礼拝

4月11日(日)礼拝

週報

説  教  題  「助け合う教会」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ8章8節から15節まで
讃  美  歌    154(54年版)

 

今日司式者に読んで頂いた聖書箇所は、先週に引き続きまして、貧しいエルサレム教会への援助金を巡る使徒パウロの言葉が記された箇所です。私たちは普段はあまり意識していないかもしれませんが、私たちがこの教会で献げている献金も私たちの教会の伝道活動のためだけではなく、教区、教団を通して、財政の苦しい教会を支えるためにも用いられていますから、無関係な話ではありません。パウロは、この具体的な援助金を巡って、どんな小さな業においてもそれをなす私たちは献身者であるということが、私たちキリスト者の行動の前提にあるのだとマケドニアの諸教会の姿勢にパウロ自身が教えられながら、証ししました。だから、この箇所から、教会内での献金、奉仕への私たちの姿勢を教えられるだけでなくて、私たちの生活の全領域においての、生活の指針を語っている大切な箇所です。

 キリスト者とは、献身者です。自分の時間の一部、自分の財産の一部を神のために献げるわけではありません。それは、献身のしるしです。皆さんの存在と生活の丸ごとが、主なる神様に献げられたものです。

特に私たちプロテスタント教会には万人祭司という言葉があります。つまり、神学校に行こうが行くまいが、皆出家者なのです。皆さん、修道士、修道女なのです。

 さて、お気づきの方も多くいらっしゃると思いますが、8,9節は先週既にお読みした箇所ですが、あえて重ねて読みました。この箇所を聴く上で、決定的な言葉だと思うからです。特に9節の言葉は、際立った言葉です。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」貧しいエルサレム教会への具体的な援助金を集める話をしている最中に、突然、語られる主イエス・キリストの出来事です。施しについて語っています。だから、主イエスの出来事を語る際も、貧しいとか、豊かという言葉を使っています。主題とリンクする経済的な言葉を用いながら、しかし、突然、主イエスによる私たち救いの出来事、福音そのものを語ります。神の独り子として無尽蔵の豊かさを持っていらっしゃる主イエス。けれども、このお方は、天から下り、貧しい人間となってくださいました。家畜小屋の飼い葉桶の中に、小さな赤ん坊としてお生まれください、貧しさの極みを引き受けてくださいました。

 具体的な私たちキリスト者の日常のあり方を巡って話している最中に、使徒パウロは、私たちを救い、新しい者として生きることを得させてくださったこの信仰の根源であるキリストの出来事について語ります。一見、話が飛躍したようにも思えますが、ある意味、ここで福音の中心を語り始めるのは、当然のことであるかもしれません。なぜならば、ここで、隣人と共に生きていくための、日常生活についての具体的な勧めを聴いているのは、この福音の出来事を自分のこととして神より聞かせて頂いた洗礼を受けたキリスト者たちだからです。しかも、私たちは生まれながらにキリスト者であったわけではありません。たとえ、小児洗礼を受けた者であっても、地縁血縁関係とは別の所で始まった、イエス・キリストにおける神の言葉の出来事によってだけ始まり、養われていく新しい命だからです。つまり、福音によって、新しく生まれた者は、また福音によって新しく養われる必要があるということです。今までもよく知っていたようなことも、もう一度、福音の元で、新しく知り直す必要があります。それは、理屈でなくて、私たちの実感としても、わかることではないでしょうか。

 

 考えてみれば、洗礼を受けてキリスト者と呼ばれるようになった後も、しばしば私たちのとっさの判断や、日常的な事柄に関わる判断には、思いがけず、古いままの自分が顔を覗かせることがあります。簡単には反省できないほどに、そのことに気づけない程に、沁みついていしまっている思考パターンや、行動パターンが、顔を覗かせることがあります。キリスト者個人としても、信仰共同体である教会としても、これまで身に着けたこの世の常識を信仰的判断と取り違えることがあります。らしくないことをしてしまうのです。そのような混同しやすい事柄の大きな一つとして、お金の使い方も数えられるでしょう。お金にまつわることは、今まで自分の経験によって培われてきた常識的判断というものが何よりも幅を利かせやすい事柄だと思います。

