同じ使命を担うのです。

その使命とは何でしょうか?

22節以下で、主イエスが仰います。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

そうです。赦しに生きるということです。もっと精確に言えば、赦しの言葉を託されるということです。

赦しの言葉、説教の言葉です。今、皆さんが耳にしているイエス・キリストをご紹介する説教の言葉です。

これが、皆さんに託される赦しの言葉です。

説教学者ルドルフ・ボーレンは、聖書の言葉が説教の言葉へと姿を変えていく過程を順を追って語りながら、この説教壇から牧師によって語られた言葉を説教の完成形と考えずに、聴衆によって聴き取られた言葉を、聖書の言葉がたどる変化の過程の最後の部分として、第7のテキストと呼びます。

キリストの言葉は、私の耳から口へ至り、そこから皆さんの耳から口へ至るのです。

つまり、赦しの言葉は、今、皆さんに宿ったのです。

そこで、皆さんは、み使いとなり、天使となり、キリストの使者として、遣わされてまいります。

今日の説教、ほとんど分からなかった。十分理解できたかどうか、心許ないという方もあるかもしれません。

けれどもそれは、まあ、それはそれで良いと思います。

なぜならば、それでも、それでも、この私たちの真ん中に立たれるお甦りのキリストの息が、ここにいる全ての者に吹きかけられ、吹き入れられたのは、客観的な事実だからです。

私は今日の聖書箇所のどの言葉にも立ち止まり、そのどの言葉からも、おいしい味が溢れていると思いますけれども、ここまで触れて来なかった22節の主イエスの御姿が、何よりも、良いなと思っています。

「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。」

主イエスが、やって来られ、真ん中に立ち、フーッと、息を吹きかけられる。

主イエスの息が、顔をくすぐるんです。

お甦りのイエスが、同じ部屋におられ、私たちはそのお方と同じ空気を吸い、同じ空気を吸っているというだけで、ドキドキしますけど、息が吹きかけられます。

それで、気付きます。

あら、私、お甦りの主イエスが吸って吐いたその息、主イエスが吸って吐いたその息を、今ここで、吸って吐いてるんだ。

フーッと顔をくすぐる強い息を吹きかけられて気付きます。

「あなたがたに平和があるように」

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

これらの主の御言葉、私たちを召す御言葉、私たちを招き遣わす御言葉、ご復活の主イエスの声にのって、吐く息と共に語られた御言葉、確かに、私たちの内に、吸い込まれているんです。

その主の声を吸ったのです。その主の息を吸ったのです。

その主の息吹、神の息、創世記2:7で、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と神話的に語る神の命の息であるキリストの言葉を、その吹きかけられた息が、今、ここにある私たちの呼吸と共に、もう、本当に吹き入れられているのです。

それゆえ、今日、ここにいる皆さんが、一人の例外もなく、その理解度に関係なく、しかしまた、その理解度とそれぞれの個性に従って、平和をもたらし、人を造り上げるキリストの赦しの言葉を語る、その言葉を口伝えする神の使者として遣わされていきます。

大切なことは吐くことと、吸うこと、その繰り返しです。

それはつまり、この赦しの言葉は、私物化できないということです。

それは、鍵をかけてしまっておけません。

いつでも、息を吹きかけられ、それを吸わなければなりません。

それゆえ、ご復活のキリストは一度ならず、二度、三度と、弟子たちの前に繰り返し現れたのであり、私たちの主の日毎の礼拝は、その延長にあるものです。

けれども、それこそが嬉しいことです。それこそが、私たち教会が生き、人を招いている神のくださる赦しの現実そのものです。

キリストの復活の知らせを聞き、信じても、何度も何度も閉じこもるのです。その方にお会いし、「わたしはその方を見ました」と言えても、何度も何度も見失い、恐れて閉じこもるのです。

しかし、そこに、生きておられる方が入って来られるのです。私たちの真ん中に、この人間の群れの真ん中に、お立ちになられ、もう一度、語られ、もう一度、出会われ、もう一度、息を吹きかけてくださるのです。

神は、情けない者をお見捨てになりません。罪人をお見捨てになりません。躓き、頑なになる者の元を、尋ねてくださいます。何度でも、重ねて、もう一歩近づいて。

それが赦されて生きるということです。それが信仰生活というものです。それが、神の召しに応える生き方というものです。

それが、キリスト共に生きて行くということ、インマヌエル、神が私たちと共にいてくださるということです。

私たち教会が、このキリストの出来事を聴き、語り続けるここで、このキリストの赦しが、だれもが吸って吐くことのできる命の息として、現に、ここに満ちるのです。

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