礼拝

12月25日主日礼拝

週 報

説教題   世の成らぬ先に

聖 書   ヨハネによる福音書8章48節-59節

讃美歌   7 245 25

金沢元町教会のクリスマス礼拝にお集まりの皆さん、クリスマスおめでとうございます。

 

今日は、2022年のクリスマスの礼拝です。12月25日当日に、主の日の礼拝を献げることができるのは、次は2033年になるようですから、今日は皆さんにとって思い出深いクリスマスの礼拝となることと思います。

 

本来ならば、顔と顔とを合わせて、ご挨拶申し上げたいのですが、残念ながら、私は会堂に集い、共に礼拝を献げることはできません。

 

私もまた、コロナの濃厚接触者となってしまい、明日まで、外出を控えなければならなくなりました。

 

その意味でも、2022年はわたしにとって忘れられないクリスマスとなりました。

 

昨日、教会のある高齢の友から電話を頂きました。

 

「本当は明日のクリスマス礼拝に出たいけれど、施設が外出を控えるように言われているので、残念ですが、控えます。どうぞ、祈りに覚えてください」と。

 

お電話が遠いので、あえて、「私も同じ状況です」とは、お伝えしませんでしたが、同じような制限の中にある方が何人もいらっしゃることに思いを馳せる時となりました。

 

役目を果たすことができず、申し訳ないですが、毎週の司式者の祈りの中にあるように、会堂に集められた者も、それぞれの置かれた場所で祈りを献げる者も、その祈りを金沢元町教会の一つ礼拝として、主よお聴き上げくださいとの祈りを深めるときとなりました。

 

昨夜のクリスマスイブ賛美礼拝に引き続き、今日の説教は司式者に代読して頂くことになりました。

 

豊かな箇所ですが、ゆっくりと解き明かすことはできません。改めて、主がその機会を与えてくださることを待ち、今日は、なるべく短くクリスマスの喜びをお分ちしたいと思います。

 

さて、今日は特別なクリスマスの礼拝ではありますが、いつものようにヨハネによる福音書の先週の続きをそのまま読みました。

 

クリスマスにふさわしい箇所と信じてのことです。

 

なぜなら、今日読み進める箇所は、本日、説教の後に賛美する讃美歌245番「世の成らぬさきに」というクリスマスの讃美歌が歌う主題と重なると思ったからです。

 

58節で主イエスはこのように仰います。

 

「はっきり言っておく、アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

 

主イエス・キリスト、このお方は、イスラエルの信仰の父祖アブラハムよりも前にいらっしゃるお方だと自己紹介をされました。

 

この主イエスの自己紹介は、比類なきものです。

 

それは、福音書の時代から、2000年近くも昔の旧約に記された父祖アブラハムよりも前からご自分がいらっしゃったと主張することにおいて、比類ない自己紹介というわけではありません。

 

この「わたしはある」という言葉遣いは、それよりももっと驚くべき言葉です。

 

この言葉は、エジプト脱出の指導者モーセに現れた主なる神様の自己紹介と重なる言葉です。

 

主なる神様がモーセを選び出された時、「誰がお前を遣わしたのか?」と民が問うた時、なんと答えればよいのでしょうとモーセが問うた時、主なる神様は、お答えになりました。

 

「わたしはある。わたしはあるというものだ。」

 

これは、イスラエルの人に問われたならば、「わたしはある」というお方に遣わされたと言うようにと、モーセに告げた主なる神様ご自身の自己紹介のお言葉でした。

 

それゆえ、今日の箇所で、主イエスがご自分をご紹介しているのは、アブラハムより前に存在しているというどころではないのです。

 

ご自分を主なる神と等しい者として、お示しになったのです。

 

それはまさにこの後歌う讃美歌のように、世の成らぬさきに既にいます、アルファでありオメガである永遠にいます主であることを自らお示しになったのです。

 

そしてこのようにご自分をお示しになるからこそ、48節「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」と言われてしまったのです。

 

つまり、主イエスは、ユダヤ教の正統派に属する人々から悪霊に取りつかれた異端者だと、判断されたのです。

 

それは、無理もない判断であったと言う他ありません。

 

イスラエルの民にとって、神とは、私たち日本人のように、山の神、川の神、時には、政治家や、お相撲さんのように人間が神として祀られるような存在ではありません。

 

聖書の信仰には、造り主と、造られたものの決して乗り越えることはできない壁があります。

 

それなのに、50歳にも満たない男性が、世の成らぬさきよりある、万物の創造者と一つであると、自分を指して語るその言葉は受け入れがたいものであったのです。

 

59節にあるように、これを聴いた者たちが石を取り上げ、主イエスに投げつけ殺そうとするほどの殺意へと繋がっていくような、彼らの宗教的には、とんでもない言葉でありました。

 

しかし、もちろん、この言葉が驚くべき言葉であるというのは、私たちにとっても同様です。

 

なぜならば、この言葉はごく単純に言って、天地万物の造り主なる神が、私たちに深い深い関心を払っていると語っているからです。

 

