礼拝

3月13日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  証しの性質②断片 大澤正芳牧師

聖書個所  ヨハネによる福音書第1章19節~28節②

讃  美  歌    262(54年版)

今日、私たちが耳にしました聖書箇所は、先週の箇所から少し先に進みましたが、しかし、今日も先週に引き続き、洗礼者ヨハネの存在を通して聴こえてくる福音の響きに、私たちは耳を傾けて行きたいと思います。

 

どの福音書も共通して語ることですが、主イエス・キリストがその公の生涯を始められる直前に活動していたヨハネです。このヨハネの活動は、主イエス・キリストの先ぶれであったと、全キリスト教会が一致して、証言するヨハネです。

 

それぞれの福音書は、それぞれ独特の始め方をしていますが、主イエス・キリストが、その宣教を開始される直前に、この洗礼者ヨハネの活動があったと語る点で一致しています。主イエスの宣教は、ヨハネの宣教と、結び合っているものと、公同の教会は、受け止めたのです。

 

このヨハネの活動の印象深い所は、どこにあったのか?彼が、ヨルダン川で洗礼を授けていたということです。しかも、生まれながらに神の民であるとの誇りに生きていたユダヤ人たちを洗礼へと招いていたことです。

 

洗礼という行為は、キリスト教会から始まったものではなく、洗礼者ヨハネから始まったものでもなく、それ以前から、イスラエルの信仰の中にあったものです。

 

洗礼は、ユダヤ人以外の異邦人が、イスラエルの神様に従う、主なる神さまの者として生きて行くと改宗を決断した時、授けられたものでした。

 

ところが、ヨハネの特徴的な点は、異邦人の改宗のために授けられたこの洗礼を、ユダヤ人こそが、受けなければならないとしたところです。

 

本日お読みした聖書箇所に記されたヨハネの言葉によれば、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」からです。

 

神から遣わされた最後の預言者としてヨハネは語ります。

 

「イスラエルよ、私たちは神の民であるか?神はあなたがたにとって親しい方であるか?けれども、あなたがたにとって、イエス・キリストは見知らぬ方ではないか?」

 

その民の中に、その民のそば近くに、親しくいてくださるのに、知られることのないお方とは、自分の民のところに来たのに、受け入れてもらうことのできなかった神の言、イエス・キリストのことです。

 

それゆえ、ヨハネは、ユダヤ人にこそ、洗礼を授けました。全く見知らぬお方のようにして、神さまとの関係をもう一度最初からやり直さなければならないのです。もう一度造り直されなければならないのです。

 

このような洗礼者ヨハネの活動は、エルサレムのユダヤ人たちとまとめられている長老会、祭司たち、レビ人と呼ばれる祭司階級の一族の問いを引き起こしました。

 

「あなたは、どなたですか。」

 

これは少々お上品な翻訳です。「お前は誰だ?」と詰問しているのです。

 

神の民を、神の民ではないかのように取り扱うお前は誰だ?信仰者たちを、未信者のように取り扱うお前は誰だ?私たちの仲間を、毒蛇扱いするお前は誰だ?と、当時の、ユダヤ人たちの宗教と生活の最高権威が詰問しているのです。

 

ヨハネはこの問いかけに、答えました。

 

「わたしはメシアではない。」

 

こんな大それたことをしているけれども、ヨハネは救い主ではありません。そう公言します。

 

ヨハネは大変なことを行っている。ユダヤ人数千年のアイデンティティーを崩すようなことをしている。自分たちの民族の誇り、慰めを、覆すようなことをしている。イスラエルの神の名において。主なる神の名において。

 

神の名においてそれを行うならば、答えなければなりません。答えることが当然期待されます。

 

「お前がやっていることが、今この私たちに向かっての生ける神の御意志であると言うならば、当然、お前は、聖書に預言されている神の預言者だろう?聖書のどこに、お前のことが書いてあるんだ?」

 

ヨハネは、自分は、待ち望まれているメシア、救い主ではないと公言します。それどころか、メシアの前に現れると信じられた預言者エリヤでもない。

 

また、申命記18:18に預言された、神がやがてお立てになると約束されたモーセのような預言者でもないと公言しました。

 

誰でもない、何者でもない、注目に値する人間ではない、一角の者ではないと、ヨハネは答え続けるのです。

 

それならば、このヨハネの大それた実践は、何者でもない者の悪ふざけなのか?悪ふざけではありません。神よりのものです。自分のことを何者でもないと考えるヨハネが、しかし、この一点を譲ることはありません。

 

彼は神に突き動かされています。神の火が自分の内側で燃えていて、どうしても語らずにはおられない、神の言葉に捕えられた本物の使者です。ヨハネ自身もそのことに一片の疑いも持ってはいません。

 

それゆえ、エルサレムから遣わされた人たちは食い下がって聞きます。「あれでもない、これでもない。それでは一体お前は何なのか?私たちは、長老会に報告しなければならないのだ。」

 

そこでヨハネは、預言者イザヤの言葉、イザヤ書40:3の言葉を引いて、答えました。

 

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。

 

