週報
説 教 題 主が栄え、私が衰える喜び 大澤正芳牧師
聖書個所 ヨハネによる福音書第3章22節~30節
讃 美 歌 333(54年版)
今日のところは、キリスト教会の真の姿、役割について語っている個所です。
本物の教会とは、今日の個所で描かれる洗礼者ヨハネのような存在です。
洗礼者ヨハネ、既に、この福音書の1:6から登場していた人物です。
主イエスの先触れ、主イエスを指さす者、この指ではなく、その先にある光そのものを見よ。世の罪を取り除く神の小羊を見よと、荒れ野で叫ぶ声です。
ヨハネによる福音書の研究者たちが口をそろえて言うことがあります。
それは、4つの福音書の内で、このヨハネによる福音書が一番、洗礼者ヨハネを重んじている。
重んじているどころか、福音書記者は、洗礼者ヨハネと自分たちを重ね合わせて見ている。
福音書記者の教会にとって、洗礼者は、過ぎ去った過去の存在ではありません。自分たち教会のことを、ヨハネの存在と同一視している。ここに自分たちのあるべき姿を見ている。
教会という言葉を言い換えて、真の教会員たち、真の長老たち、真の牧師たちと具体的に言っても、それほど、外れたことにはならないと思います。
真のキリスト者の姿を、福音書の記者は、洗礼者の口を通して、くっきりと語ります。
「あの方は栄え、私は衰えねばならない。」
もっと直訳風に訳している翻訳では、「彼は大きくなり、私は小さくならなければならない。」ということです。
ここに真の教会の姿勢があります。
自分の名前が高まって行くことを目指す教会は真の教会ではありません。
自分は小さくなり、主イエスのお名前だけが高まってくことを受け入れるのが真の教会です。
しかも、自分が衰え、小さくなって行くことを、主人である神の御心だからと我慢して受け入れるのではありません。何故かそのことを喜んでいるのが、教会であり、キリスト者です。
これは、私たち人間の普通の価値観と真っ向から対立する不思議な人間の姿であるかもしれません。
自分の可能性を開花させること、小さくまとまらず、大きくのびのびとした輪郭の濃い自分となること、そのような自己実現こそ、自由な人間の目標であると語られる現代です。
自己実現できないことは、苦しいこと、苦々しいことです。
けれども、洗礼者ヨハネは違います。キリストを指さしながら、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と、喜びに満たされながら語っています。
これが教会です。奇妙な人間の群れです。奇妙だけれども、不思議な光を放つ群れです。たとえば、自分の能力を最大限開花させなければならない、またたとえば、健康寿命を延ばしてできるだけ衰えないようにしなければならないとする現代の暗黙のプレッシャーを笑い飛ばしてしまうような言葉を語りながら生きている群れです。衰えて行って何が悪い?小さくなって何が悪い?
このような洗礼者ヨハネの不思議に明るい言葉が生まれた、事の次第は次のようなものでした。
その公の生涯を始めるに当たり、ヨハネから洗礼を受けられた主イエスでした。周りの人からは洗礼者ヨハネの弟子であるとみなされていた主イエスが、直ぐに洗礼者ヨハネの集団とは別に洗礼活動を始められた。
しかも、今までヨハネのもとに集まっていたような人たちが、こぞって主イエスからの洗礼を求め、この方に人気が高まった。
そんな時期に、清め、つまり、ヨハネの洗礼と結びついていた罪の悔い改めについての議論を、ヨハネの弟子たちに吹っ掛ける者がいた。
その議論の最中に、おそらく、この洗礼者ヨハネよりも、周りに多くの人を集めるようになった主イエスの洗礼の話題を批判者が持ち出したのでしょう。
洗礼者ヨハネの弟子であったはずの人が、あなたたちの師匠の元を去り、師匠よりも多くの人を集めて、洗礼を授けている。
これは、あのイエスという人が、あなたたちの師匠の洗礼活動の中に、足りないものを見つけたからではないか?
それを凌駕するもの、もっと良いものをイエスという人が持っているから、人々が大勢集まってくるのではないか?