 しかし、このように言っても、洗礼前の私たちの判断が、常に罪深く神さまに喜ばれない判断だと言うわけではありません。主イエスには、不正な管理人の抜け目のないやり口をおほめになり、その賢さに感嘆するおおらかさがありました。ルカによる福音書第16章に記された、道徳的にも決してほめられたようなものではない不正な管理人の抜け目なささえ、感嘆してくださる主イエスであるならば、私たちが、誠実であろうと身に着けてきた洗礼前のお金の常識をもまるでわかってないと頭ごなしに否定されるわけではないでしょう。事実、何も自分のためだけに使うことが、それまでのお金に関する私たちの常識であったというのではないのです。洗礼を受ける前だって、私たちは人のためにお金を使うことを習ってきました。小さな頃から、困っている人は助けなさいと、基本的には教わってきました。だから自分の生活のためばかりではなくて、隣人のためにお金を使うということも、私たちは身に着けているということができると思います。

 けれども、だからと言って、共に隣人のために生きようとしている全ての善意の人々と、私たちが、寸分違わぬ思いに生きているかと言えばそうではないと思います。キリスト者のものと、そうでないものと、どちらが優れているかとか、より価値があるかとかいう、価値判断を全く抜きにした上で、キリスト者はキリスト者独特の思いで愛の業に生きているのだと思います。 

 もちろん、愛の業と言っても、大それたことばかりではありません。愛の業と呼ぶことすら気が引けるような、小さな貧しい親切にも、籠らずにはおれないキリスト者独特の思いというものは、必ずあると思います。その思いが何であるか、その独特な思いがどこからやってくるかと言えば、やはり、中心である福音から湧き出てくるものだと思います。

 私たちは、中心である主イエスの十字架と復活の出来事に結び合わされて、古い自分に死んで、新しく生まれた者として神さまに見られている者なのです。新しく生まれたというのは、今まで罪と死の支配の中に置かれていた私たちの存在が、キリストによって神の者として買い取られた。私たちのこの身も魂も、神の支配に移ったということです。その意味では、私たちはどう生きようが、どんな無茶苦茶な生き方をしようが、私たちの歩みは神の者としての歩み以外ではありません。けれども、そんなことで神さまに恥をかかせるわけにはいきません。新しく生まれた者は、新しい歩みを志します。存在丸ごと神のものとされた者として、わたしたちも献身の思いに行きたいと願うようになります。

 そして、その聖霊のくださる福音信仰は、同時に、聖霊のくださる献身の思いに至ります。この思いが与えられているということこそ、私たちが新しくされている証拠です。

 けれども、自分は丸ごと神のものだという献身の思いを持つ者が、心のままにやることなすこと、神の思いに自由に生きられるようになったということではありません。むしろ、献身の思いを与えられたものは、自分が新しく生まれた者として、新しく生きたいと願い、今は、謙虚に神の幼子として、福音によって、養われ直そうとするのです。どんなにわかりきっていると思われる慣れ親しんだ業、良い意図をもって行ってきた慈善の業であっても、福音に基づいて、もう一度見直そうとするでしょう。

 それだから、具体的な出来事、常識に弁えていると思っている日常的な事柄に関して、自発的な申し出であっても、もう一度、パウロが福音の真ん中から考え始めることは、当然なのです。キリスト者として、献身者として、新しく生まれ、やり直し、生活の隅々に至るまで、福音に根差す者でありたいと願うことは、至極当然のことであり、必要なことだからです。

 けれども、ありがちなことだと思いますが、あらゆることを本質的、根本的な事柄によって図り、整えて行こうとする時には、たいてい、あそびがなくなりがちです。既に、わたしの話を聞きながら、燃え立つ思いになっている方も、窮屈な居心地の悪さを感じる方も、これしかないというキリスト者の生活の姿ということが、あるのではないかとお考えになっているのではないかと思います。しかし、窮屈な思いを感じている方に共感するようですが、洗礼を受けた者が、みんな、出家者であり、献身者であることは、身が引き締まり、また心が燃え立ってくることでもありますが、福音と言えども、何もかも原理原則に従って生活の隅々までをふさわしいものとして整えて行こうとする情熱と、主イエスが厳しく批判された律法主義とは、どう違うのか?という問いも自然に生まれてまいります。人間生活を導く具体的な指針が、何もかも聖書に記されていると考えるキリスト教原理派の聖書主義に陥らずとも、福音に基づく生活を作ろうとする全てのキリスト者の共通した願いは、狭いものになる危険から完全に自由ではないと思います。これはキリストの福音が単なる知識ではなく、生きた生活になることを願い求める至極真っ当で、好ましい願いを持つときにこそ、思いがけず陥りがちなジレンマであると思います。

