礼拝

4月19日 礼拝

今週の週報  長老会だより

讃美歌は著作権に抵触しないために54年版(以前に使っていた讃美歌集です)讃美歌集の中から選曲しています。

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2020.4.19

礼拝堂と、家庭に分かれて、礼拝を捧げる形になって、二回目の日曜日を迎えました。金曜日には、日本全土に緊急事態宣言がなされ、中でも、私たちの住む石川県は、全国的に見ても、厳しい状況にある地域の一つであることが報道されています。それはもう、何日も前から、私たちも把握していたことであり、だから、先週から、家庭での礼拝を推奨するという決断を私たちもしました。

 けれども、先週の時点では、地区内の親しい教会の全てが、同じような決断をしたわけではありませんでした。対策を取った上で、集まり続けている群れもあります。今日もそれぞれの教会がどうしているか確認しているわけではありませんが、なお、礼拝堂に集まっての礼拝を続けている群れもあると思います。既に、先週から緊急事態宣言の出ていた地域にある教会も、一つ所に集まる礼拝を続けるという決断をした群れもあると聞いています。地域差だけでは最早語れません。同じ状況に直面しながら、違った実践が生まれています。

 私は、なお、一つ所に集まり礼拝を続けている仲間の群れが日本中にあることを、よく肝に銘じたいと思っています。なんと言っていいかうまく表現できませんが、その決断を大切なものとして、畏れを持って受け止めなければならないと感じています。
 イースター礼拝を家庭で捧げることをお勧めする連絡網を流す時も、流した後も、私が祈り続けている祈りがあります。それは、「主よ、もしもこの決断が誤りであるならば、私たちの罪をお赦しください。どうぞ、私たちを憐み、私たちの過ちからも素晴らしいことを生み出してください。」という祈りです。

 


 

 目標8割、最低7割の人との接触の削減を実現するために、不要不急の外出を避ける。その大切なことがよくわかります。そのことを受け入れ、礼拝堂に集まることを避ける決断をしたのです。そしてそれはまた、キリストの命の重みを持つ隣人の命を重んじること、私たちが外出を控えて家に留まるという本来ならば愛の名にも価しないような小さな業をすることによって、一つでも助かる命があるならば、それは、キリストの命をお救いしたことになると信じて、決断いたしました。

 けれども、その一方において、どんな緊急事態の元にあっても、神様を礼拝するために礼拝堂に集まる事は控えてくださいと教会がお願いすると言うことは、恐ろしいことであります。日曜日に家庭で礼拝を捧げることを推奨することによって、どんな言葉を重ねても、私どもが日曜日ごとに捧げる礼拝を、不要不急の外出の中に、数え入れてしまうことになってはいないか?ライフラインを保つための、スーパー、コンビニ、ドラッグストア、医療機関が堂々と扉を開き続けている中で、教会はそういうものの一つではなかったのか?人間の生命線ではないのか?少なくとも、私たちキリスト者にとっては、医療機関が閉じることと同じほどの、意味を持つことではないのか?

 教会が主張するだけではありません。教会の大切さは、この世だって知っています。東京都の発表した資料には、今この時にあっても社会生活を維持する上で必要な施設として、神社、寺院、教会の名が挙げられているのです。この世は、教会をライフラインの一つに数え、休止を要請する施設には、入れていないのです。

 さらにもっと大切な側面から言えば、たとえ、法律によって禁じられる日が来ても、人間が造られた目的が神を拝むことであると私たちが代々の教会と共に告白してきたならば、私たちの命を燃やし尽くす場所は、一体礼拝の場以外のどこであるのか?礼拝というのは、我々が命懸けで行うものではないのか?そのために備えられた場所である教会堂に集うことを不要不急の外出という区分で、世間の見方も、また私たちの心の内の動きの中でも、カテゴライズしてしまうならば、私は、神に申し開きが立たないと思うのです。

 だから、我々とは違う決断をしている仲間の群れを、重んじたいのです。批判してはならないと思うのです。

 

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 私たちの身に今起こっていることは、まさに、今日お読みした6節以下の出来事そのものであると思います。一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って、主イエスに近寄り、食事の席に着いておられた主イエスの頭に、香油を注ぎかけたのです。たいへん高価なものだと言われています。これは、嫁入り道具、婚家に贈る結納の品のようなものだったと言う人もいます。一世一代の品なのです。それを主イエスへのもてなしとして、すべて注ぎだしてしまったのです。これは異様なことでした。