この言葉は、預言者イザヤの言葉ですが、これを引用することによって、ヨハネは自分のことを、イザヤに比べられる預言者だと言ったわけではありません。

 

あれでもない、これでもない、注目に値する人間ではない、一角のものではない、何者でもない自分の存在は、聖書の中に語られる小さな一言、荒れ野で叫ばれているという「主の道をまっすぐにせよ」との、その一言、その声だと、言います。

 

そのような言葉を託された預言者ですらなく、その一言を語る「声」だと言うのです。

 

小さな小さな存在です。麦一粒、からしだね一粒のような存在です。

 

ヨハネは聖書全体の体現者ではありません。イザヤ書一書の体現者ですらありません。聖書のたった一節を語るためだけの声、そのような声として神に召し出された者、それがヨハネです。

 

だから、この福音書においては、ヨハネは、洗礼者であるよりも、証言者です。たった一言、たった一つの声に成り切った証言者です。

 

このヨハネという存在は、生ける神のお言葉のほんの一言でも頂くならば、どれほどのインパクトが、この世界にもたらされることになるのかの例であると思います。

 

私たち人間を捕らえ、召し出し、神がお用いになるとき、神がその者を用いて語りだされるほんの一言が、大きなインパクトをこの世に投じることになるのです。

 

証言者ヨハネはこの一言の声以上の者であることを、望みませんでした。この一言の声以上の者であることから、抜け出ようとはしませんでした。それが、質問者に対して、ヨハネが貫いた姿勢でした。

 

これは大事なことだと思います。改革者ルターは、この時、ヨハネは試みに遭っていたのだと、言いました。

 

「お前は誰だ?」と問われた時、「わたしはメシアではない」と答えたのは、試みに打ち勝つことであったというのです。

 

一つの真理を肚の底から経験するとき、聖書の中のたった一言でも、この自分に、生ける神の燃えるような言葉として頂くとき、私たちは試みに遭うのです。

 

他の多くの人がまだ体得しているとは思えない真理と一つと成り切ったと私たちが言える時、誘惑も大きくなるのです。自分こそが、特別な人間だと。

 

しかも、ヨハネの場合、エルサレムとユダヤの全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一体から、広い広い地域から、多くの人々がヨハネの元に集まってきたのです。皆が自分の言葉を喜んで聴いてくれるのです。実際に大きな成果を上げているのです。

 

そのヨハネの噂を聞きつけて、当時の最高のユダヤ人指導者たちが、問うて来たのです。「私たちのしてきたことを、崩すような活動をしている、お前は誰だ?」

 

自分の内に燃えている生ける神の言葉が、偽りを暴き、時代を動かそうとしているのです。

 

ヨハネと違って、私たちの生涯にはこれほど、大それたことはまず起こらないでしょう。でも、神が私たち一人一人に下さったと心から確信できる使命を果たしていく中で、一人の人が変わるかもしれない。一つの家族が、変わるかもしれない。一つの組織が、真実に生き始めるかもしれない。

 

自分を生かす神の言葉によって、自分がこれこそが神の御心だと体得した言葉によって、神の真実が、この世に輝き出すのです。

 

しかし、ヨハネは、自分がたった一つの声であることに留まり続けました。たった一つの言葉、麦の一粒、からしだね一粒、神の言葉の断片であることを、弁え続けました。

 

旧約聖書を読んでいますと、神に遣わされた者でありながら、幾人もの人が、自分の分を弁えずに、踏み越えてしまうことによって、神より強制的に己の限界を知らされる物語を読むことができます。

 

アダムから始まり、モーセも、アロンも、ダビデも、ソロモンも、みんな失敗しています。この人々は、神より託された自分の分を弁えずにほんの少しでも増長した結果、神よりお叱りを受けることになりました。

 

けれども、ヨハネはしくじりませんでした。それゆえ、全能の神であられる主イエスより、「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と褒めて頂きました。お世辞でも何でもなく、主イエスは、ヨハネをそのように喜ばれました。

 

なぜ、彼は、神に選ばれた確信を抱きながら、なお、傲慢にならず、何者でもない自分を受け入れ続けることができたのでしょうか?その理由ははっきりしていると思います。

 

ヨハネに託された言葉、ヨハネがその声に成り切った神の言葉とは、肉となった言そのものであられるイエス・キリストの到着を告げることであったからです。

 

「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」

 

神から確信を頂いた者が、自分の全存在を揺り動かすような良き知らせを肚の底から聴かせて頂いた者が、人の方を向くならば、自分を生かしているその良き知らせに生きていない人を見て、残念に思うでしょう。そこで、自分の使命を自覚して、自分に託された生ける神の言葉を一所懸命に伝えるとするでしょう。

 

けれども、また、それが面白いほど受け入れられたり、逆に頑固な反対に出会う時、もしも、人の方ばかりを見ていれば、その人は、いずれの場合にも、自分はわかっている、自分こそ神の理解者だという優越感を覚え続けるでしょう。

 

しかし、もしも、力ある神の言葉、たった一言だけではありません。神の言そのもの、肉となった神の言であられるイエス・キリストそのお方を、ごく間近に感じるならば、「わたしはその履物の紐を解く資格もない」ことを、間違いようはないのです。