おそらく、そう言いながら、洗礼者ヨハネ集団を批判したのです。
そこで、十分な反論ができず、悔しがった弟子たちが、ヨハネに言ったのです。
「先生、かつてあなたの元にいた、あの人の元に皆行ってしまいます。」
黙っていて良いのですか?放っておいて良いのですか?こっちこそ、洗礼の元祖ではありませんか?と、問うているのです。
ヨハネは、弟子たちに答えました。
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」
自分たちの活動の停滞、終息が見えてきているから、ヨハネの弟子たちは焦って次の手を考えようとしているように見えます。
そして、主イエスの活動を引き合いに出します。かつてあなたの弟子であったような人が今や、人気爆発です。
取り込めないでしょうか?ということであったのか、自分たちの洗礼活動に対する権利を主張し、止めさせましょうかということであったのか、あるいは主イエスの人気から何か学ぶべきところはないかということであったのか、それはよく分かりません。
けれども、洗礼者ヨハネが悟ったことは、自分の使命は果たされたということでした。
洗礼者ヨハネの活動というのは、別に彼が、一角の人間になろうとするものではありませんでした。
彼が悟った新しい人間のあり方、人間の理想像を、世間に広めようというものではありませんでした。
たとえ、それが、新しい仕方で神を拝む、神の拝み方、宗教のあり方という面に限定しても、そういう宗教改革をしようとしたのでもありませんでした。
彼の使命とは、指差すことでした。
世の罪を取り除く神の小羊であるあの方、イエス・キリストを指し示すことだけが、彼の使命でした。
自分は救い主でも、改革者でもなく、たった一本の指であり、荒れ野で叫ぶ声である。
しかも、自分でそうなろうとしたのではありません。キリストを指し示す指になりたい、荒れ野で叫ぶ声になりたいと励み、自己実現したのではありません。
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」
天が与えた使命だったと、告白いたします。
私は今、私の弟子であるあなたがたの報告を聞いて、喜びに満たされている。大いに喜んでいる。
あの方は栄え、私は衰えている。あの方が大きくなり、私は小さくされていく。
私は天から与えられた使命を果たすことができた。ただ恵みにより、その務めを果たすことが許された。
「だから、わたしは喜びに満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」とは、ほんの小さな使命であるかもしれませんが、神の使命を果たし終えることが許された者の、喜びの声であると思います。
そして、洗礼者ヨハネのこの喜びの言葉に、福音書記者は、自分自身の姿を重ね合わせている。教会の姿、キリスト者の姿をこの内に見ていると学者たちは言うのです。
教会の門をくぐる者は誰でもまず、教会の姿を見ることから始めます。教会に集うキリスト者の姿を見ることから始めます。
初めから私たちのことなんか見ないでくださいと言うことはできません。
祭壇もない、像もない。聖書を恭しく拝んでいるわけでもない。
教会とは建物のことではない。
そうであれば、初めて教会に来る人が見ることができるものは私たち集められた人間だけです。
だから、私たち罪人のことなんか見ないでくださいとは言えません。私たちを見るのでなければ、神の像として、神の臨在の証しとして、何も見えるものはありません。
それだから、弟子たちは、「わたしたちを見なさい」(使徒3:4)、「わたしに倣う者になりなさい」(Ⅰコリント4:16)とすら、語るように召されました。
私たちは自分自身のことを振り返っても、教会に連なっているというあの人、この人の姿を通して、そこにただならぬものを感じ、そこに輝きを感じ、教会に行ってみようと、礼拝に集い出したという実体験を持つ人は多いのではないかと思います。
