礼拝

1月8日 主日礼拝

週 報

説教題 因果応報の終わり

聖 書 ヨハネによる福音書9章1節ー12節

讃美歌21 11、290、26

多くの宗教が、時には、キリスト教系の宗教ですら、因果応報ということを語ります。
 
赤裸々な言い方をすれば、信者の熱心な奉仕や献金を呼び起こすために、むしろ、積極的に、因果応報について教えさえします。
 
善い業には良い報いがあり、悪い業には悪い報いがある。
 
このこと自体はある程度、当たり前のことと言えば、当たり前のことであるかもしれません。
 
けれども、常識的な原因と結果という範囲を飛び超えて、この自分の今までの生き方のみならず、両親、祖父母、曾祖父母、さらにもっとさかのぼって、先祖の因果が、子孫に報いると脅す宗教があります。
 
こんなことは、ただ笑い飛ばしてしまえば良いことですが、不慮の出来事、思いがけない人生の試練が重なると、案外、気になってくるものです。
 
たとえば、不幸が重なった時、普段は、全くそんなことを気にしたことがなかったけれども、そういえば、親せきがよく当たる占い師がいると言っていたなあと思い出して、紹介を受け、見てもらうと、四代前のおじいちゃんの因果が関係していると言われる。しかも、その因果が、曽祖父母、祖父母、両親にまで継承され、こじれていると言われたら、いてもたってもいられなくなり、促されるままに、供養を始める、お布施を納めるなどということは、笑い話のようですが、この現代社会にあっても、そう無縁な話ではないでしょう。
 
あるいは、そんな宗教がらみの話でなくてもよいのです。
 
むしろ、もっと深刻なのは、現代心理学の原因と結果の説明かもしれません。
 
子どもが、思うように育っていないのは、親と子の家族関係がこじれているのは、1歳までに身に着けるべきものが身につかなかったから、3歳までに親が一所懸命に注ぐべき、こういう種類の愛情を注ぎ損なったからだとか。
 
そんなつもりはなかったのに、どうもそういうものらしい。
 
私たちの常識や普通を超えて、ささいなことかもしれないけれども、発達心理学的には、心得るべきことがあった。子供を傷つけないために、絶対にしてはならないことがあった。
 
しかし、それらは、もはや取り返しがつかない。
 
子どものみならず、この私の生きづらさというのは、どうやら幼い時の成育歴に問題があり、それはもう取り返しがつかないと言う。
 
子どもとの関係がうまく行っていないのは私の罪であり、また、私がこんな人間であるのは、親の罪だと。しかも、原因がわかった所で、根本的にはもう取り返しがつかないと言われる。
 
これもまた、現代の私たちを不安にさせている因果応報物語ではないかと思います。
 
けれども、私たちの主イエス・キリストは、通りすがりに出会った生まれながらの盲人を指し「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と問う、失礼で残酷な弟子たちに、はっきりと次のように仰いました。
 
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 
この世界の中で語られ、信じられてきた因果応報説は、実は、この日、この時、息の根を止められました。
 
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 
私たち自身、あるいは私たちの両親、祖父母、先祖たちの犯した失敗、罪の報いとしか言いようのない、そう考えたくなるような差し障りがこの身に降りかかることがあったとしても、私たちが取り返しのつかないような生きづらさを抱えていたとしても、それは自分や先祖の因果の報いではない。
 
その差し障りを通じて、生きづらさを通して、神の業がその人に現れるためだと、主イエスは宣言してくださいました。
 
私たちを支配しているのは、因果応報の運命ではないのです。
 
けれども、これは冷静で合理的な人間が、そんな馬鹿なことはあるものかと、因果応報の宗教を鼻で笑うような言葉ではありません。
 
それならば、カルト宗教から解き放たれることはあっても、現代心理学による因果応報の鎖の説明から私たちが解き放たれることはないでしょう。
 
なぜならば、現代心理学は、科学的な観察による原因と結果に基づく道理に適った学問の知見だからです。
 
けれども、主イエスの解放の言葉は、因果応報なんてことは、合理的でないと、その考え方のおかしさを追求し、証明するような論理の言葉ではありませんでした。
 
知識さえ得れば、だれもが、結論付けるような、客観的な世界の姿を教える言葉ではありませんでした。
 
その御言葉は、責任を負い、行動される、救う者の言葉でした。
 
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と仰た方は、それから、その盲人に近づき、地面に唾をし、それを土でよくこねてから、その人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と命じたもうたのです。
 
なぜ、因果応報の息の根が止まるのか?
 
