礼拝

10月8日(日)主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書17章1節~5節

説教題 今ここに永遠の命

讃美歌 120,142,518,29

今日は、金沢元町教会創立137周年を記念する礼拝、また、教会135年誌を刊行したことを記念する特別な礼拝です。既に、お気づきのように、会堂の塔の十字架が立ち、足場も撤去され、この記念の日を迎えることができました。元の形に戻ったと言っても、実は、少し違っているところがあることも、多くの方がご承知のことと思います。

私たちの教会堂の塔の上に立てられた十字架はもともとは黒だったのです。破損し撤去された十字架は、既に真っ黒ではなく、ペンキも剝げ、ネズミ色になっていましたが、金沢元町教会に立っていた十字架はもともと黒だったのです。先日、交換講壇でいらっしゃった七尾教会の釜土達夫先生がここで、その話をされましたので、新しい方も、話にはお聴きになっているだろうと思います。

私が7年前に金沢に赴任して、最初に出た牧師会でも釜土先生からその話を聴かされました。釜土先生は、その黒い十字架に感銘を受けていらっしゃっていましたが、私もまた、このことを深い思いで受け止めていました。

その話を初めて聞いたとき、私は、改革者マルティン・ルターの紋章を思い起こしました。ルターの紋章とネットで検索すれば、直ぐに出てきますので、御覧になったことのない方は、ぜひ、調べてみてくださると良いと思います。「ルターの薔薇」と呼ばれる紋章です。それは、青い背景の中に白いバラの花があり、その花の真ん中に赤いハート、心臓があり、また、さらにそのハートの真ん中に真っ黒な十字架が描かれている。これがルターの紋章です。正直に申し上げて、カラーリングとして、あまり美しくない紋章だと思います。真ん中の黒い十字架がやはり、異様に映るのです。自分の紋章に黒い十字架を使うという発想は、一体どこから出てくるのかと、訝しみます。

しかし、ある人は、このハートの真ん中にある黒い十字架こそ、私達の信仰そのものであると言います。あのイエス・キリストの十字架にこそ、私たちの真っ黒な罪が、磔にされていると言いました。私たちの罪の一切を引き受けているイエス・キリストの十字架、その十字架のゆえに私たちのハート、私たちの心臓は、脈打つことができる。

十字架とハートの組み合わせは、何もルターの専売特許ではなく、たとえば、日本史の教科書に載っているフランシスコ・ザビエルの絵を思い出して頂くと、ザビエルが右手に持つハートの上に、主の十字架が立っている。そういう絵を見ることができます。

けれども、ハートと十字架が一体となってしまっている。これはルターの紋章の特徴だと、ある学者は言います。このことについて特にそれ以上の説明はありませんでしたが、私はプロテスタントらしいことかもしれないと思いました。

私たちの命と主イエスの十字架は全く一体となってしまっている。私たちが生きているということの中に、主イエスの十字架が分かちがたく結びついている。しかも、その十字架は黒いのです。黒いままのなのです。それは過去のものではなく現在のものだからです。

今この時も、この私の罪を、引き受け切ってくださる十字架、今、この時も、私の心臓を動かしてくれる私たちの命なのです。この現在進行形の十字架の主イエスとの堅い堅い一体の結びつきのゆえに、私たちは恥ずべき罪人でありながら、同時に、染みも皺もない完全なる神の子として生きるのです。それゆえ、私は、元町教会のもう灰色にくすんでしまっていた十字架をたいへん気に入っておりました。長老会でも、黒い十字架でもいいのでは?と主張しておりましたが、長老会では、白が良いと決まり、少し残念な思いもありました。

しかし、先週、スーパーからの帰り道、足場のすっかり取り払われた会堂を見て思いました。日の光に照らされて白く輝く十字架もまた良いものである。白い白い十字架です。正直に申し上げて、あまりにも白いので、教会堂の外壁が、こんなにも汚れていたのかと、コントラストが際立ってしまっています。改めて、いよいよ外壁を塗り直す時が来ていることを、意識させます。それなりに大きな規模の修繕になりますから、長老会は専門家を交えて丁寧に議論を進めており、今、しばらく、形になるまでは時間がかかりますが、これは、もう何年も先伸ばしにはしない方が良いことです。