けれども、もしも、教会に集うようになった者の内で、すてきに輝いているように見えたあのキリスト者、この教会員の光だけしか、いつまでたっても見えることがないならば、それは教会にとって不本意なことです。
その信仰者の輝きがかすんで見えてくるキリストの輝き、あるいは、信仰者の輝きとはそのキリストの本物の輝きの、小さな小さな反映でしかないことに気付かされる真の光なるキリストとの出会いが起こらないならば、本当に意味のないことです。
それだから、「わたしは衰え、あの方は栄えねばならない。」というのは、洗礼者ヨハネのみならず、私たちキリスト教会の使命であり、願いであります。
どうぞ、私たちを見てください。けれども、私たちの存在に気付いたら、光が当たっていることに気付いたら、その照らされている私たちの指の先にある、真の光を見てください。
いつまでも、私たちを見ることは止めて、共に光なるキリストを見上げましょう。そのように私たちに倣う者となってください。顔を上げて、一緒にキリストを見ましょう。
この方こそが、私を救い、あなたを救ってくださったお方です。
これが、教会の使命です。自分が大きくなることではありません。
自分の語る言葉に、自分の神に従う姿に関心を持った人の中で、どんどんどんどん重んじられ、一目置かれ、ああ、この人みたいになりたいと、カリスマ的存在となることではありません。
私たちを見てください、神によって変えられた私たちを見てくださいと、大胆に語ることに召されていますが、その人目に晒されている私の全存在は一本の指であり、キリストをまっすぐに指し示すことだけが、その使命です。
私のことを見ないでくださいなどとは言わずに、きっちりとキリストを指し示し、ここを見てくださいとはっきりと見てもらえるように、輝かねばなりません。
私たちは人々を振り向かせる荒野に叫ぶ声にならねばなりませんし、同時に、主の前に衰えねばなりません。
この一つの使命を果たすための二つの「ねばならない」の内に、教会の歩むべき道があります。
そこから、教会の二つの落とし穴が見えてきます。
一つは、自分のことは見ないでくれ、見ないでくれと、引いていくようなあり方です。
いつまでも罪の上にとぐろを巻いて、どうせ自分は罪人だとキリストの赦しに甘えて、自分ではなく、キリストを見てくれと言うような不健康なセンチメンタリズムです。
二つ目は、自分はキリストの恵みによって生まれ変わって新しくなったのだから、この回復された私を見てくれと自己アピールする、怪しい健康食品の愛用者や、自己啓発セミナーの体験者みたいなあり方を目指す落とし穴です。
二つの落とし穴は、お互いに警戒して、お互いの問題が良く見えるようですが、結局は、二つとも、同じ根っこを持っていると思います。
それは結局、どちらのあり方も、私たち自身が、自分に夢中であるということでしかないと思います。
自分が罪を克服したのか、負けてしまうのか、自分の信仰が増したのか、減ったのか、そんなことが、関心の中心になっている内は、教会として、キリスト者として、まるでダメなのです。
教会の教会らしさがかかっている本当の二者択一は、自分たちのことを本質的に罪人と理解するか、正しい者と理解するかなんていうところには少しもかかっていません。
自分の罪とか自分の義とか忘れてしまって、キリストに夢中になる。それが教会です。
教会の教会らしさがかかっている二者択一とは、自分に夢中であるか、主イエスに夢中であるかです。
胸に手を当てて、自分はどちらかの過ちに陥り、教会として、キリスト者としてあるべき道、そうあらねばならない道から、外れていはしないか、振り返ってみると良いのです。
キリストに夢中であるか?それとも、自分自身に夢中であるか?
