週報
説 教 題 絶望のキリスト 大澤正芳牧師
聖書個所 マタイによる福音書27章46節
讃 美 歌 136(54年版)
先週にはクリスマス礼拝を祝い、金曜日には、クリスマス・イブ礼拝を終えましたが、教会はなお、クリスマスの祝い、降誕節の歩みを続けています。
ですから、町のクリスマス飾りは、もうほとんど片付けられておりますが、多くの教会では1月6日のエピファニーと呼ばれる日までは、アドベントクランツに灯りをともし続け、クリスマスを祝い続けます。
今日は、この後礼拝の中で、洗礼入会式を行います。母親のお腹の中にいる頃から、教会生活をしていた若者が、時至り、主が片時も離さずに握り続けていてくださったその手を自分の方からも改めて握り返す喜びの時を迎えます。
本当は、先週のクリスマス礼拝で、洗礼に与り、その信仰を公にすることを望んでいましたが、スケジュールが合わず、断念いたしました。
けれども、その時から、私はずっと申しておりました。今年は1月2日までの主日礼拝が、クリスマス期間の礼拝だから、12月26日の礼拝でも、1月2日の礼拝でも、2021年のクリスマスに洗礼を授けられたことになるよと。
私たち教会にとっても、この2021年のクリスマスに、一人の洗礼者が与えられるという目に見える形で、クリスマスの喜びが増し加えられることを主に感謝せずにはおれません。
ところが、長老会による試問会と、12月26日の洗礼入会式を決議した後、しばらくして、さて、どうしようかと、私は逡巡したことがあります。
それは、今日の礼拝で、マタイによる福音書の27:46を読むことを、洗礼試問会のもう一か月以上前から決めていたのです。
12月26日は、マタイによる福音書に記された十字架上の主イエスの嘆きの言葉を聴き、「絶望のキリスト」という題で、説教しようと。
アドベントからクリスマス礼拝に至るまで、クリスマスにまつわる特別なテキストを選び聞いてまいりましたが、一年最後の主の日でもある12月26日には、再び使徒信条の続きに戻って、十字架のキリストを見つめようと願ってのことです。
けれども、嬉しい嬉しい生涯一度の洗礼の日に、「絶望のキリスト」などという説教を聴くことになる洗礼志願者は、どんな気持ちになるだろうか?正直に告白しますと、少し不安になりました。
試問会を終えてからも、やっぱり、読む聖書箇所も、説教題も変えようかどうか、看板を書いてくださる方には、少しご迷惑になりますが、私は、次の礼拝ではやっぱりこの御言葉を聴くべきだと示されれば、躊躇なく変える方です。だから、かなり本気で、聖書箇所を選び直そうかと悩みました。
しかし、腰を落ち着けて、祈りと黙想の内に考えを巡らしてみれば、洗礼入会式の日に、これほどふさわしい聖書の言葉は他にないと思い直しました。この絶望のキリストのお姿にこそ、神さまの恵みが、残らず私たちに差し出されていると、私たちは本気で信じてきたのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
十字架上で叫ばれたクリスマスに人の世にお生まれになったイエス・キリストの絶望の言葉です。
先週、ルカによる福音書から、荒野に野宿しながら羊の番をする羊飼いたちに現れた光り輝く天使の御告げが、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と、民全体に与えられる大きな喜びとして、指さしていたことを聞きましたあの神より遣わされた救い主が、十字架上で、わが神は私をお見捨てになったと叫んでおられます。
天が裂けて、天使が地上にもたらしたクリスマスから始まったはずの大きな喜びの輝きが、閉ざされ、主イエスが十字架につけられた昼の12時から息絶える3時まで天地は暗くなりました。
インマヌエル、神は私たちと共にいますという別名を与えられたはずの、その方を見れば、神が私たちと共にいることがよくわかるはずの方自身が、神から引き離された者、神から見捨てられる者と成り切ってしまっている叫びであります。
この3時間の間は、世界史上、神の存在が最も疑わしいものとなった瞬間、あるいはもし、神が存在するとしても、我々人間には、何の関心も持っておられないことが、最も明らかになったように思える瞬間であったと言うことが、常識的にはできると思います。
にもかかわらず、信仰を与えられ、洗礼を授かり、キリスト者となった私たちにとっては、これほど、ありありと神をこの身のそば近くにあることを確信できる瞬間は、他にないのです。
それゆえ、私たちにとってこんなにも慰め深い言葉は、他にないとはっきり言うことができます。主イエスがお語りになったどの教えよりも、十字架上のこの主の嘆きの叫びほど、私たちを深く慰める言葉はありません。
私たちはこの言葉から本当に本当に次のことを聞かされているのです。
神は人となられた。神は本当に私たちと同じ人間になられた。