 そんな時、妥協なき福音の原理原則主義者であるに違いない使徒パウロの今日の言葉に、冷静に、落ち着いて耳を傾けることは、有益だと思います。すなわち、貧しい兄弟姉妹への援助金という具体的日常的な事柄を話している真ん中で、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」とこれ以外にはない福音を語ります。エルサレム教会への援助金を集める行為が、キリスト者らしいものとなるためです。しかし、そのパウロが、キリスト者の具体的な行為の源となるように語った、9節の本質的な言葉の前後で、「わたしは命令としてこう言っているのではありません。」と言い、また、「この件についてわたしの意見を述べておきます」という留保を付けるのです。福音に関しては妥協なきパウロです。異なる福音理解を色々な理解があって良いという風には許さない使徒です。また、それだけでなく、そのキリストの福音は、福音に捕えられた者の具体的な生き方を必ず変革してしまうということをも、福音の一部として語り続けてきたパウロです。けれども、実際に福音に生きる献身者たちが、どういう実を結ぶのかということに関しては、これ以外にはないという語り方は致しません。代わりに、使徒自身が、福音に生かされる者としてこうあろうと思わされていることを、命令としてではなくて、自分の意見として述べます。

 何でこういう控えめな言い方になるのかなあと思います。色々な理由が考えられるだろうと思います。明らかに一つには、キリスト者の結ぶ実は、聖霊の結ぶ実であって、強制されるようなものではないとパウロが理解していたからでしょう。また、そのこととも、重なり合うことですが、今日与えられた個所から考えるならば、主の教会を、信じているからだろうと思います。

 そもそも貧しい兄弟姉妹への援助金という発想は、マケドニア地方の教会にしろ、コリント教会にしろ、先週の4節、今日の10節に目を向ければ、教会が自発的に願い出たことなのです。自分たちがやりたいと言い始めたことです。その熱い思い、その志は、神の御心に沿ったものであると先週読んだ5節に語られています。パウロは、エルサレム教会を支えたいという、諸教会に生じたその熱い思いと志は、教会の真の主人であり、導き手であられる神様が、彼らに与えてくださった志であると信じたのです。それがパウロが教会を信じる理由です。彼らの志の中に、神のお働きを見ているのです。その兄弟姉妹への熱心な愛は、神の混じりけのない愛が実を結んだものであると信じるのです。

 私たちも、もっともっと教会を信じていいと、教えられる思いがします。終末前の地上にある神の民の群れは、欠けだらけです。ある神学者は、コリント教会のことを、特に素晴らしい人々ではなく、「変な人びと」である(バルト『教義学要綱』)と言いました。しかし、この染みと皺に満ちた変な人々が、聖霊によって選び出された神の教会だと言いました。神を信じるけれども、教会は罪人の集まりだから信じる対象にならないと私たちはいつでも言いたくなりますが、使徒信条は、はっきりと「教会を信ず」と教会を信じることを告白することを求めます。目に見えない教会と共に、具体的に目に見える教会が、信ずべき教会です。しかし、教会を信じるとは、人間を信じるということではなくて、もちろん、新約の時代から現代に至るまで、この私たち欠けだらけの人間を神があえて選び、集め、教会として、御業のために用いられる、その神の決意を信じるということです。だから、あそびがあっていいのです。幅があっていいのです。多少ずれても、多少間違えても、進んで行う献身の思いがあれば、神さまがそれをお引き受けになり、最善の実を結んでくださるのです。

 そのような志を神さまに与えられ、自分たちの具体的な施しの業を始めたし、続けていきたいと願っているコリント教会に対して、神と、教会の喜びの協力者として立てられている使徒のなすべきことは、全てを新しく見直すように神の幼子たちを養ってくれる主の福音を何度でも語り直すことです。それからまた、11節、12節で語るように、「今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」と、彼ら自身の志を神がお与えになったものだと認め、それをやり遂げなさいと励ますことです。

 私たちは、本来ならばこうあるべきだというキリスト者の理想像というものを心に思い描くことがあります。それに比べれば、今の自分の志と生き方は、大したものではないと思うかもしれません。しかし、自分の空想の中の手の届かない善き業ではなく、今、持っているものに応じて、つまり、神に召されたままの貧しいままの自分を差し出すだけでよいのです。ずっこけている自分のずっこけている業を献げて良いのです。

