週 報
聖 書 ヨハネによる福音書13章12節~20節
説教題 主イエスを真似る
讃美歌 140、298、24
主イエス・キリストは、自分の真似をして生きるようにと、私たちを招待しておられます。
弟子たちの主人であるにも関わらず、師匠であるにも関わらず、私たち人間の神であられるにも関わらず、身を屈めて、弟子たちの汚れた足を洗うという奴隷以下の仕事をするわたしを真似するようにと招いておられます。
深い深い愛がなければ決してできない汚れ仕事、狂おしいほどの対象への愛がなければできない汚れ仕事をする主イエスの真似です。さあ、身を屈めて互いの足を洗い合いなさい。そのようなお互いへの愛に生きよう。15節、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと模範を示したのである。」すでに先週お話ししましたように、最後の晩餐と呼ばれる食事の席での出来事でした。
主イエスが立ち上がり、それから身を屈めて、戸惑う弟子たちの足をほとんど強引に洗って回ったのです。もったいなくて仕方がないということであると同時に、ひょっとしたら、自分たちの師匠が、こんなに情けない姿を晒すようでは困るということであったかもしれません。
けれども、この時には全く理解不能であったかもしれませんが、主イエスの御言葉通りに、後でわかるようになりました。この主の姿は、十字架の出来事の意味を、主イエス自らが、事前にお示しになった出来事でした。
身を屈めて泥をかぶって、汗を滴らせながら、弟子たちの足を洗って回る主イエスの姿は、十字架で、私たちの罪汚れを一身に背負われる主イエスの心を語るものでありました。
あなたがたの主人であり、師匠であるわたし、神の独り子であるわたしは、誰に強制されるわけでもなく、十字架の道を選び取るのだ。
洗足の出来事とは、主イエスの十字架という神の唯一無二の愛を示す唯一無二の愛の業です。
つまり、それは神の無償の愛を示す神業であり、人間業ではありません。
ところが、14節、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
今、あなたがたの足を洗ったわたしの愛は、あなたがたへの愛の模範である。
弟子たちは、エルサレムに入城した時、主イエスがいよいよ王さまとして立ち上がると期待しました。
ローマ帝国という超大国の支配から脱し、イスラエル王国を再建されると、群衆と共に夢を見ました。
その再建の先頭に立ち戦うはずのお方、そして、再建された国の王として君臨されるはずのお方が、奴隷のように身を屈め、自分たちの足を洗われました。
そして仰いました。
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
弟子たちは、聴き取ったことでしょう。
わたしはあなたがたの理想通りの救い主ではない。あなたがたの上に、暴力的に君臨する専制君主ではなく、僕のように、あなたがたの汚れを引き受ける愛に生きることを望む者だ。
わたしは先頭に立って、あなたがたを愛す。あなたがたの足を洗う。
あなたがたはわたしのしていることが分からない、受け入れられない。がっかりしている。
しかし、「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」
わたしの弟子であるあなたがたには、互いの足を洗い合う以上のことはできないのだ。
神の国が来た。神の支配が今、始まる。そのためにわたしは遣わされた。この神の国の事業を実現するために、わたしはあなたがたを必要とする。
そうやって、主イエスにリクルートされた弟子たちでした。
その神の国革命がいよいよ、ガリラヤの地方的なものから、エルサレムの中央的なものへと花開こうと期待された時です。
そこで露わにされた神の支配が実現するための活動計画は、身を屈めて互いの足を洗い合うこと。その模範を示すために遣わされた存在が主イエスというお方。以上。
なんとつまらないことか。自分たちは、そんなことのために厳しい伝道活動を続けてきたのかと、最初の弟子たちは、戸惑ったり、いらだったりしたのです。
しかし、今、私たちは、自分自身のことを振り返れば、おそらく、この言葉を最初に聴いた弟子たちの困惑とは違う困惑を抱えているのです。
主イエスがお示しになったように、私たちが互いの足を洗い合うことは、とんでもなく難しいことではないか?