カトリックのキリスト者である作家の若松英輔という人は、最近出した対談本の中で、ある神学者から教えられ、自分にとって決定的に大事になった信仰の理解として次のような趣旨のことを言います。
聖書に証しされるキリストにある神を信じるということは、何か自分にとって良いことが起こるという類のものではない。それは神と共に生きて行くということに他ならない。「つまるところ、私たちがどう生きようと、神から私たちは離れることができない。なぜなら、神から『人間に歩み寄り給う』からだ」と。
私たちがどう生きようと、神からどう遠ざかって行こうと、私たち人間に歩み寄り給う神、その神の歩み寄りの極致こそ、クリスマスに神の御子が、人となって世にお生まれになったということであり、さらにその究極が、神の御子の十字架であります。
聖書の神は、意識的に、あるいは知らずに、御前から逃げ出そうとする私たち人間をどこまでもどこまでも追いかけて来られる方です。地の果てに逃げようとも、天の果てに逃げようとも、どこまでもどこまでも追いかけて来られます。
神の御前から逃げて逃げて、いいえ、逃げている自覚すらなくて、知らない内に神さまの御顔がちっとも見えない場所に来てしまっていて、天は厚い雲に覆われてしまっている。
神を呼び求めようとしても、この厚い雲の下では神の名を呼ぶ心すらも冷え切ってしまっています。けれども、そのような荒れ地に辿り着ていしまった私たちと全く同じ顔をした人、いいえ、神に見捨てられた人、神の名を呼ぶことが絶対にできない人がいるとすれば、この人以外にはいないという人、その人が、十字架の上で、私たちに代わって神の名を呼び、神に向かって叫びます。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」、「なぜ、私はここで一人ぼっちなのですか?なぜ、私に助けが与えられないのですか?なぜ、私は捨てられたのですか?」
この人が十字架につけられている間中、天は暗くなり、本当に物理的に、厚い雲に覆われて地は暗くなり、それは聖書によれば、この人が、100パーセント真実に神に捨てられており、神に呪われているのです。
私たちと同じ者となり、私たちと同じ苦しみをつぶさに舐め尽くし、いいえ、私たちよりももっと深く、人間の苦しみの底の底を舐め尽くし、私たちと血の繋がった兄弟である十字架の上のイエス・キリストが、神の子、子なる神として、クリスマスに指し示されたお方です。
天は閉ざされ、厚い雲に覆われ、全地は暗くなり、神の助けはどこにも見えず、神の名を呼ぶこともできなくなるこの地上の、その場所にまで、神が歩み寄って来られたのです。
私たちは、「私は神に見捨てられてしまった」と叫びたい時、「神はどこにもおられない」と祈りの言葉を失う時、その私たちの重い重い嘆きの言葉は、口から出た先から、呪縛から解き放たれて、その重みを失っていきます。
私たちの自己理解、私たちの思い込みがどうであれ、現実のこの地上には、この歴史には、神の御子イエス・キリストが人となってお生まれになったのであり、その方は、私たち人間の苦しみを、底の底に至るまで、全部ご自分のものとして引き受けられたのであり、私たちは一人ぼっちじゃありません。
誰一人、一人ぼっちではありません。神は御子イエス・キリストにおいて、どこにでも、どこまでも、私たち人間に歩み寄られます。私たちが向かうところ、陥るところ、ドツボにはまって抜け出さなくなるところ、私たちが沈んでいく底なし沼に、その一番突端に先回りして、「私はあなたと共にいる。私はあなたの兄弟となった神である。」と、ご自分を差し出されます。
神はその天地の創造前に、ただ恵みにより、そのような人間の神となれることをお定めになられました。それゆえ、神が私たちと共におられることは、世界と人間の歴史以前の、根源的な事実ではありますが、この根源的な事実が、もう誰も疑いようのないこの目で見、手で触れられる歴史の現実となったのは、2000年前のクリスマスから、十字架に至るイエス・キリストこのお方の生涯においてでした。
この金沢元町教会の生み出した若草教会の初代牧師でもあった神学者の加藤常昭先生が、このクリスマスの時に、ご自分の降誕節を祝う心の、一つの原点となっている出来事として、次のような思い出を、牧師たちのMLでシェアしてくださいました。敗戦直後のクリスマスの思い出です。そのままお読みします。
当時私が過ごしていた代々木教会では、クリスマスが近づいたとき、ある男性会員が、鉢植えのモミの木を持ってきました。やっと手に入れたと言って。しかし、デコレーションの用意もありませんでした。そこに、牧師夫人の米国人、メイ・アイナ/熊谷さんが故国から携えてこられていたデコレーションの箱を持って来られました。教会員がとりかこみ、いささか興奮気味で賑やかでした。軍国主義の時代、はばかってツリーを飾ったこともなかったのです。まず取り出されたのは,金銀の古びた紙のモール、地味な古いモール、それが小さな木を飾りました。ほかに色鮮やかな、賑やかな飾りは何もなし。そして、最後にアイナさんは、英語で、これが大事なの、と言いながら、もうひとつの飾りを取り出しました。誰もが当然期待したのは、金色の星です。ツリーのトップを飾る星です。しかし、アイナ先生が手にしたのは、木製の小さな褐色の十字架でした。そしてそれを静かにツリーの根元に置きました。みんな黙ってしまいました。ほんの僅かな時であったのかもしれません。中学4年、16歳の私でしたが、この時のこころの衝撃を忘れることはできません。自分が戦争中に信仰を言い表した神とはいかなるかたであるかを深く知りました。アーメンでした。
