礼拝

8月23日礼拝

説  教  題  「使徒と天才の違い」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙二1章1節
讃  美  歌    225(54年版)

三週間の長いお休みを頂きまして、この説教壇に帰ってきました。

 長い休暇の前には、マタイによる福音書の長い説き明かしをとうとう終えまして、今日から気持ちも新たに、コリントの信徒への手紙Ⅱを、この礼拝で、これから毎週聞いていくことになります。

 この書を読んでいくというのは、基本的には私の発案ですが、数か月前の長老会で、元町教会で今後説くべき聖書の書物のいくつかの候補を出した上で、長老の意見をお聞きし、決定しました。教会の説教というものは、牧師の個人のものではないと思うからです。

 もちろん、一つ一つの説教の言葉に責任を負っているのは説教者ですが、教会員の皆さんもまた私達夫婦をこの教会の説教者として立てたという意味において、ここで語られる説教に責任を負います。

 それだから、コリントの信徒への手紙Ⅱが、この場所でこれから説かれていくというのは、個人の思惑を超えて、私たち金沢元町教会が、長老会の決断として、今、自分たちが聴くべき言葉、そしてまた、今、自分たちが語るべき言葉として、教会として選んだ言葉だと言えるのです。

 良い箇所を一緒に選んでくださったと思います。こういうパウロの手紙を聞こうと、この教会が一緒に決断してくれたことを、私は心強く思います。

 実は、このような状況というのは、パウロがこの手紙を書き送ったコリント教会とはだいぶ異なります。この手紙において、パウロとコリント教会の関係は難しいものとなっています。

 コリントの信徒への手紙Ⅱというのは、なかなか厄介な手紙です。たいへん読みにくい手紙です。その一つの理由は、支離滅裂に感じるほど、パウロの論述が飛躍しているように思えるからです。また感情の起伏が、やけに激しいように思われるからです。

 たとえば、支離滅裂という点に関しては、2:12から、伝道旅行の日程をパウロが振り返っていたかと思うと、直ぐに14節で、神への感謝から始め、次いで自分の使徒としての自己弁明を始めます。そうかと思うと、しばらくして、7:14から、旅行日程の続きを思い出したように語り始めます。

 感情の激しい起伏という点に関しては、1:7で、「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」と、コリント教会への深い信頼を表明する一方で、第10章では、「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが」とか、「あなたがたは、うわべのことだけ見ています」とか、かなり厳しい調子で、教会に語りかけています。

 ある人は、コリントの信徒への手紙Ⅱのパウロは、教会との間に生じた葛藤の深さのゆえに、論理的な人というパウロの一般的なイメージとは違う混乱したパウロの姿を呈していると言いますが、これにはさらに次のような理由も絡んでいます。

 今の聖書学において、ほとんど常識的な見解になっていますが、このコリントの信徒への手紙Ⅱは、パウロが、コリントの信徒への手紙Ⅰを書き送った後に、さらに、書き送った複数の手紙や、その断片の寄せ集めだと考えられています。

 しかも、時間的順序正しく並んでいるわけでもありません。伝道旅行の日程の中に突然、自己弁明の記述が入り込んでくるように、一つの手紙の中に、別の手紙の要素が紛れ込んでいる箇所すらあります。

 だから、これを一つの手紙として、読もうとするとき、辻褄が合わなくなってくる箇所が出て来るのです。

 たとえば、岩波訳と呼ばれる聖書では、これを一度分解して、手紙毎に再構成し、書かれたと思われる順番に置き直すという試みがなされています。それを読みますと、パウロの言葉の激しさに変わりはありませんが、かなりすっきりと話の筋を追うことができます。

 しかし、今回、私たちはそういう読み方をしません。1:1から始めて、最後まで順番に読み通します。基本的には、一回一回の説教は意味の通じるまとまりを選び、読んでいく完結したものになりますから、それほど、前後関係は問題にならないと思います。また、この手紙が、複数の手紙の寄せ集めだとしても、送り主と、宛先は、同じパウロと、コリント教会であり、そこには手紙を送り続けなければならなかった一貫した主題があるのです。その主題とは、パウロの正統性ということです。