 

もしも、私たちが福音の力を知っていると言うならば、イエス・キリストに現わされた生ける神の言葉の力を、肚の底から経験したことがあると言うならば、この福音書の最後の最後の言葉が、私たち自身の実感となっているはずです。

 

すなわち、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(21:25)

 

福音書記者は既に語っておりました。主イエスとの出会いの中で、驚き、賛美していました。

 

「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」

 

キリストは、その圧倒的な恵みを持って、私たちの間に宿ってくださいました。見知らぬ者となってしまったご自分の民を取り戻すために、恵みの上に、恵みを注ごうと、一歩、さらに深く一歩と近づいてくださいました。

 

そして、私たちを捕らえてくださいました。私たちを召してくださいました。福音書記者は、「わたしたちは皆」と言います。

 

この賛美に声を合わせている者は皆、この驚くばかりの恵みを知っているのです。

 

私たちを礼拝へと導いたのは、小さな小さなたった一言かもしれません。私たちが洗礼を受けたのは、聖書のほんの小さな一言が、ある時、ずしりと、この胸に響いたからかもしれません。

 

信仰生活を長く送りながらも、聖書の福音がまだまだ分からないことだらけかもしれません。けれども、たった一回の説教、たった一節の言葉が、生ける神の言葉として響いてきて、もう、それだけで生きて行けるということがあるでしょう。

 

生ける神の言葉とはそういうものです。そのことを私たちは知っています。

 

もしも、私たちがこのことを知っているならば、神の言そのものであられるキリストの恵みの測りがたさを知っているならば、私たちは断片以上の者になろうとはしないのです。

 

味わっても味わっても、味わい尽くすことができないキリストであられます。その方が、私たちの間におられます。それぞれに親しく、その身を向けていてくださるのです。

 

それならば、この方に、生ける言葉を頂いた一人一人は、自分の血肉となった生ける言葉によって、謙遜に神と隣人に仕えるのみです。

 

しかし、神がこの私に下さった確信、生ける主の御言葉が、本当に主よりの言葉であるか?また、隣人が語る私が今まで知らなかったキリストの恵みが、本当に生ける主の言葉であるかどうか?

 

その欠くべからざる基準をヨハネの声から知ることができます。

 

「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と、告白することができるかどうかです。

 

たいへん大切な二つのことが語られています。真のキリスト教会を見極める二つの基準です。

 

一つ目は、生ける神の言葉とは、たった一言であっても、キリストを指し示す言葉であるということです。

 

聖書を読んで、どんなにその言葉が心に響いても、キリストを語る言葉でないならば、それはまだ、生ける神の言葉を聴いていないのです。

 

二つ目、御言葉を聞いて、この心にキリストを示されたと思っても、その方の前に、自分の小ささが見出されなければ、それはまだ、生ける御言葉を聞いたのではありません。

 

履物のひもを解くというのは、奴隷の仕事です。私は、主イエスの奴隷にも価しないと、真の証言者は語るものです。

 

ヨハネの声から聴き取ることのできるこの二つの要素は、かなり重要であると思います。

 

私たちの証の言葉が断片であったとしても、本物の証の言葉であるかどうかは、キリストを語る言葉であるか、キリストを大きくし、自分を小さくする言葉であるかどうかです。

 

これは、旧約から新約への橋渡しであるヨハネだけに、当て嵌まる基準ではありません。ヨハネによる福音書においては、この洗礼者ヨハネは、キリスト教会の代表の位置に置かれています。

 

神の奇跡によって捕らえられ、召し出され、キリストを讃美する者へと造り変えられた証言者の代表、すなわち、キリスト教会の代表です。

 

キリストを大きくし、自分を小さくする。これが私たちキリスト教会です。

 

しかし、これはちっとも惨めなことではありませんし、神の作品である人間の尊厳の否定でもありません。

 

なぜならば、これは神賛美だからです。キリストをほめたたえる喜ばしき賛美の声だからです

 

それは、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた。」と驚きながら証言すること、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」という溢れる賛美だからです。

 

キリストの恵みが大きくて大きくて、キリストの愛が大きくて大きくて、このわたしが証しできるキリストの恵みは、ほんのそのかけらでしかない。わたしが全身全霊を挙げて語る証しの言葉は、ほんの小さな声に過ぎないんだ。

 

もう一度言いますが、これは嘆きの言葉ではありません。賛美の言葉であります。「わたしも、わたしも」と乗り出して語りだす、ヨハネの賛美の言葉であります。

 

また、この福音書を生み出した教会共同体の賛美の言葉であります。そしてこの教会も、そこに集められた私たち自身の証しも、神にささげる賛美の花束に納められた一輪の花です。

 

もう一度このことをよく思い巡らしたいと思います。今ここにおられる恵みのキリストの姿に、もう一度、目を開いて頂きたいと思います。このキリスト集中、キリスト讃美に生きる人間の喜びを、教会であることの醍醐味を、神の助けを頂いて、味わって生きたいと願います。

 

 

 

 

 

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