 さて、ここまで「キリスト者は」と強調して語ってまいりましたが、洗礼を受けた者だけに語っているわけではありません。なぜならば、キリストの福音は、誰に対してもいつでもたった一つの同じ福音だからです。ありのままの人間として神が受け止め、また、差し出すことを喜ばれるとの神の呼びかけの声が語られているのは、全ての人間です。「ありのままのずっこけたままの、あなたでいいんだ。そのあなたをわたしは買い取り、わたしのものにするんだ。」と、キリストにおける神さまは、ここにいる一人一人に例外なく語ってくださっているのです。

 もう、あまり長いお話しする時間はなくなってきましたが、13節以降も、じっくり時間をかけて、聴くべきところだと思います。しかし、今日は残念ですが、手短に触れます。そこに書かれていることは大変常識的なことのようにも見えます。今持っている教会が、持っていない教会を支えることによって、将来、立場が逆転した時に、支えてもらえるという持ちつ持たれつの、教会の互助関係を語っているように見えます。それも、決して悪いことだとは言い切れないことです。

 しかし、その支えあい、お互いさまの精神を破るようにして、15節の言葉が語られます。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と。出エジプト記のマナの物語です。奴隷にされていたエジプトの土地から脱出した後、定住することなく荒野を40年旅することになった神の民、狩猟も畑も満足にはできない流浪の民の命を支えたのは、神が与えてくださったマナと呼ばれる天来のパンでした。

 教会が神より教わる施しとは、働きの良い者が、溢れ出すものによって、乏しい者の面倒を見るというのではありません。何よりもまず、施しに差し出すあなたの力も、宝も、神の賜物ではないかということです。あなた方の労苦によって得たと思っているものも、あなたに注がれた神よりのマナであり、あなたが兄弟に差し出す助けも、神がその兄弟に注いでくださったマナではないかということです。

 しかも、それだけではありません。それは一方通行の関係ではなくて、やがて釣り合いが取れるのだというのですから、互いが互いへのマナとして、神によって備えられているというのです。互いが互いへと備えられた神のマナであるという時、それは、今日の個所で問題となっているような経済的な支え合いのことに限定すべきではないと思います。というのも、ユダヤ人社会の中にあって、村八分のような状況にあるエルサレム教会が、豊かな商業都市にあるコリント教会を経済的に支えるなどということは、歴史においてついに起こらなかったからです。

 しかし、それでは、釣り合いが取れなかったということになるのでしょうか?そんなことではないと思います。ここでははっきりと語られてはいませんが、旧約で語られていた神のマナとは、新約においては、命のパンと呼ばれるキリストご自身に他ならないということは忘れることができません。そして主の十字架とご復活、その後の昇天後の聖霊降臨以来、教会がキリストの体と呼ばれるのです。このようにして、教会がキリストの体と呼ばれるとき、神は教会のその全存在を用いて、神の言葉なるキリストを指し、キリストが、教会を通して、人間と共にいてくださる神として、今、世にあることを告げてくださるのです。

 しかも、キリストを指し示す教会とは、一つ一つの教会が、それぞれにキリストの体であるというだけではなくて、むしろ、東と西、北と南、天と地にあるすべての教会が、一つキリストの体として、そのキリストの体の欠くべからざる部分部分を担うようにされているのです。そうであるならば、キリストを指し示す神のマナ、お互いにとっての命のパンではない兄弟などいないのです。たとえ、献げものも、奉仕も何もできない、祈ることすらできない病床にある者であっても、その者は、ただそこに存在するだけで、私たちに神の臨在を告げるキリストの体の一部です。キリストの命が込められた人間として、キリストの命を、その存在丸ごとをもって、私たちに指し示す、私たちを生かす神のマナです。

 私たちはそのようなキリスト者、キリストのものとして、信仰の兄弟のために、あるいは世のために、キリストの臨在を担うものとされている自分を丸ごと差し出す献身の献げもの以外は知りませんし、できません。力に溢れた壮年の頃だけでなく、力を手放していく老年においても、献身に生きます。そのように神に生かされ、また自分でも生きることを志す者として、私たちの時々に神と隣人に献げる力と宝も、溢れた分を施すことではなくて、貧しい自分を丸ごと神とその業に献げている献身のしるし以外ではないのです。 

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。