**

 パウロは、この手紙で、自分が神に立てられた使徒、神の使者であることを、一生懸命に弁明しているのです。

 疑われていたからです。コリントに初めて福音を語り、当地の教会設立に尽力したパウロの、神の使者としての正統性を疑う思いが、コリント教会の中に沸き上がったからです。

 これは、既に、最初の手紙でも問題とされ始めていたことです。Ⅰコリント3:6にある「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」という有名な言葉の背後に、パウロに対するコリント教会の不信が透けて見えています。

 「パウロはいったい何者か?彼は、イエス様につき従った12弟子の一人ではないではないか?主の御兄弟のヤコブのような血縁関係もないではないか?パウロはいったい何者か?」

 そういう疑問が湧き起こった時、第Ⅰコリント書を読んで知ることのできるパウロの答えは、一貫していました。

 「そうだ。その通りだ。私なんて一体何者か?知恵もない。アポロのように弁舌爽やかではない。無力な者だ。無に等しい者だ。あなたたちもよく知っているように、あなたたちの間で働いていたときは、衰弱していて、恐れに取りつかれていて、ひどく不安がっていた。知恵の言葉とは言えない愚かな言葉で福音を伝えた。だからこそ、あなたがたを立てたのは私ではなく、神だ。私なんて何でもないんだ。使徒の中で最も小さい者。使徒と呼ばれる値打ちもない者だ。愚かで無力な私は、神以外誇るものはないんだ。」

 これが、パウロの答えでした。そして、このパウロの答えは、私たちがマタイによる福音書で聞いてきた福音と、同じ種類の言葉ではないでしょうか?イエス・キリストにおいて私たちに出会ってくださる神は、心の貧しい者、悲しんでいる者、正しさがなくからからに飢え渇いてしまっている者を祝福してくださるお方だからです。

 私たちは個人としても、群れとしても吹けば飛ぶような存在です。世の中の大きなうねりの中で翻弄されれば、いつ消えてもおかしくなくい者達です。しかし、その無きに等しい者を敢えて選ばれ、注がれる神の愛に私たちの心は震えるのです。

 ところが、このパウロの答えが、コリントの教会の人々の心を直ぐに打つことはありませんでした。むしろ、いよいよパウロを軽んじる傾向を生み出したようです。

 「いつまでたっても弱いまま、いつまでたっても無力なまま、暗い十字架一辺倒、神の恵みに頼ることしかできない。パウロは、聖霊の自由を知らないのかね?解放の喜びを知らないのかね?初心者レベルを超えた、次のレベルの信仰を知らないのかね?彼自身、『自分は使徒と呼ばれる値打ちもない』と言ってるじゃないか?現に、自分の手で働いて生活している、素人説教者だ。」

 だいたいこういう風に言われてしまったんです。教会と、説教者の関係として、かなりしんどい状況だと思います。

 今、金沢元町教会は、説教者と教会員の間が、このような不幸な状況にはありません。少し、臆病な言い方かもしれませんが、そんな状況でないからこそ、コリントの信徒への手紙Ⅱを取り上げることができたとも言えます。

 けれども、コリント教会と私たちの置かれている状況とは違うということは、この手紙が、そこまで胸に迫って来ないで、落ち着いて客観的に冷静に読めるということでもないと思います。

 そうではなくて、むしろ、パウロが取り組まなければならなかった不信の中にないからこそ、パウロの弁明をただの言い訳、言い逃れではなく、その自己弁明がいかに、福音そのものに関わることであるかということが真っ直ぐにわかると思います。むしろ、自己防衛なしにのめりこんで聞くことができると思います。

 既に、先月の牧師室だよりでも少し触れました。マタイによる福音書を読んで、そこで、もう一度、「キリスト者の無力と強さ」を聴き直した私たちなのです。

 その福音に生かされる教会である信仰者が、実際にどういう者として、生きていくのか?いや、生かされていくのか?今度は、「わたしに倣う者になりなさい」と言い得たパウロの手紙から、学んでいくことができるのです。

 パウロの使徒としての正統性を聞いていくからと言って、牧師だけではありません。長老だけではありません。教会に連なるすべての者に関わることです。

 いや、キリスト者だけではありません。神が私たちと共に生きることをお選びになったこの世界で、私たち人間が本当に人間らしく生きていくための姿を、ここでも新しく知り直すように招かれているのです。

