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説教題 わた28しの荷は軽い
聖 書 マタイによる福音書11章28節~30節
讃美歌 11,268,26
主の年、2023年、おめでとうございます。
私達がこの教会に2017年に赴任してから、元旦礼拝の最初のご挨拶は、主の年、何年と申し上げることにしています。
西暦という言い方は、私は、ほとんど使いません。
キリスト者こそA.D.という言葉の意味をきちんと弁えまして、西暦などという言い方をせず、アンノドミニ、「主の年」、主イエス・キリストがお生まれになり、神の国の始まりを告げてくださって以来の、主の年として数えることを大切にしています。
私たちの主は、名実共に、クリスマスにお生まれになったこの主イエス・キリスト以外におられないと、年の数え方一つにおいても、季節の移り変わりを覚えるときも、この方を起点とした数え方をすることによって、私たちの信仰を告白したいと願うからです。
それだから、私にとって、嬉しいことは、この2023年の新年礼拝の講壇の花が、松飾りではなく、アドベントクランツとクリスマスの飾りであり続けていることです。そのことを重んじてくださったお花係の信仰の表れです。
クリスマスに至るまで、いいえ、むしろ、私たち教会がアドベントの季節に入る前から、先んじてクリスマスを待ち望み、楽しんでいたこの世の友と交代して、キリスト教会は、1月6日の公現節に至るまで、クリスマスであることを意識し続けることを大切にいたします。
私のひそかな願いは、クリスマスのみならず、イースターも楽しみ始めたこの国の人たちが、やがて、教会にあわせて、クリスマスを新年の喜びと一続きに、お祝いし続けるようになることです。
しかしまた、さらに言えば、公現日が過ぎようとも、毎日がクリスマスであり、松の内が過ぎようとも、私たちにとっては、いつもめでたい主の年の、めでたい主の日々です。
なぜなら、イエス・キリストは、あの最初のクリスマス以来、私たち人間の主となり、そしてまた、それ以来、片時も私たちのそばを離れず、私たちと共に歩み続けていてくださるからです。
それゆえ、私たちの毎日は、イエス・キリストを礼拝するにふさわしい日々、クリスマスという言葉が本来意味するところのキリストミサ、キリストを礼拝にするにふさわしい毎日です。
毎日、毎時、毎分、毎秒、ご復活のキリストは、目には見えずとも、その霊において、私たちと共にいてくださいます。
ご復活の体を持って、天の父のもとに私たちためにいらっしゃるイエス・キリストは、その霊においては、今も片時も離れず、私たちのそば近くに共にいてくださいます。
そのことを聴かせるために、語らせるために、主は教会を召し出し、週に一度、この主の臨在を、姿勢を正して、聴き直す主の日を定めてくださいました。
そのお方の私たちと膝を突き合わせて語りかけられる招きの声は、最初のクリスマス以来、今、この時も、私たちに向けて現に語りかけられているものです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
主イエスは、「だれでも」と仰います。
第1世紀の、神の民に向かってという限定はなく、その時、主は、「だれでも」と仰ったのです。
神の御子が仰るこの「だれでも」の呼びかけの内には、この言葉が歴史上初めて、主イエスの口から発せられたそのはじめから、2023年の1月1日、今、ここにいる私たちをも目指して語りかけられた言葉であると、受け取るべきです。
そうでなければ、神が絶えることなく教会をお立てになる理由はありませんし、福音宣教のために教会を召し出し続ける理由はありません。
だから、主イエス・キリストは、そのはじめから、今日、金沢元町教会の新年礼拝に出席した私たちのことをも視野に入れて、私たちに向かって、語ってくださったのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」
「だれでも」です。疲れているならば、重荷を負うているならば、だれでもです。
どんな重荷であるか、何に由来する疲れであるか、一切の限りはありません。
疲れている者、重荷を負う者、だれでもです。
自分の甘さ、自分の過ち、自分の性悪さ、自分の意地汚さ、自分の傲慢、誰も同情してくれないような、自己責任としか言いようのない自分の弱さ、自分の罪が、その疲れ、その重荷の原因であったとしても、「だれでも、わたしのもとに来なさい。」と、主イエス・キリストは仰います。
「わたしのもとで重荷を下ろしなさい。わたしのもとで休みなさい」と、主イエスは、私たちを招いておられます。
この主の言葉は、しばしば伝道説教の言葉として読まれる個所かもしれません。しかし、まだ洗礼を受けていない者たちに向かってばかりではなく、洗礼を受けた者たちに向かっても、同じように、今、語りかけられています。
なぜならば、「だれでも」だからです。この言葉の射程はものすごく広いのです。