神の国、神の御心を実現するためと信じて、剣をもって、戦うことを覚悟していた血気盛んな弟子たちにとっては、神の御心の実現のためになすべきこととは、互いの足を洗い合うことだというのは、もしかしたら、いらだちを覚えさせること、失望させること、なんと軟弱で、素朴過ぎることかと思ったかもしれません。
しかし、ヨハネによる福音書を記し、伝えてきた教会は、そして私たちは、最初の弟子たちとは全く真逆に、こんなに難しいことはないと、戸惑ってしまっているというのが、本当ではないかと思います。
なぜならば、互いに足を洗い合わなければならない相手とは誰であるか、主イエスの十字架が教えてくれています。
私たちの仲の良い友人だけではなく、私たちの敵です。良い顔をして近づきながら、期待に反する私たちであることが分かったら、手の平を反して、私たちを滅ぼそうとする相手です。
あるいは、私たちが順調に過ごしている時には、喜んで周りにいてくれたのに、逆境に陥ると、蜘蛛の子散らすように、私たちのもとから離れ去って行く人々のことです。
模範である主イエス・キリストが愛した人々、その足を洗うほどに愛した人々とは、このような裏切り者達でありました。
足を洗う愛とは、十字架の愛なのです。
十字架の愛、それは神の愛です。私たちが、驚き、そのことを本当に受け止めさせて頂くとき、そんな愛で、神が、キリストが私たちを愛されていると、受け止めた時、余りの衝撃に茫然自失してしまうような神の愛です。
そのことを考えると、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」という主の言葉は、軟弱な勧めなんかじゃありません。
こんなにも高く、こんなにも厳しい愛はないのです。
けれども、これが福音の福音たるゆえんですが、この言葉を前にして、私たちは、途方に暮れる必要がありません。
愛の薄い自分に肩を落として、この主イエスの前から顔を隠して、去る必要は一切ありません。
なぜならば、主イエスは、18節後半、「わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。」と仰るのです。
御自分が身を屈めて足を洗った、御自分の愛を受けたその人が、「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」と、旧約聖書に刻まれていることを、イエス・キリストはご存じでありました。
天の父の言葉の深みにおいて、全てを見お押す神のまなざしにおいて、私たち人間がどういうものであるかを百もご承知でした。
その方はユダがどういうものであるかを知っています。ペトロがどういうものであるかを知っています。神の民が、どういう者であるか、私たちがどういう者であるかをよく知っておられます。
十字架とご復活前の弟子たちの無知と弱さと恐れも、十字架とご復活後の私たちの無知と弱さと恐れも、つまり、私たちの罪の全てを知っておられます。
しかし、19節、このお方は「わたしはある」と私たちに御自分を差し出すお方です。
今は理解できなくても、事が起こった時、「『わたしはある』ということを、あなたがたは信じるようになる」。
そのためにわたしは働き、わたしは語り、わたしは私の命を差し出すと、主イエスは約束されたのです。
「わたしはある」。
これは、モーセに現れた神さまのお名前です。
怖い、できない、自信がない、能力がない。
神さまより与えられた使命を前にして、恐れるモーセに主なる神さまが語ってくださったご自分のお名前、それが、「わたしはある」です。
聖書の神様の固有名は、おそらく、ヤハウェと言うのだろうと、学者たちは考えています。
「汝の神、主の名をみだりに口にあぐべからず」という十戒の第三の命令を忠実に守ったために、かつて母音を持たなかったヘブライ語では、その発音の仕方がすっかり失われてしまった聖書の神の固有名です。
しかし、その意味は、伝えられています。その意味は、「わたしはある」。
ヤハウェとは、わたしはある太郎、わたしはある造のようなことです。
本当に固有名詞と言えるのかと疑うような不思議なお名前です。
「わたしはある」、その表現からして、不思議で、深遠な意味を持つ哲学的なお名前だと多くの人たちが考えてきましたが、現代の学者たちは、そんなに小難しいお名前ではないと考えるようになりました。
