礼拝

3月6日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  証しの性質①反照 大澤正芳牧師

聖書個所  ヨハネによる福音書第1章6節~18節②

讃  美  歌    225(54年版)

ヨハネによる福音書の独特な書き出しは、それが賛美歌が元になっているからだと、前々回に、お話しいたしました。

 

この福音書の著者が、歌を歌うこと、それも神様を賛美する歌を歌うことから、どうしても始めなければならないと思ったというのは、心打たれることではないでしょうか?

 

歌わずにはいられない、ほめたたえずにはいられない、そういう神様との出会いが与えられ、その神様の御前で、イエス・キリストの福音を語り出そうとすると、その証の言葉は、人間だけを相手にするものではなくなってしまうのだと思います。

 

それは世に向かっての伝道の言葉、また教会に集う者たちを整えるための訓練の言葉でありながら、私たちの信仰教育と伝道の言葉というものは、同時に、神様に向けての、神さまにお聞かせする賛美の言葉になるのだと、このヨハネの冒頭から教えられる思いがいたします。

 

そこで一つ思い出すのが、キリスト教会の神学の礎を据えたアウグスティヌスという古代教父の著作、有名な『告白』という本の文体です。罪深い自分に与えられた神の恵みを人々に向かって教育的かつ伝道的に証しするこの書も、同じように、その全体は神様への懺悔になったり、感謝になったり、賛美になったりしているのです。

 

不思議なことですが、神の恵みを証ししよう、無に等しい自分たちを生かしているキリストの福音を語り聴かせようとする言葉は、レトリックでも何でもなく、意図せずに賛美となって行くものだろうと思います。

 

そのことをヨハネによる福音書の冒頭もまた、その身をもってはっきりと教えてくれていると思うのです。

 

これから語られ、証されるのは、神の御心の物語、光の物語、神の子の物語、人となられてキリストの物語、しかも、私たちのために、私たちを暗闇の力から贖い出すキリストの勝利の物語。さあ、喜び歌おう。

 

しかし、神の子による連戦連勝のただ明るいだけの物語ではありません。決して光を理解することのない暗闇が登場する物語でもあることも最初から語られています。

 

この書は、捕らわれたご自分の民を、解放するために来られた世のための光、御子イエス・キリストに味方することができなかった私たち人間の罪の有様を語る物語でもあります。

 

「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と。

 

けれども、それにも関わらず、始まりを支配する雰囲気は賛美です。

 

私達被造世界を奪い合う、命の御子と、滅びの闇の戦いは、御子の勝利に終わるのです。御子が、世界の主となられるのです。

 

福音書の全篇に渡って、暗闇は光を理解せず、民は、世に来られた自分の主人を受け入れることをしなかったということが、明らかにされて行くにもかかわらず、私たち被造物は造り主の御手の内に完全に取り戻されるというのが、この書の証しする良き知らせです。

 

それゆえ賛美です。この福音書はその初めから、この賛美の中に、私たちを招き入れようとするのです。賛美から始めて良い、お祝いから始めて良い。

 

深刻な課題を抱えて、教会に集った方があるでしょう。悩みを心に秘めながら、この礼拝に出席されている方があるでしょう。

 

聖書は確かに、私たちの悩みを知っています。私たちが知る以上に、深く知っています。私たちが深刻に悩む以上に、私たちは、深刻な問題を抱えていることを知っています。

 

けれども、それらは二の次、三の次のものです。

 

洗礼を受けている者も、まだ洗礼を受けていない者も、教会員も、まだそうでない者も、自分たちを取り巻く、暗闇の深刻さ、自分自身の罪の深刻さを解決しようと、神の言葉を聴き始める必要はありません。

 

暗闇は光に打ち勝たなかったからです。言は肉となって、わたしたちの間に宿られたからです。それはもう、ヨハネによる福音書が書き始められる前に起きたことです。その起きたことを、証言するために、福音書は書かれたのです。

 

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けたのです。恵みと真理がイエス・キリストを通して現れたのです。

 

そして、この地上で成就したイエス・キリストの恵みの出来事こそ、この世界、この宇宙に対する造り主なる神様の最終的なご意志と、私たち教会は、信じ、証しいたします。

 

だから、まずは、賛美しましょう。まずは、感謝しましょう。まずは、喜びましょう。まずは、お祝いしましょう。

 

教会とはそういうところです。礼拝とはそういう場所です。

 

何はともあれ、何はさておき、ここでは、お祝いを初めて良いのです。

 

御子の十字架による救いをお祝いするところだから、どんちゃん騒ぎとは違います。金メダルを取ったような祝いとは違います。私たちの罪のために御苦しみを引き受けた十字架の御子によって命を与えられたことを祝う祝いですから、もっと深く厳粛なお祝いです。