***

 今日は、最初の説教ですから、概説的なことをここまで多く語りましたが、今申し上げた福音に生かされる新しい人間の像、今や全ての人間の像として、私たちの目の前に差し出されているのは、「使徒」という言葉であります。

 使徒、すなわち、任務を帯びた者、遣わされている者、メッセンジャー、これが新しい人間の姿です。

 使徒とは狭い意味、教会の正式な言葉遣いでは、主イエスの選ばれた12使徒のこと、また、パウロや、その仲間たちのことです。厳密には、その他、使徒と呼ばれる者はいません。

 しかし、「遣わされた者」という元の意味での使徒は、12使徒やパウロに限らない。洗礼を受けたすべてのキリスト者がそのような者とも言えます。しかも、前回説いた主イエスの最後の言葉、「すべての民をわたしの弟子としなさい」という大宣教命令と呼ばれる言葉に聞けば、この世に生きる人間の誰一人例外なく、そのような者として招かれているとも言えるのです。

 私たち教会に連なる者こそ、「使徒」というのは、後にも先にもいないほんの少数の特別な人々のことを指すと思っています。

 けれども、今日の説教題の元ネタである「天才と使徒との相違について」という文章を書いたキルケゴールという昔のキリスト者の言葉に従えば、天才となるためには生まれながらの素質を必要とする一方で、「人間はだれでも本質的には等しく使徒になれる」と言われます。

 驚くべき言葉です。私たちは、使徒というのは、ありきたりの天才ではなくて、人類の歴史上でも稀有な天才、それこそ、キリスト教を世界宗教にする礎となったと評されるパウロにこそふさわしい名称だと思っているかもしれません。

 コリント教会の人はどうあれ、今の私たちは、パウロを信仰の天才ではなかったかと考えがちです。使徒と呼ばれる者は天才中の天才かと考えます。

 しかし、キルケゴールは、パウロを天才と見做すのは、パウロにとって、たいへん迷惑なことだと言います。もしも、ある牧師が、パウロは天才だとか、才気溢れるなどと語るならば、それはその牧師が無知で、思慮に欠けているからだとさえ言うのです。

 もちろん、キルケゴールは先鋭化して言っているのであって、パウロは人と比べて、優れた所があるのです。誇れるものがある。しかし、それでは、パウロを理解したことにはまったくならないというのは本当だと思います。

 使徒、すなわち遣わされた者であるということの一番大切な部分、それ以外のことは文字通り、枝葉のことに過ぎない、それどころか塵芥にすぎない決定的なことは、使徒とは神に選ばれ、遣わされた者だということです。

 ある人が使徒であるのは、神さまが選び、その人を遣わしたということ以外には、理由がないのです。

 極端に言えば、その人が、ならず者だろうが、性悪だろうが、罪人だろうが、いつでも話が支離滅裂な世界一の愚か者であろうが、神が選び、遣わされるのならば、その人は、100パーセント正真正銘の使徒なのです。

 たとえば、その極端な例は、旧約士師記のサムソンの姿に見出されるかもしれません。そんなに前のことではありませんが、夕べの祈祷会で士師記を読んだ時に、サムソンという人のならず者そのものの言動に、出席者は皆、閉口いたしました。そのあまりの傍若無人な姿に、これが聖書に出て来る登場人物かと思われるほどです。しかし、そのサムソンが神の遣わされた人間として描かれているのです。神の不可解で自由な選びのゆえに、サムソンの性格や、性質がどのような者であったとしても、神に遣わされている人間なのです。

 それは、この極端なサムソンに限りません。特殊なやり方というよりも、聖書の神のいつものやり方なのです。

 大預言者イザヤも、はじめは、自分のような人間が神の使いになるなどとは、夢にも思っていませんでした。神の御前に連れ出された時、ただ自分の罪の大きさに恐れおののき、セラフィムが持ってきた炭火でその唇を焼かれ、清められ、ようやく神の選びに応じ、遣わされる者になったのです。

 最大の預言者であると言えるモーセも同様です。モーセも選ばれ神の御前に置かれた時、「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と言わざるを得ませんでした。それに対して主なる神様は、「一体、誰が人間に口を与えたのか。」と、モーセを無理やりに遣わすのです。遣わされるとはそういうことです。

 預言者エレミヤもまた、神の言葉を語るよう遣わさるために神に選ばれた時、動揺し、怖気づき、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と言いました。神は、そのエレミヤに対し、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。」と送り出すのです。

