礼拝

2月12日 主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書10章11節~21節

説 教 私たちの真の羊飼い

讃美歌 13,120,27

牧師という言葉は、英語でパスターと言います。辞書を引きますと、一番最初に「牧師」と出てきますが、次には、「牧夫」、羊飼いと出てきます。元々はラテン語由来の言葉のようで、そもそも、牧夫、羊飼いを意味する言葉でした。

私たちプロテスタント教会は、専ら御言葉の務めに仕える者のことを牧師、羊飼いと呼びますが、その典拠の一つは、私たちが読み進めているヨハネによる福音書のイエス・キリストの言葉に由来するものです。この福音書の最後、12弟子の一人、シモン・ペトロに向かって、お甦りの主イエスが、「わたしの羊を飼いなさい」と、命じたその言葉を根拠として、教会専任の仕え人のことを、「牧師」、羊飼いと呼ぶようになりました。

羊飼いの務めがどのようなものであるか、私たちがまず参照できるのは、今日、皆さんと共にお聴きしている主イエスの言葉であると思います。ここでは、主イエス・キリストご自身が、ご自分のことを、「わたしは、あなたたちの羊飼い、あなたたちの真の羊飼い、良い羊飼いである」と、自己紹介されているからです。

 

羊飼いとはどのようなものであるか?その良い羊飼いの良さ、真の羊飼いの、真実さがどこに、どこにあるのかを、お語りになりました。既に、11節の頭から、助走も何もなしに、決定的なことを仰っています。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

私は、あなたたちのために命を捨てるんだ。私があなたたちを私の羊、私の羊の群れと呼ぶのは、私はあなたたちのために命を捨てるということなんだ。良い羊飼いとはどういう羊飼いであるのか?主イエス・キリストが私たちの良い羊飼いであるというのは、どういうことであるのか?

全くの助走なしに、もう最初から、いの一番に、そう仰います。

しかし、よく考えてみますと、これはたいへん妙なことを言っていると、言わなければなりません。

リアルな羊飼い、現実の羊飼いは、果たして、このような者でしょうか?時空を隔てた私たちには、羊飼いというものがどういうものか全く身近ではありません。それにも関わらず、常識的に言って、これが異常な言葉であることはわかります。家畜のために命を捨てる覚悟を決めている牧場主というのは、おかしなことではないでしょうか?

 

しかも、この羊飼いは、別の箇所では、群れ全体のためには命を懸けるというのではなく、たった一匹のために、命がけになって、どこまでもどこまでも、追いかけてゆくというのです。迷わずにいる99匹の羊では、落ち着かないのです。たった一匹が、帰って来ないとなると、直ぐに駆け出していき、その一匹が、見つかるまで、夜も昼も探し続ける羊飼いだというのです。

 

さらにこの羊飼いの奇妙さが、際立つのは、直前の10節の言葉によってです。

そこでは、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために他ならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」と言われています。この羊飼い、羊を屠りません。羊を食べません。羊の命を奪いません。羊をご自分の道具といたしません。羊を生活の糧を得る手段といたしません。むしろ、その羊たちが、愛玩動物であるかのように、その命を世話し、自分の子どもであるかのように、羊のために命を捨てると言います。まるで、この羊たちと共にいることそれ自体が、自分の命そのものであるかのようです。

 

ここに紹介されている真の羊飼い、良い羊飼いの姿は、真実の羊飼いの姿であると言われながら、奇妙な羊飼いの姿、異常な羊飼いの姿が描き出されていると、羊飼いを知らない私達でも、すぐにわかるのです。

そして私は正直に申しますが、これが真の羊飼いのモデルであるならば、戦慄いたします。身震いいたします。

この羊飼いは、まるで羊が我が子であるかのように、そのために命を捨てると申しましたが、本当は私たち人間は、我が子のために命を捨てるということでさえ、胸を張って言える者ではないと思うのです。

 

今、わたしは病気療養中の妻に代わって、姉の助けを借りながら、ほとんど家事を担ってもらいながら、3人の子どもたちと過ごしていますが、もう、本当に、イライラしっ放しです。当然、自分の子どものために命を捨てると、心の底から言えますけれど、テレビとゲームの音が同時になり、お茶がテーブルにこぼれたと思ったら、お椀がひっくり返り、みそ汁が床にぶちまけられる。その処理中に、ケンカが勃発し、どちらもが言いつけに来るというような状況が、毎日、毎日続くと、逃げ出したくなります。

 

我々はそういう者に過ぎません。格別に愛すべき者でさえ、愛し抜いているとは、満足には言えません。

かっこいいことを言っても、本当にかっこよくは生きられません。

そのような私たちだから、疲れ果てたり、体を病み、心を病むだけでは足りず、羊のために命を捨てるのが、良い羊飼い、真の羊飼いであると仰る主イエスの言葉に身震いいたします。