「今までたった一人きりで、まるで神なしで、疲れ切ってしまった者、重荷を負ってしまった者よ、わたしのもとに来て、休みなさい。」
「神を神とせず、人を人とせず、強引な手段や、抜け目ないやり方で、周囲を貶め、出し抜こうとした結果、自分がその罠にかかり、疲れ果ててしまった者よ、わたしのもとに来て休みなさい。」
「わたしに仕えているつもりでありながら、いつの間にか、別の道に落ち込んで、遠回りしてしまったことに気付き、疲れ果て、元気を失った者よ、わたしのもとに来て、休みなさい。」
「わたしを信じ、わたしからの十字架と信じて、人生の重荷を負って歩みながら、やり切れず、疲れ切って、倒れてしまった者よ、わたしのもとに来て休みなさい。」
このような主イエスの言葉のパラフレーズ、言い換えは、無限にすることが許されています。主が「だれでも」と仰るからです。
この主の御言葉のゆえに、これは、解釈して、自分に当てはめてみなければならない、地域や、時代や、聴き手の隔たりは何も前提とされていない、直接聴ける、そのままで生きた言葉です。
主イエスは、今日、私たちを招いておられます。主イエスは、今、私たちを休ませてくださいます。
そして、私たちは実に、既に、この方のもとにいるのです。この方のもとに、もう来ているのです。
だから、私たちのありとあらゆる重荷は今、その招きのお言葉の通り、この瞬間、既に取り去られているのであり、私たちは、この方のもとで、もう休ませて頂いているのです。
けれども、その方に招かれ、その方の言葉を、今ここで聴いている私たちに向かって、次のようにも、語られています。
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」
軛を下ろし、わたしのもとで休めと、私たちをお招きになった方は、ここであなたがたは、わたしの軛を負い、わたしに学べと、お命じになります。
戸惑わせるような御言葉でありますが、考えてみれば、確かに、今、この瞬間も私たちは軛を負っていると言えます。
どういう軛であるかと言えば、礼拝という軛です。
私たちは、キリストの呼びかけに答え、キリストの呼び声のもとに集められ、そこで何もせずに、ぼーっとしているわけではなく、この方を礼拝しています。
礼拝とは、心地の良い椅子に座り、映画や演劇や講演会を楽しむようなものではなく、やはり、私たち自身が心を込めて、神を拝み、神に捧げる奉仕でもあります。
その意味では、日常生活から抜け出て、ここで何をしているかと言えば、新しい軛、新しい荷を負っているのです。
しかも、この軛は、キリストにあって、神がくださる軛ですから、実を言えば、最も重大な軛を与えられてしまったとさえ言わなければならないものです。
つまり、この礼拝の時間が、私たちをリフレッシュさせるためだけの余暇や娯楽の類であるならば、どんなに慕わしいものであったとしても、為すべき仕事、負うべき重荷を踏ん張って負わなければならない時には、自分のためのリフレッシュの時間は、二の次、三の次にしても良いはずです。
けれども、主イエスの招きに応えた者が、この方のもとで休みを得るためには、この方がくださる新しい軛を負わねばならず、その軛は、神のくださる軛であるので、今はちょっと忙しいので、主イエスのもとで頂く休みは後回しにしておきますとして良いようなものではなさそうです。
これは、一体、どういうことでしょうか?
休もうと思ったのに、新しい軛と荷が与えられるならば、結局、しんどさが増すだけではないでしょうか?
いいえ、そうではありません。
むしろ、主イエスから、軛を課されなければ、決して与えられない休息があるのです。
私たちは、キリストのもとに、今、背負っている荷を下ろすという招きに繰り返し応えることによって、すべての使命と、義務を、中断して、この方のもとにはせ参じます。
主の日の礼拝こそ、私たちに与えられている最大の軛、重荷として、人生の優先順位を、くみ直すことが、与えられます。
しかし、そこでこそ、本当の休みを得るのです。
昨年、ある方が、私が以前紹介した説教集の話を繰り返ししてくださいました。
東京神学大学の理事長である、近藤勝彦先生の『中断される人生』という説教集についての話です。
近藤先生がまだ40代の頃に出した説教集で、その方も、まだ元気に働いていた頃に、買って、ほとんど読まずに、書棚に置いていたそうです。
少し前に体調を崩され、いくつかの責任から解かれたものだから、私がその本を紹介したものだし、懐かしくなって改めて、手に取り、じっくりと読みだした。そしたら、夢中になってしまい、二度も、三度も繰り返し読んでしまったと、報告してくださいました。
特に説教集のタイトルともなっている「中断される人生」という一つの説教に深い感銘を受けたと仰いました。
近藤先生は、そこで、こういう趣旨のことを仰ています。
それぞれ40代で亡くなった自分と妻の父親のことを思い巡らして思うことは、私たち人間の人生の特徴というのは、中断されるものであるということではないか?