 

けれども、深い深い喜びです。胸がいっぱいになる喜びです。躍り上がるような、しかし、その場に立ち尽くしてしまうような、歌い出したいような、しかし、言葉にならないような、深い深い喜びです。その深い喜びに押し出され、深い祝いを、今、ここで誰もが始めて良いのです。

 

暗闇は光に打ち勝たなかったからです。言は肉となって、わたしたちの間に宿られたからです。

 

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けたからです。恵みと真理がイエス・キリストを通して現れたからです。

 

これはこの世界で起きたこと、私たちのために起きたことです。そう、ヨハネによる福音書はその冒頭で、証し始め、賛美し始めたのです。

 

このような福音の証しを伴う賛美のど真ん中に、突然洗礼者ヨハネが登場するというのが、6節以降の記述です。

 

ヨハネの冒頭は当時の讃美歌に、福音書記者自身の言葉が足されたものだとお話してきました。しかし、どこからどこまでが、賛美歌の原型であるか、簡単には見極められません。

 

けれども、少なくとも、6節で突然登場する洗礼者ヨハネの記述は、福音書記者による付け足しであるということは、多くの人が指摘するところです。

 

これは私たちが素朴に読んでみても、分かるようなところがあります。6‐8節は、前後の雰囲気とはちょっと違う。また、15節も、少し雰囲気が異なるように感じられます。

 

はっきり言って、これらの文章がなくとも、話は通じます。むしろ、ない方が前後の繋がりは、すっきりするくらいです。

 

だから、ある学者は、15節の洗礼者ヨハネの言葉を指して、「14節と16節のつながりを破っている」ものだと言います。

 

いわば、美しく完成された讃美歌の間に差しはさまれた合いの手、しかも、その完成された美しさをある意味では破ってしまうような、ちょっと不格好な合いの手です。

 

6‐8節も同じです。これらが付け足しだとしたら、あまりうまい付け足しではありません。そこにある流れを中断してしまうから、日本語で読んでも、これが、付け足しであることは容易に想像できてしまうのです。もしも、付け足したいとしても、ここには入れない方がいい。むしろ、18節の後に出てくるならば、19節へとゆるやかに繋がって行く、散文なのです。

 

けれども、その同じ学者は、この言葉の流れを破ってしまう特に15節の洗礼者ヨハネの言葉を評して、「沈黙していられないほど熱い思いをもった洗礼者の証言」と言います。面白い説明だと思いました。

 

何はともあれ賛美から始まる、礼拝が始まってしまう教会の歌う賛美歌に合わせて、「わたしも、わたしも」と身を乗り出して証しし出すような言葉だということでしょう。

 

ちょっと想像してみると本当に面白い。

 

皆で賛美している途中に一人の人がぱっと手を挙げて、「私にもキリストを証しさせてください」と、証しを始めてしまうのです。あるいは、アフリカ系アメリカ人教会で説教の途中で、「アーメン、ハレルヤ、牧師よもっと語ってくれ」という合いの手が入りますが、それが、どんどん興じてしまって、自分でも、講壇に上がって、語りだすようなイメージでしょうか。

 

しかも、必ずしも、前後の流れに100パーセントフィットするものではありません。もちろん、この証がここでなされる必然性はないとは言えません。そうぜざるを得なかったのです。しかし、それにしても、流れを破ってしまうところがある言葉です。

 

もちろん、これは、一人の福音書記者、あるいは、この福音書を編集する立場にあった人が、あえて、入れ込んだ言葉です。

 

イエス・キリストの福音を証ししようと賛美から書き始めた使徒ヨハネの横から割り込んで、私も証ししたいと、実際に洗礼者ヨハネが、唐突に書き足した言葉ではありません。

 

一人の人が責任を持って書いたもの、付け足した言葉です。けれども、その一人の人の福音を証しする言葉の中に、もう既に、幾人もの人の証の声が重ねられていくのです。

 

それを想像してみると、やっぱり、お祝いらしいかもしれないと思います。神の恵みを寿ぐ言葉が、溢れ出すのです。礼拝はお祝いの場です。ここはパーティー会場です。

 

それぞれの言葉は、必ずしもぴったりと一致するわけではない、それぞれに個性的な声が重ねられていくのです。これも、教会らしいことだと思います。

 

美しい流れとしては、綻びてしまうところが生まれてしまうかもしれなくても、「沈黙していられないほど熱い思い」が、私たち信仰者一人一人に与えられているのです。

 

