週報
説 教 題 洗礼者ヨハネの誕生の予告
大澤正芳牧師
聖書個所 ルカによる福音書1章5節~25節
讃 美 歌 94(54年版)
今日からアドベント、待降節という季節を迎えます。今日からしばらくの間、使徒信条ではなく、ルカによる福音書に従って、教会歴に沿った御言葉を聞いて行きたいと思います。
さて、先ほど司式者に読んで頂いた個所は、祭司ザカリアという人がエルサレム神殿の至聖所で、香を焚く大任に就いていた時に起きた、主イエスご降誕の少し前の不思議な出来事の記録です。
しかし、このザカリア、神の御前で、特に、至聖所で祭司の務めをしていたからと言って、有名な人であったわけではないようです。
5節にザカリアはアビヤ組の祭司であるとあります。当時、同じような組が24あり、祭司は、全体で、数千人いたと考えられています。
つまり、祭司と言えども、たくさんの人数がいますから、一生涯、くじに当たらず、至聖所に入らなかった者も大勢いると言われています。ザカリアはくじに当たり、至聖所で香を焚いたと言いますが、これは無名の一祭司であるザカリアの生涯における特別な出来事であったと言って良いでしょう。
ところが、神は、至聖所で香を焚く務め以上に特別な任務のためにこのザカリアをこの日、選ばれたと聖書は語ります。主なる神様は、主イエス・キリスト到来の先触れである洗礼者ヨハネの父として、また母として、このザカリア夫妻を選んでくださいました。なぜ神は彼らをお選びになったのでしょうか?
6節には、ザカリアとエリザベト夫妻は、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と言われています。これが、選びの理由でしょうか?
「非のうちどころがない」と言うと、この二人がどれほど、立派な人たちであったかと想像されます。それだから、特別に神さまに顧みられるだけの理由を備えていたと想像するかもしれません。
しかし、多くの翻訳は、そこまで強くは訳していません。主の掟と定めを、「落ち度なく守っていた」という程度の訳し方をします。あまり、変わりがないと思うかもしれませんが、この言葉によって、この夫妻が、傑出した者たちであるということを福音書記者ルカは言いたいわけではないでしょう。
むしろ、この言葉によって、この老夫婦は、決して目立つような華やかな人たちではないけれども、実直な人たちであった。淡々とした信仰に生きる素朴な生活者であったと、言いたかったのだと思います。
このザカリア夫妻の正しさの理解を巡って、ある人は次のような趣旨のことを言います。神の前に正しい人とは、その正しいという確信を自分自身に置かない人のこと。あらゆる事柄のあらゆる場面において、一切、自分自身に期待しないで、神さまから要求される掟についても、自分自身の運命についても、家族親族の運命についても、世界の運命についても、結局、神さまが自分をどう御覧になり、どう扱われるかについて、自分自身には何も期待せず、ただ、神さまの慈しみと、憐みに、神さまの助けとゆるしにより頼む人、それが神さまの前に正しい人であると。
この老夫婦の落ち度のなさ、正しさというものが、私たちの考えるような理想的で、道徳的に完璧な生活、誰にでも胸を張っていられる生活をしているということではないでしょう。むしろ、自分に期待せず、全てを神様にお任せしていることです。
それは、テキスト自体にも、暗示されていると思います。すなわち、非の打ちどころのないという言葉に続く、彼らには子供がなかったという記述に、表れていると言えるかもしれません。
当時、子どもが与えられることは、神さまの祝福のしるしとみなされていました。これはもちろん、生涯独身で、子がなく、死なれたイエス・キリストのご生涯によって、それとは異なる神の御心が完全にはっきりと、示されることになりました。
しかし、その手前、旧約までの記述では、子どもが与えられることは祝福の一つであるということを越えて、最高最大の祝福でありました。その最大の祝福と考えられた子は、この神の御前に非の打ちどころのないと言われる夫婦には、与えられなかったのです。
けれども、この夫婦は、神さまに委ねていたのです。望んだ祝福を与えられなかったとしても、自分に期待せず、つまり、自分はその祝福に与るべきだと自分を誇らず、また自分たちの信仰が足りないからだと自分を責めず、ひたすら神さまの憐みと慈しみに期待して、その点もお委ねして生きていたのです。これが、ザカリア夫妻の正しさというものでしょう。私たちから遠い雲の上の正しさではありません。神は、生涯の様々な出来事を通して、私たちをも同じような正しさへと、導いてくださるものだと思います。
その正しい人、祭司ザカリアが、生涯に一度きりだろう至聖所での大切な仕事をしている時に、天使が現れました。
しかし、12節を読むと、ザカリアは、それを見て、不安になり、恐怖の念に襲われたとあります。
これもまた、不思議なことです。神の御前に落ち度なく正しい人として歩んでいる者が、神殿の至聖所で祭儀をしている時に、天使の顕現に接する。それを通して、結局、神さまの臨在に触れるということは、当たり前のことのように思います。
それこそ、神さまにお委ねし、生きた人が、礼拝中に、神の御臨在に触れるならば、パニックを起こさずに、謹んで、自分に起きた神の臨在を受け入れるだろうと想像いたします。
けれども、ザカリアは、天使の顕現に脅えました。余りに突然のことで、天使か悪魔かわからないといって、脅えたのではありませんでした。
神より遣わされた天使に出会ったから脅えたのです。神の御前に非の打ちどころのない人が脅えたのです。
先日、ある方々とこんな話をしていました。私たちがこの生涯を終えて、神の御前に立つとき、それは死んだ直後のことなのか、主の再臨の日を待たなければならないのか、わかりませんが、いづれにせよ、私たちが、神の御前に最終的に立たされる時、私たちはどう反応するのだろうか?