最初に教会の門をくぐる人の多くが、もしかしたら、期待しているかもしれませんが、聖書は、私たちの生き方、あり方を教えてくれるものではありません。
主イエスがヨハネ5:39で、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」と仰っている通り、キリストを証し、キリストと出会わせるものです。
自分の正しい生き方、自分の神に喜ばれる生き方を、聖書と説教から聴こう、自分のありのままの姿を肯定してくれる慰めの言葉、元気の出る励ましの言葉を聴こうと、自分、自分と、自分中心に読み続ける限りは、いつまでたっても、的外れな読み方しかできません。
聖書が語るのは、イエス・キリストのことです。
もちろん、聖書の中には諺、教訓、戒め、勧めの言葉もあります。けれども、それらはすべて、いよいよ主イエスを報せ、主に注目させるためにのみ読まないならば、読み違えているのです。
けれども、歴史の教会においては、牧師の内にも、信徒の内にも、神学者の内にも、しばしば、そういうキリスト教会らしからぬ聖書の読み方が、混ざり込んできてしまう現実が露わになる時があります。
罪の内にとぐろを巻き続けることもなりませんし、自分の成長に執着することもなりません。
私たちを見なさいと言えねばなりませんし、また、わたしは衰えねばなりません。それが、教会の歩むべき道です。
しかし、この「ねば」と「べき」は、今日の洗礼者ヨハネの言葉において、律法主義の言葉として語られているわけではありません。
私たちが、自分で願い、自分で自己実現しなければならない選択肢ではありません。
この輝ける指である洗礼者ヨハネが語る「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」の「ねばならない」は、人間の「ねばならない」ではありません。
神の「ねばならない」です。
それは、直前の主イエスとニコデモの会話において、主が「あなたがたは新たに生まれねばならない」と仰った時と同じ「ねばならない」です。
これはギリシア語でデイという言葉が使われています。
福音書に登場する主イエスの出来事の鍵言葉の一つで、神様の必然を示す言葉です。
この「ねばならない」という言葉に込められているという神の必然とは神さまの意思として、そのことが必ず実現するという意味です。
これは、主イエスが、3:14で、「モーセが荒れ野で蛇を挙げたように、人の子も上げられねばならない」とお語りになった、神の必然としての十字架の出来事を語る言葉と、同じ種類の「ねばならない」です。
だからある説教者は言います。たとえば、牧師が、この彼は栄え、私は衰えなければならないという言葉を、牧師である自分への戒めの言葉として聴こうとする。
そして、偉そうにしてはならない。教会を牧師の私物化してはならない。自分は主の前に衰えなければならない。自分に死ななければならない。その決意が自分には足りない。そのような裁きの言葉として聴き、牧師に限らず、これを聞いた者は、自分を殺す努力を始めるならば、間違って聴いたのだと言います。
これは自分で決めること、どうこうできることではないのです。
これは、神の必然、栄えること、大きくなること、新しく生まれ変わることと同じように、小さくなること、衰えることもまた、神の業であります。
27節の洗礼者の言葉通りです。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」。
召しの問題、召命の問題です。
神さまが召されるから私たちはこの身を晒して伝道し、神さまが召されるから、私たちは衰えることができるのです。
福音伝道の介添え人である私たちが衰え、小さくされる時、代わって主人公であられる花婿なるキリストが、大きく大きくなっていかれます。
それはキリストがなさることです。この介添え人という言葉、友と訳せる言葉が用いられています。
洗礼者ヨハネは、神の友とされ、用いられたということ、私たち教会も、キリストの友とされているということなのです。私たちは、自分がそのような者として神に用いて頂けたこと、このような貧しき私が、キリストの友と呼ばれ、お役に立てたことを、喜ぶだけです。事実、それは喜びであります。
けれども、また、この神が私たちに下さる満ちあふれる喜び、大いな喜び、喜びに伴う喜び、二重の喜びとも訳せるような言葉が使われています。
花婿キリストが来られ、花婿の友人であり、介添え人である私たちが役目を終え、身を引くとき、そこに二重の喜びがある。
第1の喜び、それは、花婿が、無事花嫁を迎えることができたことを安堵する喜びでありますが、花婿キリストが迎えられた花嫁とは、私たちの伝道によって生み出された教会でありますが、同時にこの花嫁教会とは、私たち自身のことでもあります。
そうであるならば、私たち教会の歩みは、神の力強い召しのゆえに、自分のことなんか忘れてしまってただただ夢中になってキリストにお従いしているだけですが、振り返ってみれば、その神の必然によって導かれる歩みの中で、キリストが私たちを友とし、また花嫁とされる喜びに、いつの間にか与っているということでしょう。
教会とそこに連なるキリスト者たちは、働く時も、その働きを終える時も、神様の赦しと導きの中にあることを信じることが許されている。
教会だけでなく、この世界を、また私たちの隣人を、主なる神さまが支配されていることを信じることが許されている。
そしてその神さまは、私たちと隣人を友とし、花嫁とするために、私たちを巻き込みながら力の限り働いておられる。
この働きに召されている私たちなのですから、喜びに満たされて、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と心の底から、告白できるのです。
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