皆で声を合わせて語り、一人でも語る。詩文でも語り、散文でも語る。そうして、イエス・キリストの福音を寿ぐ。これが、私たち教会です。

 

ヨハネによる福音書のこの不思議な冒頭部の存在は、そしてそこから浮かび上がるヨハネの教会の姿、またそこから思い出される私たち今の教会の姿は、実は、もうそれだけで、暗闇の力に対する受肉のキリストの勝利を、実際に見えるものとしていると思います。

 

ヨハネが、自分の主人を忘れてしまっていた人間、暗闇と共に、御子を理解することのできない者となってしまっていた人間が、その自分たち人間の罪深さ、情けなさを告白しながら、今ここで御子を信じているのです。今そこで御子を礼拝し、御子を賛美しているのです。

 

人間の罪と、それよりも強い御子の勝利を語る福音を語ろうと、その口を開いたとたんに、賛美を歌いだし、しかも、一人ならず、もう一人別の証人が現れて、「わたしも、わたしも」と身を乗り出すようにして証しを重ねて行くのです。

 

そのようなことが始まっているのです。賛美なしには、イエス・キリストの福音が語れない。

 

これこそ、回復された人間です。幸福を感じて生きているとか、道徳的に生きることができるとか、そういうことは二の次、三の次であり、神を賛美する人間、神を礼拝する人間、神の最終的、決定的なご意志であるイエス・キリストの福音を、拙くとも自分の口で、自分らしく、自分の声で、なぞって語る人間、人間の群れ、これが回復された人間、新しく造られた人間、教会の群れです。

 

神の言葉に従って誰かを愛せた、赦せた、生まれ変わったように、人が変わったように、愛に生きることができたという時、新しい人間になれたというのではありません。そうでないから自分は生まれ変わっていないなどとは、思う必要はありません。

 

私たちは、今ここで、イエス・キリストを拝んでいる、賛美している、使徒信条を告白することができる。そこに、既に、まごうことなく100パーセント、生まれ変わった人間がいるのです。

 

不器用でも、不格好でも、不作法でも、粗野なままの、疑い深いままの、落ち込みやすいままの、不安なままの、誤解しやすいままの、意地悪なままの、人付き合いが苦手なままの、熱しやすく冷めやすいままの、人間として円満でなく、灰汁だらけのままの自分が、キリストを拝んでいる、賛美している、告白している、そこには、死んで生き返った人間、キリストの十字架に造り直された人間がいるのです。

 

不器用でも、不作法でも、そうなのです。いいえ、本当のことを言えば、神の恵みに打たれ、賛美している者にとっては、自分が生まれ変わった人間であるかどうかなんて、究極気になりません。自分のことなど忘れてしまって、イエス・キリストに集中しているのです。

 

洗礼者ヨハネの姿が描かれていることで有名な、イーゼンハイムの祭壇画という絵があります。

 

グリューネバルトという人の描いた絵です。

 

十字架にお架かりになるイエス・キリストの脇に立ち、左手で聖書を開きながら、右手で、十字架のキリストを指さしている洗礼者ヨハネの姿です。

 

よく言われることですが、キリストを指さすそのヨハネの人差し指は、からだ全体のバランスからすると、長すぎるのです。

 

キリストを指す指に成り切って、キリストを指すことに集中した指がヨハネの存在なのだと、後の人は、このイーゼンハイムの祭壇画を見ながら、思い巡らしました。我々教会はこの指だと。

 

それは、今日の7節以下の言葉とも重なります。

 

「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」自分ではなく、キリストです。

 

仏教の言葉に「指月の譬え」、「月を指す指のたとえ」という言葉があるそうです。

 

月を指している指を見てもしょうがない。指す方向を向き、月を見なさいという譬えです。

 

その譬えから、お経そのものにこだわっても仕方がない。その言葉尻であれこれ悩んでも仕方がない。揚げ足取っても仕方ない。お経が指し示そうとしている真理そのものに目を向けなければ意味がないという教えだそうです。

 

これは、イーゼンハイムの祭壇画のヨハネの「指」に通じる話だと思いました。指そのものでが救いなのではなく、指が指し示すキリストが救いなのです。良い譬えを教わったと思いました。

 

けれども、仏教の場合は、門外漢なので知りませんが、私たちの場合は、そこから、なお、こうも言えるのではないかと思い巡らしています。

 

私たちにとって、月であるキリストを指し示す指は、聖書の言葉だけではありません。神さまを礼拝している私たちのその姿が、キリストを指し示す指として用いられている。むしろ、聖書そのものではなく、聖書を語る教会の言葉こそが、キリストを指し示すのです。

 