けれども、もちろん、これは主イエス・キリストの自己紹介です。

私たちの参照すべき羊飼いの姿だと申しましたが、そうでありながら、私たち人間は即座に、この主のお姿を、私たちの模範として、戒めとして、直接、与えられているわけではないでしょう。

このような羊飼いは、主イエス・キリストだけなのです。

どれくらい前のことかははっきりとは覚えていませんが、一時期、W.W.J.D.というアルファベットの書かれたリストバンドや、洋服、ステッカーが、流行ったことがありました。W.W.J.D.とは、What would Jesus do?の頭文字を取ったもので、「もし、ジーザスだったら、こんな時どうするだろうか?」という意味を表す4文字です。

何かの選択に迫られるとき、意地悪い心、臆病な心、醜い心が湧き上がってくる時、「もし、ジーザスだったら、こんな時どうするだろうか?」と、自分に問いかけ、アクションに移そうという心意気を、刻んだ言葉です。

クリスチャンの間だけでなく、スポーツ用品店や雑貨屋さんでも売られたので、アメリカから来たお洒落アイテムとして、若者の間にそれなりに流行りました。

北陸学院で若い頃、教鞭を執られたトーマス・ヘイスティングス先生は、私の神学校の恩師でもいらっしゃいますが、母国発信で、日本でも流行った、このW.W.J.D.について、こういう批判をされました。

私たち教会が問うべきは、W.W.J.D.じゃない。むしろ、W.D.J.D.だと。その意味は、What did Jesus do?すなわち、「ジーザスが、何をしてくださったか?成し遂げてくださったか?」

羊のために命を捨ててくださったのです。羊を食らおうとする狼の前に、身を乗り出して、羊のために命を捨てる生き方をしてくださったのです。

今日の14節で、このお方が仰います。

わかるだろ?その羊とは、お前のことだ。今日、この言葉を、わたしの声を耳にしたお前のことだ。

わかるだろ?聴こえてるだろ?響いているだろ?

ここに語られているのは、わたしとあなたのことだ。

すなわち、主イエスがこの私にしてくださったことが、ここにあるのです。

教会の中で牧師と呼ばれる人はそれほど多くありません。ほとんどの人は信徒、教会員と呼ばれます。けれども、私たちプロテスタント教会の本来の理解によれば、二種類の人間がいるわけではありません。牧師も含めて、主イエスの羊がいるだけ、「ここに語られているのは、わたしとあなたのことだ」という主イエスの声を聴き、その声に、耳を開かれ、この方に、着いていく羊の群れがあるだけです。

良い羊飼いはこのお方だけ、真の羊飼いは、ただこのお方お一人だけ。

私たちのために、事実、十字架で命を御自分から捨ててくださった、このお方だけが私たちの真の羊飼いです。

良いという言葉、真実という羊飼いへの敬称は、他の誰にも許されず、ただこのお方だけに、ふさわしく、また私たちが捧ぐべきものです。

 

シモン・ペトロに命じられた主イエスの御言葉にもう一度、目を留め直す時、私たちは改めてそのことを心に留めることが許されています。すなわり、このお方は、「あなたの羊を飼いなさい」ではなく、「わたしの羊を飼いなさい」とお命じになったのです。

そして、もう一度、申します。私たちプロテスタント教会には、二種類の人間はおらず、ただ一種類の人間がいるだけです。

「ここに語られているのは、わたしとあなたのことだ。」ということを知っている、主の声を知っいている、主イエスに知られ、また、主の声を知っている、神の独り子と「わたしとあなた」の関係に生き始めている人間がいるだけです。

つまり、これはわたしのことであり、また、皆さんのことであります。

「わたしの羊を飼いなさい。」

わたしは、雇人には任せないのだ。

わたしの羊であるあなたが、わたしの羊を飼いなさい。あなたがたがお互いを飼うのだ。もしかしたら、雇人よりも、ずっと不器用であるかもしれないけれど、わたしの羊であるあなたが、わたしの声を聴いているわたしのものであるあなたが、わたしの羊を飼うのだ。

互いを養いながら、互いに養われながら。

盲目的に牧師に従う者など、ただただ牧師に養われるだけの受け身の者など、いません。誰もがキリストから直接、声を掛けられ、その自分に語りかけられた声によって、互いの魂の配慮をするように、召されているのです。これが、ルターが語った全信徒祭司性の心です。

それでは牧師とは何であるのか?