限界のある人間として足りないところはあったかもしれないけれども、誠実にあなたの者として生きましたと胸を張って立つのか?それとも、どうしても神の言葉に従いきれなかった者としてびくびくしながら立つことになるのか?
死んでみなければわからないという意見もありましたが、ここに一つの答えがあると思います。
私たちは、神の御前に立たされる時、それなりに誠実に生きたと多少胸を張って神の御前に立つのでも、あなたの掟には従いきれなかったとおどおどしながら、立つのでもありません。
ただひたすら恐怖の念に襲われるのです。神の御前に正しく生きられたか、真に不十分であったかどうかなどということは、何も関係がありません。なぜならば、ザカリアの恐怖は、神の御前に落ち度のないもの、正しいと認められている者の恐怖だからです。
だから、ある人は言います。ここでザカリアが感じた神の御前における恐れ、それを創造者の前に立つ被造物の恐れと呼ぼうが、神の前には何も良きものを捧げることのできない罪人の恐れと呼ぼうが、自分が死に定められた儚い存在であることを思い知らされた時の恐れと呼ぼうが、どう呼び、どう理解しようが構わないが、問題は、我々人間の側ではなく、神が神であられるがゆえに、恐れが生まれるのだと言います。
私たちが正しかろうが、間違っていようが、本当に神の前に立つならば、本当の神の臨在に天使の現れという形ででも触れるならば、恐れが生まれる。このような畏怖が少しもないような、神との出会いは、まだ神と出会っていないのだと、その人は言います。
このような神の御前における恐れが取り除かれるのは、私たち人間の側のどんな備えも役に立ちません。それは、13節が語るように、神より「恐れるな」と語りかけて頂くことだけが必要なのです。
このことは、私たちを絶望させるようなことでいて、しかし、かえって、ほっと息を付かせてくれることではないかと私は思います。
どこまで行っても、私たちが、恐れなしに神の御前に立つことはできないのです。しかし、神は、だれ一人例外なく、御前に恐怖を覚え、冷や汗を流し、しどろもどろになる私たちに、「恐れるな!!」と、語りかけてくださるのです。
そして、このようにしてしか神の御前に立てないということこそが、そもそも、ザカリアとエリザベトがそのような所に置かれていた、神の御前における人間の正しさなのではないかと思います。
それゆえ、主イエスが仰ったように、自分の正しさに自信を持つファリサイ派よりも、神殿において天に顔を向けることもできない罪人の方が、神の御前における私たち人間の本当の姿により近いのです。しかし、また、神の御前に落ち度のない歩みをしている者が、神の臨在に打たれ、恐怖する姿こそが、いよいよ人間の本当の姿であると言えるかもしれません。
それは、ただ神の「恐れるな!!」と語りかけてくださる言葉のゆえにだけ、立ち上がることのできる人間です。そういう本当の人間の姿を、私たちは、ザカリアを見るときに、見ているのです。そしてこれは、どうしたらザカリアの真似ができるかというような次元の話ではありません。神が一人の人間のもとに来られ、出会われる時、否応なく露わになってしまう人間の姿の、一つのサンプルが、ここにあるのです。正しい者も、正しくない者も、誰もが神の御前では、恐れて震えなければなりません。ただ、神が「恐れるな」と仰ってくださらなければ、御前に立つことなど誰にもできないのです。私たちの信仰は、ザカリアの出来事を見ながら、正しい者は神の前に恐れなく立てるという単純なところから、もっと深まって行かなければなりません。
けれどもまた、祭司ザカリアに起きたことは、我々にも起きることでありながら、単なるサンプルを越えています。
なぜならば、神とザカリアの出会いは、ザカリア個人にとっての信仰理解の深まりで終わるものではなかったからです。神はこの出会いを通して、ザカリアとエリザベト夫妻の人生を具体的に変えてしまわれました。神との出会いは、ザカリア個人の精神世界の経験ではなくて、一組の老夫婦のもとに、願い続けても決して与えられることのなかった子どもが与えられるというこの目で見、触れることのできる、具体的な奇跡として実を結ぶところまで、神の行動はずんずんと進んで行かれたのです。