「わたしはある」それは、次のような意図を持った神さまの自己紹介の言葉だろうと解説してくれています。
すなわち、神さまの招きを前に、恐れ、怖がり、自分にはできないと座り込むモーセに、「わたしはある」と自己紹介された神さまのお名前とは、「わたしはあなたと共にある。わたしはいつでもあなたと共にいる。それがわたしの名前である」と、自己紹介された言葉であろうと。
十字架に結実する狂おしいほどの神の愛を指し示す洗足の出来事を、あなたがたの模範として行ったと仰るイエス・キリストは、「わたしはあなたと共にある。わたしはいつでもあなたと共にいる。それがわたしの名前である」、事が起こった時、そのことをあなたがたは信じるようになるため、わたしは語り、働くと仰ったのです。
「事が起こった時」、それは、この時にはまだ隠されていた弟子たちの裏切りが露呈する時です。しかし、また、根本的には十字架と復活の出来事が起きる時です。
神の究極の御心である十字架とご復活の出来事において、主イエスが、「わたしはある」というお方であること、恐れ、怖がり、自分にはできないと座り込む私たちに、「わたしはあなたと共にある。わたしはいつでもあなたと共にいる。それをわたしの名前とする」と語りかけるお方であることが、明らかになったのです。
そのとき、主イエスに足を洗って頂いた本当の意味がわかるようになりました。神の愛の深さの果てしなさがわかるようになりました。
主は裏切り者、御自分を否定する者、御自分のもとから去る者と、共におられることを、明らかにされたのです。これが福音です。
けれども、この福音の決定的な出来事をスタート地点にして、次々と新しい「事」が起こる。
このお方が、どこまでも、どんな時も、私たちと共におられることにより、私たちが、互いに足を洗い合うという「事」、出来事が起きるようになるのです。
聖書の中に何度も何度も出てくる真似るとか、模倣するとかという言葉には、だいたいミメーシスというギリシア語が使われています。
このミメーシスという言葉、「真似をする」と訳されることが多いのですが、ある社会学者は、「感染する」というニュアンスを含んでいることを指摘します。
付け焼刃の真似じゃないんです。身にならない、身に付いていない真似じゃありません。
ミメーシスという言葉で表現される真似るということは、感染した結果、似てしまうことなのです。
おたふくかぜに罹れば、皆、頬が腫れた顔になる。水疱瘡になれば、湿疹が体の全体を覆うという風に、否が応でも似るのです。
これは、主イエスを真似ることにこそ、当てはまることだと思います。
主イエスの熱が私たちに感染してしまう。主イエスの深い愛に愛されて、その愛に感染してしまう。
そして、思いがけず、私たちも愛に生きてしまう。
けれども、それは、聖書自身の文脈からはっきりしているように、人間業ではなく、言葉通りの意味における神業です。だから、その出来事を自分の力で引き起こそうとするのではなく、待っていれば良いのです。
心と体を持った私の存在丸ごとが、主イエスによって芯から温められていく最中であることに、安心してとどまっていれば良いと、私は思います。
それゆえ、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」という招きは、まず何よりも、主イエスに愛されることへの招きであり、自分がこの方の宝であることを認めることへの招きであります。
この方に従い得ない私、この方を裏切り、見捨てるような者であり、そんな自分にがっかりして、この方の元から去ろうとするこの私を、決して手放そうとはされない主イエスであることを、ただただ喜び、ただただその神の愛に温められ続けるようにとの招きなのです。
どんなに冷たい石も、どんなに冷たい鉄も、ずっと握られていれば、握る者の温かさと同じ温かさになります。
愛の熱源である主イエスが、私たちのことをその御手の内に握ってくださっています。私たちと共におられるお方が、愛の情熱に生き続けてくださっています。
その愛の熱が、私たちを通して伝わって行くことは、私たちの人間業ではなく、主イエスの神業です。それはもう、始まっているのです。
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