主なる神様がお遣わしになった世の光、イエス・キリストが、因果応報の鎖の輪の中に、飛び込んでこられるからです。
 
そして、そこで、その因果応報の鎖を断ち切る、新しい神の業を始められるからです。
 
「なぜ、この人は生まれつき目が見えないのか?」
 
主イエスは答えます。「神の業がこの人に現れるため」と。
 
この人が生まれつき目が見えなかったのは、この日、この時、主イエスに出会い、見えなかった目が見えるようになるためであると仰り、その人の痛みにその手で触れ、目を開かれるのです。
 
この主イエスの言葉と業は、親のせいでもなければ、自分のせいでもないのならば、神のせいだ。神がその人を、初めからそう造られたからだということでも、もちろんありません。
 
むしろ、主イエス・キリストというお方は、「神の業がこの人に現れるためである」というお言葉によって、過去の原因ではなく、今これからこの人の身に起こる神の業に目を向けさせようとしているのです。
 
もう、原因を追究しなくてよい。もう、責任の所在を明らかにしなくてもよい。それは手放して良い。
 
今、神の業が、あなたの上に現れるのだ。
 
つまり、こういうことです。
 
今までのマイナスをすべて帳消しにしてしまう出会いがここにあるのです。
 
因果の報いは、ここで終わるのです。
 
路上で物乞いをしていたこの盲人の重荷は、この日、主イエスというお方のもとで、降ろされたのです。
 
この救い主は、苦しみの原因を問われない。問題とされません。
 
なぜならば、この方は、それがなんであっても、まさにそれをご自分の上に背負うために来られたからです。
 
ここが悪い、あそこが悪い。ここが悪かった。あそこが悪かったと、苦しむ私たちを目の前にして、この方は、そんな病理学の講釈をしないのです。
 
親のせいでもなく、あなたのせいでもない。神の業があらわれるためと、その手を伸ばしてくださる。
 
この方は私たちのもとに来て、「大丈夫、必ず良くなる」と言って、私たちの重荷をむんずと掴んで、ご自分のもとのとしてそれを引き受けてしまわれる。
 
どうしようもない、治りようもない、取り返しがつかないと見える私たちの目に、唾でこねた土を塗り、新しく造り直してくださるのです。
 
6節以下の、この唾をし、土をこね、盲人の目に塗る行動は、非常に不思議な行動です。
 
けれども、多くの学者は、ここでは、創世記の天地創造がもう一度繰り広げられていると言います。
 
神様が最初の人アダムを造られた時、土をこね、息を吹き入れ、人が生きるものとなった。
 
その創造神話が語る人間の創造が、もう一度、ここで再演されているというのです。
 
あるいは、ある説教者は、この見えない目に唾をつける主イエスのお姿を聴くと、自分の母の姿を思い起こすと言います。
 
躓いて転んで膝に擦り傷を作る。そばに薬があるわけではない。泣いて母の膝に寄ると、笑いながら「ちちんぷいぷい」とか言って自分の唾を塗ってくれる。主イエスはそんな素朴な業を、身を屈めて、この人にしてくださったのだと言います。
 
私はその言葉を読みながら、こういうことも思い起こしていました。
 
今、我が家の小さな子どもが、一緒に寝ていると、私に唾を垂らしてくるんです。なすり付けてきたりもする。
 
私が大げさに騒ぐのが面白くて、ゲラゲラ笑ってさらに調子に乗ってやってきますけど、多分、これが「唾付けた」ってことだなと思っています。
 
どこで覚えてきた遊びかはわかりませんが、おそらく、自然と、始めたことなのだろうと思います。
 
これは私のもの、これは私のお父さん、誰にもやらないって。
 
目が見えない人が見えるようになった。それは主の者となるためでした。
 
主が唾と土をご自分でこねて、その人の目に塗って、シロアムの池に行って洗いなさいと仰せになったという具体的で、詳しい記述は、福音書記者ヨハネが、この出来事が、本当にあった出来事なのだと、言いたいがために、こんな詳しく書いているのだと言います。
 