実は、月を指す指どころではありません。教会はキリストの体とさえ言われるのです。教会と出会う時、私たちはキリストと出会うと約束されているのです。

 

聖書だけではありません。聖書を語る教会が指です。こんな指を見たら、こんな指に注目されたら、イエスさまの株が下がってしまうのではないかと思われる、私たちが神を賛美し、礼拝する姿が指として用いられる。いいえ、私たち教会に出会う時、キリストと出会うとさえ約束されているのです。

 

不格好で、不器用で、バランスの取れていない所を持った私たちの礼拝が、キリストを指し示す指として用いられる。それどころか、この地上にあるキリストの体とさえ言われるのです。

 

しかも、それは、イエスさまがその手ずから福音書をお書きにならなかったための次善の策ではありません。イエス・キリストそのお方と、出会えないための妥協策ではありません。

 

ご自分の福音の伝達のためには、私たちなどは本当は必要としない神が、あえて、私たちを選ばれる。宣教という愚かな手段を通して、この世と出会おうとされる神さまなのです。

 

神は、そのためにこの地にある見える教会を造られました。私たちは見えるのです。私たちの礼拝は隠れていないのです。公同の礼拝です。

 

神がこの礼拝共同体、証共同体である教会をキリストの体と呼ばれるのは、私たちの礼拝と、証の言葉を通して、必ずキリストと出会うことができるのだと、神がお定めになったからです。

 

どういうことなのか?14節です。「言は、肉となって、わたしたちの間に宿られた。」キリストがここに、この礼拝する私たちの間に、いらっしゃるのです。

 

私たちの言葉は不器用で、不格好です。コロナ過における私たちの礼拝は、それこそ、不格好なものです。けれども、その私たち教会の言葉が、福音をなぞる不器用な私たちの言葉が、私たちの礼拝が、生ける神の言葉として、用いられるのです。私たちの間に、今、ここにいらっしゃるキリストを指し示すために用いられるのです。それは、深く私たちの間にキリストがおられるということです。牧師の説教だけではなく、私たちの教会の礼拝全体が、キリストの臨在の中にあります。

 

キリストの出来事とは、キリスト単体を指し示すことではないのだと悟らされます。キリストだけのキリストはおられない。御子はいつも、私たち込みでご自分を現わされる。私たち人間の救い主、私たちと共におられる方としてだけ、ご自分を現してくださるのだということです。

 

人間と共におられる御子であることを、御子は、神はお示しになるために、教会を用いてくださる。

 

実に、第Ⅰコリント14:24以下に、私たちの福音を証しし、神を賛美する、私たちの言葉による礼拝の姿に触れた時、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神はあなたがたの内におられます」との、告白が生まれると語られる通りです。私たちの不器用な礼拝の内に、今、ここに生けるキリストがいらっしゃいます。それをこのありのままの私たちの全身全霊を持って、証ししましょう。

 

アウグスティヌスは、『告白』を執筆する理由を次のような神の促しとして記します。

 

「行って、その告白を人々にも告げよ。おまえと同じ罪人、弱き人、迷える人たちに、けっして絶望しないように、勇気をふるいおこすように、主に期待するように、そしていつか、おまえが今しているごとくに、私のもとにかけより、告白し、感謝するように。そして、ただおまえだけでなく、すべての人々が、声をあわせて私を讃美するように、行って、人々にむかって、汝の告白を人々に語れ。」

 

先週の水曜日から受難節が始まりました。主の御苦しみを覚える季節です。この時こそ、深く思い起こし、忘れないようにしたいと思います。

 

この主の御苦しみのゆえに、私たちは、自分たちの弱さを抱えたままで、キリストの体であることが許されています。キリストの深いへりくだりのゆえに、私たちとの深い連帯のゆえに、私たちの貧しい礼拝は、神に受け入れられます。

 

コロナ過の下にある教会も、戦禍の中にある教会も、今日は、これまでのような礼拝を十分に捧げることができないかもしれません。私たち人間の目から見ても、足りない礼拝を捧げざるを得ないかもしれません。

 

けれども、イエス・キリストの父なる神は、欠け多き者をご自分のために好んで選ばれるお方です。それが、神の憐みです。どんなに欠けが多くとも、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という、神の憐みだけが、神の御臨在がここにあることを確かなこととしてくださいます。

 

御子は肉となって、世に来られました。私たちの間に宿られました。私たちは、祝いへと召されました。神は私たちの礼拝を待ち望んでおられます。そのために私たちの心に、沈黙していられない熱い思いをお与えになられます。私たちの賛美と礼拝と証しを止めることができる力は、この世のなにものにも与えられていないのです。

 

 

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