どのくらい深い関心であるかと言えば、人となって私どもの所にまでやって来られ、私たちと顔と顔とを合わせた関係を始めようとされるほどの関心を払っておられるという知らせなのです。

 

そして、今日のところ、長い説明を省いて、結論だけ言えば、実は、そこにこそ、ユダヤ人にとっても、私たちにとっても、結局所、その信じ難さの根があるのではないかと思わされるのです。

 

聖書の良き知らせを受け入れる難しさとは、一人の人間が永遠の神であられるという神話的な語り口の中にあるのではなく、それよりもむしろ、天地万物の造り主である高く偉大な神が、自ら人となるほどに、私たち人間に、私たちの命に深い関心を払っておられるということ、教会の信じるところによれば、ここにいらっしゃるお一人お一人が、まさに、そのような神の関心の的である、当の人間であるということが、信じがたいのではないかと思うのです。

 

あなたは、神があなたに会うために人となられた、その当の人間だということ、そのことが、驚くべきことであり、信じがたいことなのだと思うのです。

 

神は、今日、この言葉を聴いたお一人お一人が、そのようにして、神に、独り子、イエス・キリストに追いかけられているお一人お一人であることを、聴いて受け入れて欲しいと願ってらっしゃいます。

 

けれども、このクリスマス、大切なことは、私たちの信仰の決断ではないと私は申し上げたいと思います。

 

讃美歌245番「世の成らぬさきに」を作詞した作詞家は、プルデンティウスという人です。

 

この人は、古代ローマの裁判官で、後に皇帝の側近になった人だと伝えられています。

 

その人に信仰が与えられ、優れたキリスト教の詩を多く残しました。

 

そのプルデンティウスの作品として、キリストの声を雄鶏の声として喩える詩があります。

 

こういう一節です。

 

「一日を先触れする鳥は/夜明けの近いことを予告する/今、私達の魂を目覚めさせるキリストは/私達に生きよと呼び掛けたもう。」

 

キリストの言葉は、雄鶏の鳴き声です。寝ている者を眠りから目覚めさせる時をつくる雄鶏の声です。

 

その声自体に眠っている者を目覚めさせる力があるのです。

 

今日の箇所を含め、人々とキリストのやりとりは、噛み合わず、理解されないままです。

 

なぜ、噛み合わず、理解されないままであるかと言えば、それは、眠っている者、寝ぼけている者との対話であるからだと言って良いでしょう。

 

しかし、キリストは諦めません。私たちが目覚めるまで、時をつくる声を上げ続けられるのです。

 

そして、この方の声に私たちが目覚めさせられる時、アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」という御言葉が、宗教的な言葉でも、寝ぼけた言葉でも、何でもなく、真実の言葉であることが、はっきりとわかるようになるのです。

 

そして、このヨハネによる福音書において、主イエスが私たち人間の代表と飽きることなく、噛み合わない会話を続けてくださるのは、このお方が私たちを諦めることがないということを語っているのです。

 

今年亡くなりました、日本の代表的な神学者の一人である大木英夫先生が、その著書の中で書かれた言葉を私は忘れることができません。

 

有名な、「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」という主イエスの言葉を説きながら、大木先生は、こういう趣旨のことを仰いました。

 

ここには、主イエスのお姿がある。

 

私たちを求め、探し、私たちの門をたたき続ける主イエスのお姿がある。主イエスの探索、主イエスの追跡は、私たちを求めて止むことはない。

 

どんな者であっても、私たちはやがて必ず、起きて、この方のために戸を開かずにはおれなくなるのです。

 

クリスマス、それは、このお方が、私たちの追跡を徹底的に開始されたその始まりを記念する日です。

 

全ての宗教は、ここで終わり、逆転いたします。

 

私たち人間が神を求める道は終わり、代わりに、神が私たちを求める道が始まったのです。

 

神が、私たちを求め、探し回られるのです。この御子イエス・キリストにおいて。

 

その探索は、十字架まで、いいえ、陰府まで続きます。

 

このクリスマス、天地万物の造り主なる神に愛されているお一人お一人であること、その方に、追い求められている、ご自分であることに目を覚ますことができますように。

 

今日、ここに集められ、クリスマスを祝うお一人お一人は、キリストに連れ帰られた神の家の内に、喜んで目を覚ますことが許されているお一人お一人なのです。

 

祈ります。

 

天地の始まるより先に、私たちを選び、時至って、御子をお送りくださった主なる、父なる神様、このクリスマス、あなたのお送りくださった御子を喜び、祝うために、ここに集められました私たちです。私たちを思うあなたの深い愛に、今、深く心を向け、あなたの者としての歩みをここから作ることができますように、助け導いてください。ここにいる者も、いない者も、等しく、御子が命を懸けて、追い求められた一人一人であることを自分のために、隣人のために、何よりも、あなたの真実のために、重んじる私たちとしてくださいますように。御子イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

 

 

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