しかも、それは、一人の祭司の信仰の飛躍を引き起こすような出来事と同時に、その人の現実の生活に、大きな、しかし、世界史的には小さな奇跡が起こり得たという印象深いけれども、小さな証で終わるような話ではなかったのです。
その老夫婦に与えられた喜びとなり、楽しみとなるその幼子が、15節以下、「主の御前に偉大な人になり…既に母の胎にいる時から聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ…主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」者となると約束されるのです。
やがて来られる御子イエス・キリストのために、道を整える者として、主の決定的な御用のために用いられるのです。一人の人が生ける神と出会う時、単に、その人の信仰の内面世界が、飛躍的に深まっていくだけでは終わらないのです。
それは、老夫婦と共に生きた人々の間に、長く語り継がれるような、主の恵みの出来事としての幼子の誕生という奇跡をもたらすことがあります。しかし、それだけで、終わるのでもありません。主なる神様がお望みになるとき、その出来事は、神の救済の大きな物語の中で、決定的な役割を担う出来事にさえなるのです。私たちが思いもかけないような大きな願いが、真にささやかな思いでしかなかったと思い知らされる大きくて広い所へと、連れ出されていくのです。
もう、あまり長いお話をする時間はありませんが、一点だけ申し上げます。
このような主イエス・キリストの特別な先触れとなることは、歴史上たった一つの家族に許され、また、そこで奇跡的に生まれた洗礼者ヨハネにだけ与えられたもはや二度と繰り返されることのない特別な役割でありました。
けれども、このような特別な仕方で、ザカリア夫妻と、その子である後の洗礼者ヨハネを召し出された神さまは、このような特別な介入によって、ザカリア一家にとっての特別な神になられようとされただけではなく、洗礼者ヨハネが道を整えた後にやって来られる御子において、多くの者の特別な神になられたのであります。
ザカリアに現れ、恐怖を引き起こし、また恐怖を取り除かれ、約束を与え、しかし、口をきけなくし、エリザベトに子を与え、また、その子ヨハネを唯一無二の主の先触れとした神が、クリスマスに来られた御子イエス・キリストの出来事において、私たち有象無象の罪人を、神の子としてしまったのです。
主イエスは後に、こう仰いました。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28)
歴史上の人間の内で、ヨハネが最も偉大だと主イエスは仰いました。ヨハネの偉大さとはどこにあるのでしょうか?もう言うまでもありません。主イエスの先触れとなるという、唯一無二の任務を神より与えられたということです。
ヨハネの偉大さは、神さまから特別な仕事を与えられたということの中にあります。
しかしまた、神によって、唯一無二の者とされた洗礼者ヨハネによって、到来を告げられた御子は、私たちに対して、留まることのない神の御業を終わりまで成し遂げられたのです。
神は御子において、私たちを、神の国の住人としてしまわれたのです。
このことを世に告げるよう召されている私たち教会でありますが、余りにも大きいその恵みの重みを理解し切ることも、それを心から心へと伝える確かな言葉も持ちません。それは余りにも大きすぎるのです。私たちの想像する範囲、期待している範囲を、いつでも突き破っていくのです。
その意味では、私たち、教会もザカリアのように、言葉を閉ざされるという経験にしばしば突き当たらなければならないのです。ザカリアは祭司です。今まで神をよく知っていると思われた人です。しかし、その人が本当に神に出会った時にこそ、一度、言葉を失わなければならなかったのです。
けれども、私たち人間の言葉が閉ざされている間にも、それから5か月の間、身を隠したエリザベトの胎の内の赤子のように、神の御業は、見えない所で育っていきます。
そして時至るとき、神の御業は明らかになり、その時、私たちの舌も、御業を真っ直ぐにほめたたえるものとしてほどけるのです。これは全て、主の御業によることです。
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