神が召されたと信じ、教会が立てる模範です。互いに養い、養われる羊である羊飼いの模範です。養うことはどういうことであるかという模範であるだけでなく、養われるということはどういうことであるかという模範です。しかも、この模範とは、いわゆる模範的な模範ではなく、お一人お一人の身に起きていることの例としての模範です。

 

20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトという人は、その職務の本質について、噛み砕いて言えば、このように言います。

この奉仕の本質は、私たちは神さまの前で自己弁護も、自己責任も取れない、弁護者イエス・キリストを必要としている人間であること、また、そのような情けない人間である私が、頭の先から、足の爪の先に至るまで、事実、このお方に、救われ、背負われ、真っ直ぐに起こされ、喜びを与えられて生きているということを感謝していることだと言います。

つまり、全てのキリスト者が、自分のこととして聞き取り、自分のこととして受け取った、主イエス・キリストの福音を、よりはっきり、よりくっきり、自覚し、証しするように立てられている者であること。だから、結局、全てのキリスト者が召されていることの実例として、また、そういう召された者たちの群れを代表として、牧師なのです。

私は私の主イエスとの固有の出会いを、私の固有の声を持って、申します。

私の良い羊飼い、私の真の牧者であるキリストの声を、今日、聴かせて頂きました。

「私はあなたを知っている。私はあなたのために命を捨てる。私は逃げない。狼にあなたを奪わせない。盗人にあなたを盗ませない。そのために十字架に突き進んだのだ。私の意思として、私の力の行使として、父なる神の業として、あなたのために命を捨てた。」

 

そして、私の名を呼びながら、主が仰ったこの声は、お一人お一人の名を今呼びながら、主が語りかけてくださった言葉、これは、皆さんが思い起こすことが許される言葉、「ああ、そうだ。それはこの私に語られた真の飼い主の声だ」と、思い起こすことが許される言葉、そしてまた、今、到来した言葉、「ああ。そうだ。これは、今、仲間の口を通して、生ける神が今、私に語りかけてくださった声だ」と言える言葉です。

この声を聴いたならば、語らずにはおれない。溢れ出さずにはおれなくなります。

「ねえ、聴いてください。狼じゃない真の羊飼いがいるんです。盗人じゃない善い羊飼いがいるんです。わたしとあなたが生きるために、命を注ぎ尽くしてしまう方がいるんです。これから、それが起きるのではなくて、もう、それが起きたのです。ねえ、わたしたちは捨てられないんです。わたしたちは奪われないんです。わたしたちは殺されないんです。滅びないんです。これは、あなたのことです。」

 

お互いの存在から、このような言葉が溢れ出し、聴き合い、語り合う。それによって、いよいよまた、命の言葉が、溢れ出し、聴き合い、語り合う。これが教会です。そして、そのキリストの声を聴き、語り合う群れは、キリストのようになることはできずとも、キリストのしるしが付けられた者として、互いに残酷になりすぎるということは、どうしてもできないのです。

たとえ、それが子どものままごとのようなものであったとしても、そのことを弁えつつ、神と自分と隣人への愛に生き始めるのです。

私たちのために命を捨ててくださった神を愛し、キリストの命の込められた自分と隣人を、神の宝として愛し始めるのです。

しかも、今、目に見える教会の幅は、本当の教会の幅ではありません。

16節、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と、私たちの羊飼いは仰います。

つまり、私たちから溢れ出す命の言葉は、教会の壁の内側に留まったままではありません。

溢れ出してしまいます。

この礼拝の後に、私たちがこの会堂から出て行く時、真の羊飼いの声は、この場所に置いて行かれ、一週間封印されるのではなく、私たちと一緒に、溢れ出て行くのです。生ける神の声、命の声、人を生かす霊の声、この命の声は、この時代を支配する霊、時代の亡霊にとって、危険極まりなく、恐るべきものであります。

20節、時代の霊に捕らわれた者にとって、キリストの命の声は、悪霊の声のようです。

それが、自分たちの霊力を、蝕み、やがて、無力化してしまう命の声だからです。

それはこの世、時代を支配する霊にとって、恐ろしく不都合で、嫌な声なのです。

しかし、どんなレッテルを張り、押し込めようとしても、溢れ出し、到来する命の声、生ける神の声、受肉したキリストの声は、死の力をちらつかせて、我々を脅す者があっても、かき消すことができません。

使徒パウロは、私たちを代表して証ししました。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:38‐39)。

キリストの十字架に現わされた神の愛は無力ではなく、力です。囚われ人を解放する力です。

この力ある愛によって、目が開かれ、耳が開かれ、新しい泉、新しい火となった人間が、あちこちに表れ、飼う者のない羊のようであった人間は、死と悪魔の眠りから人間を起こす、キリストの雄鶏のような声を合唱する一つの群れになり、一人のお方に導かれるのです。

それはもう、今日、その御声を聴いた一人一人において、始まっているのです。

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