しかし、なお、しばらく、日に輝く真っ白な十字架と、くすんだ色になっている会堂全体の対比を、目の当たりにし続けることになります。けれども、私は、そのコントラストを見ながらこそ、思い巡らしています。これもまた、教会らしいことであると思います。自分ではなく、主の十字架、十字架の主に輝いて頂くことを喜ぶのが、私たちではないかと思うのです。

殿町教会、彦三教会、元町教会と、137年間、私たちは少しづつ移動しながらも、この金沢の地に、主の十字架を一所懸命に掲げ続けてきました。

殿町時代を知る教会員もこの中にはいらっしゃいます。真宗王国と呼ばれ、伝道困難地の一つとして数えられてきたこの金沢の地で、風雪に耐えるようにして、十字架を掲げてきました。力と知恵と宝と時間を主に捧げ、文字通りの献身に生きた137年間の教会員たちによって、十字架を掲げ続けてきました。何度も何度も大きな危機を耐え忍んで来ました。

最早これまでと、母教会である金沢教会との合併の総会決議を覆して、もう一度献身して、この教会を存続させようと一人の長老の呼びかけにより、この教会は持ち堪えたことがありました。

大きな戦争を経験しました。牧師が兵隊にとられました。戦争中は、礼拝出席者が最大5名、平均、1~2名という年度がありました。その後も様々な試練がありました。とりわけ、私たちがこの三年間耐え忍ばなければならなかったコロナパンデミック下での教会の歩みは、戦時下に次ぐ、危機の時代であったと、やがて教会の歴史に記録されることになると思います。

既に135年誌の巻頭言にも書きました。このコロナ危機における教会の舵取りを私が議長を務めた長老会は、ベストな歩みを作れたのか、少なくとも、ベターな歩みを作れたのか?それは、歴史の検証を待たなければなりません。けれども、やがて書かれる150年史、200年史の総括に、「当時の牧師と長老会の無知と浅慮のゆえに、間違った判断を行ったと言わざるを得ないが、主の憐みにより、教会の灯火は守られた」と記されるならば、それで満足なのです。私たちの失敗や、過ちや、罪を越えて、神の憐みが輝くならば、その神の輝きを、私たちが掲げることができたならば、これ以上の喜びはありません。それがキリスト者というものであり、キリスト教会というものです。

137年間の歩みによって、私たちは現会堂のように、風雪のゆえに、くすみ、くたびれたところがあるかもしれません。この教会の歴史と共なる、一人の人間の歴史においても、苦労を重ね、老い、病み、衰え、若かりし頃の、はつらつさを懐かしんでいる方があると思います。新品の会堂と、若かった自分ではなくなりました。けれども、十字架が輝き続けているならば、まずはそれで良いのです。なぜならば、そのような者たちの為にもいよいよ十字架は輝くからです。この十字架は、私たちのハートのど真ん中に、黒い十字架として、あり続けてくださるからです。

私たちの元に来て、私たちの命のど真ん中に、自分の居場所を定め、どんなに時を重ねても、そこから離れず、世の終わりまで、あなたがたと共にいると約束されたキリストの十字架、十字架のキリストが私たちの弱さと汚れを一身に集め、一身に引き受けてくださいます。そして、私たちよりももっともっと汚れてくださる、衰えてくださる、呪われてくださる。

イザヤ書53:1以下の有名な言葉の通りです。

「わたしたちの聴いたことを、誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことであろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。

見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、私たちは癒された。

・・・彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。

わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら背負った。」

思わず、長く引用しました。

ここに私たちのための十字架の漆黒の黒さがあります。また、ここに、私たちにとっての十字架の輝きの白さがあります。

キリストの福音というのは本当に不思議な知らせです。またその福音が生み出した教会、キリスト者というのは、本当に不思議な人間たちです。呪いの象徴である十字架を建物のてっぺんに掲げ、十字架で処刑された呪われた人を、私の主人、私の救い主と呼ぶのです。冷静に言って、常識的に言って、十字架を掲げることは、伝道の妨げであり、愚かなことです。

