週 報
聖 書 ヨハネによる福音書12章27節~36節
説教題 この世の支配者は追放される
讃美歌 18,327,29
先週金曜日に行われた3金読書会で、中村譲牧師のテキストを通して、こういう言葉を聴きました。
私たちの神様は超越されている神様だ。神さまが超越されているということは、私たちには理解できないということだ。
当たり前と言えば、当たり前のことです。
神さまのことを何もかも知り尽くすということはできません。
たいへん有名なエピソードですが、トマス・アクィナスという中世の大神学者は、『神学大全』という、日本語の翻訳で、全45巻に及ぶ大きな大きな書物を書きました。
それでも、なお、未完に終わりました。
しかも、トマスは、ある礼拝の最中に経験した神との出会いを振り返り、自分が書いたものは藁くずに過ぎないと言いました。
これは、20世紀最大の神学者と呼ばれるプロテスタントのカール・バルトも同じことです。
これもまた、未完に終わりましたが、『教会教義学』という教会の信仰の体系を神学大全のほぼ二倍の量に及び書き記し、しかし、その書き上げた部分すら、バルト本人からすれば、それは、福音の教えの決定版ではなく、新しく話し合いを開始するための始まりに過ぎないものと理解されていました。それは、天国では、屋根裏の物置のどこかに、古びたままに、保管されるものだと。
さらに聖書から使徒パウロの同じような言葉を聴くことができます。
第Ⅰコリントの13章9節以下です。「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分…わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、はっきりと知られているようにはっきり知ることになる。」
これらの信仰の先輩たちは、神さまが超越されていること、私たちの理解を越えたお方であることをよく知っていました。
私たち小さな人間には、大きな神さまを知り尽くすことはできない。
しかし、このような神の超越を語る先輩方が、神を知り尽くすことはできないと言う時、それは絶望を語る言葉ではないということに注意が必要です。
神を知り尽くすことができない。私たちの理解を越えているということは、神さまの恵みは味わい尽くすことができない。神さまのご愛は、わたしをいっぱいに満たして、なお、どんどん溢れ出て行ってしまうという喜ばしい驚きの表明であり、大きな賛美でありました。
わたしはある本で読んだシリアのエフレムという古代教父の言葉を忘れることはできません。
彼は言います。「(御)ことばの富があなたを凌駕していることを悲しむな。渇いている者は飲むことを喜ぶが、泉を飲みほす力が自分にないことを悲しみはしない。」
砂漠の旅の途中に、からからに喉が渇いている時に、豊かな水を湛えるオアシスに出会う。
その渇いた人は、その豊かな泉を自分は飲干せないからと言って絶望することはあり得ないのです。
同じように、いいえ、それ以上に、豊かな豊かなイエス・キリストの父なる神様の恵みの全てを、理解し尽くすことができなかったとしても、少しも絶望する理由はないのです。
たった一口でも、私たちがほとんど無理解としか言えないままでも、渇きを癒し、命を満たすものです。
なぜ、今日、このような話から始めたかと言えば、先々週、先週、そして今週の聖書箇所にも、主イエス・キリストに出会った、私たち人間の無理解が、露わにされているからです。
御自分がこれから十字架に上げられることになるとの言葉をお語りになった主イエスに向かって問うた人々の疑問が34節に記録されています。
「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられねばならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
神の言葉を理解し切ることのできない、主イエスのことがちっともわからない私たち人間の代表的姿がここにはあります。
しかし、それにも関わらず、主イエス・キリストの父なる神は、30節「わたしのためではなく、あなたがたのためだ」と、誤解する者たちのために生きてくださることを宣言されます。
天の声、天の父なる神は、主イエスと心を一つにして私たちにご自分の決意を語られます。
28節「父よ、御名の栄光を現してください。」、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
これは、あなたがたのための言葉。天の父は私イエスを通し今、御自分の輝きを示そうとされる。その輝きはあなたがたのための光、あなたがたを生かそうとする天の父の思いが、形となる時。
しかし、そばで聞いていた群衆は、この天来の声を、「雷」、良くても、「天使」の声と誤解するのです。
それにも関わらず、わたしたち人間の度重なる誤解、無理解を飲み込みながら、御子は、御父と心を一つにし、「あなたがたのため」と、十字架への歩みをいよいよ進めてくださったのです。
ここに神の愛があります。
この愛は、安い愛ではありませんでした。全能の神をして、片手間でできるような業ではありませんでした。
27節、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」
このような言葉は、友ラザロの墓を前にした主イエスの憤りと涙と同様に、主イエスが真の人間であることの証拠だと語られることがありますし、その通りでしょう。しかしまた、私は、天の父の心でもあったと言っても良いのではないかと私は思います。
全知全能の神様がその心を騒がせるとは一体どういう事態かと思います。
これはただごとではありません。十字架の出来事は、主イエスにとって、天の父にとって、すなわち、三位一体の神にとっても、ただごとではない。
神の御心に対して、無理解である私たち、的外れで、自分勝手な私たち罪人が救われて、生きるためには、全知全能の神の心が騒がなければならなかった。