為すべき仕事、果たすべき責任、やりたいことがふんだんにあるのに、突然、断ち切られるようにして終る。それが全ての人間の人生の真相ではないか?
しかし、考えてみれば、私たちキリスト者の日曜毎の礼拝生活というものは、まさにこうした中断される人生を毎週、特別な形で生きていることではないかと思う。
日曜毎に、私たちは日常生活の営みを断ち切り、いわば、人生を中断して、礼拝の中へやって来る。
時にはそれが辛く思えることがある。
平日の仕事、課題、義務、責任が、私たちを離してくれず、放っておけば、それらがどこまでも私たちの時間を求めて、侵入してくる。
しかし、為すべきことの佳境に入っている時に、日曜日がやって来る。
そして、突然断ち切られるようにしていることを中断して、礼拝にやって来る。
これは、時に非常に辛いことがある。
けれども、私たちは、これによって、人生の主人は結局は自分自身ではなく、神であるという厳粛な事実をそこで学ぶのだと言います。
そして、これを学ぶことにおいてこそ、人生の喜びは極まると言います。
なぜなら、これは神こそが私たちの人生を慰め、完成へともたらしてくださるために与える神の憐みに満ちた中断だからだと、近藤先生は言います。
その時、私たちは、自分の人生が色々やり残したままに、突然、断ち切られるという人間の命の真実を前にしても、人生はむなしいと言って、喜びが消えうせることはなくなるのです。
教会の中でよく知られた「明日世界が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木を植える」という言葉通り、神が自分の人生の主人公であることを知っている者は、能力も時間も足りないから完成が難しいと思われる大きな挑戦であったとしても、神にお任せして、安心して、為すべきことをはじめられるし、また安心してやり終えていないことを手放せる自由な生き方を学ぶのです。
主イエスは、今日のところでも、私たちに向かって、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と仰います。
この軛は、教育的な軛なのです。私たちが本当の休みを得るために、主があえて、与えてくださった軛、主が与えてくださる軛であるゆえに、どんなものよりも、どんなことよりも、優先順位が高いゆえに、人生の重荷を手放すことを教えてくれる軛です。
そして、中断されることを辛く思われるときも、結局は、この軛こそが、のべつ幕なしに私たちに押し迫る仕事、課題、重荷、そして遂には、やり残したこと、解決できなかったことへの後悔と虚しさから私たちを守ってくれる命の盾なのです。
このように申しながらも、私は、ファリサイ派の安息日の守り方とよく似た、教会の歴史上に現れた安息日絶対主義のように、何が何でも主の日の礼拝を死守しなければならないと申し上げる必要はないとも思っています。
主のくださる軛は「ねばならない」というものではなく、「してよい」という許可であると信じるからです。
主ご自身が、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰っています。
手放して良い。お任せして良いとの許可です。
歯を食いしばって負う軛ではなく、それを負うならば必ず安らぎが与えられる軛です。
29節の「あなたがたは安らぎを得られる」という言葉、原語では、息への休息、つまり、「ほっと一息つく」とも受け取れるような言葉が使われています。
それは、当たり前のことであるかもしれません。
なぜなら、私たちが人生を中断して、ここで学ぶことは、自分の弱さ、自分の罪が、その疲れ、その重荷の原因であったとしても、主イエスが、この私たちの人生の旅路のハンドルを、ご自分のものとして引き受けてくださるということだからです。
新しい年の最初の日、今日ここで、皆さんの人生の重荷は、主イエスのもとに降ろされました。
そして、人間の優先順位の一位である礼拝を、すべての者を中断し、ここで捧げ、神の言葉を聴きました。
その重荷を本当に担うのは、わたしだという神の言葉を聴いたのです。
この一年、何が私たちを待ち受けていても、この世界に何が起ころうとも、この私たちと、この歴史の主であるお方が責任を取ってくださいます。
そして、このお方は柔和で、謙遜な方であり、傷付いた葦を折らず、くすぶる灯心を消すことのないお方であります。
だから、私たちは、張りつめている呼吸をゆるめて、深くゆっくり息をしながら、この年を歩むことが許されているのです。
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