けれども、私たち教会は十字架を掲げる以外に能はありません。なぜって、その十字架が、私の目には、私たちの目には、輝いてしまって、輝いてしまって仕方がないからです。時を重ね、身も心も衰え、歳を重ねたからこそ、後悔が募り、罪が積もり、風雪に汚れ、くすみ、しかし、そこでこそ、十字架が力を発揮するのです。いよいよ、この貧しい者を引き受けてくださるのです。私たちの深いところで、ハートの中心で、この命のど真ん中で、私たちの弱さを一身に引き受けてくださるのです。それだから、いよいよ輝ける神の愛として、私たちは心から、この身と魂を挙げて、私たちのてっぺんにこの十字架を、掲げずにはおれません。

主イエス・キリストの父なる神様は、このお方の支配の下に、私たちがこのように服従することをお喜びになられます。言い換えるならば、主イエス・キリストの父なる神様は、私たちの献身を喜ばれるお方です。

しかし、それは、私たちの内の最も良いもの、私たちの若い時の最高の力をもって、服従すること、お役に立つことを求めるお方だということではありません。このお方は、私たちの完全な献身を求めておられるのであり、私たちの力を求めておられるのではありません。この世の支配者は私たちの力を役立たせるためにこそ、私たちに献身を要求し、その力を搾り取ったならば、搾りかすとなった私たちのことは必要としないでしょう。けれども、イエス・キリストの父なる神様が、お求めになる献身は、言葉そのものの意味における献身です。あなたの力を献げよとは求められず、あなた自身を献げよと仰います。十分にお役に立つようには成長し切っていない、未熟な私たちそのものをあるがままにお求めになるのです。また、力を出し切り、力を献げ切って空となったような私たちそのものをあるがままにお求めになるのです。歯車が狂い、ボタンを掛け違い、働き盛りのその時に、なぜだか一歩も歩けなくなってしまっている私たちそのものをあるがままにそのままにお求めになるのです。誰も除外されるものはありません。どの者にも完全な服従と、完全な献身をお求めになります。なんのためか?この私たちに何をさせようとされているのか?この献身の招きは、御父と御子の交わりの中に迎え入れるための招きです。

今日お聴きした主イエスの祈りの言葉の3節、「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と主イエスが祈り願われる、永遠の命の中に、御父と御子を知ることへと招くために、献身を求めらておられるのです。神がわたしたちに献身を求めるのは、私を知ってほしい。私の独り子であるイエス・キリストを知ってほしいとお望みになっているからです。

もちろん、「知る」というのは単なる知識のことではありません。

聖書に書かれていることは全て真実である、神もおられると、私たちが認めるようになるということではありません。

ここで主イエスが御父と共に願っておられる「知る」ということは、少し先の11節と、また21節で語られています「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人をひとつにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」という関係の中に、私たちが入れられることを意味します。

ここで主が仰る「知る」とは、愛を知る、友情を知る、それから、アダムはその妻エヴァを知ったと言われる時の、知識を越えた出会い、全人的な経験となる出会い、交わりのことです。御父と御子を知ることが、なぜ、永遠の命を頂くことになるのかということが、これで、よくお分かりになるだろうと思います。なぜならば、御父と御子を知るとは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人をひとつにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」ということ。

すなわち、親友以上の親友となる、家族以上の家族となる、自分以上に、私のことを愛し、重んじ、生かすことを願われる主イエスを、御父を、私の主、私の父、私と一体の主として、共に生きることだからです。

だから完全なる服従です。完全な献身です。

なぜなら、完全な献身をもって、この御父と御子が、私たちにその身を向け、御父と、御子の関係の内に、私達を招かれているからです。

実は、教会の告白する三位一体、この御父と御子の一体のみならず、聖霊もまた一体であるとする告白とは、まさにここで主イエスが仰るように、私たち人間が、その聖霊の助けにより、この御父と御子の一体の交わりに迎え入れられるための前提です。御父と御子の一体の内に、私たちを結びつけるために、神から送られ、私たちの元に来られ、私たちの内に留まる神の霊が、聖霊です。