けれども、また、その一方で、この人だけに起きたことじゃない。あるいは、肉の目が見えない人だけに関係のある話じゃない。
 
むしろ、福音書記者ヨハネは、これが、事実ある一人の人に歴史的に起こった主イエスとの出会いの出来事、癒しの出来事であることを強調しながら、同時に、これが自分自身の物語、また私たち自身の物語としても書き記していると言わなければなりません。
 
なぜならば、この第9章の物語は、最後にこのような主イエスの言葉で結ばれているからです。
 
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 
主イエスは、見えない者を見えるようにするために来られたと仰る時、それは明らかに、神を見ること、信仰について仰ったのです。
 
神を知らない者を神を知る者としてくださる。神を拝まない者を神を拝む者としてくださる。
 
自分の命の価値を知らぬ者に、神が造られ、神が買い取られた貴い自分であることを教えて下さる。
 
あなたがたの目が開かれ、それがわかるようになるためにわたしは来たと、主イエスは仰るのです。
 
その一方で、ここには、不穏な言葉もありました。「見える者は見えないようになる」と。
 
さらに先取りになりますが、41節に、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」とあります。
 
見えないのに、見えると言っている。そこに罪がある。
 
その見えないのに「見える」と言ってしまう罪とは何でしょうか?
 
それは結局、「この人が生まれつき目が見えないのは、本人か、両親が罪を犯したからに違いない」と神に成り代わって、人間を呪ってしまう私たちのことであると思います。
 
そこには、宗教的な人間であるか、世俗的な人間であるか、結局、違いはないと私は思います。
 
私たちは、世俗的人間であろうが、宗教的人間であろうが、原因を追究することは知っていても、癒すことのできない無力な存在なのだと思います。
 
けれども、このお方は、見えない者が見えるようになるため、神を知らない者が神を知るようになるため、救いに来られたのです。
 
因果応報はない。因果応報は終わった。
 
見るべきものはただ一つ、私たちのために、この因果応報の鎖の罠の中に、飛び込んで来てくださった神の御子イエス・キリストです。
 
この方が仰るのです。弟子たちにとっては偶然出会ったに過ぎない通りすがりの隣人のことを指して、だから結局、この私たちと私たちの隣人の全てを目がけて、主が仰るのです。
 
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 
私ではない。私たちではない。天地の造り主なる御子が仰います。
 
その深さを教えるのは、4節後半に語られる「だれも働くことのできない夜が来る」との言葉です。
 
一見すると、これは神の祝福を告げることが、むなしく思えるような闇の現実を見つめる言葉です。
 
しかし、この夜とは、私たちの知らない夜ではありません。
 
十字架の日のことです。
 
天が閉ざされ、全地が闇に没し、神に捨てられたという言葉だけが、現実味を持った十字架の日のことです。
 
けれども、まさに誰も働けなかったこの日、神さえも、厚い雲で身を隠し、主イエスをお見捨てになったその日、それは主イエスがすべての罪咎を一身に引き受けられた日でありました。
 
その日の主イエスの姿こそが、夜にあっても消えないわたしたち世にある者の光であります。
 
天の父の御顔が隠れたその場所で、私たちに代わって、裁かれてくださっている方だけが、語ることのできる言葉を、私たちは自分のため、また隣人のために今日、聴いたのです。
 
あなた方はもはや、これを負わない。わたしが命をもって買い取り、あなたはわたしのものである。
 
わたしたち教会の知っている人間は、主イエスの唾の付いた主のもの以外ではありません。
 
人間は、主イエスがその十字架で裂かれた体、流された血によって買い取られた主のものです。
 
ただいまより預かる2023年、最初の聖餐の食卓を通し、この福音の言葉が、むなしい言葉ではなく、からだを備えた言葉、私たちの血肉となる言葉であることを、事実、この身で味わいます。
 
そして、主の十字架と直結しているこの食卓で信仰の養われた私たちは、主をお遣わしになった天の父の業を、主イエスの祝福を告げる業に、今年も遣わされていくのです。
 
 
 
 

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