礼拝

11月12日(日)主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書18章12節~27節

説教題 神は隠されていない

讃美歌 こども讃美歌 5,34,122,24

(本日録音ができませんでした)

今日は、久しぶりに幼児祝福式をこの礼拝の中でします。

しかも、これまでとはちょっと違うやり方でします。

今日は、初めから、子どもも大人も一緒に神さまを礼拝することにいたしました。

もちろん、どの礼拝も大人だけの礼拝、こどもだけの礼拝はありません。

毎週日曜日、朝9:20分からの教会学校礼拝には、教会学校の先生をはじめとする大人の人たちもいます。

また、その後始まる10:30からの主日礼拝にも、いつでも子どもが出席してくれていいのです。

だから、大澤牧師は、10:30からの主日礼拝のことを「大人の礼拝」と言わないように、いつも気を付けています。

どの礼拝も、子どもも大人も出て良い礼拝です。

でも、今日は、特に、子どもと大人の一緒の礼拝であることを考えて、礼拝の形も整えています。

説教も、いつもの教会学校の礼拝よりは長いけれど、主日礼拝よりは、だいぶ短くします。

15分くらい、聖書のお話に耳を傾けましょう。

さて、今、司式者に読んで頂いたのは、イエスさまが逮捕されてからの場面を語る聖書の御言葉です。

イエスさまは、弟子のユダに裏切られて逮捕されました。

でも、イエスさまも自分から進んで逮捕されてくださいましたようです。

イエスさまは神の子としての強い力を持ちながら、その力を捕まえに来た人たちをやっつけるために使わずに、わざと捕まってくださったのです。十字架に向かうためです。

それは、私達の身代わりとなって、罪と死と悪魔の力から、私達のことをどうしても救いたいと父なる神様とイエスさまが、願われたからです。だから、わざと捕まってくださいました。

イエスさまは私たちのことが大好きだから、私達のために苦しみを自分から引き受けてくださったのです。

本当に、ありがたいことです。

でも、イエスさまが大好きでいてくださる私たち人間は今日の聖書の物語を聴くと、とても情けない者であると思わずにはいられません。

今日の聖書の物語の中には、イエスさまの他に、大きく分けて二種類の人達がいます。

最初の人間たちは、イエスさまの弟子たちです。

イエスさまが逮捕され、裁判を受け、十字架の苦しみをお受けになる時に、その後からこっそり付いて行く人たちです。

弟子のペトロはイエスさまの一番弟子のような人でした。

弟子たちの先頭に立って、イエスさまに従い、イエスさまと一緒に歩んできました。

とっても、目立った人だったと思います。きっと立派な人だと周りの人からも思われていたかもしれません。

ある日、イエスさまが、「あなたは最後まで私の進んで行くところに、着いてくることはできない」と仰った時には、「あなたのためなる命を捨てる覚悟です。どこまでも着いてまいります。」と、イエスさまに反論してまで、立派な答えをしたペトロでした。

ところが、イエスさまが逮捕された時、ペトロはこっそりとしか着いて行くことはできませんでした。

びくびくしながら、ひっそり隠れながら、裁判が行われた大祭司の庭に来て、大勢の見物人の中にまぎれこみ、と一緒に焚火に当たっていました。

ところが、よっぽど目立つペトロでした。見物人の一人に見つかってしまい、「あなたも、あの人の弟子の一人だ」と、ばれてしまいました。

一度、女の人に見つかってしまうと、周りにそれが伝わり、口々に、「お前もあの男の弟子の一人だ」と、炎上してしまいました。

その時、「あなたのためなる命を捨てる覚悟です。どこまでも着いてまいります。」と言っていたはずのペトロは何と答えたでしょう?