だから、少し大胆な言い方をすれば、御父と御子と、そして聖霊における三者の一体を主イエスがお語りになっているのです。驚くべきことに、父、子、聖霊の三位一体とは、父、子、聖霊の助けによる私たちの三位一体なのです。そのための十字架です。そのためのイエス・キリストの御苦しみです。

若い子育て世代の人たちのための「聖書のほとりで休む会」というオンラインの集会を、月に一度のペースを目指して細々と続けています。そこでも短く聖書を読み、思い巡らします。今月の集会で、一人の参加者が仰いました。「このようなイエスさまの十字架に実を結ぶ神さまの愛を思うと言葉が出ない。言葉がなくなってしまう。」本当にそうだと私も思います。もったいないことです。ありがたいことです。こんな私のために申し訳ないことだと思います。これでは一体全体、神さまに何の得があろうかと思います。

けれども、御父と御子のこの愛の業は、仕方なしにでも、いやいやでもありませんでした。今日の主イエスの祈りの御言葉の中に、十字架に対する御父と御子の思いが、余すところなく、語られています。1節の御言葉です。

「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光をお与えください。』」

神さまがその栄光を現される時が来た。御子もまたそれによって父なる神の栄光を表すその時が来た。その時こそ、5節によれば、御父御自身が、御子自身が、待ち望んでいたその時なのです。世界の造られる前から、御子が御父のもとで、一緒になって温め続けていた待望の「遂にその時」なのです。

もう、お分かりでしょうか?その時とは、十字架のその時のことです。天の父なる神様と、子なる神キリストは、世界をお造りになる前から、十字架のその時を待ち望んでおられたのです。もちろん、十字架そのものを待ち望んでいたのではありません。

その御子の十字架が、御父と、御子の一体の内に、この私達を招き入れ、二度と、そこからわたしたちが出て行かないようになるその時であったのです。その時こそ、ありがたく、もったいなく、申し訳ないことでありますが、神ご自身の喜びが、成就するその時なのです。

主なる神さまはわたしたちに完全なる服従をお求めになります。全き献身をお求めになります。私たち人間は神のものに成り切らなければなりません。けれども、これは未完の要求であるというよりも、現にここにある事実であり、律法であるよりも、福音です。まだ何者であるとも言えない未熟な私も、働き盛りに破れたて立ち止まっている私も、花盛りを過ぎて枯れようとする私も、そのあるがままの私がそのままで、御子の十字架によって買い取られた当の私です。神の聖なる三位一体の交わりの奥深くへと迎え入れられている私です。奥深くに守られ、今、ここで永遠の命に生かされている私たちなのです。そのために立った十字架です。そのために立ち続けている十字架です。

この胸の内に、このハートのど真ん中で、いよいよ力を発揮し、私たちの弱さと汚れの一切を引き受ける十字架のキリストです。これからもこの十字架を、私たちは教会のてっぺんに掲げ、その輝きを、仰ぎます。この身と魂の丸ごとで、私の内で私のために、またこの世界のために、この世界の只中で、輝きを放つ神の力、神の愛の十字架として、告白し、掲げます。どんなに未熟でも、どんなに破れていても、どんなに老いていても、私たちは、生涯、喜び歌います。

三位一体の主なる神さまは、ちょうど、掃除され、破れを繕われ、補修され戻って来たこの古いオルガンのように、父と子と聖霊の交わりの奥深くへと迎え入れられているこの私たちにも、そこで神の息が吹き入れられ、手当てされ、繕われ、神の元気を吹き入れられ、新しい賛美の歌を歌い始めさせてくださるのです。

神の命の息を吸い、その吸った息を讃美として、証しの言葉として神にお返しする、永遠の命の循環を今日もここで、今ここで、繰り返している私たちの丸ごとを、改めて、御前に献げさせて頂きます。

祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。