 どの人も皆、自分はそれにふさわしくないと言いました。自分は無力であると言いました。

 しかし、それこそが、遣わされるということなのです。遣わされる者は、自分で立つのではありません。今日の短い1:1にこうあります。「神の御心によって使徒とされたパウロと、兄弟テモテから」と。

 ここにパウロの全てがあります。人間を使徒とするもの、遣わされた者とするのは、その人の天才ではなくて、ただ神の御心、神さまの御意思だけであります。

 だからこそ、パウロは、コリント教会に宛てた最初の手紙で言っていたのです。

 「私は無力な者だ。無に等しい者だ。あなたたちもよく知っているように、知恵の言葉とは言えない愚かな言葉で宣教したんだ。だから、あなたがたを立てたのは私ではなく、神だ。私なんて何でもないんだ。使徒の中で最も小さい者。使徒と呼ばれる値打ちもない者だ。愚かで無力な私は、神以外誇るものはないんだ。」

 これが使徒です。これが神に遣わされた者として生きるということです。

 もしも、これ以外の仕方で、パウロが人前に立ったり、これ以外の仕方で、パウロが人々に対して、自分はキリスト者であり、神の使者であると、ふるまうならば、パウロは遣わされた者ではなくなってしまいます。

 いくらそれは神が下さった賜物だと嘯いたとしても、天才になってしまったのであり、そのような使徒は使徒ではなく、天才になってしまったのであり、遂に古びてしまって、遂に世と同化して、消えてなくなってしまうのです。

****

 このような使徒を使徒にしている神の側の一方的な選びと召しは、もう一度申しますが、使徒だけに特別なものではありません。およそ神に招かれ、洗礼を受け、キリスト者になるということそのもの、教会が教会であることそのものであります。

 ここで、パウロがコリント教会に贈った最初の手紙の1:26以下の言葉に耳を傾けるのは、意味のあることだと思います。

 パウロはコリントの教会員に向かって申しました。

 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

 もちろん、このようにして、神に選ばれ、神に遣わされる無に等しい者は、その神に託された言葉と一つになって行ってしまうでしょう。

 キリストの十字架のゆえに、これからは罪より離れ、悔い改め、神と隣人のために生きよとの神の言葉を託されたならば、どうしたって、そちらに方向づけられるでしょう。私たちが何者でもない、ただ神の働きが通りゆく空洞の管であったとしても、神の力はその管を神色に染めずにはおれないでしょう。

 けれども、私たちをキリスト者とし、神に遣わされた者としているのは、どこまで行っても、神の選びであり、神の召しです。幹から切り離された枝は、一時どんなに瑞々しく見えたとしても、もはや、命を失っているのです。

 しかし、だからこそ、反対に、神の選びと召しは、どんな不器用な者も、どんなめんどくさい者も、どんなわからず屋も、どんな破綻者も、神から遣わされた者として生かすことが出来るのです。

 洗礼を受けた私たちには、それ以外の生き方はない。いや、本当は、イエス・キリストの出来事以来、それ以外の生き方ができる人間はいない。みんなみんな、そういう者として、破綻した者でありながら、キリストの弟子として、神に召された者として生きるように招かれているのです。

 以前にもお話したことがありますが、ある牧師は、我々は破れ提灯で良いと言いました。

 綻び、破れた提灯です。けれども、その隙間から、破れからこそ、私たちをガシッと捕えてくださっている神の情熱、神の熱い熱い情熱の炎が、よく見えるのです。

 それだから、私たちは、自分の弱さ、欠け、貧しさ、病、老いていくこと、死んでいくこと、それら全ての中にあって、この神の者として、その弱さの中にあって、欠けの中にあって、破れの中にあって、ますます鮮明に、神さまを、この私の全存在を挙げて証しすることができるのです。

 そしてそれは個人だけではなく、教会共同体においても、より美しく整った部分ではなく、この群れの破れ、この群れの抱える貧しさを通してこそ、神がご自分の輝きを、より一層輝かせてくださるのだと信じることが許されているのです。

 それだから大胆にこの群れとこの私たちを、世の浮き沈みと共に、同じように浮き沈みを繰り返すこの貧しい私たちと教会を神よりの贈り物として、この世に差し出すことができるのです。

 

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。