改めて、この日、どのような方の誕生を祝っているのかを覚え、皆様に祝福を祈ります。ツリーの根元に十字架を置いてみましょう。クリスマスの全ての根っこに主の十字架を置いてみましょう。平安を祈ります。 加藤常昭
クリスマスの祝いのときに、主の十字架を思い起こすことほど、ふさわしいことはありません。一人の人の洗礼入会式の日に、このようにクリスマスの喜びの根元には、静かに十字架が置かれているということを思い起こすことほど、ふさわしいことはないと私は思います。それは時空を超えて、今も少しも変わらずに16歳の若者の心をも深く震わせる力があるのです。
今日、洗礼を受けられる志願者は、洗礼準備会の時に、既に、自分が礼拝の中で一番好きな時間は、
説教後の牧師の祈りに「アーメン」と声を合わせる瞬間だと、語ってくれました。
説教中とか、祈りの間に、何度も何度も自由なタイミングに「アーメン」と相槌を打つ伝統の中にある信仰の友の姿を新鮮に見ながら、そうか、自分は、最後に皆で声を合わせて「アーメン」と唱える時に、全ての思いを込めて、「アーメン」と言ってるんだ。その瞬間が一番好きですと教えてくれました。
私はその言葉に深く心を打たれました。なぜならば、牧師が説教壇から語る言葉は、いつでも十字架の言葉、直接、十字架に言及しなくても、いつでもその根元に十字架が置かれた言葉でしかないからです。主の十字架から込み上げてくる言葉を語っているのです。
ユダヤ人にはつまずきであり、ギリシア人は愚かなものと呼ばれる主の十字架、その主の十字架、十字架の主の言葉を語る説教の言葉に、「アーメン。その通りです。私もそう信じます。私自身の心からの告白です。」と、自分の声を挙げることを、今か今かと、待ち構えているのです。
このような信仰が与えられるために、神がどれほど、この若者のために、働き続けてくださったことか。そのために、いかにたくさんの説教者たち、キリスト者たちを、お用いになったか。それら全ての信仰者の言葉、配慮の言葉の根元にも、いつも、主の十字架が置かれていたのです。私はそう信じています。
牧師家庭に生まれ、既に教会の子どもとして自他共に育ち続けてきた今日の洗礼志願者もまた、自覚する前から、その根元に、十字架が置かれている者ではありますが、改めて今日、その自分の根っこなる十字架を、受け取り直します。
十字架の出来事に、生かされている自分であることを告白いたします。生涯、主の者として、キリストの者として生きて行くことを公に宣言いたします。
困難に出会うこともあるかもしれません。天が厚い雲で閉ざされていると感じてしまう試練に出会うこともあるかもしれません。しかし、主がその旅路を守ってくださいます。どこまでもどこまでも主が歩み寄り、近づいてくださいます。
インマヌエル、神は世の終わりまで、私たちと共におられます。神は厚い雲の上ではなく、その雲の下で私たちと共におられます。神は欠け多き罪人なる私たちとどこまでも共におられる十字架の主であられます。
この主の手から私たちを奪い取ることのできるものはありません。父なる神は、天から地の底に降り給う十字架に至る御子の従順のゆえに、このお方を誰も昇れない一番高い所にまで引き上げられ、全てをこの御子の御手にお与えになったと言います。
私たち人間も、この世界も、この方の昇り降りの振れ幅のどこかに必ず位置づけられるものです。この世は御子の御手の内にあります。
この御子の歩み寄りが及ばぬ場所など、どこにもありません。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにます。」(詩139:8)私たちの主です。
そうであるならば、そのお方の御前に、ひれ伏し、「あなたこそ私の主、全て造られしものの主です。」と告白することほど、私たち人間にとって自然なことはありません。
私たちもまた、声を合わせて、「わたしは、あなたを絶対に一人ぼっちにしない。あなたの神だ。」と迫る神の言葉たるキリストの申し出に「アーメン」と応えることの他、今、しっくりくる言葉は他にないのです。
今日ここでも為されている、この礼拝という、コール・アンド・レスポンスによって、改めて、救い主は私たちを得、私たちは救い主を得ていることを、祝っているのです。
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