 ただ宗教を知らない者、信仰を持たない者にとって異様なことであったのではありません。間違ってはなりません。神を信じる者にとって、しかも、主イエスをメシア、真の救い主と信じる主イエスを誰よりも重んじ、誰よりも愛してきたその腹心の弟子、12弟子たちにとって、異様なことでありました。

 弟子たちはこれを見て、憤慨して言ったのです。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」冷静な答えです。道理にかなった答えです。しかも、ただ、この世のそろばん勘定から出た批判ではありません。他の福音書はいざ知らず、少なくとも、マタイによる福音書の流れでは、信仰の道理に適っているのです。

 なぜならば、今日の聖書個所の第1節に、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」とあります。主イエスが十字架にお架かりになる前に最後にお語りになったこと、まさに、遺言としてお語りになったこと、それが、直前の言葉だというわけです。私たちは、そこでこう聴かされたのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである。」

 高価な香油を主イエスの頭に全て注ぎかける女性を見て、弟子たちの心に浮かんだのは、この主イエスの御言葉であったに違いありません。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」聖書の神が求めていらっしゃるものは、献げものなんかじゃない。憐みなんだ。礼拝のために神殿にいそいそと向かいながら、道の向こう側で倒れている人を見捨てていくことは、求められてなんかいないんだ。最も小さい者の一人にしたこと、大それたことでなくていい、小さな小さな愛の行為を、神は、「それはあなたがわたしにしてくれた大きな大きな捧げものだ」と数えてくださる。貧しい者に無限に連帯し、かつ貧しい業を、ほめちぎってくださるそういう神さまなんだ。これが主イエスの遺言です。だから、弟子たちの反応は、この言葉を聞かされたばかりの者として、単なる損得勘定ではない、信仰の道理に適った当然の反応でありました。

 けれども、主イエスは、自分勝手にではなく、主イエスの言葉に根差して、この女の無駄遣いを批判し始めた弟子たちに対して仰いました。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」

 主イエスは、女性の無駄遣いを喜ばれ、褒められたのです。しかも、そのほめ方というのは、並大抵のものではありませんでした。13節、「はっきり言っておく、世界中どこででも、この福音が述べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と仰いました。

 この所を説く、ある説教者は言います。「信仰生活とは、なりふり構っていられないものであります。この婦人のように、はたの人の思惑などは、全然、問題にしないものである、と思います。信仰は、余り、熱狂的にならない方がいい、と分別くさいことを言う人があります。しかし、信仰は、ただ、神のことを考える生活です。それならば、時としては、人間の目には、愚かしいと思われることもあるに違いありません。」

 誤解して頂きたくないのは、ただ手放しに、熱狂的な信仰が正しい信仰と言えるわけではないのです。この女性の行為も、主イエスの反応も、この世の論理だけでなく、信仰の道理の一つの面に照らし合わせても、不自然であり、理解に苦しむことであり、異様なことであることが忘れられてはいないのです。けれどもまた、この人とはまた別の神学者が言ったことですが、私たちの信仰とか、告白とか、証しというものは、論理の一貫した思想とか、何かを証明しようとする言葉とかいうものではなく、「やぶれた言葉であることを知りつつも、ただそのありのままを証ししようと」するもの以外ではあり得ないのです。

 信仰の行為もまた同じです。いつでも考え抜かれた、どの角度から眺めても不備のないことができているわけではない。むしろ、信仰の行為というものは、一貫性のないままに、破れたままに、いても立ってもいられない所で、主に差し出す他ないということがあります。だからそれは、完全、完璧なものではありえない。いつもどこかにやぶれを抱えたままです。言い換えれば、貧しいままで、欠けあるままで、けれども、献金箱の中に、そのやぶれた自分を丸ごと全部載せるようにしてしか、捧げることができないものです。しかし、貧しく不完全な私たちの行為を、主イエスは、大きく大きく喜んでくださるのです。この主イエスのゆえに、私たちは安心して決断できます。

 このことを、忘れる時に、私たちは人を批判しなければならなくなる。自分だけが正しいと思い込まなければならなくなってしまう。けれども、自分の不完全さと、その不完全な献げものを大きく大きく取り上げてくださる主イエスを知るならば、私たちは自分のことも、人のことも、絶対正しいとも、絶対間違っているとも言う必要がなくなる。むしろ、我々が為したぎりぎりの決断によって、その手からこぼれ落ちてしまっている大切なこと、思いがけず、最も大切なものをこぼれ落としてしまっているかもしれないものを、私たちに代わって、保ち続けてくれている隣りの群れを、私たちにとっての恵みとして発見できるようになる。