「違う、知らない、何の関係もない」と、何度も何度も、イエスさまとは関係ないと言い続けたのです。

情けない弟子たちです。

二種類目の人達は、イエスさまを逮捕して、裁判にかけ、十字架に付けようとする人たちです。

今日の聖書の物語の中では、こちらの人たちの方がたくさんいますが、その代表は、大祭司と呼ばれる人のことだと言って良いかなと思います。

もう一方の大祭司たちも立派な大人がするようなことはできませんでした。

この裁判、夜中に行われました。普通のことではありません。

ルールを破ってでも、はやくはやくイエスさまを十字架につけたかったのです。

でも本当におかしいことです。裁判て、ルールを破っているかどうか確かめるところです。でも、その裁判をする人たちの方が、色々勝手にルールを破ってイエスさまの裁判をしているのです。

逮捕の時からおかしかったのです。

剣を持った兵隊たちを連れて、イエスさまを逮捕して、夜中に裁判を受けさせるなんて、本当にいじめとしか言いようがありません。

そうして、大祭司に対するイエスさまのお答えが気に入らないと、「大祭司にむかって、そんな返事があるか」って、部下が、イエスさまのことをビンタしたなんて、いじめっ子の手下以外の何者でもありません。

これらは皆、立派な大人のすることではありません。

でもね、この人たちは皆、その時代の一番尊敬されていた、一番立派な人たちだと、言われているような人たちでした。

この二種類の人間たち、全然別の人たちだとも言えますが、結局同じような人たちだとも言えると思います。

両方とも、とっくに大きな大人の人たちですが、大澤牧師は、今日の聖書の言葉をゆっくりじっくり、今日のために読んでいたら、何だか、ペトロも大祭司も、また、この物語に登場するイエス様以外の人たちがみんな何だか、成長し切ってない未熟な人たちだなと思わされました。

これは、ちょっとした内緒話だけど、子どもたち、いいかい。大人たちっていうのは、君たちが思うよりはずっと、子どもに近くて、偉そうに、すべきことをしなさいとか、あれしてはダメ、これしてはダメと言っているけれども、本当は、自分もすべきことができなくて、すべきでないことをしてしまう者たちなのです。

これを聖書は、罪人と呼びます。私たち人間は皆罪人だって。

けれども、イエスさまは仰います。

「わたしは今まで何も隠さないで話してきたじゃないか。君たちがどういう者であるか、分かって話してきたんだ。どこででも話してきた。私の天の父なる神様は、罪人であるあなたのことを、捨てることができない。天の父と、私は、どうしようもないあなたたちのことを、もっとどうしようもなく、愛しているんだ。」

イエスさまが、町や、村や、山や、谷や、湖のほとりや、神殿や、会堂で、話してきたことはたった一つのことです。

「神さまの元に帰って来なさい。あなたがどんな悪い者であっても、神様の元に帰って来なさい。カッコつけないで帰って来なさい。自分は悪くないなんて言わないで、頑張らなくて良い。立派にならないと、神様の元に帰れないなんて思わなくて良い。何も持たずに、あなたのままで、帰って来なさい。」

それはつまり、イエス様は、最初から、弟子たちが裏切り、逃げ出す者であることを全部わかっていたということです。

また、大祭司たちが、イエスさまの呼びかけに怒り出し、ルールを破って、イエスさまを捕らえ、十字架につけることを最初から全部わかっていたということです。

こんな人たち、イエスさまから愛されるにふさわしくない、神様に嫌われるような人たちだと、私達なら思うその全部を最初からお分かりになっていたのです。

それにもかかわらず、イエスさまと父なる神様は、「あなたたちが滅びてしまうのは耐えられないから、あなたたちが生きてほしいから」と、逮捕され、十字架につけられ、私たち人間のための身代わりの死を死んでくださったのです。

ここに神さまの愛があります。

今日は幼児祝福式です。この後、二年生以下の人たちに前に出てきてもらい、祝福いたします。

でも、この礼拝で、2年生より下の子どもだけが祝福されるのではありません。

この礼拝で、子どもも大人も同じ祝福を頂きます。

小さな子どもたちに私たたちを代表して、教会を通して告げられる神さまの祝福を受けてもらいます。

「あなたがどんな者であっても、私はあなたを愛している。成長していくから愛するのではなくて、小さなあなたをそのまま愛している」という神さまの祝福の言葉を頂きます。

もう、自分にがっかりする必要はありません。

どんな小さくて、貧しい私達のこともイエスさまは御存じです。

そして、その私のことを、大好きだと言ってくださるのです。

子どもも大人も、新しい一週間、イエスさまの十字架が語るこの大きな大きな愛に支えられて、神さまのくださる祝福の毎日を歩んでまいります。

お祈りします。

 

 

 

 

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