そういう神の苦しみ、神の痛みの極致としての御子の十字架を必要としたのです。
聖書の中に知り得る限り、これほどの神の精魂込めた大きな愛の犠牲を必要とした業はないのです。
天地を創造する際にも、御子の十字架は必要ではなかったのです。
重い重い恵み、高価な高価な愛の犠牲によって、生かされているこのわたしたちであり、この世界です。
今、何気ない言葉で申しました。
イエス・キリストの十字架によって生かされているわたしたちであり、この世界であると。
信じる私達であるだけでなく、イエス・キリストの十字架によって生かされているこの世界であると。
このことはあまり意識されていないことかもしれません。
しかし、31節、32節で、主イエス御自身が、こう仰っています。
「今こそ、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
「わたしは地上から上げられるとき」、この言葉は、ヨハネ3:14の御言葉を意識している言葉だと言われます。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と、その宣教の初めから主イエスがお語りになっていた言葉です。
今、その時が来たと主イエスは仰るのです。
今こそ、わたしが地上から上げられるとき、モーセが荒れ野で上げた青銅の蛇のように、わたしは十字架に上げられる。
そのとき、この世の支配者は追放される。そのとき、すべての人をわたしは、自分のもとへ引き寄せる。
この世の支配者とは悪魔のことです。罪の負債と死の脅しによってこの世を奴隷にしている悪魔としか言いようのない力のことです。
その悪魔が追放される。どこからか?この世からです。
そして、すべての者が主イエスのもとに引き寄せられます。すべての者です。十字架に上げられるとき、わたしは、すべての人を自分のもとへ引き寄せようです。例外はありません。
アフリカ系アメリカ人の霊歌に”He’s Got the Whole World in His Hands”という歌があります。
「主は、何もかも、ご自分の御手の内に入れられた。」と繰り返し、繰り返し歌います。
主は、あなたもわたしも、兄弟も、姉妹も、ご自分の御手の内に入れられた。
主は、全世界を御手の内に入れられた。
この主とは、まずは、十字架の御子であり、それもヨハネによる福音書が、明確に証しする御子の姿です。
ドイツのロマンティック街道の起点となる街、ヴルツブルクという町の教会には、変わった彫刻の十字架像があるそうです。
私たちの教会の伝統とは異なりますが、礼拝堂の十字架に主イエスが釘づけられている像は、どなたでも思い浮かべることができると思います。
しかし、その町の十字架の主イエスの彫刻、今、私たちが頭に思い浮かべるのとはちょっと違った姿をしています。
十字架上の主イエスの両手は、木に打ち付けられてはおらず、釘が刺さったままですが、前の方に、人を抱き込むかのように、私達に差し向けられていると言います。
どうしてそういう姿なのか、その彫刻の下の説明には、中世には既にその地方にあった信仰に基づくもの、そして、今日私たちが聞いているヨハネによる福音書第12章に基づく信仰だと書かれているそうです。
「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
あなたがたを縛る全ての鎖、軛を打ち砕き、この腕の中に、抱きしめる。
主は、その心を騒がせながら、重い重い価を支払いながら、「わたしはまさにこの時のために来たのだ。」と、仰います。
このような空前絶後の犠牲を払って、私たちをこの世をご自分のもとに引き寄せることを、主イエスは、ご自分の時と呼び、神のお名前が輝くとき、神の栄光の時、すなわち、神の喜びの時とお呼びになります。
不思議なことです。不思議な愛です。
なお、主を誤解する者たちを前にしながら、そして実際に、主を十字架につける恐ろしい罪の無理解の中へと突き進んでいく者たちを前にしながら、主イエスは、光のある内に光を信じて歩みなさいとお勧めになりました。
なぜ、このようなことが言えるのか?この時には言えたとしても、結局、彼らは暗闇に追いつかれ、暗闇に飲み込まれてしまったではないか?それが、十字架の出来事ではないかとも言えます。
けれども、この人たちもまた、主イエスが仰った、主が十字架に上げられるとき、ご自分のもとに引き寄せようとされているすべての人の内の一人なのです。
イギリスの歴史的説教者、チャールズ・スポルジョンは、この主イエスの言葉を指して、いいえ、この言葉をお語りになった主イエスを指して、「マーヴェラス・マグネット」と呼びました。
「素晴らしい不思議な磁石」です。
十字架の主イエスの手がわたしたちに向かって伸び、私たちは、悪魔から断ち切れ、主の者とされるのです。
そこに光があります。そこに光に向かって進む道があります。
その光を信じて良い。わたしがあなたの光となったことを信じて良い。わたしがあなたを引き寄せ、あなたがわたしを離れて歩むことはもうありえない。
そのような主の呼び声を、今日、この時も、新しい歩みの始まりの四月にも、聴くこと、信じることが許されているのです。
祈り
私たちの力を越えて、私たちの理解を越えて、しかし、私たちのために力を注ぎ、命を注いでくださる主イエス・キリストの父なる神様、私たちが先の見通しの立たない暗闇の中にある時も、この御子が私たちの光です。私たちが暗闇に追いつかれないように、いつでもその強い磁力で、力強い御手で、引き寄せ、御腕の中に固く守ってくださいます。あなたが引き寄せてくださるゆえに、私達も安心して心を高く上げ、光の内に、光に向かって歩むことを望みます。どうぞ、知恵と力と信仰をお与えください。主の御名によって祈ります。
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