 そして、この場合、どちらの決断をするにせよ、私たちがいよいよ必要としているのは、罪の赦し以外ではないと思います。私たちが必要としているのは、今までと何ら変わらず相も変わらず、神の憐み以外ではないと思います。主イエス・キリストというお方は、その赦しと憐みを、私たちに注ぐことを、躊躇されるようなお方ではないのです。

 

***

 

 この主イエスと赦しと憐みというものは、それこそハッキリ弁えなければなりませんが、宝の無駄遣いという他ないものなのです。一番、道理に適わないことをされているのは、主イエスだったのです。主イエスの無駄遣いとは、この罪深い私たちのために、ご自分の命を注ぎ尽くされたという無駄遣いです。すべてを語り終えて、イエス・キリストが歩みだされたのは、十字架に向かってでありました。無駄遣いしに行かれたのです。主イエスの語り尽くされた言葉に生きえない、破れた人間、綻んでいる人間を、それらの者にふさわしい地獄の火に追いやるのでも、無に帰そうとするのでもなく、赦し、憐れみ、生かすために、十字架で、ご自分の命を注ぎだされたのです。神の独り子の命が、罪に沈んだ被造物に過ぎない人間のために注ぎだされたのです。それを、無駄遣いと言わずに、何を無駄遣いと言えましょう。神は計算なさらなかったのです。神のなさったことは、愚かなことであったと言わなければならない事なのです。けれども、この神の愚かさが、人間を生かしているんです。この世界を滅ぼさずに、保っているんです。

 神は、本当の意味で、不要不急のことをされたのです。しかし、神にとって、不要不急であったはずのことを敢えてしてくださったことによって、私たちは生きることが許されたのです。この主イエスの歩みのゆえに、女の捧げた香油は、主の葬りの備えとなりました。この女性は、自分の注いだ油がそのような意味を持つなどとは考えていなかったに違いありません。

 それこそ、深く考え抜いたところで、自信を持ってこれが正しいことだと行ったことではなく、主イエスとの出会いの中で、思わずに、心に迫るものがあり、捧げたものだと思うのです。しかし、この捧げものは、私たちのために十字架を選び取られる主イエスのゆえに、ただ主イエスのゆえに、本当に正しい、ふさわしい捧げものとなったのです。

 日曜日ごとの礼拝とは、その主イエスの行為をほめたたえ、神に感謝し、神のくださった命を喜ぶ応答です。主の死に応える捧げものです。これが不要不急ということはあり得ない。礼拝を欠くならば、たちまち、私たちは、主イエスがご自分の命をもって測ってくださった自分と隣人の命の意味を失うのです。主なる神様への大きな恩に対して、捧ぐべき感謝と、そこでこそ知ることの許される自分と隣人の重みというものがあるから、礼拝せずにはおれないのです。私たちの礼拝は、この物語の女性が注いだ香油以上に已むに已まれぬものであります。これは命をかけて、捧げるに値するものです。その礼拝を途絶えさせないために、今、日本中の教会が、今、この瞬間も試行錯誤をし続けているのです。

 しかし、それぞれの場で、礼拝を必死で捧げている私たちを生かしているのは、なお赦しであり、憐みであり続けます。2000年前も、今も、キリストの十字架に実現した赦しと憐みが生かしているのです。

 赦しと憐みなくして、ただの一瞬も立っていることのできない私たちです。どんな勇敢な、どんなに熱い応答も、あるいは、どんなに愛に満ちた、神学的な決断も、この赦しと憐みを必要としない正しさはどこにもないことを弁え、不器用で欠けのある自分自身を、この教会を、あるがままに神にお捧げしたいと思います。主の赦しと憐みがあるならば、この私は、どんなに欠けが大きくとも、主イエスの父なる神にとって、忘れることのできない大きな喜びであったように、隣人にとっても、祝福でありうるのです。

 

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神さま、どうぞ、私たちをお受け取り下さい。不信仰によってだけではなく、信仰の名においてこそ、あなたと隣人を隠れて憎んでしまう私たちを憐み、受け入れてください。あなたはそのような私たちを既に、受け入れてくださいました。御子の十字架を、この世界に打ち立ててくださいました。あなたの愛の浪費によってのみ、存在できる私たちであり、この世界です。その愛に支えられて、破れたままで、綻んだままで、差し出される隣人を喜び祝い、自分をも、あなたを礼拝し、隣人を祝福するために差し出すことができますように。私たちの正しさが、あなたと隣人を小さくすることのないように、憐れんで助けてください。

 この祈りを、祝福の主人であり、喜びの師匠であるイエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。アーメン。

 

 

 

 

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